冷戦の亡霊に抗して──現代韓国政治から考える 理論と冷戦 最終回|イ・アレックス・テックァン(訳=鍵谷怜)

☆=訳注 〔 〕=訳者補足
できごとはつねに理論を作り出す。理論とは、生きた経験の痕跡が含まれた状況を結晶化したものなのだ。理論はヴァルター・ベンヤミンが言うところの弁証法的イメージに立脚しているのかもしれない。理論と冷戦を探るこの連載の執筆に取り掛かったとき、私は深刻で、心をかき乱されるような認識に直面していた。それは、批評的な思考そのものが現在危機に瀕しているというものである。現代の批評的思考の危機は、部分的にはマルクス主義の影響が衰えたことにまで遡ることができる。この衰退は、ソヴィエト圏の崩壊とその後のグローバルな資本主義の支配によって加速した。
このようなイデオロギー的変化によって、古典的な批評の様式はますます維持しづらくなっている。資本主義が経済的・社会的・文化的領域の至るところで確立したことにより、その矛盾を暴き出すための枠組みが侵食されているだけでなく、資本主義自体がものごとの自然で避けがたい秩序であるかのように示されている。こうした標準化が批評的思考を抑え込むとともに、〔資本主義に代わる〕オルタナティヴが見当たらないことで、社会を組織する別の方法をはっきりと示すことはもちろん、それを想像することさえもずっと難しくなっている。
冷戦の終結と資本主義のほとんど全面的な支配──資本主義は事実上、地球上の至るところ、生活のあらゆる側面に広がっている──が批評の重大な危機を引き起こした。この危機は単なる知的な困難の問題ではなく、構造的な状況である。つまり、資本主義がすべてを包括するようになると、それを批判的に評価しうる手段そのものが侵食されるのだ。伝統的な批評の様式は、かつてはイデオロギーの対立や〔資本主義の〕代わりとなる経済モデルによって支えられていた。しかし資本主義が、ますます自らを支配的なだけでなく、自然で、避けがたく、議論するまでもないことのように見せているので、批評は今ではそうした資本主義のシステムを問う、安定した立場を見出すことに苦慮している。
この認識論的な閉塞──資本主義を乗り越える思考能力の縮小──はマーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」と呼んだものを反映している[☆1]。それは、資本主義がただ浸透しているだけでなく、我々が考えうる唯一の現実のように見えている状況のことだ。オルタナティヴが見当たらないことで、次のようなフィードバックの循環が作り出されている。すなわち、資本主義が社会的・経済的・文化的生活に染み込めば染み込むほど、それに対抗するどんな形式のシステムであれ、想像し、明確にし、正当化することがますます難しくなるのだ。結果的に、批評は無力となる──抵抗しようとする論理そのものにとらわれる──か、物質的な変化から切り離された純粋に学術的なものになるか、という危険性がある。
こうした危機が現代の状況の中心にあると認識することが重要だ。それによって我々は、全体化しつつある資本主義の論理に抵抗することのできる、新しい批評的枠組みの必要性に直面させられる。そうした枠組みは、過去の批評の形式へのノスタルジーや、外部の、距離を取った立場から資本主義を審判するような無意味な探究を乗り越えるものでなければならない。それどころか、内在的な可能性──資本主義そのものの矛盾の内部から生じるオルタナティヴな未来──と関係するものでなければならないのだ。つまり、批評の再考とは、抽象的な知的演習ではなく、システム内部の裂け目・緊張・潜在的な可能性を特定できるような戦略的な実践である。
そして、この課題は二重のものだ。第一に、一見すると資本主義からは逃れられないかのように思われることで引き起こされた麻痺状態に抵抗すること。第二に、直ちに大規模なシステムの変更ができないときであっても、別の想像力への道を開くことのできるような、思考や行動の新しい様式を構築すること、である。これは単なる理論的な課題ではなく、政治的な課題でもある。批評がもう一度変革の力となりうる状況を再構築するためには、概念的な革新と実践的な関与の両方が必要なのだ。
