日々の泡 飛び魚と毒薬(8)|石田英敬
トゥールーズはスペインとの国境に近い南仏オクシタニー地方の「薔薇色の都市 la Ville Rose」だ。赤みがかった屋根と紅色系のファサードが立ち並ぶ街の姿からそう呼ばれている。この地方は岩石を切り出すような山岳地帯から遠く、石造りの建築は発達しなかった。古代からテラコッタレンガ造りで瓦葺きの家が立ち並ぶようになったのだ。いまではフランス第四の人口規模の都市だが、ピレネー山脈から流れ出たガロンヌ川の両岸に街区は拡がり、緑の水の流れが赤い建物とじつに美しいコントラストを映し出している。
そのガロンヌ川の流れが急に街の北西に向かって鈎の字に折れ曲がり中州になっているあたりの左岸にクロワ・ド・ピエール地区はある。
前回語った、1976年の歴史的な干魃で山羊の飼育ができなくなったベルナールたち一家は、モンフランカンの農家を引き払い、この少々鄙びた地区に小さな食料品店の権利を買った[★1]。
食料品店と言っても、すでにその時点で豆の缶詰とかを売る店ではもはやなくて、もとの持ち主がレストランに転業しようとしていた。それがうまく行かず店の権利を安く売りに出していたのを、モンフランカンの山羊を売ったお金で買い取ったのだった。
レストラン「狂った鍋」
ベルナールが営業権を買い取ったクロワ・ド・ピエール地区のその店は、きれいな樹木に囲まれた庭付きの一軒家で、内装とかを工夫して、テラスを整え、野外グリルもそろえてあっというまに小粋なレストランに変貌させることができた。最初は1日10クーヴェール(couvertsは食事提供数。コース料理を基本に考えるから、一人が食べる料理1セットで1クーヴェールと算える)程度だったのが、開店2ヶ月で1 日200クーヴェールに急増、短期間で大繁盛となった。
そのレストランは「la Marmite en Folie」という名前だった。直訳すれば、「狂った鍋」「気狂い鍋」という意味だ。ベルナールが考えたのかは分からないのだが、レストランに失敗した食料品店主が考えそうな店名でもないから、たぶん彼が考案したのではなかろうか。この時代、トゥールーズには30万人の学生がいたのだが、若者たちの間に「狂った鍋」の評判は瞬く間に広まって、トゥールーズの学生たちの夜のホットスポットになったんだ。料理も自分で考えて(どんな料理をどうやって勉強したのかな?)、そして、なにより良い音楽を若者たちに聞かせるのが自分の情熱だったから、ジャズナンバーを精選して若者たちにどんどん聞かせる店にした。
そうしたら、あるとき、きみの店は大変よいね、高く出すから自分に売ってくれないか、という人が現れた。それで、売却することにしたんだが、これが、また、モンフランカンの山羊売却のときとまったく同じで、最初の為替取引はよかったのだがその後払ってくれなくなって、借金が残ることになる。やっぱり自分は人を信用しすぎるたちで、資産管理がまったくできない性格なんだなということなんだが……。
それで、やっぱりこのときも、最初の為替支払いがあったのをよいことに、別の店の営業権を買い取った。それが、ジャズバーになっていく店だったんだが……。
と、このように、トゥールーズでのレストランの経営も軌道に乗り掛かったところで、こんどは、トゥールーズの街の中心部に進出して店を構えることになった。
*
さて、ここで、ナレーターとして、少し介入するけれど、このときベルナールがレストランとして始めた店「狂った鍋 la Marmite en Folie」なのだが、ネットで調べると、今世紀の初め頃までは、同じ名前の店が同じ地区で営業していたのではないかと思わせる記録が見つかる。例えば、若者文化に強いリベラシオン紙の1995年3月の生活情報欄には、復活祭のトゥールーズ短期旅行のオススメ記事にこんなことが書かれている。
食事:ヴィクトル・ユーゴー市場の1階には、気取らないレストランが手頃な価格で昼食を提供。例えば、「ランペリアル」では、前菜のビュッフェ、パエリア、デザートが55フラン。電話なし。「狂った鍋」のマルク・ブランドランのメニューには、カスレは「あまりにもありきたり」という理由で載っていない。100フラン、150フラン、300フランで驚きの美食メニューを提供。ポール・パンルヴェ通り28番地。電話:(16)61.42.77.86[★2]
