「亡命時代」(1) 飛び魚と毒薬(12)|石田英敬

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webゲンロン 2025年5月12日 配信

おまえはこの瞬間をどう考えるか。

瞬間というこの門もすでに──あったことがあるにちがいないのではないか

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部「幻影と謎」)★1

 

 ぼく自身の「亡命時代」について今回は語る番だ。

 第10回で語ったような出来事があって、1975年7月からパリに「亡命」した。この言葉は自分では当時は使ってはいなかったのだが、後年、渡辺守章先生が、「イシダはその頃亡命していたんだよね」と、その時代に話が及ぶ機会ごとにおっしゃるようになって、自分でもこの語を採用した次第。使っているうちに、けっこう馴染んだ感じがするようになって、それ以後使っている。モリアキ先生★2から付けていただいた「伝記素ビオグラフェーム」の名。他者を経由してこそ、名づけは定着するのかもしれない。

幽閉生活

 1974年1月の事件直後に武庫之荘の家に戻り、特別な機会を除いては(事件の事情聴取とかだが)、秋になるまで家から一歩も外に出られなかった。端的に命の危険があった。当時内ゲバは、ますます激しさを増していたし、世の中は爆弾事件とかさまざまな物騒な事件が起こっていた。

 当然のことながら魂の状態は最悪だった。どんなに最悪だったかさえうまく思い出せない。心の暗がりが拡がっていたことをぼんやりと憶えている。トラウマとはまあそういうものだろう。そのうす暗い水底からどんな風に徐々に浮かび上がったのか。それもまたはっきりはしない。いまだとセラピーとかカウンセリングとかいろいろあるのかもしれないが、当時はそういうものはなかった。

 何人かの友人たちが懸命に励ましてくれた。それは本当にありがたいことだった。多くの時間が自責と悔恨と内省の時間として流れていった。そういう反省とは精神分析でいえば野蛮な自己分析とでもいうべきものかな。のちに読んだフロイトの論文の表現でいえば「想起、反復、徹底操作」というべきか。時間をかけて、それ以前とは異なった人格になっていったのだと(自分としては)思う。ましな人間になったかどうかは分からないが、人格変容はおそらく確かなのではないか。それまでは自分がまだ何ものでもないことにあがいていたが、それ以後は、いきなりすでにスティグマタイズされた自分を発見した。それ以前の自分と、それ以後の自分とははっきりとちがう、明確な意味のある切断 —ラカン的な la coupure signifiante — が自分の人生に引かれた。20歳できれいに一本の線が引かれたわけだ。しかし、はっきりこのように言えるようになるのはまだだいぶ後のことになるだろう。

 事後的な見方だが、それ以後の人生については、自分を作り直していったとだいぶ自信を持って言える。マラルメに「二十歳の理想 Sur l’idéal à vingt ans.」というアンケートに応じた回答があるのだが、詩人の答えは、「それなりに、自分自身に忠実だった Suffisamment, je me fus fidèle.」という短いもの★3。自分もこれ以後は概ねそのように生きてきたのだと言いたいね。

外国語の分身を育てる

 たくさんの本を読んだ。多読はそのときはじまったことではなかったが、それにつづく年月は、とにかく大量の本を読んだ。とにかくたくさんの本、おもに文学。哲学とか思想とかも。しかし、それまでとはちがう読み方だったと思う。

 例えばどんな本か。こういう場合には定番なのだが、ドストエフスキー全集をぜんぶ読んだ。この時代みんなドストエフスキーを黙々と読んでいたと思う。ドストエフスキーの人物たちのようにヒポコンデリー(病的不安)が蔓延していた世界だったのだ。ニーチェもほとんど全部読んだ。それで生きているとはどういうことかをあらためて考えようとしたと思う。それについてはあとで少し詳しく書く。

 すでに高校時代に関して述べたように(連載第9回)、実存主義はアタマでは知っていたけれど、ほんとうの意味で「実存 l’existence」に向き合ったのはこのときだった。文字通りの実存の危機のど真ん中だった。それはある種、台風の目のなかのような奇妙に静かな経験だったかもしれない。父親の本がぎっしりとつまった大きなガラスケースの書棚に囲まれた六畳(といっても昔の畳は今より大きいが)の日の当たらない薄暗い部屋のなかで過ごした一年数ヶ月。何も動いてはおらず、ほとんど何の音もない時間のエアポケットのような停止の日々だった。