現代における批評的思考の危機は、単に資本主義のヘゲモニーの結果であるだけでなく、知識のデータ化と認知の商品化という双子の力によって引き起こされてもいる。これらはネオリベラリズムが普及させた金融化と深く絡み合ったプロセスである。このような力は、知識の生産と流通のやり方を再構築するだけではない。思考そのものの条件を根本的に変更し、反省・解釈・概念的革新よりも効率性・最適化・定量化を優先するようなシステム内部のひとつの道具的機能へと、批評を変えてしまうのだ。
知識のデータ化とは、知的生産を、定量化可能で、抽出可能で、収益化可能な単位に変換することを意味している。アルゴリズム的な統治やデジタル監視、予測分析に支配された時代において、知識は、概念的な厳密さや変化をもたらす可能性によってではなく、ますますメトリクス──引用、ランキング、エンゲージメント率、経済的価値──によって形成されるようになっている。これは批評にとって深い意味を持っている。つまり、知識に対する評価が、まずもって市場性や既存の権力構造との連携によって決定されるのであれば、〔既存の秩序に対する〕真に破壊的な思考のための空間は縮小するのである。
一方、認知の商品化とは、知的労働が資本主義的生産様式に従属することを意味している。そこでは、思考そのものが一種の資本として扱われる。ネオリベラリズムのもとで、主体はますます自己の起業家として位置づけられるようになり、認知能力を市場競争に最適化することを強いられる。このプロセスは、思考の持つ熟慮するという側面を侵食し、それを生産性・パフォーマンス性・即時性の体制と取り替える。したがって、分析対象となる状況から時間的かつ概念的に距離を取ることを要求する批評的思考は、長期の反省的探究を維持できなくなるような、ますます狭い場所へと押し込められているのだ。
アナクロニズムの主体化
この危機に対して、私はアナクロニズムの主体化という概念を探究しようとしてきた。これは、1968年以降のフランスの哲学的言説、とりわけ、歴史・主体性・批評のあいだの関係を再構成しようとした思想家たちの著作に根ざした概念である。アナクロニズムは、歴史に関する誤りとしてしばしば退けられるが、それどころかむしろ抵抗の様式──資本主義リアリズムの時間の論理を破裂させる方法──として機能しうる。アナクロニズムの主体化は、時間的な隔たりやいくつもの矛盾、忘れられた別の可能性を前景化することによって、資本主義を歴史的発展の避けがたい最終段階と位置づける支配的な物語に挑戦する。
このアプローチは、直線的な進歩としての歴史ではなく、星座としての歴史というベンヤミンの着想と結びついている。それに基づけば、批評は現在の領域内で機能するだけでなく、資本主義的時間性の絶え間ない連続を中断させるような過去から、潜在的な可能性を〔引き出して〕活性化することができるだろう。この意味で、批評とは単に資本主義の欠陥を診断することではなく、対抗する歴史、対抗する主体性、そして対抗する想像力のための条件を生成することでもあるのだ。
多くの点で、批評における危機という考えは新しいものではない。むしろそれは批評そのものに固有の本質にほかならないかもしれない。カントの『純粋理性批判』からロマン主義者による啓蒙主義的合理性への挑戦に至るまで、近代哲学はつねに理性の限界を問いつづけてきた。そして現代の批評に見られる危機は、資本主義の支配やマルクス主義批評の衰退の帰結というだけでなく、より深い歴史的亀裂とも結びついている。つまり、自己反省的な活動として批評を形成してきた啓蒙主義とポスト啓蒙主義の伝統が影響力を失ってきたことと結びついているのだ。
批評の中核には、理性の適切な利用についての省察がある。つまり、批評とはそのような〔理性的〕評価を可能にする枠組みを前提とした活動である。現代の危機は、理性そのものが市場の論理やアルゴリズム的な統治、道具的合理性に従属するようになるにつれて、この枠組みが崩壊したことを示している。そして、難しいのは、もはや理性が自律的な力ではなくなり資本の機能になった時代において、批評を救い出すだけでなく、批評が機能しうる条件を再考しなければならないということである。
