巨大機械の政治認識論 惑星的なものにかんする覚書(5)|ユク・ホイ(訳=伊勢康平)

★=原注 ☆=訳注 [ ]=著者補足 〔 〕=訳者補足
カントの政治哲学には特有の認識論的な基盤がある。それを念頭に置かないかぎり、カントの限界を理解しないまま、かれの哲学を援用しつづけることになるだろう。またそれによって、カリーニングラードをケーニヒスベルクと勘違いするようなあやまちを犯すことになりかねない──これが前回の覚書の主張であった。
同様のことは、かつてカントが抱き、ヘーゲル哲学に(より一般的には、いわゆるポストカント派の観念論にも)継承された有機的な哲学への熱意にかんしてもいえる。ヘーゲルの哲学は、カントの思想体系を否定しながら存続させているようなものである。なので、この熱意を念頭に置かないかぎり、ヘーゲルの『法の哲学』(1821)を、とりわけ「自由は国家のなかでのみ成立しうる」という同書の主張を理解することはできないだろう。ヘーゲルがこのように主張するのは、かれの分析では国家が一種の有機体とされているからだ。これは18世紀の機械論的な認識論とは明確に異なっている。
まさにこの点において、私たちは、ヘーゲルから多大な影響を受け、テクノロジーにかんする著作を書いた最初の哲学者とされるエルンスト・カップの記述を理解できるだろう。かれは『技術哲学の基礎』(1877)という本のなかで、専制政治は機械に、自由は有機体に相当すると述べている。
そのため、機械的な遮断を避けつつ、制約なき流れのなかで全体的な有機的活動を維持することが国家のなすべき務めとなる。まるで病が健康を損なうように、機械は有機体を損なっていく。機械による堕落と有機的な活力の獲得は反比例しているのだ。国家において、堕落の治療は仕事をつうじて行なわれる。だがそれは、人々の活力を維持し、向上させるような仕事に限られる。これはまさに、栄養にもなる薬こそが病弱な身体にもっとも効果を発揮するのと同じである。[★1]
カップの主張には興味深い点がいくつかある。なによりまず、ロマン主義者や観念論者に見受けられるような、機械対有機体という対立的な国家のイメージが繰り返されている。つぎにカップは、国家の建設とはいうなれば「器官の投影」だと考えていた。「器官の投影」とは、たとえばフックが爪の投影であるといったように、すべての道具を生物の器官が投影されたものとみなす一種の理論である。さらにいうと、器官の投影をつうじて文化を理解するカップの新しい視点もまた、当時有力だった認識論に規定されていた。だからこそカップは、ヘーゲルの法の哲学の中心にあった有機的な国家という概念に引きつけられたのである。
本稿では、さまざまな政治形態の発展を理解するためには新しい分析の方法論を生みだす必要があることを示し、前回の主張を一般化したい。その方法論を私は「政治認識論」と名づけ、『機械と主権』(2024)という近著のなかですでに詳しく論じている[★2]。この本は、近代ヨーロッパの哲学史をさまざまな認識論の歴史として読み解く『再帰性と偶然性』(2019)の試みを継続し、それを政治的な領域に拡大するものである。では、政治認識論とはなにを意味しているのだろうか? それは惑星的な条件にかんする私たちの探究とどのように関係するのだろうか?