 その1年半の幽閉生活をつうじて身につけたのは、フランス語だ。駒場で初修外国語としては二年弱勉強していたし、アテネフランセに通ったこともあったから、ある程度はできてきていたとは思うが、まだまだだった。 

 その頼りないフランス語を本格的に鍛え直したのは、この時期だった。外国語の言語生活に完全に閉じこもることができたことは精神治療的にもよかった。それまでとはちがう言語生活を生き始めたわけだ。
 
 若い人たちに知ってほしいのは、外国語の学習環境が当時と今とはまったく違うということだ。

 視聴覚的手段は、教育テレビ「たのしいフランス語」とNHKラジオ第二放送「フランス語講座」。録画・録音するビデオとかカセットレコーダも普及が始まったばかりで家にはなかった。独習用の語学教材には、英語学習から発達した「リンガフォン」というものがあって、当時はソニーのオープンリールレコーダで聞いていたと思う★4。教科書、文法書、辞書とかは、現在と変わらない状況(というか、たぶん昔の方が教養主義的でそのぶん内容はしっかりしていた)が、実践的な聞く話すとなると手段はきわめて限られていた。テレビのフランス語は、この時期は第9回で紹介した丸山圭三郎から林田遼右という千葉大の先生になっていたが(中級の方は依然としてモリアキ先生)、いまよりずっとしっかりとした内容だった(「しっかりした」とここで繰り返し言っているのは、要するに文法が体系的で詳しいという意味。いまのEテレ外国語は、タレントが出てきてちょっと旅行にみたいなエンタメ番組化しているが当時はそうではなかった。おふらんす文化の設定レヴェルがまだ多分に教養主義的で大衆化していなかったのだ)。ラジオのほうはより体系的・教育的で福井芳男が長らく担当していた。

 なるべく生きたフランス語に慣れるために、そうした数少ない手段をつかって練習をした。

 本はこうなる前に購入していて読めていなかったものがあったし、必要なときには丸善とか紀伊国屋に注文して読んだ。でも、手に入る本はすごく限られていた。

 これも若い人たちに知ってほしいのだけど、当たり前だけど、この時代、日本の書店にある本しか読めないのですよ。

 東京でさえ、フランス語の本が手に入るのは、丸善とか紀伊国屋とか(あるいは、欧明社やフランス図書のような専門店)の限定されたコーナーだけで、そこに限られた数の本が並べられているだけなのですね。この状況は、インターネットが発達して、アマゾンのような海外のネット書店に直接発注してすぐに本が届く最近(いつごろからだろうか、1990年代くらいだろうか★5)にいたるまで、基本的に変わらなかったのだが、それをみんなすぐに忘れてしまう。

 大江健三郎の『個人的な体験』(1964)の冒頭は、主人公の鳥(バード)が洋書店でショーケースの中のミシュランのアフリカ地図を眺めているシーンから始まる。あれは、新宿の紀伊國屋か日本橋の丸善とかではないのかといつも思っていた。そういうふうに、限られた場所に出向かないと実物の洋書は手に入らないという現実はだいぶ最近まで続いていたのだ。

 とまあ、そういうわけで、入手可能な限られた本のなかから、カミュもほとんど全部読んだし、サルトルも小説とか戯曲を読んだし、ジュネとかも読んだし、あとは、ヴァレリーとかボードレールとかランボーとかの象徴主義系譜とか。手に入る物は、次から次へと読んだ。デカルトとかパスカルのガルニエ版とか、ガリマール哲学叢書のサルトル『イマジネール』とか。いろいろだ。
 

 実存的危機のただ中だったから、いわゆる実存主義の文学はそのときの自分にこそぴったりだったのだと思う。カミュの『ペスト』とか、「カリギュラ」のような戯曲とか、高校時代に飜訳で読んだ作品もフランス語で読み直した。『ペスト』のあの見えない敵に攻囲された街のメタファー、アノニマスな住民たちとそこから知らせをもたらしてくる登場人物たち、孤立無援で立ち向かう医師Rieux……。いまでも身体的に憶えているね。実存主義の文学は、戦争の時代に書かれ戦争の記憶さめやらぬ、あるいは、植民地解放の戦争が続いている時代に書かれた。不条理な全体主義や突然降りかかる死や苛烈な暴力への抵抗が間近にあった時代にこそ人びとに自分たちの文学として受け入れられていたのだと思う。カミュでは『転落』も記憶に強く残っている。フランス語初心者には、だいぶ分かりにくい饒舌なモノローグからなるテクストなのだが、ドストエフスキーの『地下室の手記』に近い、実存の奥底に降りていくような作品だった。