この難局を乗り越えるためには、批評的思考は、データ化と商品化の力に抵抗するだけでなく、内在的な批評の認識論的かつ存在論的な基盤を積極的に想像しなおさなければならない。この試みには3段階のアプローチが必要である。まず、知的生産を即時的な有用性に縮減する加速主義的論理を拒絶し、速さと効率の代わりに深さと反省を優先させることが必要である。第二に、アナクロニズム的な、もしくは周縁化された知的伝統と注意深く関わりながら、資本主義リアリズムの時間的制約を断ち切り、その支配に挑戦するような概念へと再接続することが求められる。第三に、個人化された、起業家的な主体というネオリベラルな構造を乗り越えて、その代わりに連帯と相互依存を強調するような、集団的で関係的な批評実践を育むことが必要である。
最終的に、批評の危機を認識することは、失敗を認めることではなく、新しい思考方法を築くために不可欠な一歩である。この危機を行き止まりではなく潜在的な介入の現場と位置づけなおすことで、我々は、全体化しつつある資本主義の支配を揺るがしうる思考の形式を思い描き、育てることに着手できる。それによって、我々は新しい理論的な想像と概念的な可能性のための空間を開き、より公正で公平な未来への基盤を築くことになる。
こうした目標を心に抱きつつ、私は社会主義圏の崩壊とグローバルなネオリベラリズムの優勢に先立って発達した理論的枠組みを探究することに決めたのだ。このプロジェクトは、本連載「理論と冷戦」で具体化することになった。こうした理論との──そして冷戦のより広い知的環境との──私の最初の出会いは、1980年代後半のことである。私が韓国の大学に入学してすぐのことだ。その頃は強い知的好奇心と政治的熱狂の時代だった。当時私は、レーニンや毛沢東から西洋のマルクス主義、ポストコロニアル理論家の著作に至るまで、幅広いテクストに没頭していた。しかし、私にもっとも拭い去れない痕跡を残したのは新左翼の理論である。新左翼の思想家たちは、ソヴィエトの社会主義とアメリカの資本主義という厳格な二項対立を乗り越えようと試み、革新的でラディカルな批評と抵抗の枠組みを提示しようとしていた。それは、より公正で公平な世界を熱望する私自身の想いと深く共鳴するものだったのだ。
ところが、こうした思想に関わるのは簡単なことではなかった。反共イデオロギーで凝り固まった韓国の軍事政権は、国家保安法のような仕組みを通じて厳しい検閲を押し付け、体制転覆的であったりイデオロギー的に危険であったりすると思われる書籍の頒布を禁止していた。マルクス主義や社会主義、ひいては進歩的なリベラル思想家の著作さえもが禁止され、公的なルートを通じてこうしたテクストにアクセスすることはほとんど不可能なものにされていた。このように抑圧的な環境のなかで、我々は、創造的で秘密の、知的な交流の手段へと向かったのである。冷戦期の理論についての翻訳や評論がしばしば含まれていた日本語の書籍が、このような禁止された思想にアクセスするための不可欠なルートになった。密輸入されたり地下で流通したりしたこれらのテクストが、韓国の国境を越えて広がる、より広範囲の理論的な議論へのライフラインを提供してくれたのだ。
私が初めて地下の読書グループに参加したとき、入会のプロセスは厳格かつ非常に共同体的だった。秘密の知的活動という難題をこれまで指導してきたグループの年長メンバーが、私のような新参者に助言する役割を担っていた。この入会の第一段階は2週間の日本語の集中特訓であったが、これは単なる語学レッスンではなく、実践的な必要性があった。というのも、我々が取り組もうとしていた批評的テクストの多くは日本語でしか手に入らなかったからだ。国家検閲のせいでほとんどの韓国人は、しばしば日本の著名な左派の学者や正統派マルクス主義者によって書かれたこれらの書籍の原文にアクセスできなかった。しかし、日本研究を専攻している研究者には、こうしたテクストが学術的な学習課題の一部として見逃してもらえたので、いくらか入手しやすかったのである。この抜け穴によって、そうでなければ禁止されていた、たくさんのマルクス主義の経済理論とそのほかのラディカルな思想に我々はアクセスすることができた。
