ネオテニーの青春 飛び魚と毒薬(9)|石田英敬
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ベルナールの話がだいぶ先に進んだので、今回はぼくの物語を語ろう。
1968年5月は、神戸の東灘区の中学3年生だった。14歳の少年が、世界の出来事なんかろくに知らないと思ったら間違いだ。
人間はネオテニー的存在、早く生まれすぎる動物だ。ウーパールーパーみたいな生き物で頭でっかちで少年少女期を過ごす。生活能力はなくても、いろんなことを知っているのさ。中学生くらいの年齢になれば、世界で起こっていることについてはたいていの知識はもっている。大人たちが勝手に、子供は無知なはずと高を括っているだけなのだ。
ベルナールをめぐってこの間語ってきた、パリの学生たちの街頭デモの様子も、サルトルがソルボンヌの大講堂にやってきたことも、6月にドゴール派の巻き返しで左翼が総選挙で大敗北したことも、ぼくは、NHKテレビニュースで見て知っていた。ベルナールも随所で語っていたように、テレビが世界をシンクロさせていたのだ。
そしてベトナム戦争はなんと言っても大きなテーマで、この戦争が人びとの心にのしかかっていた。大人たちはみんな自分たち自身の戦争の記憶を持っていた。アメリカによって国が占領され、やっと独立を果たし、朝鮮戦争特需で経済復興の足がかりを得、高度成長期に突入、でも、沖縄はまだ占領されたままだった。そして、基地からB52が北爆(北ベトナムへの絨毯爆撃)に日々飛び立っていた。
いまの時代とは大変に異なった状況なのだ。
田英夫「ハノイ──田英夫の証言」(TBS系、1967年)も見ていたし、小田実や鶴見俊輔のベトナム脱走兵支援活動も新聞で知っていたし、若い頃の吉岡忍さんが岡本太郎の字で和田誠デザインでつくったベ平連「殺すな!」バッジもちゃんと注文購入して持っていた(第2回に書いた「憲法九条」社説でクラス新聞回収騒ぎを起こした頃だったので、めんどくさいことになるだろうと思い、学校につけていったりしなかったけれど)。
これらは、しかし、ぼくがとくに政治少年だったとかいうことではない。たんに大人よりもいろんなことを知っていたいと思っていただけのことだ。中学校では理科や数学で先生たちより(不遜な言い方だけど)よくできたから、社会や政治についても大人よりもよく知っているべきだという感覚があった。
中学3年生の夏休みの自由研究では(第4回でちらと書いたけれど)、「社会主義と自由」について考えるべく、「プラハの春」をテーマにして、毎日、新聞記事その他の資料を収集していた。その3ヶ月前に、藪睨みのサルトルがソルボンヌの大講堂で問うていた問題を、ウーパールーパーのぼくも、夏の武庫之荘の縁側で新聞切り抜きのスクラップブックを作りながら考えようとしていたのだ。テーマは当時盛んに議論されていた「人間の顔をした社会主義は可能か?」だった(ぼくの研究はそんな気の利いたタイトルではなかったとは思うが)。ドプチェクとか「二千語宣言」[★1]とか、一連の基本的な知識は新聞や年鑑から収集済みだった。
ハンガリー動乱については調べて知っていたし、そういうことが起こる可能性がある、と新聞にも書かれていた。
その夏休み研究のそろそろまとめに入ろうとしていた8月21日の朝、いつものようにけたたましく鳴くクマゼミの声をバックコーラスに寝ていたところ、母親が突然やってきて、あなたの研究テーマは大変なことになっている、と起こされた。そして、寝ぼけ眼のぼくも、テレビのブラウン管画面を通して、『存在の耐えられない軽さ』のテレーズと同じ、ワルシャワ条約機構軍の戦車が侵攻してきたプラハの光景のなかに引き込まれることになった。
人びとは「ドブチェク(第一書記)! スヴォボダ(大統領)!」の名を叫んで抵抗していた。そのときテレビに映し出されていた映像は、プラハのヴァーツラフ広場で、その後だいぶたって、2005年にプラハの研究所で講演をしたとき、案内されて、最後まで抵抗したラジオ局の建物や焼身自殺した青年ヤン・パラフの記念碑を見せられたときには思わず涙が溢れた。
