1960年代の「想像力」 飛び魚と毒薬(6)──『ゲンロン16』より|石田英敬

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初出:2024年4月10日刊行『ゲンロン16』
石田英敬さんの人気連載「飛び魚と毒薬」。2024年10月4日書店発売の『ゲンロン17』ではいよいよ連載第10回をむかえ、ある衝撃的な事件の顛末が語られます。このたび『ゲンロン17』の発売を記念して、「飛び魚と毒薬」のこれまでの回をすべて期間限定で無料開放します。ぜひお楽しみください!(編集部)
 
「飛び魚と毒薬」連載ページはこちら
URL=https://webgenron.com/series/ishida_01

 これまで3回、パリ〈68年5月〉の出来事を語ってきた。この連載は、ベルナール・スティグレールとぼくのクロス・バイオグラフィーの試みなのだから、ときどき「現代思想」的な括りの回を折り込んでいきたいと思っている。そこで、今回は、〈68年5月〉をめぐって、1960年代の「想像力」の問題を考えてみたい。

エドガール・モーランさん

 社会学者のエドガール・モーランさん Edgar Morin(1921年-)は、お元気な様子で、Twitter(現X)もしていて、ぼくもフォロワーのひとり。現在102歳、100歳を超えて健在はスゴいね。10年ちょっと前だけれど、一度だけ、パリのシンポジウムで同席させていただいたことがある(ご一緒したのは88歳のときだ)★1。にこにこした温厚なおじいさん。昔は、ちがったのかもしれないが。

 そのモーランさん、68年3月には、中国に講演に行っていた都市社会学者アンリ・ルフェーヴルに頼まれて、パリ第10大学ナンテール校舎の社会学科で代わりに講義をしていた。

 まだ新設工事中という状態のナンテール・キャンパスに出かけていくと、文学部の前で赤毛の小柄な学生が何やらアジ演説をやっていた(あとからそれがコーン゠ベンディットだと分かった)。建物の前で、ポール・リクール Paul Ricoeur(1913-2005年)に会ったが、学生に紙くず籠を頭から被らされた、とかれは神妙な顔で言う。リクールは温厚な人柄だったからね。

 社会学の講義室に入っていくと、「ここはストライキ中だ」と数人の学生が取り囲んで言う。「じゃあ、授業を受けたいか、ストにするか、みんなの意見を聞いてみよう」ということで、全員投票したら圧倒的多数で「授業」という結果。そしたら、活動家の学生たちが「ポリ公、モーラン」と野次って、照明のスイッチを切ってしまった。窓のない部屋だから部屋は真っ暗闇、授業はそこで中断。そんなこんなで、大学はえらい騒ぎになっているな、と好奇心を搔きたてられ、クロード・ルフォール Claude Lefort(1924-2010年)やコルネリウス・カストリアディス Cornelius Castoriadis(1922-1997年)と学生叛乱についての勉強会を立ち上げた★2。68年3月だから、まさしく「3月22日運動」がナンテールで起こった頃だ。

 モーランさんは、若くしてスペイン人民戦線に参加、対独戦では共産党系レジスタンスの闘士でドイツ占領軍の中尉として最初に敗戦国ドイツに入り調査した人だからね(その成果が、かれの最初の本『ドイツ零年』★3で、ロベルト・ロッセリーニの映画『ドイツ零年』のタイトルはこの本から採られているという説もある★4)。筋金入りの強つわ者ものというわけなのさ。

『ある夏の記録』(1961)

 そのモーランさんが携わった『ある夏の記録 Chronique d’un été』★5を、みなさんは見たことがあるだろうか?

 人類学者で映像人類学の巨匠ジャン・ルーシュ Jean Rouch(1917-2004年)とともに、モーランさんが1960年に共同監督したドキュメンタリ映画で、「シネマ・ヴェリテ」★6の嚆矢であるとともに、ヌーヴェル・ヴァーグの記念碑的作品とされる(1961年公開、同年のカンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟〈FIPRESCI〉賞受賞)。映画を勉強したことがある人はよく知っているはず。ぼくの指導学生にもこの作品をテーマに素晴らしい修士論文を書いてくれた中国からの留学生がいた。

 これまで語ってきた〈68年5月〉の背景を理解するためには、この作品を手がかりにすると、いろいろな意味で分かりやすいとぼくは考えている。

 

 というのも、この作品の始まりは、こうだよね──

(映像)
始業のサイレン音が鳴り響くルノーのビヤンクール工場と通勤してくる労働者たちのシーン
(ナレーション)
「この映画は俳優によって演じられたものではない。人生の時間をシネマ・ヴェリテという新しい経験に充てた男女たちによって生きられたものである」

(ルーシュとモーランが、マルスリーヌ・ロリダンと、これから撮影する映画について相談している場面)
「君はどう生きているのか? Comment vis-tu?」というテーマで映画を作ろうとしていると制作意図を説明するモーラン。「どんなふうにして日々やりくりして生きているのか」を、いろいろな人に語ってもらい映像化したいと説明する。そして、ルーシュが、マルスリーヌに向かって、「君はこの映画に出てもらうので、まず、手始めに、どんなふうに暮らしているのか、語ってみてくれるかい?」と問いかける。マルスリーヌは「自分は応用心理学の調査の仕事をしている」と答え、「その仕事、全然面白くない」と語り始める。そして、ルーシュが、「街で、『あなたは幸せですか?』って、人びとに質問してみるかい?」と提案する。

 ──次の場面から、マルスリーヌはナグラ(携帯録音機)を肩にかけ、マイクを持って、人びとに「あなたは幸せですか? Êtes-vous heureux?」って、インタビューし始める★7。そうやって、この映画は始まるんだ。

 

 どうして、この映画が、〈68年5月〉を理解する手がかりになると思うのか?

