68年5月3日 飛び魚と毒薬(3)|石田英敬

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初出:2023年9月5日刊行『ゲンロンβ83』

石田英敬さんの人気連載「飛び魚と毒薬」。2024年10月4日書店発売の『ゲンロン17』ではいよいよ連載第10回をむかえ、ある衝撃的な事件の顛末が語られます。このたび『ゲンロン17』の発売を記念して、「飛び魚と毒薬」のこれまでの回をすべて期間限定で無料公開します。ぜひお楽しみください!(編集部)

「飛び魚と毒薬」連載ページはこちら
URL= https://webgenron.com/series/ishida_01

 1968年5月3日、その日は(パリではよくあることだが)5月とはいえ肌寒く(パリ気象台の記録によると最高気温は17.2度、最低気温9.7度)うす曇りで時おり小雨がパラつく金曜日だった。時刻は午後5時を回った頃だったろう。君はさきほどからカルチエ・ラタン、サン・ミシェル河岸に面したジベール・ジュンヌ書店の店先で★1、舗道にせり出して並べられた陳列台のうえに所狭しと並べられたディスカウント本の山の中から「モリエール」を探し出してページをめくっている。その本はおそらく、 Seuil 社から出ている L’Intégrale という叢書のなかの Molière の巻であるはず。1962年初版だから古本とはいえモリエールの肖像の表紙のカバーもしっかりついていて、全戯曲が二段組みでぎっしり印刷された680頁の分厚い八つ折り判だ★2。カバーをはずすと赤色の平織り地の装丁になっていて大ぶりな割には比較的軽い。コメディー・フランセーズの総支配人もつとめORTF(フランス放送協会)の文学顧問、高等演劇院の教授でもあった演劇人で元レジスタンス闘士のピエール゠エメ・トゥーシャール Pierre-Aimé Touchard(1903-1987) の序文も付いている。その序文にも君は目をとおしていただろう。16歳になったばかりの君がなぜその本を買おうとしていたかというと、1965年に放送された放送劇作家の巨匠マルセル・ブリュヴァル Marcel Bluwal (1925-2021)★3が監督したテレビ映画の歴史的傑作「ドン・ジュアン 石像の宴」を観てモリエールの演劇に並々ならぬ関心を寄せ、自分も絵画か演劇を志そうとしていたからだ。

 でも、その本の中の「ドン・ジュアン」の頁を開きセリフを読みシーンを思い浮かべている時間はなかった。なぜなら、君の背後で、とつぜん大きな音を立てて催涙ガス弾が炸裂したからだ。思わず振り向くと、いつの間にかサン・ミシェル通りの方は騒然としてソルボンヌ広場の方面から駆け降りる学生群集の叫びと警官隊のサイレン音が拡がってきていたのだった。

 

 時刻は午後5時半を過ぎた頃だったはずだ。サン・ミシェル通りをソルボンヌ広場の方へ数百メートル上がった右側にあるジベール・ジョゼフ書店の前で撮られた写真を見て欲しい★4。もうだいぶ学生たちのスクラムと警官隊の衝突は佳境に入りつつある。なぜ、そんなことになったのか? 今なら人びとが撮ったスマホの映像などをつなぎ合わせて具体的な情景を3Dでかなり再現できる場面なのだが、ここはナレーターである私が介入して、記録を元に少し詳しくこの日の出来事の流れを復元してみよう。

 この日、午後5時頃ベルナールがモリエールの古本を買おうとしていたジベール・ジュンヌ書店からサン・ミシェル通りを600メートルほどリュクサンブール公園の方へのぼった左側にあるパリ大学ソルボンヌ校舎の中庭では、フランス全学連(UNEF)★5の学生たちとナンテール校舎からやってきた「3月22日運動」の学生たちの集会が開かれていた。なぜそのような事になったのか。そこにいたる背景を語り始めると長い長い話になり、結局は68年の「五月革命」全体を優に本1冊分語らねばならなくなる。それはここではできないから、その日から数週間の間に起こった出来事を幾つか語り、背景的事実についてはごく手短に説明していくことにしよう。いまベルナールを取り残してきたジベール・ジュンヌ書店の店先から、つぎに彼に登場してもらうためにはまだ数日を待たねばならない。