私がこの時期に出会った書籍は、主にマルクス主義経済学に焦点を当てたもので、正統派マルクス主義の原則を固守する日本の学者によって書かれたものだった。そうした著作は、資本・労働・搾取のダイナミクスの相互関係を検討し、資本主義の構造を理解するための厳密な分析の枠組みを提供してくれた。このようなテクストを読むことは、知的に骨の折れるものではあったが、政治的にはうきうきするものだった。そのテクストによって、理論的基礎が与えられただけでなく、韓国の権威主義体制の偏狭な制限を乗り越える、より広いグローバルなマルクス主義思想の伝統と繋がっているとも感じられた。
こうした理論が集中的にもたらした影響は、理論に元から備わっている正しさや分析的な正確さに基づくものではなく、それらが禁止されているという紛れもない事実からくるものだった。こうした思想に関わる行為そのものが──その思想のドグマ的な要素にもかかわらず──理論的な有効性を超える体制転覆的な力を持っていた。国家によって押し付けられた禁止によって、これらの思想にはほとんど神秘的なアウラが与えられ、読むという行為が反抗という行為に変換されたのである。つまり、ただ理論の内容が重要だったのではなく、抑圧的な状況において理論に出会う経験こそが重要だったのだ。
我々の多くにとって、こうした著作を探し出し、それらに精通していくプロセスはうきうきするものだった。だがそれは、必ずしもその主張すべてに賛同していたからではなく、それらにアクセスするためには工夫やリスク、集団的努力が必要だったからである。これらの書籍を取り巻く検閲が、その魅力を高めるような知的欠乏状態を作り出した。国家イデオロギーががっしりした一枚岩的な現実を作り出そうとする環境のなかで、オルタナティヴ──オルタナティヴであればなんでもよかった──の存在そのものが革命的に感じられたのだ。
さらに、読書の訓練が秘密の集会という性質を持っていたことで、学ぶことが冒険に変わった。禁止されたテクストを密輸すること、ラディカルな思想を議論するために秘密の場所に集まること、公然と口に出すことのできない名前や出典をささやくこと──これらすべてのスリルが、公教育には決して提供できなかった知的関与に対する切迫感と強度を与えてくれたのだ。ある意味、理論だけが我々を形成したのではなく、思想に対して押し付けられた境界を乗り越える経験が我々を形成したのだ。賭け金は高かったが、まさにその危険性が我々の議論に目的意識を吹き込み、思想の具体的帰結を強く意識させた。
この力学は皮肉な効果をもたらした。つまり、我々が後になって柔軟性がないとか視野が限定的だと認めた理論でさえも、単にそれらが違ったやり方で考える可能性を開いたというだけの理由で大きな影響力を持ったのだ。多くの場合、我々が最初にドグマ的な枠組みに魅了されたのは、それを盲目的に受け入れたからではなく、概念的なオルタナティヴに飢えていたからである。それらの理論は、まさに禁止されていたことによって最初の権威を獲得したのだ。我々は後からその評価を批判的に見直すことになったけれども、それでもなお我々の知の形成にとっては決定的な役割を果たしたのである。
したがって、こうした理論の力は、その主張ではなく、抑圧的な状況下でそれらを探し求め、読み、議論する行為にあった。禁じられた知識を明らかにする──とりわけ外国語のテクストを読むことを通じて、認可された思考の境界の外へと踏み出す──という冒険は、内容そのものと同じくらい、あるいはそれ以上に〔我々の知的な〕成長に寄与するものだったのだ。このように、我々の理論への関与は決して純粋に学術的なものではなかった。それは生きた経験であり、国家に押し付けられた制約に対する具体化された挑戦であり、イデオロギー的な縛りがあった時代に批判的に思考する権利を取り戻すための重要な訓練であった。
このような経験が、理論と実践の関係についての私の理解を深く形成した。それは、もっとも抑圧的な状況下でさえ、理論に対する情熱がどれほど抵抗と変革のための力強いツールとなりうるかを明らかにしたのである。「秘密のセミナー」はただ学ぶための場所だったわけではない。将来の政治運動の種が蒔かれた、批評的意識の培養器だったのだ。私の人生のなかのこの時期は、冷戦時代の理論が、過ぎ去った時代の遺物などではなく現在の課題に立ち向かうための重要な資源として、引き続き関係があることを強調しているのである。