私のいう政治形態とは、ポリスや帝国、国家、広域〔Großraum〕などの政治的構造のことである。それらの発展を理解することで、政治哲学の歴史にアプローチできるだろう。政治形態を発展させる要素はおもにふたつ存在している。巨大機械と、それに対応する認識論だ。
メガマシンとは、ルイス・マンフォードの『機械の神話』上下巻(1967/70)に由来する用語だ[☆1]。同書でマンフォードは、感動的な博識ぶりを発揮して、メガマシンの進化という観点から政治思想史を描いている。そこではメガマシンの概念が、仕事の専門分化や、さまざまな職務の単一の政治制度への統合を論じるために用いられている。マンフォードによると、メガマシンはあらゆる政治形態のなかにある。つまり古代のエジプトやバビロン、中国などに見受けられる限られたものから近代的な国家にいたるまで、随所に存在している。
マンフォードは、時代がくだるにつれてメガマシンがいかに複雑化していったかを明示した。くわえてより重要なことに、かれは君主制とトマス・ホッブズによる機械論的哲学の時代が重なっていたのは断じて偶然ではなく、両者はむしろ相互に形成しあったのだと述べている。つまりマンフォードは、メガマシンが何らかの認識論をともなうこと、またこの認識論がメガマシンを正当化しながら、その構成にかんする科学的な見解を提供してマシンの動作をたえず向上させてゆくことを、図らずも示唆しているのだ。ここで「図らずも」といったのは、マンフォード自身は、あくまで歴史学者として史料を提示するにとどめているからである。ゆえに私たちは、かれの論点を明確にすると同時に、その限界も明らかにしなければならない。
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政治認識論とは、機械論や有機体論、熱力学などの科学的な認識論を政治的領域に移したもののことだ。これはカール・シュミットのいう「政治神学」に代わるあらたな選択肢である。よく知られているように、シュミットにとって政治神学は、キリスト教の神学的概念を(ある種の世俗化として)政治的な分野に移したものだ。じっさい、主権を定義する際に用いられた例外状態という有名な概念は、処女懐胎のようなキリスト教における奇跡と類似している。
こうした政治と神学にかんする主張をしているのはシュミットだけではない。たとえばカール・レーヴィットの『歴史の意味』(1949)に収録された世俗化にかんする論文も、おなじ方向性の議論といえる。そこでレーヴィットが主張しているのは、際限なき進歩という近代的な概念がキリスト教における直線的な時間の概念に相当すること、そしてそれが(ニーチェに着想を与えた)異教徒的な循環する時間と厳密に区別されるべきであることだ。
他方、神学者のエリック・ピーターソンは、『政治的問題としての一神教』(1935)のなかでシュミットの政治神学を否定している。また哲学者のハンス・ブルーメンベルクは、『近代の正統性』(1966)のなかでレーヴィットを退けつつ、シュミットも非難している。ブルーメンベルクの主張は、要するに近代性は自己立法〔self-legislation〕という別の作動方式によって機能しているので、神学の古い概念や体系には還元できないというものだ。そしてブルーメンベルクは、ハンナ・アーレントの議論を参照し、以下の記述を引用しながら、自己主張[Selbstbehauptung]という言葉を用いて〔近代人の特徴を論じて〕いる。「来るべき世界への確信を失ったとき、近代人はこの世界ではなく自分自身を頼りにすることになったのだ」[★3]。この一文は、政治神学を無視すべきだという意味ではない。キリスト教の遺産を理解するのはたしかに必要なことだ。じっさい、それなくしてヨーロッパを知ることは──まるで数学を理解せずに物理学を研究するのとおなじように──不可能である。
私が政治認識論を政治神学に対置しているのは、惑星的な条件を把握するためには、もはや政治神学では不十分であり、こんにち私たちが抱える問題を説明しきれないからである。もちろん、習近平やプーチンは「反キリスト」でドナルド・トランプは「カテコーン」であるなどと主張したところで、ほとんど何の意味もない[☆2]。とはいえ、この手の宗教絡みのドラマはいつでもやはり楽しめるものではあって、テスラに乗って火星からやってくるイーロン・マスクにイエス・キリストの再臨を重ね合わせると、より一層おもしろくなるのかもしれない。ただそんなことより根本的なのは、もし惑星全体の未来に目を向けるのなら、神学を超えて政治を開き、いま私たちが目の当たりにしている現代の認識論的なパラダイムに接続しなければならないということだ。この点において、マンフォードやカップの仕事には価値がある──むろん、かれらは意図して認識論と政治思想をつなげたわけではないが。