 

 「ソルボンヌ」とか「ナンテール」とか、フランスやパリに詳しくないひとのために前提的に説明しておくと、パリ大学は巨大な大学で、市内から郊外にかけてたくさんの校舎があり、それぞれが強い自治性を持っている。ソルボンヌ校はパリのセーヌ左岸カルチエ・ラタン地区の中心に13世紀からあるパリ大学の中心校舎(現在はソルボンヌ大学、パリ第一パンテオン・ソルボンヌ大学、ソルボンヌ・ヌーヴェル大学という3つの大学がこの校舎を本部としている)。ナレーターをいま務めている私(石田)もそこはよく知っている。いま語っている出来事が起こっている1968年から7年後、1975年からそこで勉強した懐かしい場所だ。歴史的な美しい由緒ある建物。チャペルが見下ろすさほど広くはない石畳の中庭にはヴィクトル・ユーゴーとルイ・パストゥールの石像が座し回廊が取り囲んでいる。エントランスから扉を押して入ると両サイドに階段があり二階は図書室になっている★6。学生たちがところ狭しと机に向かい勉強している。(うーん、懐かしい、当時肘を触れあって一緒に勉強していたガールフレンドのMとか思い出すな。彼女はここ5区の生まれでいまでもこの地区に住んでいる。パリに来ると必ず彼女には会っている。あれからもうやがて50年も経つのだなあ、すごい人生の友だな、とか、つい余計なことを書いてみたくなる笑)。

 ナンテール校は、ソルボンヌとは打って変わって、パリの西の郊外都市ナンテールに1960年代になって建設された総合キャンパス★7。このパリ西の地域は、この時代に再開発と高層ビルの建設が始まったのだが、その前は巨大なスラムが拡がっていた。戦後の復興期にアルジェリアその他のマグレブ地域からやってきた何万人もの人びとが極めて劣悪なバラック住居で暮らしていた★8。そのスラムを撤去し近代的なビジネス街や大学キャンパスを造っていったのがこの1960年代の都市計画だったのだ。

 ソルボンヌ校からナンテール校まで行くには、いまはパリの中心部レアールからRERという高速鉄道に乗って30分ほど行き、ナンテール・ユニヴェルシテという駅で降りる。するとナンテール校の広大なキャンパスが拡がっている。戦後ベビーブームでソルボンヌが手狭になったために1964年に人文科学部が、66年には法学・経済学部が作られた。創設当時はパリの北のサンラザール駅から列車で通わなければいけなかった。

 そこも私はよく知っている。1982年から5年間の2度目の留学でマラルメの博士論文を執筆した大学院がそこだったからね。1960年代は新しい学部だったけれど哲学者のポール・リクール、ジャン゠フランソワ・リオタールとか、社会学者のアンリ・ルフェーブルとか、ジャン・ボードリヤールとか、有名教授が多数だった。

 

 この日ソルボンヌの中庭を占拠していた学生たちの中心にいたのは、ダニエル・コーン゠ベンディット Daniel Cohn-Bendit (1945‐)というナンテールの学生だ★9

 これ以後、五月革命の象徴的な人物となっていくかれがその日ソルボンヌにいたのは、当時、ナンテールではすでに数ヶ月前から極左の学生たちによる建物占拠が続いていたからだ。そのナンテールの学生たちの「3月22日運動」の中心人物がコーン゠ベンディットだったのだ。「赤いダニー」あるいは「赤毛のダニー」の異名を取った、これから始まる学生反乱の指導者。当時はドイツ国籍。両親ともユダヤ人。父親は弁護士でドイツ共産党系のトロツキスト。1933年にナチスを逃れて両親はパリに移住、ベンヤミンやアーレントらドイツからの亡命者と親しく交わっていた。フランスとドイツが戦争状態に入った(これを「奇妙な戦争」★10と呼ぶ)1939年、父親は敵国人として収容されたが脱走して南仏のモントーバンで妻と身を隠して暮らすようになり、南仏が完全に解放される直前に生まれたのがダニエルだ。ドイツとフランスを往き来する幼少期だったようだが父親も母親もダニエルがまだ10代の頃に病気で亡くなっている。

