飛び魚と毒薬(2) 詩とアルコールと革命と|石田英敬
石田英敬さんの人気連載「飛び魚と毒薬」。2024年10月4日書店発売の『ゲンロン17』ではいよいよ連載第10回をむかえ、ある衝撃的な事件の顛末が語られます。このたび『ゲンロン17』の発売を記念して、「飛び魚と毒薬」のこれまでの回をすべて期間限定で無料公開します。ぜひお楽しみください!(編集部)
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URL= https://webgenron.com/series/ishida_01
前回、ベルナールが数学の担任教師との諍いから、第4学年(14歳、日本の中学3年生相等)で学校がいやになってしまった経緯を書いた。
学校からは足は遠のいたかもしれないが、勉強をやめてしまったわけでも非行に走ったわけでもない[★1]。もともと早熟な少年だったし、年長のお兄さんたちをつうじて文学や芸術好きの仲間と交友関係を築いていったようだ。
一番年上(たぶん3、4歳年上)のお兄さんはドミニック・スティグレール Dominique Stiegler といって、将来はジャズの評論家兼ジャーナリストとして名を知られた存在になる(かれは1985年にパリ市立レコードライブラリーに、1960年から1985年までの全ジャズ史を網羅する8000枚のLPレコード・コレクションを納入しているぐらいだから相等なコレクターである[★2])。お兄さんの友人にアラン・ビドー Alain Bideau(1946年生まれ、将来、著名な人口学者・人類学者になる)がいて、郊外の町サルセルにはめずらしく大学校準備クラスの学力優秀な学生だった[★3]。ビドーは、サンドゥニのポール・エリュアール高校の哲学教授ジャン・マルスナック Jean Marcenac(1913-84年)の講義に出ていて[★4]、ボードレールやランボー、アポリネール、トリスタン・ツアラの詩や文学についての知識をもたらしてくれた。かれは思想面ではサルトルに心酔していて哲学の手ほどきもしてくれたという。ベルナールはビドーやお兄さんの感化で自分も共産党の機関紙『ユマニテ』を読み始めていて、サルトルとかシュールレアリスム、ロラン・バルトとか、デリダやソシュールの存在はすでに知っていた。かれらの本を何冊か、そしてプラトンの『国家』をとても選書のよい団地の本屋さんで買って持ってはいた。だが、当時の自分にはまだそうした本を読みこなす力はなく、読もうとしても挫折したと述べている。
将来ジャズの専門家になるお兄さんはすでにボードレールやアポリネールの詩に曲をつけたりしていた。自分たちがとくに興味を持ったのはシュールレアリストで、詩や芸術に夢中になったと語っている。14歳のベルナールはこの頃から夜な夜な年長の友人たちと飲酒を重ねつつ文学や哲学の論議やシュールレアリスト的経験を積んでいたらしい。だいぶお酒は飲んでいたらしい。
(付記しておくと、日本人にとってはエッ!と驚きだが、フランスでは飲酒年齢制限は事実上ない。正確に法律をいえば、アルコール飲料を購入できる年齢は18歳以上。ただし、飲むことについては年齢制限はまったくない。子供は成人年齢(18歳)までは親の保護下にあるということになっている。16歳未満の子供にアルコール飲料を飲ませる場合には親がつきそっていなければならない。さらに子供に酔いがまわるほど酒を飲ませるのは軽犯罪となる。つまり、親が同伴していて子供がお酒を飲んでも子供がよっぱらっていなければ親の保護責任下ということになっている。だから、日曜日のパリのレストランの昼食時などには、プルーストの『失われた時を求めて』のマルセル少年を彷彿とさせる、蝶ネクタイをした一丁前のガキが、親たちと高級ワインをすすっている光景を見かけたりするわけなのだ。このフランスの法規では、16歳と17歳のところに法の空白があるように思うのだが、そこは、自分では買えないが自分で飲める、と解釈すべきなのであろう。
ベルナールの場合、お母さんの兄がアルコール中毒で亡くなったということがあったのでお母さんが心配したらしい。最近の欧米社会では、若者たちの中毒問題はアルコールよりは麻薬や薬物に問題は移っているようだから、それに比べれば、当時の状況はまだ牧歌的であったといえるだろう。)
ランボーの「見者の手紙」を引いて、当時の自分たちにとってアルコールは「全ての感覚の錯乱」の詩的経験だったのだと微笑みながら語っている[★5]。つまり、詩もアルコールも、自分たちを包囲しつつある資本主義社会の秩序と規範を壊乱する一種の「近代性」の経験だった、と。