高校進学
この半年後、1969年4月に高校に進学した。
親は学校は公立がいい、高校も旧神戸一中(新制の県立神戸高校)に進めばいいと考えていた。だが、それは甘い考えで、学区制というのが立ちはだかって、越境入学者はそこにはいけないらしいと分かり、急遽、甲陽学院という私立進学校を受験して入った。灘もそうだが、東京で言えば、開成とか麻布のような戦後に進学校になった私立校だ。親父は1911年生まれだから、頭のなかがだいぶ旧く、麻布とか開成は府立一中(現、都立日比谷高校)を落ちたやつが行くところで、灘や甲陽もそういうところ、と信じていた。
急に方針転換したが、近所に甲陽学院に通っているお兄さんがいたので、そのお母さんと知り合いだった母親が教科書を借りて来てくれて勉強した。嫌みに聞こえるかもしれないが、いまこういう職業であることが示しているように、勉強はだいぶ(というか、よっぽどね、笑)できたから、とくに問題なく合格した。
高校からの進学組は40名程度だった。中学から3クラス上がってきて、高校から4クラス編成、学年200人足らずの男子校。前に、国語の先生をされていた、村上春樹氏のお父さんのことをちらと書いたけれど[★2]、能力の高い、人格的にも立派な先生たちが集まっていたと思う。
入ってみると、中高一貫校は進度が速くて、1年生の1学期で高校の教科書はすべて終わりかけていた。そういうことだったから、1学期の中間試験の順位は学年の真ん中あたり、100番くらい。そんな順位は見たことがなかったのでショックだった。それで、キャッチアップに努め、2学期には学年3位、続いて2位に上昇した。ぼくの前の机に座っていたIKB君が常に1位の人で、とってもマジメな人。その後、東大理三に行って北海道の方の国立病院長になって血液の専門家になった人。ぼくの後ろの机に座っていたITH君はこちらもマジメな人。東大理一に行ってエンジニアになり企業で勤め上げた後、もう一度医学部に入って老後はお医者さんしている人。この3人でワンツースリーを達成した。
学年100位以内に入っていれば、東大か京大の志望先には行けるという学校なので、必ずしもマジメというタイプではないぼくは、この辺でキャッチアップはよしとして、これ以後成績は30位以内ぐらいにはとどまるようにして、自分の興味の開発につとめることにした。
ジャン=ソオル・パルトル
それで、何をしたか。
乱読を始めた。
小説(のようなもの)を書き始めた。
ジャン=ソオル・パルトルみたいなペンネームでね。
知っているかもしれないけれど、ジャン=ソオル・パルトルは、ボリス・ヴィアン『日々の泡』のなかで、友人のシックが「ぼく……ジャン=ソオル・パルトルのほかは、大して読んでいないんだ」としょっちゅう言っている思想家でサルトルのパロディ。
サルトルは、だいぶ前から名前は知っていたが、高1で『実存主義とは何か』、『嘔吐』を読み、『存在と無』第1巻の「即自/対自」みたいなところまで読んで挫折し、戯曲集とか、作品集『水いらず』とか読み、というようなお決まりコース。矢内原伊作や鈴木道彦といった人が書いた解説書とかも読んだし、大江健三郎がつねに『自由への道』を語っていたし、当時の現代思想定番教科書みたいな存在だった。ぼくだけが特異なサルトル・マニアだったわけではない。だれでもビートルズを聞いていたように、みんなサルトルを読んでいる(すくなくともふりはしていた)時代だったのだ。
高校1年だった1969年は、1月18日-19日に東大安田講堂攻防戦が行われて東大の入試がなかった年だ。学園紛争・学生運動は社会のど真ん中の問題だった。そんな状況のなかにいた高校生や受験生がこの問題に無関心でいるわけがない。
「大学解体」とか叫ばれていたんだし、「知性の叛逆」とか言われていたんだし、「自己否定」がポジティヴ――つまり、自己肯定的?―― に語られていたのだし、きみはいったいどう生きたらいいのだろうか?