理論と民主化
1980年代の韓国の学生運動は、光州事件の遺産によって深く形成された。このできごとは、軍事独裁政権の残虐さを暴いただけでなく、韓国のブルジョワ民主主義の限界をさらけ出すものでもあった──それは人権とリベラル改革の名のもとに1970年代に発展したシステムであるが、結局は国家公認の暴力の前では無力だった。軍事政権によって殺され、負傷し、行方不明になった市民が数千に上った光州での虐殺は、既存の枠組みのなかで徐々に民主的な改革を進めることが可能であるという長らく存在してきた幻想のすべてを打ち砕いた。学生活動家にとって、これは単なる歴史上の悲劇的なエピソードではなく、自分たちの政治的戦略、イデオロギー的責務、そして将来の展望を根本的に再考しなければならない、思案のしどころだったのだ。
1970年代を通じて多くの学生活動家たちは、独裁への対抗の基盤としてヒューマニズムとリベラル民主主義の理想を抱いてきた。彼らは市民権、自由選挙、そしてより公正で責任のある政治システムの回復を主張していた。ところが、光州でのできごとは、立憲主義や遵法性、道徳性を求める訴えがあるにもかかわらず、軍事政権は意見の対立を抑え込むために極度の暴力の行使を厭わないことを証明してしまった。ブルジョワ民主主義が改革を通じて進展しうるという考えは一夜にして信用を失い、まさに支配階級が守ると主張した民主主義の原則に彼ら自身は縛られていないさまを活動家たちは目の当たりにした。虐殺は有効な政治戦略としてのヒューマニズム的リベラリズムの敗北の証明であり、運動はよりラディカルな代替案を模索せざるをえなくなったのだ。
光州ののち、学生活動家たちはますますブルジョワ民主主義そのものを乗り越えることが必要だという結論に達するようになった。支配階級が力で民主主義を先延ばしにするつもりであるならば、民主主義とは、支配階級が存在する限り、都合のいいときにだけ認められ、エリートの利害を脅かすときには無効になる、権力者の道具にすぎないことは明らかだった。これによって、多くの人が革命的な政治性を胸に抱くようになり、経済的システムと政治的システムの抜本的な再構築によってはじめて本当の民主主義・正義・自由が達成されうると考えるようになった。
マルクス主義的な革命の理論が学生たちのあいだで幅広い魅力を獲得したのは、このような文脈においてであった。マルクス主義は、もはや遠く離れた冷戦の闘争の抽象的な教義と見なされるのではなく、韓国社会の構造的矛盾を説明できる科学的な枠組みとして理解されるようになった。学生たちは、マルクス主義的分析のなかに、ブルジョワ民主主義が失敗した理由についての首尾一貫した説明を見出した。すなわち、それは単に腐敗した指導者たちの問題だったのではなく、階級的支配と帝国主義者への従属に根づいたシステム上の問題だったのだ。階級闘争や剰余価値、唯物史観といった用語は、グローバル資本主義システムにおける韓国の位置を理解し、それに代わる先進的な道を思い描くために不可欠なツールになった。
しばしば正義と公正さへの倫理的な訴えに頼っていた1970年代のリベラル・ヒューマニズムとは異なり、マルクス主義は科学的な世界観であると見なされた──現在を批判するだけでなく、社会の矛盾を分析して新しい社会を構築するための方法論を提供してくれるものだと考えられたのである。帝国主義の理論も大いに共感を呼んだ。というのも、韓国の開発独裁は、ますますアメリカの経済的・軍事的支援に支えられていると理解されるようになったからだ。多くの学生活動家たちは、資本主義と帝国主義者の支配を転覆することが民主化にとって避けられないものであると結論づけた。
この路線変更は、学生運動そのものの変化に反映された。地下の読書グループ(「秘密のセミナー」)はマルクス=レーニン主義思想や毛沢東思想の普及に力を注ぎ、いまや自分たちの闘争がグローバルな革命運動の一部であると考えるようになった世代の活動家たちに、イデオロギー的な訓練をほどこした。学生運動の言説はますますラディカルになり、言論の自由と自由選挙の要求を超えて、労働者の権力、農地改革、民族解放を訴えるようになったのだ。