 まず、人類学者と社会学者の共作だから、理論的フレームワークはしっかり出来ていて、1960年夏のフランスの若者たちの置かれていた状況をきれいに整理して設定している。

 12ぐらいのパートに切り分けられるが、それぞれが、労働者の仕事場、労働者の家庭、インテリたちの暮らし、学生生活、外国人、旧植民地からやってきた留学生……という具合に、社会調査的にセットされている。でも、忘れてはならないのは、冒頭、マルスリーヌが応用心理学の調査なんて全然面白くないと言っていたことだ。彼女は、そういう社会エンジニアリングとしての応用社会学や応用心理学ではなくて、それとは逆の方法を行くんだ、ということを宣言している。つまり、社会学や心理学という人間科学(人文科学)についての問いが提起されていることを見逃さないようにしよう(これは、人文社会系の学部として発足したナンテールで社会学を学ぶ学生たちにも共有されていた問題意識だとモーランさんは書いている★8)。ひとつの映像作品から得られるのはもちろん限定された視角だけれど、1960年代初めの労働者やインテリの置かれていた実存の状況が観察できると思うわけだ。

「シネマ・ヴェリテ」

 登場人物みんなの自発的な発言を聴取するために、要所要所に、食事とおしゃべりがセットされている。人類学者だからね。エスノグラフィーで得た手法だ。食卓を囲んで飲み喰いしながらみんなでおしゃべりする、つまり、饗食(ギリシャ語で言うシュンポジオン=シンポジウム)しているわけだ。

 

 労働者のアンジェロはルノーの一般工(OS)なのだけれど★9、会社の管理職が言うように、いろいろな資格をとって、労働者としての階梯を上がっていっていったいなんになるんだろう。そういうことをやっている上司を見るといったいなんのために生きているんだ、って疑問に思う。そうだろう、みんなそう思うよね、それって機械になることと同じだと同僚たちに訴える。口笛を吹きながら郊外(たぶんブーローニュ)の家まで帰宅していく家路には、まだ、子供の頃からの田園的な町並みが拡がっている。母親と暮らしている一軒家では、柔道の練習をしたりダントン(フランス革命期の人物)の本を読んだりしている。いったい俺はなんのために生きているんだ、機械みたいに働くためじゃないだろう。そのように、この〈労働する人〉は自問している。アンジェロを映画撮影に呼んできたルノーの労働者のジャックは、カストリアディスやルフォールがつくった社会主義グループ「社会主義か野蛮か」に近い人★10。かれらの問題意識は、初期マルクスの言う「疎外」の問題なんだよ。

 街頭で人びとに「あなたは幸せですか?」って問いかけていたマルスリーヌだが、彼女自身も、同棲中で年下の学生ジャン゠ピエールとの愛の行方に悩んでいる。彼女の腕には一五歳のときに父親とともにナチスに捕らえられアウシュヴィッツに送られたときの囚人ナンバーの入れ墨がある。パパと昔歩いた、コンコルド広場からレ・アールの市場への道を歩きながら、「パパ、パパはどうして私をひとり残して逝ってしまったの」と、人知れず自分に語りかける(のを開発されたばかりのナグラⅢが同時録音している。こうした録音技術はこの当時初めて可能になったんだよ)。

 学生のジャン゠ピエールや高等師範学校生のレジス(若き日のレジス・ドブレ Régis Debray 1940-)たちの気がかりは第三世界だ。この時点で、フランスはまだアルジェリア戦争のまっただなか。学生は徴兵を猶予されているけれど、このさき徴兵に応じるのか、さもなくば、ベルギーとかの国外に出るか。アフリカの植民地が次々に独立していくなかで、自分たちは植民地の人びとに対してどんなふうに責任を取っていったらいいのか? 将来、管理職に就いて、体制システム側の人間になっていってしまっていいんだろうか、そんなことのために勉強しているんだろうか。進行中のコンゴ動乱についてはどう思うか。アフリカからの留学生も交えてみんな真剣に議論している。

 労働者の家庭では、まあ、生活はだいぶ楽になって団地に住めるようになったけれど、もう少しお金があればねえ、これから夏のバカンスに行くんだけれどと奥さんが話す。

 イタリアの良家の子女で、パリに初めてひとりで出てきて屋根裏部屋で暮らしているイタリアの写真家マリールウは、失恋とか人生の行き詰まりで悩んでいる。苦しいことが生きている実感なのか、と難しい生の時間を嚙みしめている。

 コートジボワールからの留学生ランドリーは、人種差別の偏見に出合ったりしないかい、と労働者のアンジェロから問いかけられる。マルスリーヌの腕に入れられた入れ墨の由来を聞かされてびっくりする。

 それら、ちがった社会カテゴリの登場人物たちが饗食しおしゃべりする。で、誰かが、食事のときに、そのマルスリーヌに、君は黒人の男と寝たいと思わないか、なんて、冷やかしで問いを発したりする。アルジェリア戦争についてどう思うのかい。兵隊に召集されたらどうするか。兵役を拒否するか。などなど、侃々諤々議論する。

 で、最後に、バカンス出発の時期が訪れ、みんなで高級リゾート地、B・B(ブリジット・バルドー)の映画で有名なサントロペに出かけていく。そしたら、B・Bのそっくりさんがいて(ヤラセだね)、バルドーっぽい口調でサントロペのおしゃれな生活の良し悪しをスノビッシュにおしゃべりしてくれる。