1995年3月4月頃のフランス通貨のフランは、だいたい1フラン18円ぐらいだから、100フランで1800円、150フラン2700円、300フラン5400円といった手頃なお値段。カスレは、豆と鴨肉やソーセージを煮込んだトゥールーズ名物だが、そんな安易な品は出さないようだ。ちなみに通りの名前のパンルヴェは数学者にして第一次大戦期のフランスの首相。「パンルヴェ方程式」って知っているかな。とっても難しい数学の方程式なのだが、その大数学者のパンルヴェです。
最近の情報の検索には、この名前のレストランは、トゥールーズ市内では引っかからない。パンルヴェ通り28番地をGoogleマップで探しても、ストリートビューに庭のある民家が見えるだけでレストランらしき店は見当たらない。いずれにしても、この店が果たしてベルナールが1976年頃に開いた店となにかしら関係があるのかはまったく不明だ。
ジャズバー「日々の泡」
他方、いま参照したリベラシオン紙の記事が薦めていた気取らないレストラン「ランペリアル」(こちらは1985年開店で現在も営業中)はヴィクトル・ユーゴー市場[★3]にある。その市場の向かいのバーの営業権をベルナールは買い取った。そして、「日々の泡 L’écume des jours」と命名した店を開いた。ジャズトランペッターでもあったボリス・ヴィアンの小説から名前を取ったのは、まあ、順当な発想だったと言えるだろう。
バーの営業権というのは普通は高いものなんだが、そこはマフィアがやっていたバーで、いわくつき物件というわけで安かったんだ。何度も警察から営業停止処分になり、売春婦とかも出入りしていた店だった。でも、安いから買った。
そうしたら最初から繁盛した。ヴィクトル・ユーゴー市場には、レストランをやっている人たちが良い肉や新鮮な野菜を求めて朝早くから買い出しにやってくる。[……]まず11時頃から店を開いて、 カルロス・ガルデル Carlos Gardel[★4]のタンゴとかを聞いてもらえるバー、そして、夜には音楽バーをと、最初は考えていたんだ。
ところが、驚いたことに、17時からの夜の部は、店を開いたとたんに大勢のお客さんが押し寄せて大変なことになった。それで、夜のバーだけをすることになったんだ。
と、こういうわけで、レストランもバーも万事快調なスタートだったわけなのだけれど、哲学的ナレーターである語り手の私としては、この音楽ライフの実践が、その後、あの20世紀有数の音楽家ピエール・ブーレーズがちょうどこの頃(1977年)に創設したIRCAM(フランス国立音響音楽研究所)の、三代目の所長になっていくというベルナールの個人史との関係に注目している。あるいはまた、ほぼ同時期に、日本でジャズ喫茶やジャズバーを経営していた将来の作家や文化人は村上春樹をはじめ複数いるから、レコード文化の世界同時的展開に興味を抱いている。世界はやはり同じリズムで動いていたのだ。
ハードボイルドな暗転
絶好調でスタートしたジャズバー「日々の泡」だったが、やはり、いわくつきの物件を買ったことが災いを招いたのか、騒ぎに巻き込まれることになる。「最初に起こった事件は、パラシューティスト(仏軍の空挺部隊の兵士のこと)たちとの喧嘩だった」。当時、近くに空挺部隊の連隊の駐屯地があって、彼らと「腕に自信がある」スタッフのアルジェリア人やモロッコ人が激しい殴り合いになったのだ。
ちょっと解説すると、空挺部隊はおもに職業軍人の部隊で、海外の戦略的な軍事行動に投入されることが多い。例えば、アルジェリア戦争で首都アルジェを制圧したのは空挺部隊。アルジェリア人に対するひどい拷問が行われた。その後アルジェリア独立に反対してクーデタを起こそうとさえした。つまり、フランス植民地主義の尖兵というわけだ。それに南仏のトゥールーズとモロッコやアルジェリアは地中海を隔てて目と鼻の先だ。個人的な経験だが、1980年代初めにトゥールーズに行ったことがあった。軍服を着たスキンヘッドの若者たちがカフェに入ってきたことがあって、フランス人学生の友人たちが、パラシューティストだぜ、やな奴らだ、と白い目で眼ていた思い出がある。
そのときは、警察が呼ばれて喧嘩は治まった。
ところがね、二、三週間後に、警察が突然ガサ入れしたんだ。警察犬を連れて短機関銃で重装備という派手ないでたちでね。営業中に踏み込まれた。みんな動くな手を挙げろ、一人一人身元検査だ、という具合にね。