 別の機会に書いたことがあるのだが、この時代、外国文学とは(文学一般がそうだが)、まずもって生きられるものだったのだ★6。たぶん、ぼくだけの個人的な経験ではなかったと思う。人びとは文学を生きていたのだ。文学が消費と混じり合い、批評がメタな言説のゲームである今とはだいぶちがう時代だったのだとおもう。それに、日本の知識界はまだずいぶん〈西欧〉を信奉していたのでもあるし。

光り輝く石

 ところで、さとり──それをさとりと呼ぶかはともかく、一種のinsightだが──はとつぜんやってきた。

 初夏の頃だったと思う。武庫之荘の家は、生け垣に囲まれ、ちょっとした築山と池の庭があった。

 暗い書斎からでると、池に渡した石橋の肌理が日の光を反射していた。その光を見ているうちに、ある種のコスミックな時間が永遠の過去も永遠の未来も降り注ぎつづけているように感じた。そして、高校の時に読んだ『ツァラトゥストラ』を想い出した。ああ永劫回帰とはこういうことか、とまざまざと思ったんだな。今の瞬間の時間は、永遠に繰り返す、という……。このとき得た直観は、いまもずっとその感覚を基調にして「時間とは何か」を自分としては理解している。つまり、ぼくたちが生きている時間は常に流れていっているのだけれども、それはいつも絶対的に流れ続けていて、そのように絶対的に流れ続けることによって、それぞれの瞬間がそれそのままその通りに絶対的に反復しつづけているという……。まあ、なかなか、言葉になりにくい形而上学的な宇宙感覚なのだけれども、それが、高校三年のときに読んだ手塚富雄訳の『ツァラトゥストラ』に書いてあったことなんだ、ということをそのとき突如ほんとうに理解できたと思ったのだった。

 ちょっと長いのだけれど、そのとき思い浮かべていた『ツァラトゥストラ』第三部「幻影と謎」のツァラトゥストラのせりふとは次のようなものだ。

「この瞬間を見よ」とわたしはことばをつづけた。「この瞬間という門から、一つの長い永劫の道がうしろに向かって走っている。すなわち、われわれのうしろには一つの永劫があるのだ。 すべて歩むことのできるものは、すでにこの道を歩んだことがあるのではないか。すべて起こりうることは、すでに一度起こったことがあるのではないか、なされたことがあるのではないか。この道を通り過ぎたことがあるのではないか。 そして一切がすでにあったことがあるなら、侏儒よ、おまえはこの瞬間をどう考えるか。瞬間というこの門もすでに──あったことがあるにちがいないのではないか。 そしてすべてのことは互いにかたく結び合わされているのではないか。したがって、この瞬間は来たるべきすべてのことをうしろに従えているのではないか。だから────この瞬間自身をもうしろに従えているのではないか。 なぜなら、歩むことのできるものはすべて、前方へと延びるこちらの道をも──もう一度歩むにちがいないのだから。── そして月光をあびてのろのろと匐っているこの蜘蛛、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえ──これらはみなすでに存在したことがあるのではないか。 そしてそれらはみな再来するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないか──われわれは永劫に再来する定めを負うているのではないか。──」★7

 いわば時間の形而上学的リアルに触れる経験をした。それこそが、ニーチェが書いていたことなんだと、ツァラトゥストラの「永劫回帰」の教説と結びつけたのだった。ほんとうにその理解でよいのかを吟味するための理論的知識はその当時持っていなかった。しかし、実感したんだな。その発見された時間直観を基本にすえると、自分を捉えていたさまざまな問題が見通せて整理されいままでとはちがうパースペクティブに立てると思えたのだった★8

 

  ──侏儒よ、おまえはこの瞬間をどう考えるか。

門が、すこし開いて光が射した瞬間だった。

留学

 秋口になって、親が、お前は日本にいても仕方がないだろうから、すこし外国に行った方がよかろう、と言った。

 なんか明治の小説みたいな物言いなのだが、観念だけ肥大して立ち往生した 「家の馬鹿息子 l’idiot de la famille」★9にはもうそれぐらいしか道はないだろうと思ったのだろう。

 この連載では、あまり家族ロマンスは語りたくはないのだが、私の父親はかろうじて明治生まれ(1911年生まれ)で、戦後昭和の大衆社会へと向かう時代の子どもの親としてはだいぶ年寄りだった。