ある意味ではどの時代にもある文学少年・芸術少年の青春ということなのだろうが、サルセルのような非人間的なコンクリート団地が立ち並ぶ町で暮らす若者たちにとって、アルコールは単調な生活を揺らがせ日常に起伏をあたえるクスリ──本稿のテーマでいえば毒薬──だった。サアダ・ニディヤエ Saada N’Diaye という音楽に精通したマリ人の友だちが一番の親友で、かれの影響で現代ジャズを発見した。詩を読み、何時間もジャズを聴き、仲間たちと芸術や思想を論じアルコールに酩酊するいっぱしの芸術サークルの生活だった。1960年代半ばのパリ郊外の青春だが、少年たちの経験は、もちろんまだ当時のフランス文化の最前線からは遠い。当たり前だ。なにしろ10代なのだし、これからいろいろな冒険に乗りだそうとしているところだ。それでも、ゴダールの『気狂いピエロ』が1965年で、「見つかった、何が 永遠が 海と溶け合う太陽が」というランボーの詩の一節で終わることを思えば、サルセルの少年たちの「酩酊船 le Bateau ivre」はやはり時代の波とシンクロし始めていると思えてこないだろうか。実存のうちで、秘かに反乱を準備していた、と……。
ここで少しカメラを引いて、歴史的な奥行きを通してベルナールの証言を捉え返しておくことも重要だと思う。
この時代、世界はめまぐるしく動いていた。フランスはとくにそうだ。第二次世界大戦の戦勝国ではあっても、1945年から1950年代にかけて直面したのはある意味ではそれ以上に大きな動乱だった。
第一次インドシナ戦争といまでは呼ばれるヴェトナム、ラオス、カンボジア地域の独立戦争(1946-54年)があった[★6]。そしてアルジェリア戦争(1954-62年)があった。
前者は第二次大戦終結をうけたヴェトナム、ラオス、カンボジアの旧宗主国フランスに対する独立戦争とその泥沼化。この戦争はフランスにとっては1954年のディエンビエンフーの陥落とジュネーヴ協定の締結で一定の決着をみるが、アメリカ合衆国によって引き継がれ第二次インドシナ戦争、ヴェトナム戦争へと拡大していく。アメリカによるヴェトナム戦争への深入りの契機となるのが、ぼくたちがいま語っている時期にあたる、1964年8月の「トンキン湾事件」だ。「トンキン湾事件」は、ぼくもよく憶えている。当時10歳だったが、いつもいく床屋のおじさんが、写真が大きく見出しが躍る新聞を読んでいたな。「トンキン」という語呂が印象深かったので、へえ、そんな名前の湾があるんだ、と思った。この事件は、戦争の始まりにはよくある、攻撃側のフレームアップで、のちに1971年ニューヨークタイムズが「ペンタゴンペーパーズ」を入手しアメリカが仕組んだことが暴露された。
後者のアルジェリア戦争は熾烈な植民地解放闘争だった。1954年にアルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織されてその軍事部門アルジェリア民族解放軍(ALN)がゲリラ戦を展開。フランス本土政府の治安維持(警察)では対処できず、フランス軍による軍事作戦へと段階が引き上げられていく。第二次世界大戦後に生まれたフランス第四共和政の政府は右往左往で事態は泥沼化。フランス解放の英雄ドゴール将軍に全権を委任するかたちでフランスは1958年に第五共和政(現在のフランス共和国の政体)に移行した。
当時の仏領アルジェリアの約1000万人の人口のうち約1割はフランス市民権を持つコロン(colon 植民者。フランス語では「ピエ・ノワール pied-noir 黒い足」とも呼ばれる)だったから、「フランスのアルジェリア l’Algérie française」への執着は強く、独立を阻止しようとする極右の「秘密軍事組織 OAS」が組織され、1961年2月には「将軍たちの反乱」と呼ばれるクーデタが起こるなどフランスは内戦の瀬戸際に直面した。ドゴールは植民地時代の終わりを理解していたから、1960年からフランスが宗主国であったアフリカ諸国をつぎつぎに独立させ、アルジェリアの独立を認める1962年のエヴィアン協定が国民投票の結果承認されて戦争は終結した。
あなたは1966年の映画『アルジェの戦い La battaglia di Algeri』(ジッロ・ポンテコルヴォ監督、イタリア・アルジェリア合作、第27回ヴェネチア映画祭金獅子賞)を見たことがあるだろうか。1957年の1月から9月までつづいたアルジェのカスバを舞台とするALNと仏パラシュート部隊との戦いの実話を、克明に描いた傑作だ。爆弾テロ、暗殺、フランス軍による拷問、市民の殺戮の実態を赤裸々に描いている。