 つまりこの映画は、戦後復興が軌道に乗り、栄光の30年が本格化しつつあった1960年の夏に、人びとが「どう生きているのか?」の民族誌エスノグラフィーというわけなのだが、同時に本質的には、「生きづらさ」について、サルトルの用語で言えば、「実存の問い」をみなが抱えていることが重要なテーマだ。

「ヌーヴェル・ヴァーグ」の時代

 その実存の問いに切り込むために、考え出された方法が「シネマ・ヴェリテ」なのだ。そして、それは、とりもなおさず「ヌーヴェル・ヴァーグ」でもあった(これは飛躍した議論かもしれないのだけれど)。マルスリーヌが、ナグラⅢを携行して街に出ていって、「幸せですか?」って、問いかけたときから、シネマ・ヴェリテの時代、すなわち、ヌーヴェル・ヴァーグの時代が始まったのだと思う。

 

 ゴダールの『勝手にしやがれ À bout de souffle』(1960年)だって、シネマ・ヴェリテでしょう。シャンゼリゼでヘラルド・トリビューン紙を売り歩いているアメリカ人のパトリシア(ジーン・セバーグ)を映し出すシネマ・ヴェリテがまずベースの映画として起動し、「探偵物ポラール」がお話フィクションのフレームとしてアドホックに接ぎ木される。で、最後、「ほんとムカつく c’est vraiment dégeulasse」というセリフがオチとなってお話のフレームが閉じ、ベースにあったシネマ・ヴェリテが、ジーン・セバーグのなんとも両義的で崇高な正面クロースアップ・ショット「dégeulasse ってなあに? Qu’est-ce que c’est, dégueulasse ?」で受け直して終わる、という流れですね。

 

 これをシモンドン的に言うと★11、『ある夏の記録』ならナグラⅢ+携帯カメラ(la caméra Éclair Coutant★12)の映像音声同時記録、『勝手にしやがれ』なら手持ちカメラと高感度フィルムという、新しい撮影技術が可能にした〈技術的個体化〉によって、都市と映像とエージェントの関係ががらりと変わり、映像を通した人びとの〈心理的-集団的個体化〉の布置が変化したわけだ(ヌーヴェル・ヴァーグをたんなる映画史の出来事としてとらえるのは、映画オタク的なつまらない見方だ、それは間違いだとじつは思うのですね)。

 時代の「想像力」が変容する、つまり、想像力の新しい〈時代エポック〉が始まるのは、映像エージェンシーにかかわる技術的-心理的-集団的個体化の新しい配置が生まれるときだと考えてよいのではないか。

 

 なぜ、60年代の想像力を考えるのにシモンドンを参照するのかといぶかしむ向きもあるかもしれないが、最近になってようやく多くの人びとが引用し始めたジルベール・シモンドン Gilbert Simondon(1924-1989年)は、じっさいには、まったくの同時代人なのだ。かれがこれらの概念を打ち出した博士論文『形態と情報の概念に照らした個体化』および『技術的対象の存在様態について』が提出されたのは1958年だった。だから、シモンドン本人が、シネマ・ヴェリテを見たら、「君はどう生きているのか?」というモーランたちの問いは、「エージェントである君は(技術的-心理的-集団的に)どう個体化しているか?」と問う映画だと即座に理解したはずだ。哲学は、決して紙のうえに書かれるのではない、生のなかに/生を通して書かれるものだからね。じっさい、シモンドンの師だったモーリス・メルロー゠ポンティ Maurice Merleau-Ponty(1908-1961年)は「哲学者と映画人とのあいだには、ある種の共通した存在の仕方があるのであって、それこそひとつの世代の世界の見方というものだ」と書いている★13。そして、この言葉は、ゴダールの構造主義的映画『男性的・女性的 Masculin feminin』(1966年)のなかで引用されているのです。

 

 『男性的・女性的』の場合は、こうです。

 まず、タイトルを確認しておくと、日本語では『男性・女性』となっているけれど、形容詞が名詞化した「Masculin(男性的) féminin(女性的)」であって、『男と女 Un homme et une femme』ではありません(後者なら同じ1966年公開のクロード・ルルーシュ監督の小洒落たセンチメンタルドラマです。でも、アヌーク・エーメとかけっこう好きかも。ジャン゠ルイ・トランティニヤンもいいね笑)。

 なぜなら、ゴダールとしては、この作品は、「社会学者のように語るなら、若者を『構造』の観点から研究した」ものだからです★14。「生物学者のように、社会の『細胞』を取り出して、その生態を観察した」のです。社会を分解して音素のような最小単位にまで分解すると、「男性的 le masculin/女性的 le féminin」という示差性にまで還元できる。ポール(ジャン゠ピエール・レオ)は、「ローリングストーンズに囲まれたウェルテルのような存在で」、主人公たちカップルは「マルクスとコカ・コーラの子供たちの世代」。「ふたりは社会主義(とても近代的で経済的な意味における)とアメリカ式生活から影響を受けているんだが、階級闘争はもはや私たちが本で教わったようなものではないんだ」。「昔だったら、マダム・マルクスがムッシュー・コカ・コーラと結婚するなんてありえなかった。でも、いまではそんな夫婦はいっぱいいるね」。「ジャン゠ピエール・レオ(少年)とシャンタル・ゴヤ(可愛い、イェイェ歌手[引用者注:yé-yé はモーランさんが1963年に命名したものだ、これについては後述])は、それぞれ左翼と右翼を代表しているとも言える。だけど、若さゆえに、かれらは自然に付き合っていられて、カップルをかたちづくり、無邪気で許し合える関係なんだ」。