「受験」を準備することが、主たるoccupation( 「仕事」と訳すべきか?)の高校生であるきみは、近い将来自分を待ち受けているこの実存問題とどう向き合ったらいいだろうか?
そういうテーマは、その年の芥川賞ベストセラーのおぼっちゃん風実存風小説、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』にも嫌みっぽく階級文化的に書かれていて(三島由紀夫の芥川賞選評「若さはひとつの困惑なのだ」が帯に打たれていた)、文学にはあまり縁のないクラスメートもその小説だけは読んでいた。
前(第5回)に紹介したように、サルトルはソルボンヌの大講堂で「学生反乱のひとつの意義は、君たちがあの社会に入っていくまいとしていることだ」と語っていた。その文章を当時読んでいたかは記憶が定かではないけれど、世界は同じ実存的な問い──サルトルの言う「状況」──を共有していたのだ。
それで、自分自身、問題はそこまできれいに整理されていたわけではまったくなかったのだけれど、いろんな本を乱読するようになった。
じっさい、サルトルは高校生がフランス系の哲学を勉強するためにはとってもよい先生だ。意識の哲学だから、本を読んでコギトすることからだれでもが哲学に入門できる。親が教育テレビ『たのしいフランス語』とか1960年代から見ていて(渡邊守章や丸山圭三郎といった人びとを最初に知ったのはこの番組)、自然と自分も見るようになったからフランス語も少し分かった。
サルトルから始めて、デカルトとかカントとかヘーゲルにすぐに遡れる。そして、20世紀の現象学の話になり、その頃出たばかりの木田元『現象学』などを手がかりに、フッサールやメルポン(=メルロー゠ポンティ)になり……という具合に、いろんな系譜を勉強できる入り口になった。
サルトルは、文学とか演劇の実作にも繋がっている点でもよい先生だ。カミュとかジュネとか、ニザンとか、ブランショとか、ボードレールとかにつながり、で、ジャン=ソオル・パルトル似の変なペンネームで、小説みたいなものとか、散文とか、詩もどきみたいなもの、とか、学校を休んで書いてみたりしていた[★3]。
大島渚や吉田喜重や寺山修司などの作品で知られた日本アートシアターギルドの映画をよく見に行ったり、絵画展に行ったり、安部公房やベケットの芝居を見に行ったり、クラシックやロックのコンサートに行ったり、ジャズ喫茶に行ったり、高校生になれば、活動の領域は一挙に拡がる。
現在の高校生でも、媒体や場所は異なるにせよ、だいたい同じようなことなのではないだろうか。
1970年
サルトルのよいところはまだあって、個人の反省意識を歴史の弁証法に媒介してくれるところが、真骨頂なのだが……。そこは、だいぶサルトルの罪深いところでもあって、それが昂じて「マルクス主義は現代の乗り越え不可能な哲学」みたいな話になると、マルクス主義の神話に絡め取られることになる。
この文章を読んでくれている皆さんは、だから、きみはその次には歴史への参加に進んだだろう、アンガージュマンしただろうと期待するかもしれないが、そういうことはなかった。そういう問題に直面するようのは、むしろ、大学に進んでからだ。
ぼくたちの高校は、基本的にブルジョワ子弟たちのためのリベラルな学園だったのだ。紛争を引き起こすトリガーとなるような出来事──たいてい処分問題とか、不正発覚や不当な言動とか──はなかった。
サルトルのアンガージュマンの理論は、思想的あるいは倫理的に決意して歴史に身を投ずるというような、決断型の行動だと思われているのではないだろうか。しかし、じっさいの社会的行動は(こちらはシモンドンの概念による整理だけれど)「準安定状態」というものがあってポテンシャルエネルギーが蓄積され、トリガーとなる出来事をきっかけに起こるものだ。「心理的-集団的個体化」が起こるためには、出来事がある閾値を超えないといけない。ぼくたちの学校はそういう状況にはまったくなかった。