この「汚い戦争」をめぐって、知識人たちの活動も活発化した。サルトルと『レ・タンモデルヌ』誌は1955年からアルジェリア独立支持をいち早く打ち出したし、サルトルに近いフランシス・ジャンソン Francis Jeanson(1922-2009年)という哲学者・出版人が「ジャンソン機関 Réseau Jeanson」と呼ばれるアルジェリア独立支援組織をつくってフランスにおける非合法活動を支援した[★7]。マルチニックの精神分析家フランツ・ファノンFranz Fanon(1925-61年)のようにFLNに直接参加した者もいた[★8]。1960年にはモーリス・ブランショ Maurice Blanchot(1907-2003年)らが起草した「121人宣言」が「アルジェリア戦争における不服従」を呼びかけた。夜間禁止令下のパリでは、FLNが組織した平和的なデモ行進にパリ警察が発砲、数十人から200-300人が死亡行方不明になる「1961年10月17日虐殺事件」が起こった[★9]。
このように禍々しい出来事がパリでも起こり、国家の政治も知識人たちの運動もじつにめまぐるしく動いていたのだ。
さて、ベルナールに話を戻すと、1966年か67年には父親がパリの南西に隣接する都市ムードンのORTF放送局に転勤になるにともなって、職場の隣の都市セーヴルに引っ越した。「セーヴル焼」って皆さんもたぶん聞いたことがあると思うのだが、最初はパリの東の町ヴァンセンヌにあった陶磁器の窯を、18世紀にルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人がパリとヴェルサイユの中間に位置するセーヴルに移して王立窯とした陶磁器製作所があり、いまでは陶磁器国立博物館が併設されている。サルセルとちがって、こちらは長い歴史の町。あてがわれた宿舎もずいぶんと豪華な住居だったそうだ。
あんなにお酒を飲んだりしていたようだが、高校(日本の高校に相当、ほぼ15-17歳)には問題なく入れたらしく、当時は「セーヴル高校」という名だったフランス有数の優良校に入学した。この学校、いまは「ジャン゠ピエール・ヴェルナン高校」と有名な神話学者の名が付けられている[★10]。素晴らしい教育で先生たちも素晴らしかった、と言っている。セーヴルには、19世紀から「女子高等師範学校 Ecole normale supérieure de jeunes filles」があって、パリのユルム街にある男子のためのエリート大学校「高等師範学校 Ecole normale supérieure」と制度的に対になっていた。その女子高等師範学校の生徒たちが将来教師となるために教育法を修得する学校施設としてこのリセは設立されたと思われる。日本との比較でいえば、教育学部のある大学に付属高校が併設されるような関係と思えばよいだろう(東京でいえば、筑波大付属とか学芸大付属とかのような学校)。だから、優秀な先生たちが教える学校として高く評価されていたのだろう。
そのリセにはしかし2ヶ月しか通わなかった。というのは、その年(67年)に、政府が「芸術バカロレア」という国家試験を創設した。当時、自分は絵画とか音楽、演劇に進もうと思っていたので、芸術バカロレアをめざすべく、パリ16区のクロード・ベルナール高校に転校したのだった(パリ16区はパリでももっともブルジョワな地区で、この高校は現存する)。
さて、そこからが、さきほどのアルジェリア戦争問題と結びつく。
このブルジョワの子弟たちが通うリセに移ってみると、そこでは、「フランスのアルジェリア」を主張する極右ファシストの高校生組織が幅を利かせていたのだ。自分は「フランスのアルジェリア」には反対であったので政治に踏み込むようになり、極右と対峙するために、共産党系ではなく、極左の運動に参加するようになった。加盟したのは、その後「労働者の闘争 Lutte ouvrière」と呼ばれるようになる、トロツキストの組織で、その当時はおそらく「労働者の声 Voix ouvrières」と呼ばれていた組織の高校生部門だったのではないかと思われる。
現在の若い人びとのために、左翼リテラシー(?)を少し補っておこう。トロツキズムは、レーニンによるロシア革命の後スターリンに粛清されたレオン・トロツキーの流れをくむ国際共産主義運動のこと。共産主義社会の実現のためには、一国革命ではダメで、世界同時革命が必要であること、そのためには国際共産主義運動の発展が必要だというのが中心的なドグマだろう。共産主義の運動にはよくあることだが、いろいろな党派に分かれているので、それぞれの特徴は、よっぽどの共産趣味者でなければよく分からない。ここでのベルナールの話も、十分に納得してこのトロツキスト運動に加盟したということではなさそうである。極右と対峙するという当面の課題への対応としてきっと手近だったということなのではないかと思う。