1980年代半ばまでに、学生運動のイデオロギー的な展望は劇的に変化した。初期の活動家たちが、民主的な権利と憲法に基づいた秩序という観点から自らの抵抗を形作ってきたのに対して、光州以後の世代は反資本主義的・反帝国主義的・社会主義的枠組みを唯一の有効な進路として胸に抱いたのだ。この時期、ラディカルな組織の増加が見られたのだが、そのうちいくつかは明らかに武装闘争を要求しており、国家の暴力には革命の力によってのみ対抗できると信じていた。
1980年代末に韓国は民主制に移行したが、これは最終的に革命的な決裂ではなく交渉を選んだことによるものだった。ただし、それでも光州以後の学生運動のラディカル化は影響力を残しつづけた。こうした運動はマルクス主義思想に対する深い知的・政治的な関与を育み、システムの変革に携わる世代の活動家たちを作り出し、その後数十年にわたりネオリベラル資本主義に挑戦しつづけることになる労働運動・社会運動の基礎を築いたのだ。
確かに、1980年代に達成されたものは民主化であると言ってよいが、その民主化は軍事政権を支持した人たちとマルクス主義革命を望んだ人たちのあいだの取り決めの結果であった。1987年6月に成立したと世間で言うところの民主主義システム[☆2]は、対立する政治的な勢力が和解することを目指して交渉した結果として生じたものである。軍事クーデタと社会主義革命の双方の遺産を統合し、議会的な統治の枠組みを作ろうとする合意の結果だったのだ。この取り決めは、どちらかの勢力を支配的なものにするのではなく、制度化された政治プロセスのなかに競合関係にある〔政治的〕願望を注ぎ込んだ。そうすることで、権力闘争の力学を一変させ、戦場と革命への動員から合法的な議論・選挙運動・国家行政という公的な仕組みへと移行させたのである。
1987年以降、韓国の政治状況は交渉の過程で周縁化された人たちからのさらなる民主化への要求によって特徴づけられてきた。社会改革の名のもとで経済的ネオリベラリズムが導入された2000年代は、さらなる民主化を求める政治的要求をめぐる妥協と摩擦の時代となった。そして、2024年12月3日、韓国人は民主化のすべてのプロセスをひっくり返そうとする軍事クーデタの試みを目の当たりにしたのだった。
ジェラール・デュメニルとドミニック・レヴィが『資本の復活』のなかで論じているように[☆3]、歴代の文民政府は、経済成長を口実にしたネオリベラルな改革を進めることで、次第に民主主義的コンセンサスを侵食していたのである。彼らの政策は、労働者階級の利益を不釣り合いに周縁化し、不平等を深刻化させ、民主主義システムのなかに緊張を生み出してきた。行政権力の集中は、制度的な抑制と均衡の弱体化と相まって、韓国という国を大統領のやり過ぎに対して脆弱な国にしてしまった──その脆弱さが結局は民主主義を危機に追いやったのだ。12月3日のクーデタ未遂は、大統領が非常戒厳を宣言し、議会を「立法府の独裁」と非難したものだった。これは、権威主義的な衝動が、それを防ぐために作られたまさにその制度のなかから再び現れるという、韓国の民主主義の転倒した論理を証明するものである。
新しい理論の再宣言
現代韓国の政治意識と社会運動の重大な変化は、1997年のIMF危機〔アジア通貨危機〕以後に加速したプロセスである、ネオリベラル的な構造改革が広範囲にわたって影響したことを反映している。当初、経済改革として現れたものは、その後、社会関係・政治制度・文化価値の包括的な変革へと進展してきた。2016年以降、こうしたネオリベラルの力学が南北関係と核外交からフェミニズムの活動と技術官僚による統治に至るまでさまざまな領域で成熟してきた。このような変化は、単なる国内の展開にとどまらず、韓国がグローバルなネオリベラルの潮流に組み込まれながらもそれと戦い、民主的制度や社会運動、地政学的同盟関係を形作ってきた独特なやり方を示している。