で、さっき言ったように、バーにはずいぶん得体の知れない人たちも出入りしていたから、指名手配中の人物とか、ヘロインなどの麻薬所持とかマリファナとか、いろいろイレギュラーなケースが多数見つかった。
まるでフィルム・ノワールの一場面だが、店ではそのときどんな曲が流れていたのだろうかとふと思う。マイルス・デイヴィス「死刑台のエレベーター」みたいなのかなと……。
翌日、警察署長に呼び出された。カステックス氏。名前よく覚えているよ。彼の息子はトゥールーズの国立美術学校(ボーザール)の学生で、バーの内装をデザインしてくれたので知っていたし、お父さんが警察署長なのも知っていた。
それで、カステックス氏は、とても感じのよい紳士的な丁寧な物腰で、「スティグレールさん(ムッシュー・スティグレールって、かならずムッシューを付けてそのときは話しかけてきた)、あなた商売をなさっているわけで、バーを経営なさっているときには、警察にも少々協力していただかないといけません」、と言って、顔写真付きの人物一覧表を渡された。[……]それで、その日からは、自分はレコードの選曲を店の奥でしているのではなく、店の入り口に陣取って、人物一覧表に載っている人物がやってくると、申し訳ないが入れられないんだ。きみのことは警察で写真を見せられた。手配されているから界隈を変えた方がいいよ、とアドバイスして帰ってもらうことにしたんだ。
こんなことをしたから、警察はものすごく腹を立てて睨まれることになった。迫害されるようになった。
日本での分かりやすさのために、さきほど手っ取り早くマフィアと訳したけれど、フランスにはじつはイタリアのようなマフィアはないというのが当局の公式見解[★5]なのだ。それに近い世界を指すのに、定冠詞付きの「ル・ミリュー le milieu」という独特のフランス語があるのだが、「ヤクザ」とか「反社」みたいな含意の表現だ。夜の街に進出したことで、警察とヤクザ、表社会と裏社会、25-6歳でその境界面に触れたということかな。例えば、新宿歌舞伎町のど真ん中に進出したというようにイメージしてもらうと分かりやすいかもしれない。
プラン・バール
しかし、それだけでは済まなかった。経済社会の現実は厳しい。ベルナールには、無邪気な芸術青年の側面がまだ大分残っていたということなのだろう。自分はジャズの選曲に興味はあったが、「まったくマネジメント能力はゼロだった」と繰り返し語っている。
バルザックの小説みたいな話なのだが、ベルナールの大成功を面白くなく思っている人物もとうぜんいた。店から300メートルしか離れていないアルザス・ロレーヌ街のベルギー・バーは、「日々の泡」開店までは人気の店だったのだが、お客を半分以上奪われていた。そのバーの経営者は、ベルナールが資金を仰いでいた銀行の支店長とポン友(「朋友」分かるかな、外来語だよ[★6])だった。
時折しも、「プラン・バール」というものが始まっていた。
当時のフランスはポンピドゥー大統領の急死を受けて1974年4月からジスカール・デスタン[★7]が大統領だったんだが、1976年8月から経済学者で欧州委員会や歴代政権で要職を経験していた民間人のレイモン・バール Raymond Barre(1924-2007)[★8]が首相になった。欧州諸国とくにフランスは、第一次オイルショック(1973年)で戦後の経済成長の「栄光の三十年間」が終わり、長期のスタグフレーション(物価の上昇と経済の停滞および失業の増加)に陥っていた。バールは、「第二次大戦後にフリードリヒ・フォン・ハイエクとヴィルヘルム・レプケによって設立されたモンペルラン協会の会員で、自他ともに認める新自由主義者」だった[★9]。と言っても、サッチャー、レーガンのネオリベラリズムと同じではないが、強い通貨、インフレ抑制、財政均衡の経済政策を数次にわたる「プラン・バール les Plans Barre」として実施することになった。そしてそこには「事業者の負債」を整理するために、貸付の条件を厳しくすることが盛り込まれていた。
で、そのぼくをひどく恨んでいるバーの店主は、ぼくの銀行の支店長とポン友だったから、これぞとばかりに、すぐに企んで手を回した。
ある日突然、ぼくの当座貸越が取り消されることになった。
ぼくは、ビジネスとかマネジメントはまったく興味なく、よいジャズのことばかり気を取られていたから、まったく財務的備えなどなかった。[……]ぼくは店を続けられなくなってしまったんだ。
で、どうしたか? 銀行を襲撃することにした!