 もうお分かりでしょう。ゴダールは、ルーシュやモーランにとても近いところで、シネマ・ヴェリテとしてヌーヴェル・ヴァーグしているということが。そして、構造主義が、想像力の符号化コーディングのキーになっている、ということにも注意しよう。

 『ある夏の記録』は、だから、想像力をめぐって、人びとの技術的-心理的-集団的個体化のヌーヴェル・ヴァーグ的とも言うべき変容が起きつつあった、1960年パリの夏の数週間の間に、何人かの男女にインタビューしつつ、それぞれの心理的個体化──「君はどう生きているのか?」「あなたは幸せですか?」──を問い、時代の変容をとらえた映像人類学的-社会学的な一級資料だと考えてよい。肝心なことは、冒頭のナレーションが言うように、それらの人びとが、映像の時間を実地に生きて個体化している──シネマ・ヴェリテしている──こと、(映像の外の現実を映し出す)表象としての映画では全然ないということだと思うのです。

「労働者」と「インテリ学生」

 トロカデロの人類博物館のレストランでルノーの労働者であるアンジェロやジャックと、インテリ学生であるジャン゠ピエールやレジスが顔を合わせて食事をしながら議論する光景は、学生と労働者との連帯を声高に主張していた、〈68年5月〉の先取りと言ってよいものだろう。

 それに、(映像からは当時の当局による検閲を嫌って除外されてしまったが)、アルジェリア戦争を忌避して脱走するよう呼びかけるべきだ、と話し合う場面も撮影されていたし、ジャン゠ピエールとマルスリーヌは、ジャンソン機関★15のメンバーで、このときFLN(アルジェリア民族解放戦線)を支援する活動をしていたことも分かっている。

 抑圧者か非抑圧者か。歴史のどちら側に立つのか? サルトルが言う「アンガージュマン」は、この当時、インテリの若者たちにとって焦眉の課題だったんだよ。それで、この映画では、まだ、育ちのいい、聡明で弁舌達者でフレッシュな若者レジス・ドブレ君は、この直後、カストロのキューバ革命に合流、南米革命のバイブルとなる『革命の中の革命』(1967年)を著して、チェ・ゲバラと南米革命運動に身を投ずることになるのです★16

 

 だから「君はどう生きているのか? Comment vis-tu?」をテーマに、1960年の〈労働する人〉、〈生きる人〉、自己の真実を言葉にしようと〈話す人〉をテーマにした『ある夏の記録』は、人類学者と社会学者による、1960年のひとつの「技術的-心理的-集団的個体化」の記録なのだと思う。

 

 そしてシネマ・ヴェリテはテレビの時代のシネマでもある。「あなたは幸せですか?」と道行く人びとに待ったなしでマイクを突きつける「街録」の手法は、日本の1960年代でも萩元晴彦・村木良彦演出で寺山修司構成のTBSドキュメンタリ『あなたは……』(1966年)★17が採用していたし、その萩元・村木と今野勉が『お前はただの現在にすぎない──テレビになにが可能か』(1969年)★18で述べたテレビ・ドキュメンタリの真髄でもある。そして、ベルナールたちの時代(それは、ぼくの時代でもある)は、なんと言ってもテレビが普遍化した世界──エーコのテレビ記号論が言う「パレオ・テレビ」時代★19──であったのだ。 

 前回まで見てきたように、ベルナールが68年5月3日にセーヌ河岸の古本屋にいたのも、テレビでモリエールの『ドン・ジュアン』を見たからだった。1963年の『サリュ・レ・コパン』誌のロックンロールイベントに、モーランさんが「yé-yé」世代と名づけた若者たち20万人が集まって騒いだのもラジオとエレキ・ギターの発達のせいだった。1968年5月10日の夜に学生たちがソルボンヌ広場に座り込んでラジオ同時中継で政府と交渉したのも、トランジスタの時代だったからだ。そんなふうに世界はもうだいぶいまのリズムに近づいていた。

 

 そんな世界で「幸福である」とはいったいどういうことなのだろうか? 君は「どう生きているのか?」

マルクス主義

 ゴダールが言うように、この1960年代のマルクス主義は、人びとが考える古めかしいマルクス・レーニン主義とはずいぶんちがうものだったはず、ということはよく考えておく必要がある。1956年にはハンガリー動乱があり、スターリン批判もあり、古典的な共産主義の神話は(よっぽどの信者を除けば)とっくに崩れていた。

 他方ではまた、『ある夏の記録』の1960年は、フランスではアルジェリアとアフリカ植民地の独立戦争のただなかだ。そして1964年になればトンキン湾事件でベトナム戦争が本格化し、戦争は世界の至るところに拡がっていく。言い古されたことだが、ベトナム戦争では歴史上初めて、テレビを通して映像が次々に送り届けられて、君はそれに責任はないのかと日々問いを突きつけてくるのだった。

 

 「あなたはベトナム戦争に責任があると思いますか?」★20

 

 高校生だったベルナールは、この時期、アルジェリア戦争後の極右の高校生運動に対抗すべく、「急いで政治化することになった」と語っていたね(第2回)。かれがまだ若すぎたからというわけでもなくて、ある意味すべての若者たちが、急ぎすぎで自分を政治化しようとしていた。それは、決してよい結果を生まなかったようにも思うのだが、では、どうすればよかったのか、となるとなかなか答えは難しい。目をつむり口をつぐむことは、君を体制側の犬、プチ・アイヒマンにしていく、とみんな考えた。

 ここではその問いを深く追うことはできない。サルトルは、ある意味、この悩める時代の「不幸な意識」の哲学者だったのではなかろうか。「社会主義と自由との結合、平等と自由とのリエゾンがめざされつつある」とソルボンヌ大講堂で語ったとき、かれはその不幸な意識にもとづいて話しているように思う。