このときから、自分は急速に政治化したとベルナールは語っている。クロード・ベルナール高校でトロツキズムの運動に参加した67年、高校生組織の連合体である「高校生行動委員会 Comités d’action lycéens 略称CAL」をつくった高校生のひとりが、コンドルセ高校という学校から退学処分になる出来事が年末に起こった。この高校生は、ロマン・グーピル(Romain Goupil、1951年-)という人物(その後、映画監督・制作者になる)なのだが、このあたりからは、68年の五月革命につながっていくので、少し背景を説明しておこう[★11]。
フランスでCALが生まれるのはベルナールが証言しているように1967年末だ[★12]。翌年の五月革命で重要な役割を果たすことになる高校生運動だが、もともとはヴェトナム戦争に反対するために、以前アルジェリア戦争反対の活動をしていた若者たちが1966年秋に立ち上げた「ヴェトナム高校生委員会」という組織だった。中心になったのは、パリの有名高校「ジャック・ドゥクール高校」の生徒モーリス・ナイマン Maurice Najman(1948-99年)とミシェル・ルカナティ Michel Recanati(1950-78年)だ。かれらは「共産主義青年運動(通称 JC Jeunesse Communiste)」(フランス共産党の系譜を汲む長い歴史を持つ青年組織が1956年に改組)のなかの反対派(ということはトロツキスト系)として活動していた。
前述のグーピル君が通っていたコンドルセ高校は、1804年設立、パリ九区サンラザール駅近くに位置する歴史のある高校。数々の有名人(マラルメ、アラン、ジョーレス、サルトル、メルロー゠ポンティ、ブローデル、その他多数)が教師として教えたことがあり、生徒から数々の有名人(ベルクソン、プルースト、シトロエン、ダッソー、シャルコー、コクトー、ボリス・ヴィアン、セルジュ・ゲンズブール、その他多数)を輩出した名門校だが、1966年秋頃になると、徴兵されそうになった数学の先生を擁護する運動をきっかけとする徴兵反対運動や、髪の毛が長すぎる生徒を懲罰する学則に反対する運動が拡がって、《Non au lycée-caserne》(軍隊式学校に反対する!)が合い言葉になっていった(これは面白い、髪の毛が長すぎる生徒が増えたのはビートルズのせいだ。軍隊式学校とは、1975年出版のフーコーの『監視と処罰』でいえば「ディシプリン」の権力装置だ)。
1967年6月にはこちらも名門校のアンリ四世高校の生徒が、ハンフリー米副大統領の訪問に際してアメリカン・チャーチの星条旗を引き抜いて焼く事件が起こり、学校はいったん停学処分を決めたのだが、生徒たちの運動の盛り上がりを見て恐れをなし処分を諦めた。
1967年秋の新学年になると、「軍隊式学校反対!」と「表現の自由」がトロツキスト系の高校生運動のスローガンになっていく。10月21日にはヴェトナム戦争反対で3万7000人を集めた集会が開かれ多数の高校生が参加[★13]。その同じ10月の16日には米カリフォルニアで反戦歌手のジョーン・バエズがアクティヴィストである母親とともに、良心的兵役拒否運動を援助したかどで逮捕され、彼女たちの釈放を求める集会を高校で開こうとするJCとそれを認めようとしない学校当局とが対立するようになり、高校生の政治活動の問題が世論の注目を集めるアジェンダとなってゆく。
このように、高校生たちの世界も、あの「ああ、あの美しきパリの五月 Ah, le joli mois de mai à Paris」[★14]へと急速に歩みを進めていったのだったが、この続きは、次回、詳しく書くことにしよう。
ところで、この連載はクロス・バイオグラフィーとして書くと宣言しているので、少しは自分のことも書かねばならない。ぼくとベルナールには1歳半の年齢差がある。だから、今回書いた時代、ぼくは中学1年生から2年生ということになる。まだほんとうにガキであんまり芳しい出来事はない。前回書いたように兵庫の武庫之荘に住んでいたのだが、小学校の1年生から神戸の一番東の本山地区の公立小学校と中学校に越境入学で通っていた。阪急電車でたぶん小一時間かかったと思う。それはとってもヘンなことだと思うのだが、なぜかその町の子供たちはほぼ全員が神戸に越境入学して集団登校していた。町には小学校がたぶんまだなかったのかと思うのだが、うちの家族はなにしろ新興住宅地に引っ越してきたばかりだったので、親はご近所の会社の先輩に「お子達は神戸に通わんといかん」(「オコタチ」というなにわ言葉をぼくが聞いたのはこのときが初めて)と言われ当然のようにそう決めていたのだ[★15]。