とりわけ2つの重要な移行がこの展望のなかで生じている。まず、政治的権威と正当性の概念が根本的に変化した。韓国のリベラル民主主義の指導者たちによって代表されるものであれ、北朝鮮の統一のレトリックに代表されるものであれ、家父長制的権威の伝統的なかたちは求心力を失い、市場に基盤を置いた社会的価値のメトリクスに道を譲った。かつて崇敬されていた1980年代の民主化運動の指導者たちの多くは、のちに1990年代のネオリベラル改革を擁護した。だが彼らは、自らの政策がまさにそれまで自分たちが反対してきた経済的不平等を悪化させたために、自身の道徳的正当性が崩れていくのを目の当たりにした。こうした変化が、個人の利益や手続き上の公正さ、技術競争──これらは、深刻な社会的不平等を構造的矛盾ではなく、行政上の効率性や個人の責任の問題と表現するネオリベラル的統治の核となる要素である──に重きを置く新しい政治的言説を台頭させたのだ。
第二に、我々はネオリベラル化の影響に正面から反応した政治的主体性とアクティヴィズムの新しい形式の台頭を目撃している。韓国における第4波フェミニズムの出現は、デジタル・アクティヴィズム[☆4]や2016年の江南駅での殺人事件[☆5]のような注目を集める事件によって引き起こされた。そして、それは女性の労働や身体に対する伝統的な家父長制的抑圧とネオリベラル的な商品化の両方に対抗する抵抗運動を表している。イデオロギー的結合を中心としていたそれまでのアクティヴィズムの波とは異なり、こうした運動は「情動の政治affective politics」──プレカリティ〔不安定性〕、暴力、システム的排除に対する感情的反応の共有を通じて集団的な行動を動員すること──と呼ばれるものを通じて働いている。この変化は、より広いグローバルな傾向、すなわちアクティヴィズムが単一のイデオロギー的な枠組みに固執するのではなく、ますます経済的・社会的・情動的な諸闘争の交錯によって形成されるようになってきたことを反映しているのである。
このような国内の変化は、グローバルな政治的・経済的同盟関係の変化を背景に展開している。最近の北朝鮮の憲法改正[☆6]とロシアとの戦略的友好関係[☆7]は、民族統一に重点を置いたかつての南北朝鮮の力学から離れて、アメリカが主導するネオリベラルのヘゲモニーに挑戦する、新しい複数軸の秩序のなかに平壌を位置づけていることを示すものだ。一方、韓国は技術官僚による統治と、承認と正義を求める草の根の要求のあいだの内的矛盾に取り組んでいる。これは、公共サービスの市場化に抗議する近年の障がい者権利運動や、女性の身体の商業化に抵抗するフェミニズム運動に顕著であり、どちらにしても社会的平等よりも経済的効率性を優先するネオリベラルの統治メカニズムに国家が依存していることへの挑戦である。
ネオリベラリズムのもとでの韓国社会の変化は、逆説的な効果を生み出してきた。つまり、権威と社会的団結の伝統的な源泉が枯渇する一方で、古いヒエラルキーと市場に基盤を置いた新しい制御メカニズムの双方に反対するような、新しい形式の集団的抵抗が出現している。これらの力学を理解するためには、ネオリベラルの諸政策が経済的関係をどのように再形成してきたのかだけでなく、それが政治的正当性や社会運動、ナショナル・アイデンティティをどのように再構成してきたのかを調べる必要がある。
2020年代に入ってからというもの、韓国ではネオリベラルの統治とさまざまな抵抗の形式のあいだの緊張関係によって、政治的・社会的な展望が規定されつづけている。権威主義的な大統領の野望と独裁権を取り戻そうとする軍部の試みは、韓国が民主化する過程で解決できなかった矛盾を示している。そして、独裁的な支配を復活させようとする試みがさらけ出しているのは、資本主義的拡張と権威主義的遺産の脆い共存という、より深刻な緊張状態である。つまり、経済的成功を讃えるシステムそのものがファシズムの支配の亡霊に取り憑かれたままなのだ。この矛盾は、社会変革に対して十分に関与できない理論の性格を浮き彫りにしており、民主主義・正義・経済的不平等をめぐる闘争は決着とは程遠い状態にある。
現在の韓国における民主化からの逆行は、この国の政治的・イデオロギー的な展望に冷戦の報復主義が深く刻み込まれたままであることをありありと思い出させるものだ。最近のクーデタ未遂は統治の危機を表しているだけではない。それはとりわけ極右のあいだで、冷戦時代の政治構造や物語、そして欲望が力を持ちつづけていることの徴候なのだ。韓国でのできごとは、冷戦が決して完全には解決されていないことと、冷戦のイデオロギー的枠組みが本当の意味では解体されていないことを証明している。それどころか、その遺産は影響を及ぼしつづけていて、反動的な勢力が権力を奪回しようとする危機の瞬間に再び表面化するのだ。