 

68年5月の出来事について、リアルタイムでル・モンド紙に記事を書いていたモーランさんは、かれがナンテールで観察していた極左グループの学生たちについて次のように書いている──

[極左グループの学生たちにとって]マルクス主義とは、合理性の道具[理論的な道具という意味だろう]であると同時に(心理学がいう意味での)合理化[無意識を整理するつじつま合わせという意味だろう]の手段なのだ。[……]それ[マルクス主義]はレヴィ゠ストロースが言うような〈野生の思考〉の役目を果たしていて、上/下、火にかけたもの/生もの/腐ったもの、正しいもの/正しくないものを区別し、レッテル化し、規則立て、安心させる役目を果たしている。★21

 要するに極左の学生たちのマルクス主義は神話的ブリコラージュだと言っているのだが、ま、これは正しいだろうね。あるいはまた、モーランさんは、学生たちの運動の〈遊び〉と〈マジメ〉についても書いていて、〈遊び〉の部分がとても重要なのだとも述べている。これも、まったく正しい。コーン゠ベンディットの才能とはまさにその〈遊び〉の自由にあると思う。「革命ごっこ」でなぜ悪い。「ごっこ」だからこそ、「想像力」が活性化するわけだ。そういう部分──ユーモア──がなくなったときに、運動は堕落し、テロリズムや内ゲバに転落していく。教条主義者とはユーモアを持たない人たちの集まり、という意味だ。

 モーランさんがレヴィ゠ストロースを参照しているのは、『野生の思考』★22の最終章「歴史と弁証法」に、サルトルの『弁証法的理性批判』★23への痛烈な批判が記されていることと関係している。レヴィ゠ストロースの批判をひとことで要約するのは大変難しいのだけれど、極めて乱暴に言えば、サルトルの言う歴史の弁証法は、具体的にはフランス革命の神話のことで、有意な日付を拾って周期を符号化することによってつくりだされるメタ物語レシだ、ということ★24。要するに、その「歴史」とは、結局、恣意的なナラティブにすぎなくて、任意の日付や任意の出来事をどのように符号化するか、の問題にすぎない。どの周波数にチューニングするかによって、聴き取られる物語は変わるから、歴史とは「周波数」と符号化の問題なんだ、というのがレヴィ゠ストロースの考え方だ、とまとめられる。

 

 そういう目で学生たちの「マルクス主義」をリアルタイムで観察していた人がいたということはつまり、極左の「マルクス主義」の言説はこの時点で、すでに乗り越えられていたことを意味すると考えるべきだ、とぼくは思う。よりメタな言説から原理をとらえられてしまっていたわけだからね。思想とはそういうものだ。

歴史と周波数

 難解な文章の舌足らずの引用で申し訳ないのだが、レヴィ゠ストロースは次のように書いている──

歴史はいくつもの歴史領域で形成された一つの不連続集合である。そして歴史領域のおのおのは、それぞれの固有周波数と、前と後との示差的符号コード化によって規定される。★25

 なんとも即物的な歴史の規定だが、レヴィ゠ストロースが、周波数や符号化という用語で歴史を考えようとするのは、かれが、伝達理論やサイバネティクスを(ローマン・ヤコブソンとの共同研究によって)いちはやくマスターしてしまっているからだ。他方、サルトルは、古典的人文主義の教養の持ち主であるがゆえに、歴史を意識に媒介される弁証法と考えてしまう。そして、どうしても古めかしいドイツ観念論の色彩を帯びてしまう。本当は意識だって周波数の問題なのだし、弁証法はサイバネティクス的な再帰性の問題なのだから(ユク・ホイならそう読むだろう★26)、この点における両者の立場の差は大して問題ではないし、サルトル哲学にだってリニューアルの可能性はないことはない(とは思うのだが、サルトル・リニューアルを本気でやる力のある人が出てこないと現状では難しい)。

 この問題を考える教材として最適なのは、ゴダールの『中国女 La Chinoise』だろう★27。1967年の作品で、完全なタイトルは、『中国女、あるいは、むしろ、中国風──いま作られつつある一映画 La Chinoise, ou plutôt à la chinoise: Un film en train de se faire』で、だから、やはり映画を通して現実が現実に作られつつあるシネマ・ヴェリテなんだと言える。じっさい、一年後に起きる〈68年5月〉を驚くほど正確に予告するアレゴリーと言ってよい★28

 1967年初夏、中国では文化大革命が起こっていた。ヴェロニック(アンヌ・ヴィアゼムスキー)はナンテールの哲学の学生で、ブルジョワの両親が夏のバカンスで不在のアパルトマンで五人の仲間と革命合宿を始める。朝には、トランジスタラジオの周波数を北京放送に合わせ、文化大革命のプロパガンダを書き取る。壁には革命のスローガンが大書され、ジャン゠ピエール・レオが俳優のギョーム役でいつものように硬派の革命的言説を垂れ、共産党系のマルクス・レーニン派との内ゲバでインテリのアンリが負傷して戻り、『毛沢東語録』が無数に並べられ、挿入歌「マオ・マオ」が合唱され、アフリカの同志によるティーチインやマルクス・レーニンの学習会が開かれ、ロシア人のキリーロフが自殺し(『悪霊』の自由な翻案なんだ)という具合に、まったくゴダール的な革命ごっこがアパルトマンのなかで繰り広げられる。この俳優たちなんだけれど、じつは無線イヤホンを着けていて、ゴダールがそのつど指示するセリフを声に出して言っているんだよ。つまり、とっても全体主義的に、周波数的に「統制」された革命家たちの革命的言動がパフォームされているんだ。そして、ヴェロニックは「修正主義」の国ソ連からやってくる文化相の暗殺を提案する。反対したアンリは査問委員会にかけられて除名、「粛正」される。列車に乗ると居合わせたのはフランシス・ジャンソン(本人演)で、大学を爆破する計画を打ち明けたヴェロニックを思いとどまらせようと説得する超ロングのトラベリング・ショット(に見えるが動いているのは景色でじつは対面ショット)が秀逸だが、結局、ソ連文化相の暗殺は実行に移され、革命ごっこが現実に移されたところで、バカンスを終えた両親が戻ってきて、グループは解散してお話全体も終わり、現実に戻るという仕掛け。