小学校では1年生2年生の頃は成績は芳しくなくビリに近かった。2年生の国語で通知表が「2」(当時は五段階の相対評価で、クラスで何人も取れない「2」はとってもレアで貴重なスコア)で親を驚かせていた。が、三年生ぐらいからは(いまこんな仕事しているわけだから)成績は問題なく上がり、塾とか予備校には結局一生ご縁なく終わったが、中学生になる頃には模試成績とかでは何万人中10位以内に必ず名前が印刷されていた。学級委員長とかもしていて、襟章に委員長のバッジとか輝いていたよ。でも、そういうのは東大に来るようなやつでは普通のことなので、とくに変わったことではない。
中学の1年、2年の頃(1966年-67年)は、理科少年で、理科のクラブに入っていたね。勉強のできる何人かの仲間で、化学薬品でいろいろ怪しげな結晶をつくったり、ガスを発生させたりしていた。競って勉強していたからあっという間に高校の理科や数学をみんなで独習して、大学の教科書とかぐらいまで読んだふりしていた。ときどき、三宮に出かけていって、日東館といったかな、とか、元町の丸善でそうした本を買うようになった。『ファインマン物理学』の第一巻の邦訳が出たのが、その頃ではなかったかな。梅田の旭屋で買ったと思う。湯川秀樹とか朝永振一郎が目標だった。だから、前回述べたように、数学の先生のまちがいを指摘したり、戦争未亡人の理科の先生の授業の代わりをしたりしていたわけなのだ。あんなに理科ができたのに、いままったくできなくなってしまったのはなぜなのだろう? 不思議だ。
ベルナールのようにお酒を飲んだりということは皆目なかったし(親は両方とも下戸で家にはアルコールっ気なし)、文学もからきしダメだったね。ちょっと精神年齢的に幼かったのだろうと思う。国語は嫌いだった(「2」のイヤな思い出もあったし)。あの教科としての曖昧な感じがじつにいやで、国語はバカがやるものではないかと疑っていた。いまとなっては、まことに問題のあるジェンダーバイアスなのだが、あれは女の子のためのものと当時思っていた(ごめんなさい)。
社会にはちょっとは興味を持っていて、高校の『倫理・社会』(といったかな)の参考書(著者は東京教育大学教授・美濃部亮吉だった)を買って読んだり、ルソーの『社会契約論』を読んだりしていた。「人間は生まれながらにして自由である、しかし、いたるところで鎖に繫がれている」というあの文章は岩波文庫・桑原武夫訳で読んだね。で、中2のクラスで学級新聞を出す機会があったので、「自衛隊は憲法違反である」という社説を掲げた。そうしたら、その学級新聞は、すぐに回収されてしまった。『共産党宣言』を読んだのは中3だ。2年生でブルジョワ革命を修めたので3年生では共産主義革命に進もうと思ったのだった。
次回は2023年8月配信の『ゲンロンβ83』に掲載予定です。
★1 本稿は、以下のラジオ番組内での発言(URL= https://www.radiofrance.fr/franceculture/podcasts/a-voix-nue/du-plomb-dans-l-ame-8116047)および、Bernard Stiegler Dans la disruption : comment ne pas devenir fou? Edition. Les Liens qui Libèrent, Paris 2016中の自伝的事実の記述を参考にして書いている。
★2 François Morey Le Jazz dans les collections de la Discothèque des HallesFontes Artis Musicae, Vol. 36, No. 3 (Juli-September 1989), pp. 197-201
★3 「大学校準備クラス」とは、大学(université)への入学資格であるバカロレアを得たのち、大学校への入学を準備する2年間の高等教育の課程で、施設としてはリセ(高校)のなかに設けられている。他のコースもあるが、超エリート校である高等師範学校(Ecole normale supérieure)への準備を行うコースをここでは指している。因みに、大学校の複数形 Grandes Ecolesを日本語で「グランゼコール」と表記することがまま見られるが、根拠のないまちがいで、発音通りに表記すれば「グランドゼコール」が正しい。