 で、どう伝えればいいのかな、かなり難しいビミョーな親子関係だったのよ。遅れてきた明治風(明治の最後の年に生まれたわけだし)のお父さんというような存在だったからね。今の人に分かってもらうのはおそらく不可能に近い。しかし、それでも少しは分かってもらえるためには、そうだな、例えば、漱石の『それから』とかを思い浮かべてもらえばいいかもしれない。そこまで大時代的ではなかったとは思うが……。ただし、『それから』の代助の父親に相同的とかいう意味ではない。私の祖父の方がたぶん代助の父親似な明治の人物だったのではないかと思うが、その人には私は会ったことがない。その人は1872年生まれで1933年に亡くなっている。明治維新の頃に東京に出てきた鳥取藩士で、慶應義塾とかで勉強している。その後、西園寺とか牧野伸顕とかに随行して欧州(ウィーンとかヴェネチア)に行っている。帰国して、関西の財閥の支援を受けて毛織物会社の創設に参画している。中外報(正式には、中外商業新報、日本経済新聞の前身)とかのデータベースには、1929年の世界恐慌についての財界人コメントとか、その頃の年初の経済予想コメントみたいなのが見つかる。で、まあ、だから、それなりに明治の開国と殖産興業を生きた面白い人物だったのではないかと思うのだが、詳しくは分からない。他方、その長男である私の父親は、では、代助のようなロマンチックな人物であったであろうかというと、そういうことはたぶんない。また、私の母親が、三千代のようであった形跡もないし、あるいは『門』の御米のような女であった形跡もない。

 長井代助のような「高等遊民」に最もちかいと疑われたのは、この家系の孫長男であるこの私ではなかったか、という気もしないではない。だから、忌むべき「l’idiot de la famille」だと親たちを警戒させたのではなかったろうか。

 

 その時分になると、私のフランス語もだいぶましになっていたように思う。年の後半になると、少しは外出できるようになったので、大阪や京都の日仏学院・日仏学館に通って、実践的なフランス語をインテンシブに学習して留学に備えた。

パリ、1975年 夏

 1975年の7月にパリに着いたのだが、真夏のパリは、バカンスへの大出発(グラン・デパール)の後で閑散として埃っぽく暑かった。みんな避暑地に出かけていって基本的に本来の住民はいない。いまでも同じ、観光客のための7月、8月の無人のパリの光景。この季節に着いたことは結果的に良かったのだと思う。生活してみればすぐ分かるが、緯度の高いフランスは夏と冬、温暖、明暗のコントラストが激しい。夏は人びとにとってすべてを忘れてお日さまの恵みをひたすら享受すべきごく短いシーズンなのだ。しばらく長く続いた鬱屈のトンネルから這い出してきて、いきなりその明るい光の中にやってきたわけだった。

 この頃、ベルナールは、南仏のモンフランカンで山羊を育てガチョウの世話をしていたりするはずなんだが、もちろんそんなことは知るはずもない。

 カルチエラタンのサンジャック街近くピエール・ニコル街の学生宿舎に宿泊して、いちおうソルボンヌの夏期講座に通うことから留学生活は始まった。といっても、夏のパリはすべてがグランドバカンスモードで、まともに学業とかにはならない。講師もすき間労働の小遣い稼ぎなのかやる気がなさそうだし、生徒もバカンスに遊びに来た外国人たちだから、成立しなかった草野球のチームみたいな、ひまにやってきた人でおしゃべりしているという感じ。午後になるとみんな遊びに出かけていったし、まあ、そうだろうな、と納得し、記念物や美術館・博物館を見に行くという観光に8月いっぱい専念した。ぼく自身もローマ大学の女子学生たちと仲良くなってフォンテーヌブローにピクニックに出かけていったりもした。イタリアの女の子の瞳は大きくてプールのなかのように泳げそうだということを発見、とてもよい夏の想い出。

 

 秋になって、ようやく、勉強モードになった。 

 といっても、ソルボンヌの正規課程に編入するのはもっと前に手続きをしていないと間に合わなかったので、「フランス文明講座」に入れてもらった。たぶん、いまでも同じような運営が続けられているのだと思うが、ソルボンヌ大学(正確にはその外郭団体)が外国人学生のために創設した伝統あるコースだ。いまはどの国の大学にもある外国人留学生の向けコースだが、フランス語圏ではその草創期の形態。1919年の創設が示しているように、国際連盟の発足とかとある種連動した20世紀の世界平和の希求と文明的な理想とが結合してできたものだろう。