 これって、本当に〈68年5月〉そのものと言ってよい構造で、じっさい、ソルボンヌ占拠とカルチエ・ラタンのバリケード闘争は、このとおりのハチャメチャな「革命ごっこ」だったのではないのか。そして、イランやアフガニスタン、ルーマニアの訪問に出かけて長いあいだ不在だった、ポンピドゥー(首相)やドゴール(大統領)といったパパやグラン・パパがフランスに戻ってきて、革命ごっこは終息し、事態は収拾されたのだった★29

「想像力の問題」

 さて、そろそろ、最後のまとめに入ろう。

 「想像力を権力に」や「想像力が権力をとる」という〈68年5月〉のスローガンが表しているのは、結局、革命はごっこでなくちゃいけない、ということに行き着くのではないのか? アンリ・ルフェーヴルが、パリ・コミューンをテーマに、革命は「祭り」であると書いていたことも、同じことを言っていると思う。

 現実の社会を変えるためには、現実に囚われない「想像力」が必要で、その想像力の成立の仕方は時代によってちがう。

 今回書いてみたのは、その想像力にも〈時代エポック〉というものがあるということだ。その「想像力のエポック」の成立をシモンドンやモーランさんの手助けを得て考えてみた。

 

 1960年代、世界はあらたな想像の帯域へと周波数を変えた。

 

 それまでの世界の価値は「停止エポケー」され、「若者たち」という、それまでなかった人口の「括り」が説得力を持つようになった。モーランさんが、1963年に yé-yé と名づけたベビーブーマー世代の登場だった。ビートルズは “She Loves You”(1963年)のエレキ・ギターで Yeah! を29回も繰り返した。

 でも、その Yeah! は決して29回の Yes と等価ではなかったと思う。たぶんに、No! に裏打ちされていたんだよ。

 サルトルは書いている──「想像する意識は対象を無として措定する」★30

 「マルクスとコカ・コーラの子供たちの世代」はそのように絶えず正(ウイ)と負(ノン)に意識を交替させていたのだ。

 じっさい、トランジスタラジオの帯域を変えれば、「こちらは北京放送局です」、「こちらはモスクワ放送局です」もまだだいぶ聞こえてきていた。

 そして、ぼくたちの国では、まだ沖縄を占領されたままで、第七艦隊の原子力空母が寄港し、沖縄の嘉手納基地からは、B52がベトナムへ毎日のように空爆に出撃していた。

やあ、みんな今晩は、元気かい? 僕は最高に御機嫌に元気だよ。みんなにも半分わけてやりたいくらいだ。こちらはラジオN・E・B、おなじみ「ポップス・テレフォン・リクエスト」の時間だよ。これから9時までの素晴しい土曜の夜の二時間、イカしたホット・チューンをガンガンかける。なつかしい曲、想い出の曲、楽しい曲、踊り出したくなる曲、うんざりする曲、吐き気のする曲、何んでもいいぜ、どんどん電話してくれ。電話番号はみんな知ってるね。いいかい、間違えないようにダイヤルしてくれよ。★31

 これは1970年夏の芦屋のようだが、ぼくたちもそろそろ1970年代の方へ向かうことにしよう。

 