したがって、政治哲学とテクノロジーの親和性についての探究は、政治認識論とメガマシンの関係を歴史的に解釈することから始めるべきであろう。これは長らく待たれていた課題である。なぜなら20世紀には、博覧強記のレオ・シュトラウスの仕事においてさえ、このような問いがほとんど提起されなかったからだ。
もしマンフォードが論じるように、絶対君主制がホッブズの機械論に対応していたとすれば、それは近代的な君主国家というスケールのメガマシンに機械論的哲学が実装された瞬間でもあった。じっさい、マンフォードの主張には理論的な根拠がある。ここで思いだしてほしいのだが、ホッブズは『リヴァイアサン』(1651)の最初のページですでに、リヴァイアサン〔としての国家〕を機械的なものとして描き、君主のさまざまな身体の部位を機械の部品になぞらえていた[☆3]。また、カール・シュミットは『リヴァイアサン──近代国家の生成と挫折』(1938)のなかでさらにつよい主張をしており、ホッブズはデカルトのはるか先を行っていたと述べている。なぜならホッブズによる「国家の概念の機械化」は、「ひとに対する人間学的なイメージの機械化」を完了させたからだ[★4]。ホッブズはデカルトと同時代の人物で、パリに亡命していたときには文通も行なっている。さらにデカルトの『省察』には、かれの二元論に対するホッブズの唯物論的な反論を退ける記述が見受けられる。これは「第6省察」につづく「反論と答弁」という節に収録されている[☆4]。たとえ両者のあいだに一定の解釈の相違があったとしても、どちらもその時代の厳格な機械論的哲学者であったと考えて差し支えないだろう。
しかし、シュミットも言及しているように、国家を花や植物や有機体になぞらえるロマン主義者が台頭したことで、「ホッブズが生みだしたイメージはきわめてグロテスクなものとみなされるようになった」[★5]。ホッブズを論じたこのシュミットの本は、ホッブズを擁護しつつ、リヴァイアサンの時代の終わりと新しい国家イメージの台頭を嘆くものだ。このあらたなイメージは、最終的に西洋的な自由民主主義の支配をもたらした。そこでは終わりなき議論が効率的な意志決定の可能性を制約しているのである。ホッブズの『リヴァイアサン』とヘーゲルの『法の哲学』を見ると、そのあいだで認識論の転換が起きていることがわかる。つまり物理法則によってかっちりと定められた構成を特徴とする機械的なものから、有機体によって示される動的な組織への移行である。その意味でも、シュミットがヘーゲルに対して称賛と嫌悪の入り混じる複雑な感情を抱いていたことが見て取れる。
シュミットは、機械と有機体の対立をつよく認識しており、有名な「政治的なものの概念」(1927/32)や「中立化と脱政治化の時代」(1929)のなかで明確に言及している。だが後年の原稿には、そうした著作以上にこの対立を中心に据えた議論がある。それが「二項区分の一例としての共同社会と利益社会の対立──そのようなアンチテーゼの構造と運命についての考察」(1960)である[★6]。これはスペインの法理論家ルイス・レガス・イ・ラカンブラ(1906-1980)に捧げられた論考だ。
その冒頭でシュミットは、機械と有機体の対立を把握しないかぎり、19世紀ドイツの国家と憲法の歴史を理解することはできないと明言している。また、シュミットはこのテクストのなかで社会学の古典であるフェルディナント・テンニースの著作〔『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』〕に言及しているのだが、同書によると共同社会[Gemeinschaft]は有機的で、利益社会[Gesellschaft]は機械的だという。シュミットは両者を対置させることで、このような対立がもはや無意味なものと化しており、両者を同時に乗り越えなければならないことを示そうとしている。またそれによって、法律万能主義者のハンス・ケルゼンや、ヘーゲルといった思想上の敵をこの無意味と化したカテゴリーのなかに組み込んだのである。シュミットは国家について考える新しい方法を提示した。私は『機械と主権』のなかで、それを「政治的生気論」〔political vitalism〕と呼び、細かく検討している。
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上記の概略的な議論のねらいは、これまで目立っていなかった政治哲学とテクノロジーの親和的な関係について詳しく論じるために政治哲学の歴史を調べる際の方法論を説明すること、そして以下の問いを提起する道筋を立てることである。デジタルテクノロジー、とりわけ人工知能が前景化させるこの惑星的な秩序について考えるため、ヘーゲルやシュミットのあとに到来するものは何だろうか?