たしかに、1969年11月には佐藤栄作首相訪米阻止のハンストとかが3年生の上級生たちによって行われたけれど、毛布にくるまって二日ぐらいテント暮らしをしていたのをみんなが遠巻きにして好奇の目で見ていたぐらいだ。同じ頃に、制服廃止の運動も政治活動の自由をめぐる全校集会みたいなのもあったけれど、校長はだいぶ余裕のある人で無難に対応していた。少数の(いやな言い方だけど)エリート生たちの小さな島宇宙だったのだ[★4]。
しかし、日本社会の方はそうではなかった。
1970年3月にはよど号ハイジャック事件が起こった。実行犯のなかには神戸の市立須磨高校の1年生がいた。
1970年6月23日は日米安保条約自動延長が行われた(学校ではホームルームの討論の時間が予定されていたが、だれかの発案でサッカー──安保元年のフットボール?──に代えられた)。
1970年11月25日には三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自決。この事件は、昼休み時間だったこともあり、放送部がリアルタイムで放送した。
そういう年だったのだ。
思春期の頃
高校時代はじつにいろんなことに手を出していたと思う。だいぶ暇だったのだろうか。たぶんそうだが、その暇はとても大切なものだ。自分がない分、間口が広い。どんなことにも興味が開かれている。
1年生の頃は、地理歴史部という地味なクラブに誘われて入部(顧問は考古学者の高井悌三郎先生だった[★5])。伊丹の方で土師器という古墳時代の土器の発掘調査とかも手伝っていた。
このクラブでは、ボール紙を切って重ねて高度を示す縮尺何倍かの巨大な日本立体地図をつくるという先輩世代から受け継がれた終わらないバベル的──あるいはボルヘス的に言えば──「学問の厳密さ」プロジェクトをやらされたりもしていた[★6]。
あるいは文化祭では、アンリ・ルフェーヴルの『パリ・コミューン』を種本に、「パリ・コミューン研究」という発表をやったりもした。自分自身としては、これは中学でやった「プラハの春:人間の顔をした社会主義」の続編のような位置づけ。パリ68年5月の1世紀前のプロトタイプ研究でもあった。プルードンとかブランキとか、マルクス『フランスの内乱』とかレーニンのソヴィエト論とかと関係した面白い研究だったと思うのだが、展示室一面に字ばかりが書いてあるだけでだれも読まないつまらない企画と酷評だった。歴史の宮川秀一先生(この先生はその後、大学教授になった)だけが評価してくれた。
「街は開かれた書物である。書くべき余白が無限にある」は寺山修司の映画『書を捨てよ、町へ出よう』(1971)だが、友人に誘われて、デモにも、2、3度、参加したことはある。ベ平連の御堂筋デモとか、大学で行き詰まった関西学院全共闘OBの芦屋デモとか。私服刑事がデモに入ってきて、「きみはどこの学校なの?」、「その読んでる本は何なの?」とか、うるさかったな。そのとき読んでいた本は、ボーヴォワールの岩波文庫『人はすべて死す』で、「あなたもそのうち死にますね」と言ったらいなくなった。
受験校だから、責任者とかは2年生以下に役が振られて、体育祭の実行委員長とかもやりましたね。日の丸掲揚、君が代斉唱とかを廃止して、体育の先生がなぜやらないのかと言ってきたけれど、そういうのはやりませんとだけ答えたら引き下がった。そのとき実行委員を頼んできた1年先輩の生徒会長は、のちに東大法を出て衆議院議員を6期つとめ、その後九州の大都市の市長を4期つとめたKさんだ。マジメな人で、化学の先生に、「先生、時間とは何なのでしょうか?」と哲学的問いを発していた姿が忘れられない。