以上のことを踏まえれば、新しい理論的枠組みの必要性はかつてないほど切迫したものになる。冷戦の歴史方法論に基づくにせよ、トランジション研究[☆8]に基づくにせよ、民主化理論に基づくにせよ、既存のアプローチは形式的な民主主義システムのなかで権威主義的な傾向が持続することを十分に説明できていなかった。韓国の事例は、直線的な進歩の物語に挑戦し、闘争が民主主義的であると同時に権威主義的でもあるという循環的な性格を再考するよう我々に要求している。韓国で冷戦の残滓が復活することが意味しているのは、民主主義とは決して安定した到達点なのではなく、古いイデオロギー的な闘争が新しい環境のもとで活性化しなおされつづける、継続的な議論の場だということである。
私の連載は、まさにこうした目的のために構想されたのだ。つまり、韓国の政治的な軌跡を形成しつづけている歴史的・イデオロギー的・構造的な条件を探索することを目指していた。そのゴールは、冷戦の権威主義がなかなか消えない理由を理解するだけでなく、その復活と闘うための新しい概念的なツールを作り出す方法を探ることでもある。これは、民主主義・経済的権力・歴史的記憶のあいだの関係を再考すると同時に、権威主義の復活と反動主義の政治というより広いグローバルな傾向に取り組む、知的で政治的な課題である。
これほど長きにわたって私の論考に辛抱づよく付き合ってくださった読者の皆さんに深く感謝を申し上げます。皆さんの参加、批評的考察、そして私とともにこれまでの困難な問いを探究してきた意欲はかけがえのないものです。『ゲンロン』にも大いに感謝しています。『ゲンロン』の寛大さと支援のおかげで、このプロジェクトは可能になりました。民主化への終わりなき闘争、歴史忘却の危険性、抵抗と批評の新しい理論的枠組みの切迫した必要性についてのより広い対話に、この連載が役立てられることを私は望んでいます。
原題 Theory and Cold War #8: Against the Revenant of the Cold War
本連載は本誌のために英語で書き下ろされたものです。
☆1 Mark Fisher, Capitalist Realism: Is There No Alternative? (Winchester: Zero Books, 2009).(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版、2018年。)
☆2 1987年6月、民主化デモの要求を受け入れた全斗煥政権とその後継に指名されていた盧泰愚は民主化宣言を出し、大統領の直接選挙を含む改憲を約束した。
☆3 Gérard Duménil and Dominique Lévy, Capital Resurgent: Roots of the Neoliberal Revolution, trans. Derek Jeffers (Cambridge: Harvard University Press, 2004).
☆4 インターネットなどのデジタル・メディアを主たるプラットフォームとして展開されるアクティヴィズムの形式。
☆5 2016年5月17日にソウル・江南駅近くのカラオケバーのトイレで女性が殺害された事件。犯人の男は被害者の女性と面識はなく、犯行動機は女性への憎悪(ミソジニー)だとされている。
☆6 北朝鮮は2024年の憲法改正によって、韓国を「敵対国家」に位置づけた。合わせて、朝鮮半島の平和統一に関する内容を削除したとされる。
☆7 北朝鮮は、ウクライナと戦争状態にあるロシアに対して2023年以降武器支援を行なっており、24年には戦闘部隊を派兵した。
☆8 トランジション研究(Transition Studies)とは、社会や経済、技術などの変化の過程を研究する分野のことで、とりわけ持続可能な社会への移行を中心的なトピックとして取り上げることが多い。


イ・アレックス・テックァン