これまでの覚書でも論じてきたとおり、シュミットは国民国家の衰退に応答するために広域の概念を提唱し、アメリカ帝国主義に対抗するあらたな地政学的構図を示した。広域とは、政治的概念である以前に、まず技術的かつ経済的な概念である。そもそもこの概念は、陸と海についで空というあらたな要素がテクノロジーによって征服されたとき、はじめて可能になった。つまり陸・海・空の3要素は、政治形態の発展にかんするシュミットの見解においてテクノロジーがもつ重要性をはっきり示している。
シュミットによる主権の定義や広域の理論(このふたつを切り離すことはできない)は、アレクサンドル・ドゥーギンや中国の一部の法理論家に取り上げられている[★7]。現在の地政学的状況を見ると、いまや衝突は連合という名の「広域」──G7であれBRICSであれ、あるいはユーラシアやEUであれ──のあいだで表面化しているという印象をついもってしまう。テクノロジーがもたらす分断に応じてさまざまな国家がグループに分けられているのである。そのテクノロジーとは、たとえば第二次大戦後の20世紀後半では核兵器であり、ここ10年では人工知能ないしマイクロチップのことだ。だからシュミットは正しかった、世界はかれの予期した方向にむかっている──とくにトランプ再選後のいま、そう言い切るのはあまりにも容易だ。アメリカをふたたび偉大にするというトランプの目標は、アメリカ帝国主義の復活とほぼ同義である。しかし、だからこそ私たちは、シュミットのあとに到来するものを問うべく、メガマシンとの関係のなかでシュミットの政治哲学の限界を露呈させなければならない。それによって分析をさらに深めていくことが、私たちの義務なのだ。
問いは開かれている。そしてこの問いは政治哲学者への挑戦でもある。いま私たちが直面している袋小路に対処するためには、政治思想史を研究する方法論が必要になるだろう。さきほど述べたとおり、問題はいまやどんな政治哲学であれテクノロジーの問いを避けることなどできないのに、政治哲学にはテクノロジーにかんする言説がないということだ。たとえばシュトラウスの著作や講義録を見ると、かれがテクノロジーに明確に言及しているのは1箇所しかなく、歴史主義と実証主義についてのセミナーのなかで学生にマルティン・ハイデガーを紹介するときだけである。他方、テクノロジーの影響にかんする社会学的な研究はないわけではないが、いわゆる技術哲学は政治哲学を理解できていない。そのため、アメリカの哲学者カール・ミッチャムがここ数年提唱しているように、政治哲学にふたたびテクノロジーを、そしてテクノロジーの研究にふたたび政治哲学を導入することが喫緊の課題になる。
ここでさらに一歩踏み込んで、つぎのように主張してみよう。もし政治認識論およびそのメガマシンとの関係を再構築しなければ、私たちの分析は時代遅れの古い枠組みのなかにたやすく囚われてしまうだろう。たとえば、マルクスやかれの資本主義についての分析を読むことは、いまでもむろん可能であり、じっさい必要ではある。けれども、もはやマルクスの分析を安易に適用することはできない。それは資本家がより賢明になったからではなく、機械がより進歩したからでもない。むしろ、マルクスの分析もまた当時の有力な認識論に制限されていたからだ。
マルクスの認識論は、自動機械や工場群の組織的建設によって具現化されたものである。つまりかれの資本主義の分析は機械論的であり、その計算も単純であった。なぜならその分析の条件は、機械の動作に反映された機械論的な認識論によって規定されていたからだ。さらに言ってよければ、マルクスが物質代謝の概念に依拠したのは、機械化を否定するものを探しだそうとしていたからである。だからそれをこんにちの生態学や環境保護と結びつけてしまうと、テクノロジーの歴史的な変遷を容易に見逃してしまう可能性がある。げんにこうした変遷によって、物質代謝という言葉の意味そのものがすでに変わっているのだ。また、マルクスは生産にのみ焦点を当てて交換をないがしろにしたと非難するひとに対しても同様のことがいえる。そのようなひとは、じつは生産のみならず交換もまた当時の有力な認識論に含まれた概念であると気づかないまま、きわめて複雑な構造を説明する際に単純な資本゠ネーション゠国家の「ボロメオの環」に依拠してしまっている[☆5]。