★4 ジャン・マルスナック Jean Marcenac は、哲学教授で、作家、詩人、共産党員。1940年に1度投獄されるが脱獄、マキ(対独地下運動組織)でレジスタンスを戦う。フランス共産党機関紙ユマニテの編集者。シュールレアリスムから出発。複数の詩集の他、パブロ・ネルーダに関する著作複数。ルイ・アラゴン、エルザ・トリオレの親しい友人でもあった。https://fr.wikipedia.org/wiki/Jean_Marcenac
★5 「詩人は全ての感覚の長く、巨大な、理にかなった錯乱によって見者となるのです。」(アルチュール・ランボー、ポール・ドゥーメニーへの手紙 通称「見者の手紙」1871年5月15日 Arthur Rimbaud Correspondance : Lettre du Voyant, à Paul Demeny, 15 mai 1871)
★6 ここでは詳しくは書けないのでウィキペディアの「第一次インドシナ戦争」の関連項目などを読んでほしい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%8A%E6%88%A6%E4%BA%89
★7 かれはスイユ社の「永遠の作家叢書」を創始したり、サルトル・カミュ論争のきっかけをつくったりで有名な哲学者・編集者。アルジェリア戦争では、FLNを支援し、ジャンソン機関を創設してフランス人兵士の脱走を助けた。これは当時のフランスでは非合法な活動だったので国外に逃亡、帰国ののち1966年に恩赦される。ゴダールの『中国女』に本人として出演している。
★8 フランツ・ファノンは西インド諸島仏領マルチニク出身の精神分析家・思想家。いまではポストコロニアリズムの先駆的な思想家と評価されている。FLNに参加、スポークスマンを務める。『地に呪われたる者』を1961年に出版し独立直前に白血病で早世した。
★9 この忌まわしい事件については、次のウィキペディア項目を参照。https://en.wikipedia.org/wiki/Paris_massacre_of_1961 この事件当時のパリの警視総監はモーリス・パポン Maurice Papon(1910-2007年)。ヴィシー対独協力政権下のボルドーでジロンド県庁事務総長としてユダヤ人1600人以上(うち子供約200人)をナチスに引き渡しその多くがアウシュヴィッツに送られてガス室で死亡した。しかしこの過去は永らく秘匿され1978年から1981年まで予算担当大臣を務めた。大臣在任中の1981年になって過去が暴かれ、1983年に人道に対する罪で起訴。ユダヤ人連行については有罪となったが殺人については無罪。最終審の審理結審前に死亡した。
★10 ジャン゠ピエール・ヴェルナン Jean-Pierre Vernant(1914-2007年)はフランスの歴史学者、人類学者、神話学者。専門は古代ギリシアおよびギリシア神話。神話学的研究から始まり、政治哲学的な考察まで幅広く展開した。邦訳に『ギリシア人の神話と思想』国文社 2012年など。
★11 ロマン・グーピル、および次のパラグラフで言及している、ミシェル・レカナティとジャック・ドゥクールについては次回に触れる予定なので、敷衍的な説明のための註は次回連載で書く予定である。
★12 以下の記述は、次のウィキペディア項目を参考にして書いている。https://fr.wikipedia.org/wiki/Comit%C3%A9_d'action_lyc%C3%A9en#:~:text=C'est%20l'outil%20%C2%AB,du%20r%C3%A9pertoire%20d'action%20lyc%C3%A9en.
★13 1967年10月21日にアメリカのワシントンD.C.で行われたヴェトナム戦争に反対する大規模なデモ「ペンタゴン大行進 March on the Pentagon」に呼応した動きだと思われる。アメリカではリンカーン記念館前に10万人以上が集まった。日本では前年の1966年10月21日に日本労働組合総評議会(総評)が「ベトナム反戦統一スト」を実施して世界の反戦団体に呼びかけて以来、10月21日は「国際反戦デー」と呼ばれた。
★14 この謎の言葉は、こういう歌があったという意味なのだが、興味があれば YouTube とかで探してみることを勧めます。ノスタルジーは私の得意とするところではないので、URLリンクは記しません。
★15 こうした子供たちの就学と通学の状況には、しかし、後から考えると複雑な地域社会的な理由があったと思うのだが、子供の時分にはそのようなことは知る由もなかった。
石田英敬