銀行を襲撃する
狂気の行いだったんだ、この時代、ぼくは狂っていたんだ。
でも、これは1970年代でね、1970年代は特別な時代だったんだ。鉛の時代[★10]。
ぼくの友人たちの多くもいわば変調を来してしまって、重度の麻薬中毒になったり、自殺したりというケースがたくさん出た。
この時代、イタリアの赤い旅団[★11]とか、バーダー・マインホフのドイツ赤軍[★12]とか、68年の一種の「二日酔い」というべきか。栄光の三十年間が終わり、OPEC(石油輸出国機構)のアラブ産油国による石油の価格引き上げでオイルショックが起こりヨーロッパが経済危機の時代に入っていくという、そういう時代の転換期だった。
そうなのですよ、私にもよく分かる。前回も語ったのだが、〈1970年〉──かならずしもその年ではなく、〈1970年代〉というべきなのか──の壁が二つの世界を隔てている。この時代の向こう側の世界とこちら側の世界とは、ものすごくちがった世界なのです。ハイデガー的に言えば、「存在の歴史」の転換というべきか、そういう問題に関わっていると思う。
ベルナールの場合、高校をドロップアウトしてからこの時期(1976年-1977年)まで、まったくもってすごく頑張って独自の展開を遂げてきていたのだと思う。それが、一つの大きな挫折を迎えてしまった。
ぼく自身に関して言えば、単にお金が必要だったのであって、政治的な動機はなかった。逮捕されてから、二人の弁護士が付いたのだけど、最初の弁護士は、バーに来ていたお客さんだったんだが、最初、政治的な行動だと主張すべきだと言った。でも、ぼくはそれには反対で、そういう弁論は問題外だった。テロにはもともとも断固反対の立場でテロリストたちは唾棄していた。
政治的な行動ではまったくなく、狂気の行いだったんだ。
お金が必要だった。バーの商売はすごくうまく行っていたんだ。それが突然めちゃくちゃにされた。不当だと思ったのは事実だ。
「政治的な行動ではまったくなく、狂気の行いだったんだ」、ここは重要なところなんだ。ポスト〈68年5月〉的な「気分」で銀行強盗に及んだ。そういう時代だったのだ、という弁明はあり得る。弁護士の一人はそのロジックで情状を主張せよとアドバイスした。でも、ベルナールはそれを拒否した。その拒絶には、〈68年5月〉の自分の経験に対するネガティヴな評価が絡んでいる。〈68年5月〉の二日酔いで銀行強盗に及んだ、これは政治的な行動だと主張したとしたら、二日酔いは覚めないままではないか。
しかし、そうではない。これは刑事犯罪だ。そう、潔く(というべきか? )、主張した。
「coup de folie」を「狂気の行い」と訳したが(「狂気の沙汰」ではレトリカルで弱いので)、その表現、たぶんここではキーワードだと思う。フロイト的には「死の衝動」というべきか、自己破壊的な行為に出たということだと思う。それは政治的な行為とはちがったことだ。欲動的な問題が絡んでいることは、ベルナールの語りを丹念に観察すると比較的容易に分かる。
ラジオでのインタビューを、この部分については、インタビュアーの言葉を含めてフルに書き出しておこう。
インタビュアー — 狂気の行いとおっしゃいますけど、銀行襲撃は何回したんですか? 一回? 二回? 三回? 四回? で、五回目に捕まった?