そのKさんの後を受けて、左後ろの席に座っていた友人のWが生徒会長に立候補した。将来は自民党に入るんだと言っていたやつで「きみは左翼的思想の持ち主だから自分が委員長、きみが書記長でどうか」と言うので生徒会の書記を引き受けた。右の席のY君は、先生に叱られると気絶したふりをする特技で知られたやつで、第一書記でどうかなと誘って、3人で執行部を組んで当選した。
面白い活動だったね、電車駅隣の女子校とのちょっとしたフリクションとか、いろいろないまでいう危機管理案件もこなした。Wは京大法を出てメガバンクの役員、そのグループの大手クレジットカード会社の会長となったが数年前に急死。一度ブルーフィルム(どういう意味かは検索してほしい)を 「視察」に行こうということになり(当時は検閲が厳しかった)、梅田の映画館で待ち合わせたのだけれどネクタイを締めてきた。大らかな面白いヤツで、次に会ったときには昔みたいに笑い合おうと思っていたのに残念。Yは軽音楽に詳しい慶応ボーイで輸入車の老舗大手ディーラーの役員になった。いまはゴルフの誘いメールとか来るけど、ごめん、ゴルフできないからムリ。
と、まあ、経済紙の交遊録みたいになってしまうのもなんだかな、という感じなのだが、要するに、思春期の頃はだれでもつきあいの間口が広い。すぐに一緒に何かをできる自由さがなつかしい。
文芸部にも誘われて加入していたから、同人誌みたいなのも出していて、部活費を執筆料と称して引き出して、お好み焼き屋で合評会とかしていた。学校は甲子園球場の隣だったから、江夏とかにもよく出くわした。
男子校だったけれど、同じ阪急の宝塚線の北の方のOKD山のKB女学院にお友だちがいた。交換日記とかしていた。冬になると向こうの始業時間が変わったので、ぼくの遅刻は増えた。
東大進学
大学受験の準備は、2年生の後半ぐらいからだったのではないか。クラス替えがあったりとかそういうことはなかったように思う。教科はその頃にはすべて終わっていたので、科目選択みたいになっていたのではなかろうか。よく思い出せない。
進路には迷わなかった。高校1年ぐらいまでは中学時代の理系少年の延長上で、理科系の物理とか数学に進学しようか、だとするとノーベル賞とか取れそうな京大かな、と思っていた。が、乱読の時代に突入し、哲学とか文学に深入りするようになり、これは東大だな、仏文かな、ということで、東大の文科三類を受験することにした。ぼくの場合には、高校の段階で「文転」したことになる。論述文にも数学にも強かったから受験についてはとくに心配はしなかった。
農家が夏休みに学生滞在のために賄い付きで部屋を貸す「学生村」というのが当時あって、3年生の夏休みに、信州の青木湖に近い白馬村周辺の農家に間借りして1ヶ月過ごすことにしたのが、唯一の受験対策だった。
一方で禍々しい社会状況は続いていて、東大入試二次試験(当時はそれぞれの国立大学が一次試験と二次試験を実施していた)の頃には、連合赤軍の「あさま山荘事件」が勃発。受験勉強どころでなく、テレビの実況報道を連日見続けていた。二次試験が終わった3月になって「山岳ベース事件」の凄惨なリンチ殺害事件が明らかになっていく。
そんななかで、72年4月に東大教養学部文科三類47年7D組(Dは語学選択の分類で仏語初修クラスという意味)に入学した。69年の紛争以来、入学式というようなものはなかった。そして、教養学部は学費値上げ反対の無期限ストライキ中で、授業もなかった。いまから考えるとだいぶ異常な状況に見えるが、当時は、それほど異常とも感じなかった。
ストライキ中といっても、学生たちが組織するオリエンテーションはあって、1年上の同じクラスの委員数名が担当していた。クラス担任は佐伯彰一先生(米文学者・文芸評論家 1922-2016)で、クラスに挨拶に来られたが、その頃、川端康成が自死し、日本文学を手がける文芸評論家でもある先生はご多忙の様子だった。