 フランスのリセに入学後ドイツのオーデンヴァルトシューレ(田園教育塾)で演劇をして過ごしたことが人生を決定づけたとのちに語っている★11。物怖じしないコミュニケーション能力や対話を和らげる当意即妙のユーモアといった、リーダーとしての資質はそのとき身につけたのだろう★12。学生運動の指導者とかいうとまなじりを決した剣呑な顔と物腰の青ざめた青年を想像しがちだが、そんな人物では全然ない。むしろぽっちゃりしたヨーロッパ中世の民衆画から出てきたような茶目っ気たっぷりの人物。どの党派にも所属しないアナーキスト。ドイツ政府の奨学金をえてナンテールで勉強していた(社会学を専攻したが、そのときの先生は、『情報時代』3部作★13で世界的に有名になる、のちのカリフォルニア大学バークレー校教授マニュエル・カステル Manuel Castells 〈1942-〉だった)。

 ナンテール校は、ドゴール政権が鳴り物入りで建設計画を推進した現代的なキャンパスだった。けれど、この連載の第1回でベルナールが育った郊外都市サルセルの新興団地について語ったのと同じで、新興キャンパスにありがちな設備や文化的インフラの未整備(図書館や語学ラボの未整備、など)、旧態依然の運営規則や性道徳(例えば、男子学生の宿舎に女子学生がやってくるのはよいが、女子学生の宿舎には男子学生を呼んではいけないというような規則)、非民主的な大学運営が問題視され、この1960年代のベビーブーマーの学生たちに特有な異議申し立てが吹き出していったのだ。当時はベトナム戦争が学生たちの最大の関心事だったし、そもそも彼らは子どもの頃アルジェリア戦争を経験した世代だ。キャンパスでは極左や極右の学生運動が入り乱れ、学生のストライキも起きた。詳しい事はここでは書かないが、そんななかでパリでのベトナム反戦運動で逮捕された学生の解放を求めて、大学の管理棟を活動家の学生たちが占拠し大学評議会室に立てこもった日が1968年3月22日で、そこから、ナンテールの占拠学生たちの運動は「3月22日運動」と呼ばれるようになった。以後、ナンテールでは、ストライキや大学当局による授業の停止、さまざまな政治集会、あるいは極左学生たちの動きを阻止しようとする極右学生たちとの小競り合いや暴力事件など多数の出来事が起こっていた。

 

 さて、5月3日、ソルボンヌに学生たちが集まっていたのは、ナンテールで前日にキャンパスが閉鎖され、建物占拠事件に関してコーン゠ベンディットらを査問するパリ大学当局による懲罰委員会が5月6日に予定されていたからだ。ナンテールの出来事に関してソルボンヌでそんな会議がもたれるというのは、この頃はパリ大学は一体の組織なので、本部のあるソルボンヌで開かれることになっていたからだ。歴史を知る視点から回顧的に見れば、これが、ナンテールの紛争をソルボンヌに飛び火させることになった。日本の東大紛争をふくめてこの時代の多くの学園紛争は「処分問題」に端を発していることにも注目しよう。ベビーブーマー新世代の新しい大学生たちと、旧態依然たる旧い大学の規則および道徳が、要するにミスマッチを起こしていたというわけだ。

図1 5月3日のソルボンヌの様子 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Photographie_d%27%C3%A9tudiants_%C3%A0_la_Sorbonne-_Archives_nationales_-_SCAN001698.jpg Public Domain

 この Wikimedia Commons の写真を見て欲しい。5月3日の午後、ソルボンヌの中庭、パストゥールの像の前に、200名程度の全学連、トロツキスト、そして3月22日運動の活動家たちが集まっていた。12時から集会が始まって、最初にトロツキストの代表が労働者と連帯しようみたいなよくある演説。つぎに共産党系がジョルジュ・マルシェ(のちのフランス共産党書記長)のコラムを読み上げ、つぎにコーン゠ベンディットが、「ソルボンヌを第二のナンテールに!」と扇動的なアジテーション、最後にジャック・ソヴァージョという全学連副委員長(統一社会党系系)が挨拶をしたと記録にはある。