20世紀初頭に新古典派経済学の理論に対する反抗が起きたのもまた、このような認識論の限界ゆえであった。つまり、新古典派があまりにニュートン物理学に深く根ざしており、したがってきわめて機械論的だったからである。
そこで新しい経済理論は、熱力学から着想を得ることになった。これはフィリップ・ミロウスキが『光よりも熱を──社会物理学としての経済学、自然の経済学としての物理学』(1989)のなかで詳しく論じ、『機械は夢みる──サイボーグ科学化する経済学』(2001)のなかでさらに展開しているとおりである。なおミロウスキの『光よりも熱を』は、この新しい学派を代表する学者のひとりであるニコラス・ジョージェスク゠レーゲンに捧げられている(はじめに記されているとおり、同書はソースティン・ヴェブレンとジョージェスク゠レーゲンという、20世紀でもっとも偉大なふたりの経済学者に捧げられている[☆6])。ジョージェスク゠レーゲンは、ヨーゼフ・シュンペーターの弟子であり(かつてはその助手もつとめた)、マルクスを見事に読み解いたことで広く知られているが、かれの経済理論がじつはヘーゲルの弁証法にもとづいており、ホワイトヘッドの有機体論の読解によって支えられていたことはあまり論じられていない。私たちは、こうしたつながりのすべてをつうじて、認識論の重要性や、政治認識論の歴史を再構築する必要性に立ち返ることができる。そしてそれらは、私たちがいまどこに立脚しているのか、またこの惑星規模の難題にどう応答すればよいかを知るための手がかりとなるだろう。
もっとも、こうした再構築を行なった途端に、よい方策や解決法がすぐさま現れるわけではない。私たちがわかっているのは、せいぜいおなじ轍を踏んではならない事例がいくつかあること、そして現在の政治的な状況やそこにある哲学的な限界を乗り越えるのが喫緊の課題であるということだ。こうした哲学的な限界は、べつに悪いものでも有害なものでもない。むしろ、惑星的な条件に十分対処しきれなくなっているのである。それゆえに近年では、国民国家の言説にまっすぐ引き返すような動きが見られる。これは驚くべきことではあるが、しかし歴史上にかつて存在し、失敗に終わった振る舞いをただ反復しているにすぎない。
マンフォードが犯したあやまちもこれとよく似たものである。なぜならかれは、そもそも哲学をするための有機的な条件がカントによってすでに〔『判断力批判』が出版された〕1790年に課されていたことを認識しないまま、機械論に由来する社会や政治の問題を乗り越えるには有機体論が役立つはずだと考えたからだ。そのため、私たちはかれの価値と限界を同時に見極める必要がある。
おそらく私たちはいま、20世紀の脱構築とサイバネティクスの恩恵によって、歴史上ではじめて哲学とテクノロジーの親和性を把握しうる瞬間を迎えている。テクノロジーや方法論についての理解が刷新されることで、いまこの惑星全体が直面している袋小路や各地での保守的転回〔conservative turns〕を視野に入れた、新しい民主主義の実践や思考の道筋が開かれるだろう。
原題 Notes on the Planetary #5: Political Epistemology of the Megamachine
本連載は本誌のために英語で書き下ろされたものです。
★1 Ernst Kapp, Elements of a Philosophy of Technology, trans. Lauren K. Wolfe (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2018), p. 234.
★2 Yuk Hui, Machine and Sovereignty (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2024).