ベルナール — いや、四回目です(笑)。 問題はね、一度こういうことを始めると、突然あなたは非合法状態(clandestinité=隠密状態)に身を置くことになることです。誰にも何も絶対言ってはいけない、という状態に身を置くことになる。そうすると、あなたは心理的にまったく別人に変わってしまう。
じっさい、一回目の襲撃のとき、捕まりかけていたんです。すべてを告白すると、私が攻撃したのは、自分が口座を開いていた支店で、もちろん鬘を被り付け髭したりして変装して出かけて行ったのだけれど、支店の従業員の誰かが、お客に似ているんじゃないか、と言っていたらしい。まったく、プロじゃない強盗で、人形劇みたいなものです(笑)。
で、従業員の誰かが、あれ、スティグレールに似てないか、と言ったらしい。で、警察がぼくの家に急行してきたのだけれど、そのときは家にいなくて、トゥールーズの植物園で二人の子どもを遊ばせていた。警官はぼくたちを尾行して、子どもたちと遊んでメリーゴーランドに乗せている様子を見ていた。さらに、家まで尾行してきて踏み込まれた。手を挙げろとね。子どもたちがびっくりしたけれど。でも、そのときは、私がそんなことするはずないでしょう、ということで、警官たちはぼくに言いくるめられた。
しかし、腕利きの刑事は、決して獲物を見逃さない。家の近くに、「トロワ・ピリエ」[★13]という小さなビストロがあって、朝の遅いぼくはそこのカウンターでコーヒーを飲むことにしていたんだが、あるとき、そこのウィリーというギャルソンが、(あとで聞いたんだけど、彼もヤクザだったみたいだが)、「あたしの後ろの鏡を見てみてごらんよ。ルノー4L[★14]が映っているだろ? 乗ってるヤツはサツだよ。あんた、いつもつけられてるね」とささやいた。
こんな風に、パラノイア状態になって、生活がまったく別の方へ分岐する、法の外の存在になるんです。銀行を襲撃するようなことをすると、こんな風に、アドレナリンの分泌がまったく激しくなって、それまでとはまったくちがった状態で生きるようになるのです。
ベルナールの回想のこの語りぶり、いかにもシネマトグラフィックでしょう?
ここから受け取れるのは、実存の出来事を、映画やジャズのように書き取る語りだと思うのですね、記号学者の私としては。犯行が繰り返されたことにも、金銭的な問題と表裏になって心理的ファッシネーション(幻惑)が働いていたように思われる。快感原則を超えて、死の欲動が働いていたのだ、たぶん。
そして、これは、事後的に語りが作り出されたのではなくて、事件当時の経験も感性的レヴェルにおいては、これとまったく同じに生きられた出来事だったのではないのか。これこのままの感性的経験をそのときしたのではないのか。
それは、自分の実存が、オーソン・ウェルズ「上海から来た女」のミラーハウスのシーンのようにひび割れていく経験だったのではないか。
記号学者の私としてはそう思っている。
★2 « Repères Tout Toulouse », Libération, publié le 11 mars 1995.
URL= https://www.liberation.fr/vous/1995/03/11/tout-toulouse_127416/
★3 トゥールーズの街を知らない人のために少し解説すると、ヴィクトル・ユーゴー市場は、トゥールーズの第一区で中心地ウィルソン大統領広場のごく近くに19世紀の初めから存在する歴史的な市場。19世紀末にフランスでは最初に屋根付きの市場となった。サイトは以下。どんな食べ物が売っているのか、どんな雰囲気か具体的に分かる。URL= https://www.marche-victor-hugo.fr/
★4 タンゴの巨匠 カルロス・ガルデルについては、ウィキペディアを参照。 URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%AB
★5 次のルモンド紙の記事が詳しい。
URL= https://www.lemonde.fr/societe/article/2013/11/30/il-n-y-a-pas-de-mafias-en-france-mais-des-organisations-structurees_3523264_3224.html
★6 「ポンユー(朋友、péngyou)は日本では外来語に分類できる語で、「友人・友達」を意味する中国語が語源である。「ポン友」(ポンゆう)とも表記される。昭和期前半頃まで会話で「あいつは俺のポンユーだ」等とよく使われた語である。しかし近年は高齢者にしか通じない」。URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%A6%E3%83%BC
★7 ジスカール・デスタンについては、次のウィキペディア項目を参照。
URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
★8 レイモン・バールについては次のウィキペディア項目を参照。
URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB
★9 プラン・バールについては以下の論考が大変参考になる。権上康男「1970 年代フランスの大転換――コーポラティズム型社会から市場社会へ」、『日仏歴史学会会報』27巻、 2012年、 pp.17-32。
★10 鉛の時代は1960年代から80年代にかけての、世界中でテロリズムと国家権力との衝突が起こった時代を指す。以下のウィキペディアの項目を参照。
URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%9B%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3
★11 「赤い旅団」については、以下のウィキペディアを参照。URL=
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%97%85%E5%9B%A3
★12 「ドイツ赤軍」については、以下のウィキペディアを参照。URL=
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%B5%A4%E8%BB%8D
★13 このビストロについては不詳だが、「トロワ・ピリエ」は通りの名前から取られているのだと思う。バー「日々の泡」が近くだったというヴィクトル・ユーゴー市場のごく近くだ。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Rue_des_Trois-Piliers
★14 ルノー4Lについては、次のウィキペディア項目を参照。URL=
https://fr.wikipedia.org/wiki/Renault_4_(1961)
石田英敬