 当時の無知な私にはありがたみが十分に分かったとはいえないけれど、ソルボンヌの立派な歴史的建築の中で、錚々たる教授陣が教えていた。試験を受けて一番上級のコースに入れてもらったんだけれど、正教授による講堂での大講義とクラスでの実習とが組み合わされていて、とっても勉強になったな。今考えても、すごくよい勉強をさせてもらったと思う。古典主義時代文学のジャック・トルシェJacques Truchet 教授とか、発音とか音声学とかならったジャック・フィリオレJacques Filliolet 先生とか、実習クラスで教えていただいたリュシアンLucien夫人とか、数々の素晴らしい先生たち。校長先生は、言語学者で語彙論の権威ジョルジュ・マトレGeorges Matoré先生で★10、第二次世界大戦中はリトアニアのフランス大使館で勤務されていたのだが、ソヴィエトの占領で収容所に入れられたり、さらに、ナチスの侵攻で今度はナチスから嫌疑をかけられたり、迫害されたユダヤ人に命のビザを発行して逃亡を助けたりと、大変な戦争経験をされた方でもあった。

 実習クラスのLucien先生もたいへんヒューマンな人格者で、第二次世界大戦中はレジスタンスを戦ったドゴール派ゴーリスト。演劇のご専門であったので、クローデルとアルトーと能について発表をさせてもらったことがあるが、大変喜んでお宅に呼んでくださった。

亡命者たち

 そのようにして、大学の本課も始まり、私としては久しぶりに落ち着いた勉強の環境をあの美しいソルボンヌの校舎と図書館で過ごすようになった。外国人ばかりのクラスだったが、秋が深まり、お互いに親しく知り合ってみると、同級生のうちのかなりの部分が、祖国を逃れてパリに滞在していることが分かってきた。25名ばかりのクラスだったが、5、6人はいたアメリカ人学生のうち3、4人がベトナム戦争を忌避して良心的兵役拒否者としてアメリカに帰れずに滞在している若者たちだった。休み時間とかには、アメリカの母親が頻繁に送ってくるエアメールを一生懸命読んでいた。マーク(フランス語読みではマルク)という友人がいたが、借りている部屋とかにいくとボブ・ディランのLPとか掛けてくれたね。ハイメは年長のスペイン人で面倒見のいい兄貴のような存在だったが、フランコの刑務所で服役した後、フランスに逃れてきた学生だった。国際学生都市(パリにある、各国からの留学生向けの寮が密集した区画)のスペイン館はながらくフランコ政権によって封鎖されたままで、かれは家族一緒に亡命してきていてパリに住んでいた。スペインの監獄のなかの様子とか、早口のスペインなまりのフランス語でよく話してくれた。南アフリカからの留学生のシュザンヌは、白人だったけれどアパルトヘイトに反対して国を出てきていた。

 1975年とは、そういう年だった。ジミー・カーター(1924.10.1-2024.12.29)が第39代米合衆国大統領に就任するのが1977年1月20日、翌日の1月21日にかれは大統領令第11967号および大統領布告第4483号を発令した。 これにより、1964年8月4日から1973年3月28日までの間に徴兵法(Selective Service Act)に違反して兵役を忌避した者に対し、無条件の恩赦が与えられた。

 1975年9月27日、フランコ政権は、バスク独立運動(特にETA=Euskadi Ta Askatasuna)や極左勢力に関与したとされる活動家5人を、銃殺刑に処した。処刑されたのは3人がETAのメンバー、2人が極左組織FRAP(Frente Revolucionario Antifascista y Patriota)のメンバー。この処刑は、スペイン国内外で非常に大きな抗議運動を引き起こした。フランス、イタリア、イギリス、スウェーデン、さらには中南米諸国でもスペイン大使館への抗議デモや外交的非難が行われた。特にヨーロッパでは、スペイン大使館前での抗議、文化人や政治家たちによる非難声明が相次いだ。当時、フランコはすでに非常に高齢で体調も悪化していたが、この強硬な死刑執行は権力の最末期にも反体制運動を徹底弾圧する意志を示したものだった。そのフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)は、長期間にわたる健康悪化(パーキンソン病や心臓、内臓疾患)により、数週間にわたる昏睡状態を経た後に1975年11月20日に死亡した。彼の死によって、スペインは、王政復古(フアン・カルロス1世が国王に即位)民主化への移行(後の「スペイン民主化移行期 Transición española」) へと舵を切ることになる。