その頃の大学の雰囲気は、「ポスト紛争状況」というのが、たぶん正しい呼び方なのではないかと思う。もう大学紛争真っ盛りということではないのだが、残り火がくすぶり続けている。
いやな時代だったのだと思う。状況が腐っていた。
学生運動は自分たちの敗北を知っていた。
安田講堂が廃墟のまま打ち棄てられていたように、大学も権威の失墜を受け入れて諦念していた。
無期限ストライキ中のクラス討論も、とくに反対運動に燃え上がっていたというよりは、自動的に戦いが続いていたというに近かった。闘争は形骸化し、アジテーションも何か芸事のように──カラオケみたいに(というべきだろうが、当時まだカラオケはなかった)──なっていた。
みな学生運動については高校時代に(アクターにせよ観客にせよ)経験していたから、すべてがデジャビュのなかで、惰性的に継続していたのだ。
そういうなかで、ふたりの友人──ここではS、Tとしておこう──とともにクラスの委員になった。そして、他の数人とともに、学費値上げ反対の闘争委員会なるものを作った。
どんな順番でそういうことになったのかは想い出せないが、4月の末あたりに、山中湖湖畔にある東大の山中寮でクラス合宿のようなことがあり、その後も、駒場の同窓会館とかを会場に、やたら頻繁に飲み会があったと思う。
惰性的な闘争の継続があり、酔っ払いの会があり、ストライキで授業はしばらく行われず、結局、民青(日本民主青年同盟)の自治会がストライキ解除に賛成してストが終わり、たぶん5月に授業が始まって、やっと学業の場面でクラスの仲間と一緒に勉強し始める、という奇妙な順序で大学生活は始まったのだった。常態の大学とは何かを、いまならだれもがイメージとしてもっている。しかし、当時は逆だったように思う。異常が常態の世界だった。
ぼくは、駒場の裏の富ヶ谷に下宿一間を借りていた。
最初に尋ねてきたのは、Sだった。彼は「社研」というサークルに入っていて、学生会館で勉強会をしていたようだった。そこに知り合いのMがやってきて話し込んでいたところ、Mとは別のセクトの学生たちがビラまきにやってきて、Mを見つけるなり下駄で蹴り始め血だらけになった、と動揺していた。
状況はすでに確実に腐っていたのだ。
それを思い知るようになる、運命の出来事は、このときすでに、ぼくたちに忍びよっていたのだと思う。次回は、その出来事について書かなくてはならない。
★2 第6回★31参照。『ゲンロン16』、2024年、227頁。
★3 その後、そういうフィクション創作が続かなくなったのは、ヌーヴォーロマンとかテル・ケルのせいだ。小説はヌーヴォーロマンでなければならない。小説には筋があってはいけない。とか、考え始めると、小説は書けなくなる。ぼくの場合はそうだった。
★4 同じようなタイプの中高一貫校である麻布学園は、1970年代初めに大きな学園紛争を経験している。そのきっかけは、理事会による恣意的で専制的な学園支配だとされている。そのときに、学園紛争のアクターだった高校生は、その後、日本の大学を中退してパリに留学する。1975年に私がパリに第一回目の留学をしたときに親しく交流した同年齢の友人だ。
★5 この先生はwikipediaにも項目がある。URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BA%95%E6%82%8C%E4%B8%89%E9%83%8E
★6 あの立体地図はどうなったのだろうか、と2、3年前に、当時の部員仲間でいま大阪の方の公立病院の医局長をしている友人から突然問われた。ボルヘスの地図のように砂漠をさまよっているのかもしれないね、と答えたのだった。
石田英敬