 14時頃には、学生たちは300名ぐらいになっていた。角材のようなものを掲げているのは、つるはしの握り棒で、なぜそんな危ないものを持っているかというと、かれらは「防衛隊」で、ナンテールの出来事の報復を叫ぶ極右の学生団体オクシダン Occident の攻撃が予想されていたからだ★14。ナンテールではすでに極右の学生たちの攻撃があってけが人が出ていたし、前夜ソルボンヌの学生団体の部屋でボヤがありそれも極右の仕業ではないかといううわさもあった。みんなぴりぴり緊張していたのだ。

 この時刻、建物管理責任者のパリ大学総長ジャン・ロッシュ Jean Roche(1901-1992)は★15、「試験の自由」(教授資格審査[アグレガシオン]の試験 ──これはアカデミズムをめざす学生たちの登竜門で大変重要な試験──がその日予定されていた)が脅かされるとして、警察に警備を要請。警察の機動隊がソルボンヌ付近を目立たぬかたちで包囲し始めていた。

 

 当日の警察の記録によると、15時に、リュクサンブール公園と法学部のあるアッサス通りの方から極右オクシダンの学生たちがソルボンヌ広場の方へ向かっているという報告が入った。グループの先頭にいたのは、のちにジスカール・デスタン政権やジャック・シラク政権の大臣になるアラン・マドラン、極右政党「国民戦線」の創設メンバーになるアラン・ロベール等の面々。「コミュニストを殺せ」とか「オクシダンは勝つ」とか叫んで行進していた。ソルボンヌの中庭に陣取った極左の学生たちには、ルポ(っていうんだよ、デモや集会で、通行人に紛れて出て行って周囲の情勢を観察して報告する係)から極右の動きについて逐一報告が寄せられ、防衛隊の学生たちはヘルメットを取り出し、机や椅子を壊して急ごしらえのゲバ棒を準備し、工事中の廊下の下から石を取り出して投石の準備をし、などと、戦闘体制に入った。

 中庭で武装を始めた学生の様子を見て、パリ大学総長はパニックに陥った(今の大学管理者もたぶん同じような反応を起こすだろうと私も思う)。総長は、これはケガ人を出したナンテールの事態の再来になると危惧して、全学連の副委員長、ソルボンヌの学生組合委員長、そしてトロツキスト系JCR(革命共産主義青年同盟)の代表と15時10分に会談。ソルボンヌの中庭からの退去を要請したが、(当然ながら)拒絶された。そこで、その日講義が行われていた講堂および教室を閉鎖して学生たちを退去させることにした(この措置で、これから起こる出来事を目撃することになるノンポリ学生たちが大量に生まれたことになる)。同時に、責任官庁である国民教育省の大臣室長と協議。警察導入の条件すべてを満たすとの結論をえて、警察介入の要請が当時の内務大臣クリスチャン・フーシェに上がった。総長はパリ警視総監とも電話協議。

 その間、極右オクシダンの学生たちがこの頃ソルボンヌやって来るが警官隊が阻止、解散させられる。

 15時35分、パリ5区(ソルボンヌの界隈)の警察署長が、「ソルボンヌ構内の妨害者たちを排除し秩序を回復することを要請する」旨の総長による文書を受けとる。警察力が大学構内に入ることはこの当時禁止されていたから、これは大学関係者や学生にとってたいへん重大な事態だった。総長の要請を受けたパリ警察が16時15分頃ソルボンヌ出入り口を封鎖。16時30分、ソルボンヌ校舎に隣接するソルボンヌ通りが警察により封鎖される。

 大学構内にいた学生たちはしばらく中庭で待機し、代表が警察と交渉していた模様だ。16時45分には、校舎の別の口から出た学生たちが仲間を呼びに行き、あるいはノンポリの学生たちが集まってくるなどして校舎付近では1000人規模の人びとが集合していたようだ。

 