 一方で、シュザンヌの希望が現実になるのはまだだいぶ先のことだ。

 南アフリカでは、1994年4月27日、史上初の全人種参加型の民主選挙が実施され、ネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANC)が勝利。アパルトヘイト体制はこの選挙によって事実上完全に終焉した。この日(4月27日)は今でも「自由の日 (Freedom Day)」として祝われている。

 考えてみれば、パリはじつに亡命者の町で、そのリストは長い。失われた世代のアメリカ人たち、ヘミングウエイとかヘンリー・ミラーとか、そうした記憶はとっくの昔に観光資産になっていたし、夏休みのソルボンヌの講座でも、講師がセーヌ河岸のシェイクスピアアンドカンパニーに連れて行ってここがジョイスの『ユリシーズ』を刊行した書店の現在の住所ですよと案内してくれたりもした。

 でも、それとこれがどんなに繋がっているのか。

 スペイン内戦、ベトナム、アパルトヘイト……当時の友人たちとの連絡はもうないが、みんなどうしているだろうか。まだ付き合いが続いている友人たちもいて、それについてはあらためて書くときが来るはずだ。

 

★1 ニーチェ『ツァラトゥストラ』、手塚富雄訳、中公文庫、350頁。この手塚富雄訳は私が読んだ1971年頃は中央公論社『世界の名著 ニーチェ』の巻に、『悲劇の誕生』西尾幹二訳とともに収録されていた。
★2 渡辺守章先生は、この後、大学院時代からぼく自身のメンターとして先生が4年前に亡くなるまで公私ともにたいへん親しくご指導いただいた人生の師なので、この連載では親しみを込めてモリアキ先生と呼ばせていただく。人生をとおしてそのように呼ばせていただいていた。
★3 Mallarmé, Stéphane, Œuvres complètes II, Gallimard, coll. La Pléiade, 2003, p.672.
★4 リンガフォン(Linguaphone)は1920年代(厳密には1901年に始まったという記録もある)に英国で創設された語学教材ブランドで、ネイティブ音声による自己学習方式を特徴とする。英語のみならず、フランス語・ドイツ語・スペイン語など多言語に対応し、日本では1960- 70年代にかけて教養層を中心に普及した。LPレコード・録音テープやテキストを組み合わせた教材は、文法中心の学校教育とは異なる実用的語学習得を志向していた。
★5 私個人が最初に利用していたのは、Alapage.comというフランスのネット書店で1987年オープンだった、その後フランスでもamazonとの競争に敗れて2009年に消滅している。以下を参照。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Alapage
★6 石田英敬「外国文学が生きられていた時代」、『文藝春秋』2024年9月号。URL= https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h8417
刊行前未定稿だがドラフトは以下のブログページで公開している。URL= http://nulptyxcom.blogspot.com/2024/08/draft.html
★7 ニーチェ『ツァラトゥストラ』、350-351頁。
★8 この段落で述べている「永劫回帰」の理解体験については、この連載でいずれまた立ち戻るときが来ると思うが、2009年に、東京大学新聞から依頼されて書いた「青春の一冊」の稿でも短く語っている。「コラム青春の一冊 「亡命生活」とニーチェ読解: ジル・ドゥルーズ著 Nietzsche et la philosophie」、『東京大学新聞』2009年9月8日(その後、『東大教師 青春の一冊』、東京大学新聞社編、信山社新書、2013年、146-148頁に収録)。 元になった原稿は以下の私のブログに再録。
URL= http://nulptyxcom.blogspot.com/2013/03/2013318-nietzsche-et-la.html
★9 「家の馬鹿息子 L’idiot de la famille」は、サルトルのフローベール論のタイトルだが、フランス語でも要するに「うちのバカ息子」というそのまんまの表現だ。文学とか思想とか、役に立たないことを志す子どもはみなそう呼ばれるのは洋の東西を問わない。東大仏文では、二宮敬先生が、学部進学してくる新入り学生たちに、もともと仏文に来るようなヤツは、「アカかエロか」だ、と昔から白眼視されてきたのだから、お前たちもその覚悟でいろよ、と挨拶するのが恒例だった。
★10 第二次大戦中の経験については、1992年に回想を出版している。Georges Matoré,  Mes prisons en Lituanie, Éditions du Griot, 1992 ; Ginkgo éditeur, 2017.

石田英敬

1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、『記号論講義』(ちくま学芸文庫)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。
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