★1 Table ronde internationale: «KATÔ SHÛICHI OU PENSER LA DIVERSITÉ CULTURELLE» Le 12 décembre 2009, Maison de la Cutlure du Japon à Paris, France.  その後、このシンポジウムは Katô Shûichi ou pener la diversité culturelle, sous la direction de Jean-François Sabouret, CNRS Éditions, Paris, janvier 2012. として出版された。拙稿は、«Qu’est-ce que les Lumières?: sur l’éthos d’un intellectuel universel», pp. 57-62.  同書の日本語版は、ジュリー・ブロック編『加藤周一における「時間と空間」』、かもがわ出版、2012年。拙稿は、第一章「啓蒙とは何か──普遍的知識人のエートスについて」、72-80頁。
★2 その成果の一端が、Edgard Morin, Claude Lefort, Cornelius Castroriadis, Mai 68: La Brèche, Fayard, 2008(この本の初版は1968年。その後、各著者の10年後、20年後の論が加えられて現在の版に至っている)。
★3 エドガール・モラン『ドイツ零年』、古田幸男訳、法政大学出版局、1989年(原著 Edgard Morin, L’an zéro de l’Allemagne は1946年刊)。
★4 Wikipedia フランス語版の«L’An zéro de l’Allemagne»の項にその記述があるが、参照先の出典の記述の根拠(モーランがロッセリーニに許諾して映画タイトルが付けられたというモーランの証言)が私自身では確認できていない。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/L%27An_zéro_de_l%27Allemagne#cite_note-5(2024年1月31日閲覧)
★5 Vimeo でも見られるけれど、映像の状態がだいぶよくないから、リマスター版を見ることをすすめたい。Chronique d’un été (DVD) Éditions Montparnasse URL= https://www.editionsmontparnasse.fr/p1476/Chronique-d-un-ete-DVD
★6 シネマ・ヴェリテとは何かについては、例えば、次のような解説動画を見るとよい。正確には本人たちは「新しい〈シネマ・ヴェリテ〉 Un nouveau “cinéma-vérité”」と言っていて、ジガ・ヴェルトフの「キノ・プラウダ」を踏まえている。URL= https://www.youtube.com/watch?v=loiDfeM792U
★7 ルーシュは、16ミリカメラとステファン・クデルスキが開発した電子スピードコントロール付きのトランジスタ・テープレコーダ「ナグラⅢ」のプロトタイプを組み合わせて同時録画録音する方法を使った。URL= https://en.wikipedia.org/wiki/Chronicle_of_a_Summer(2024年1月31日閲覧)  ナグラⅢについては第4回でも紹介したので説明は割愛するが、例えば以下の記事に詳しい。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Nagra
★8 Morin et als. Mai 68: La Brèche, ibid. chap.1 La commune étudiante.
★9 フランスで工場労働者はOS(ouvrier spécialisé 字義通りには特化労働者)、OQ(ouvrier qualifié 字義通りには資格労働者)、OHQ(ouvrier hautement qualifié 字義通りには高資格労働者)の3種に分けられる。OSは最も一般的で、比較的単純な作業を行う者を指す。
★10 このグループは、非共産党系、トロツキズムにも批判的な社会主義のグループで、その同名の雑誌はつとに有名。同人には、ジャン゠フランソワ・リオタールもいた。
★11 ちょっとシモンドン用語を解説しよう。シモンドンにとって、個体とか個人(どちらもフランス語で言えば individu、英語では individual)というようなものは存在しない。aという個体とかαという個人が存在するように思えるのは、aはb、c、d……とかとの関係において「個体に成りつづけている」から、αはβ、γ、δ、η……とかとの関係において「個人に成りつづけている」からなんだ。これを「個体化 individuation」と言う。つまり、「個体/個人に成りつづけること」が「個体化」で、君が個人であるというのは、本当は君は個人ではなくて、個人に成りつづけているプロセスなのだ、君が乗っているオートバイ、ホンダNRが個体であるのは、じっさいには個体ではなく、その内燃機関が「オーバル(楕円)ピストン」を採用していて「正円形」ではなく更新されつづける技術進化の流れのなかで個体化しつづけているからだ、とか、そういうふうに考えるわけです。そうすると、すべては、生成変化(仏 devenir、英 becoming)しつつあるプロセスであり、個とは絶えざる個体化のプロセスの関係項ということになるわけだ。ホンダNRは技術的個体化を通して個に成りつづけ、君は心理的個体化を通して君個人に成りつづけ、君自身に成りつづけることで、君は他の個人・個体たちとの関係をつねに変化させているから、君にとって集団のあり方もつねに個体化しつつある。こういうふうに考えていくのが、「技術的-心理的-集団的個体化 individuation technique-psychique-et-collective」ということなのさ。この説明で、シモンドンがドゥルーズの生成の哲学に近く、構造主義を補完しようとする哲学であることも分かるでしょう。詳しくは、ジルベール・シモンドン『個体化の哲学──形相と情報の概念を手がかりに』、藤井千佳世監訳、法政大学出版局、2018年。宇佐美達朗『シモンドン哲学研究──関係の実在論の射程』、法政大学出版局、2021年。
★12 URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Caméra_Éclair_16
発売は1963年だが、プロトタイプを使うことができたとモーランは述べている。Edgar Morin, Les souvenirs viennent à ma rencontre, Fayard, 2019, chap. 24 « Chronique d’un été ».
★13 モーリス・メルロ゠ポンティ『意味と無意味』、滝浦静雄ほか訳、第一部「映画と新しい心理学」、みすず書房、1983年、87頁に対応(引用は石田による訳。原文は1948年、73頁)。
★14 以下のゴダールの引用は、1966年封切り時の、次のル・モンド紙インタビューから抜粋。“Masculin-Féminin: les enfants de Marx et du coca-cola” Par YVONNE BABY, Publié le 22 avril 1966. URL= https://www.lemonde.fr/archives/article/1966/04/22/masculin-feminin-les-enfants-de-marx-et-du-coca-cola_2696453_1819218.html
★15 第2回にも登場したが、おさらいとして記しておこう。フランシス・ジャンソン Francis Jeanson(1922-2009年)は、サルトルに近いフランスの哲学者で、サルトルが主宰していた雑誌『レ・タン・モデルヌ』同人。スイユ社の有名な「永遠の作家叢書」の編集長を務め『サルトル』の巻を書いている。「サルトル・カミュ論争」の火付け役ともなった。アルジェリア戦争ではFLNを支援する通称「ジャンソン機関」を組織。資金援助や脱走兵支援に積極的にかかわるが、これは当時フランスで違法行為だったため外国に逃亡する。1966年に恩赦されて帰国。本稿で後述する、ゴダールの『中国女』に出演したのはこの頃だ。
★16 レジス・ドブレは、父は弁護士、母は政治家、パリ16区のブルジョワ家庭に育つ。19歳で高等師範学校(ENS)に首席で合格(同期には、エチエンヌ・バリバール、ジャック・ランシエール)。1961、62年に学生交流団としてキューバ訪問。1965年にハバナ大学哲学教授。カストロのキューバ革命に共鳴し、1967年に出版した『革命の中の革命』は南米ゲリラ革命のバイブルとして世界的なベストセラーとなる。1967年チェ・ゲバラとボリビア革命に身を投じてゲリラ戦で捕らえられ死刑求刑。フランスではドゴール大統領を含めて助命嘆願活動が起こり懲役30年の宣告を受ける。70年に釈放。チリに渡り、サルバドール・アジェンデ政権の顧問としてチリ人民連合政権に参画。アメリカCIAのクーデタによるアジェンデ政権崩壊後はフランスに帰国して、左翼連合の結成に参画。1981年フランスの左翼連合政権の成立に貢献。ミッテラン左翼連合政府の指導的人物のひとりとして活躍。その後、1990年代になると「メディオロジー」を提唱して人文社会科学思想でのムーブメントを唱道してきた。石田は、レジスとはその頃からのお付き合いで、よく知っている人。かれがベルナール・スティグレールを伴って来日した1995年に初めてベルナールと知り合うことになった。
★17 『あなたは……』(萩元晴彦、村木良彦演出、寺山修司構成、1966年)は、「TBSオンデマンド」で配信されている。
★18 萩元晴彦、村木良彦、今野勉『お前はただの現在にすぎない──テレビになにが可能か』、朝日文庫、2008年。
★19 ウンベルト・エーコはテレビ記号論の立役者でもあるのだが、有名なテレビ論「失われた透明性」で、テレビの歴史には、旧石器時代と新石器時代の区別と同じように、テレビが世界のことを伝えていた「パレオ(旧)・テレビ期」とバラエティ番組のようにテレビがスタジオで現実をハイパーリアルに創り出してしまう「ネオ(新)・テレビ期」という区別があると言った。ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコのテレビ論集成』、和田忠彦監訳、河出書房新社、2021年。
★20 この街録インタビュー質問は、前述★17のドキュメンタリ『あなたは……』で発せられる。
★21 Morin et als. Mai 68: La Brèche, ibid. pp. 30­­–31.
★22 クロード・レヴィ゠ストロース『野生の思考』、大橋保夫訳、みすず書房、1976年。
★23 ジャン゠ポール・サルトル『弁証法的理性批判 第一巻 実践的総体の理論Ⅰ』、竹内芳郎、矢内原伊作訳、人文書院、1962年。ジャン゠ポール・サルトル『方法の問題 弁証法的理性批判序説』、平井啓之訳、人文書院、1962年。
★24 「『弁証法的理性批判』によって提出された問題は、結局つぎの問題に要約されるのである。フランス革命の神話はいかなる条件において可能であるか?」(『野生の思考』、306頁)。
★25 同書、313頁。
★26 ユク・ホイ『再帰性と偶然性』、原島大輔訳、青土社、2022年。
★27 URL= https://en.wikipedia.org/wiki/La_Chinoise
日本で市販の最新版を見るとよいと思う。2019年6月7日発売、KADOKAWA/角川書店。
★28 〈69年5月〉に対するゴダール『中国女』のアレゴリー的位置については、西川長夫『決定版 パリ五月革命 私論──転換点としての1968年』(平凡社ライブラリー、2018年)から多大な示唆を受けた。西川長夫さん(1934-2013年)は、私がまだ教師として駆け出しの同志社大学時代、京都のフランス研究グループに加えていただき何度もお話をする機会を持つことができた。国民国家以後の世界システムについて高い見識を持たれ学者としてお手本にすべき方と仰ぎ見ていた。〈68年5月〉当時、高等研究院に在外研究中でじっさいに事件をつぶさに参与観察された記録としても、ご自身で撮影された写真多数を掲載した本書は、遺作となったが、一級の証言と考察の書として、みなさんにも読んでいただきたい。
★29 5月にパリで学生騒動が始まった頃、ポンピドゥー首相は5月11日までイランとアフガニスタンを訪問中、ドゴール大統領は5月14日から18日までルーマニアを公式訪問していた。
★30 Jean-Paul Sartre, L’Imaginaire, collection Idées/Gallimard, 1940, p. 30.(邦訳はジャン゠ポール・サルトル『想像力の問題』、平井啓之訳、人文書院、1983年)
★31 村上春樹『風の歌を聴け』、講談社文庫、2004年、Kindle 版より引用。