 つぎにこの週刊誌 Le Point のサイトの動画を見て欲しい★16。警察(機動隊)がソルボンヌの中庭から学生たちを退去させる模様が撮されている。中庭にいた学生は150‐400名程度だったようだが、拘束しないことを条件に外に出ることを受け入れ17時には退去を始めた。女子学生たちはそのまま解放されたが、約束に反して、出口から出てきた男子学生たちは、総長要請文にいう「妨害者」であるかどうかを見極めるためとして、機動隊の装甲車に乗せられることになった。装甲車は三台だったが、とうぜん学生たちは抗議の声を上げ、またひともんちゃくとなり、そうこうしているうちに遠巻きにする群集は3000人規模に膨れ上がった。17時15分に2台目の装甲車が出発しようとするとき、ソルボンヌ出入り口に直結したソルボンヌ広場で最初の小競り合いが起こる。「同志を解放せよ」とか、「ソルボンヌを学生に」、「CRS(機動隊)はSS(ナチス親衛隊)だ」とかの言葉が飛び交い、警察車両がパンクさせられ、催涙ガス弾が発射され、本格的な衝突騒ぎになっていったのだ。

 広場が面するサン・ミシェル通りでは、17時30分に最初の投石が、機動隊の装甲車の窓を破って、クリスチャン・ブリュネ巡査部長の頭を割り血が流れた。警官たちも頭に血がのぼり、抗議の学生、見物人、止めに入ろうとする市民、だれかれの区別なく警棒を振るい、それを見た学生、市民、カフェでくつろいでいた観光客、その他多数の人びとも手荒な警察の弾圧に義憤を覚えて、学生も、市民も、警官も、だれもかれも、投石者となり、サン・ミシェル通りからセーヌ川の方へ、市街戦の様相を呈する出来事が拡がっていった。

 

 そして、だから、ソルボンヌ広場から600メートルの地点、サン・ミシェル通りの一番セーヌ川寄りの書店ジベール・ジュンヌで『モリエール全集』を手に取り、ドン・ジュアンの舞台に思いを巡らそうとしていたベルナール少年が振り向いたときには、そこはもう「68年5月の革命」の光景が拡がっていたのだったのだ。

 