★3 Hans Blumenberg, The Legitimacy of the Modern Age, trans. Robert M. Wallace (Cambridge MA: MIT Press, 1985), p. 8. 〔ハンス・ブルーメンベルク『近代の正統性Ⅰ──世俗化と自己主張』、斎藤義彦訳、法政大学出版局、1998年、9頁。訳は英文より。〕
★4 Carl Schmitt, The Leviathan in the State Theory of Thomas Hobbes, trans. George Schwab and Erna Hilfstein (Chicago: Chicago University Press, 2008), p. 99. 〔カール・シュミット『リヴァイアサン──近代国家の生成と挫折』、長尾龍一訳、福村出版、1972年、69頁。訳は英文より。〕
★5 Ibid., p. 63. 〔同上、100頁。訳は英文より。〕
★6 Carl Schmitt, “Der Gegensatz von Gemeinschaft und Gesellschaft als Beispiel einer zweigliedrigen Unterscheidung: Betrachtungen zur Struktur und zum Schicksal solcher Antithesen” (1960), in Estudios jurídico-sociales: homenaje al profesor Luis Legaz y Lacambra (Santiago de Compostela: Universidad de Santiago de Compostela, 1960), pp. 165-178.
★7 Chang Che, “The Nazi Inspiring China’s Communists,” The Atlantic, December 1, 2020. URL=https://www.theatlantic.com/international/archive/2020/12/nazi-china-communists-carl-schmitt/617237/ 〔ここに引かれているのは会員登録が必要な有料記事なので、現代中国におけるシュミット受容を解説する日本語の論考をひとつ代わりに紹介しておく。王前「中国における国家主義的思潮の行方」、愛知大学現代中国学会編『中国21 Vol. 60 特集 中国現代思想』、東方書店、2024年、165-189頁。〕
☆1 ルイス・マンフォードのいう巨大機械とは、強大な権力と官僚機構によって組織化され、統御される機械的なシステムのこと。もっとも原初的な形式としては、古代エジプトのピラミッドの建設事業のような、標準化された「人間部品」の大規模な動員が挙げられる。マンフォードによると、自動機械の発展と普及により、現代のメガマシンは「人間部品」と「機械部品」が絡み合った複雑な社会的システムになっているという。詳細は以下を参照。ルイス・マンフォード『機械の神話──技術と人類の発達』、樋口清訳、河出書房新社、1971年、第九章「巨大機械の設計」。
☆2 カテコーンkatechonとは、「抑えているもの」を意味する神学的概念。終末をもたらす「不法の者」すなわち反キリストの力を抑える存在のこと。カテコーンが取り除かれると終末が訪れ、キリストが再臨するとされている。のちにシュミットは、秩序を維持し、外敵を抑制する政治的権威のことをカテコーンと呼んだ。なお、『ゲンロン14』所収の本連載第1回(63頁訳注4)でより詳しい説明を行なっているので、そちらも参照のこと。また、ホイのこの文章や、直後のレオ・シュトラウスへの言及は、おそらく新反動主義者への批判を兼ねたものと思われる。詳細は以下の論考を参照。ユク・ホイ「新反動主義者の不幸な意識について」、伊勢康平訳、『0-eA journal vol. 1 加速する東洋/Accelerating the East』、2023年、52-67頁。
☆3 この点については本連載第4回で言及されている。『ゲンロン17』、155頁および157頁の訳注4を参照。
☆4 1641年に刊行されたデカルトの『第一哲学についての省察』には、6人の学者からの批判と、それに対するデカルトの応答が「反論と答弁」として収録されている(翌年に刊行された第二版には第7の反論と答弁が追加された)。そのうちホッブズは「イギリスの或る著名な哲学者」として第三の反論を執筆している。邦訳は以下を参照。ルネ・デカルト『増補版 デカルト著作集2』、所雄章ほか訳、白水社、2001年、207-240頁。また、ちくま学芸文庫版の『省察』(山田弘明訳、2006年)には、「反論と答弁」は収録されていないが同書の刊行経緯を含む詳細な解説が付されており、参考になる。
☆5 ボロメオの環とは、絡みあう3つの輪で形成される図形のこと。柄谷行人が資本、ネーション、国家の関係を説明するために用いたことで知られる。詳しくは本連載第4回(『ゲンロン17』、159頁訳注6)を参照。
☆6 以下を参照。Philip Mirowski, More heat than light: Economics as social physics, Physics as nature's economics (New York: Cambridge University Press, 1989). なお、該当の記述は冒頭の献辞にある。


ユク・ホイ