 この引用は、あまりに有名な作家からのものなので、イージーな印象を与えてしまうかもしれない。それでも、やはりキープすることにするのは、2つの自伝的な思い出が重なっているからだ。 
 村上春樹の小説は1979年から読んでいる。この作家の出現を教えてくださったのは、菅野昭正先生(1930-2023年)で、菅野先生は同時代の小説および小説家の動向に大変に詳しい方で「君は神戸の方の出身だったよね、こんど出てきたすごい作家がいて、ラジオ放送のヤアヤア、みんな元気か、みたいな語りが取り込まれている」と村上文学の出現を教えていただいて以来、春樹は読んでいる。芦屋川とか、いつも登下校で通っていた場所だから、風景は手に取るように分かるし。69年に甲陽学院という高校に進学したんだが「君は甲陽学院だったよね、柄谷行人がそこの出身だね」と、ぼくは当時知らなかった事実を教えてくださったのも菅野先生。菅野先生、けっこうゴシップ詳しかったんだね。 
 他方、その甲陽学院に高校から入学した40人(だったかな)は、中学からの進学組と進度を合わせるために、入学前の春休みに、特訓補習を受けるんだが、国語を教えてくださったのが、学年としては高校3年の担任だった、村上千秋先生(春樹氏の父親だ)。古典国語を教えていただいた。とても紳士的で生徒を大人として扱う丁寧な言葉づかいの方で、(いまにして思うと)ある種旧制高校的な生徒に対する接し方をなさっていたのではないか。とても優しい印象の方で、国語の論理をきちんと理詰めで教わったのは初めてだったはずなので、鮮明に記憶に残っている。

 

 

石田英敬

1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、『記号論講義』(ちくま学芸文庫)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。
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