★1 ジベール・ジュンヌ書店は、19世紀にジョゼフ・ジベール(Joseph Gibert 1852-1915年)が1888年サン・ミシェル河岸23番地に開いた書店。ジョゼフ・ジベールは最初南仏で国語の教師をしていたが愛書家の情熱抑えがたく1886年にパリに上京。ノートルダム寺院の真ん前サン・ミシェル河岸にブキニストとして古本露天店を開いて成功。2年後に学校教科書参考書を専門とする書店をサン・ミシェル河岸23番地に構えた。フランスは第三共和政のジュール・フェリーの教育改革で学校の公教育無料義務化が進められる時期にあたり、学校教科書の需要が一挙に増大したことにより大成功を収めた。店舗は拡大して、ソルボンヌよりのサン・ミシェル通り30番地に第2の店舗を構えた。初代ジョゼフは1915年に亡くなり未亡人が継いだが、彼女の死去で相続した2人の息子のうち、長男ジョゼフがサン・ミシェル30番地の店、弟がサン・ミンシェル河岸23番地を継承し、それぞれジベール・ジョゼフ、ジベール・ジュンヌと屋号を変えた。その後も書店は発展しサン・ミシェル広場ほかにも出店したが、20世紀末になり出版不況に耐えきれず、ジベール・ジュンヌは残念ながら、一昨年2021年惜しまれながら店を畳んだ。現在はパリ市が買い取った発祥の番地サン・ミシェル河岸23番地の書店を残すのみとなった(サン・ミシェル通りのジベール・ジョゼフの方は現在も健在である)。 
★2 Molière OEuvres complètes collection L’Intégrale, Seuil, 1962 
★3 マルセル・ブリュヴァルはとくに戦後フランスのテレビ文化をつくった重要なテレビ人。とくに1960年代、ボーマルシェ、マリヴォー、ドストエフスキー、ユーゴー、そしてモリエールなどの古典作品をテレビ映画化してテレビの文学ジャンルの型を造り、クロード・モーリヤック Claud Mauriac やアンドレ・バザン André Bazin などの評論家から絶讃された。1965年の「ドン・ジュアン 石像の宴」は、現在は、 vimeo で見ることができる。 URL= https://vimeo.com/426213108, https://vimeo.com/427020778 
★4 URL= https://www.ledauphine.com/france-monde/2018/05/03/mai-68-au-jour-le-jour-le-3-mai-les-premiers-paves-fusent, https://www.leparisien.fr/paris-75/mai-68-on-a-dit-tout-ce-qu-on-avait-sur-le-coeur-a-nos-parents-a-la-societe-02-05-2018-7694874.php 
★5 フランス全国学生連合(UNEF Union nationale des étudiants de France)は1907年からある全国的学生組織。その歴史は日本の全学連のように紆余曲折と分裂の歴史だが、1968年時点では、フランス統一社会党(PSU これもひと言でいうの難しいが、フランス社会党の系譜のなかでは左派・新左翼系の傾向がつよかった小政党。ミシェル・ロカール Michel Rocard という注目すべき政治家がその頃党首だった)系のジャック・ソヴァージョ Jacques Sauvageot が当時副委員長で委員長代理だった(のち委員長)。 
★6 ソルボンヌ図書館の写真はこちら(URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Salle_Saint-Jacques_(Bibliothèque_de_la_Sorbonne).jpg)で見られる。ソルボンヌ大学の中庭の様子は紹介ビデオ(URL= https://www.youtube.com/watch?v=FF5dEQah2WA)が分かりやすい。 
★7 ナンテール大学の紹介ビデオは以下(URL= https://www.parisnanterre.fr/presentation)。1960年代のナンテールの光景はこのビデオ(URL= https://www.youtube.com/watch?v=c7A5vq7M9Z0)の1分20秒あたりから数十秒を見ると分かる。 
★8 当時のナンテールの巨大スラムを取材したテレビニュースがつぎのリンクから見られる。URL= https://www.youtube.com/watch?v=3S8D-V7wyyM 
★9 日本語のウィキでも、多少不正確だが、基本的なことは書かれているから詳しくはそちらを参照していただきたい。URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/ダニエル・コーン=ベンディット 
★10 「奇妙な戦争 la Drôle de gurre 」とは、1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻の後、1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻までの状況を指す。ドイツとフランス・イギリスは戦争状態にあったにもかかわらず、膠着状態がおよそ8ヶ月間続き陸上戦闘が皆無に近い状態であったためにフランスではこう呼ぶ 
★11 オーデンヴァルトシューレ Odenwaldschule (田園教育塾)は、1910年パウル・ゲヘープとエディス・ゲヘープによって創設された新しい教育をめざした寄宿舎制の中等教育学校。生徒と教師が家族のように小グループで共同生活し、生徒も教師も交わりながら親しく手工芸や技術を自主自由に学習するメソッドからなる。1990年代、2000年代の性的スキャンダル事件ののち閉鎖された。URL= https://en.wikipedia.org/wiki/Odenwaldschule 
★12 かれはその後ヨーロッパ議会の緑の党グループのリーダーになっていく。テレビなどメディアによく登場するからいまでは誰でもがその人柄に接することができる。 
★13 The Information Age: Economy, Society and Culture vol. 1: The Rise of the Network Society, (Blackwell, 1996). The Information Age: Economy, Society and Culture vol. 2: The Power of Identity, (Blackwell, 1997). The Information Age: Economy, Society and Culture vol. 3: End of Millennium, (Blackwell, 1998). 
★14 オクシダン Occident は1964年創設の極右団体、アクション・フランセーズの流れを汲み、ナショナリズム、反ユダヤ、ネオ・ファシズムを主張、オデオン劇場でジャン・ジュネ作『屏風』の上演を妨害中止させたり、左翼系の書店を攻撃したり、ベトナム反戦運動に対抗して極左運動に暴力的に介入、多数の負傷者を出していた。1968年10月解散を命じられる。 
★15 ジャン・ロッシュは医学者・生化学者、コレージュ・ド・フランス教授をつとめたアカデミズムの泰斗。総長在位期間1961年−1969年。パリ大学総長(Recteur)は中世13世紀以来続いてきた大学の最高責任職。ドゴール将軍に請われて就任したが、68年の出来事でお気の毒なことに最後の総長となった。 
★16 URL= https://www.dailymotion.com/video/x6hr9yr

 

石田英敬

1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、『記号論講義』(ちくま学芸文庫)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。
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