当事者から共事者へ(21) 共事者の困難と、新しいスタートライン──沖縄取材記(後篇)|小松理虔
アジア最大の飛行場へ
金武町名物のタコライスで満腹になった腹をさすりながら向かったのは、極東最大の米空軍基地、嘉手納飛行場だ。ガイドのシマさんによると、我々は飛行場のすぐ隣にある「道の駅かでな」を目指すらしい。極東最大というだけあり飛行場は非常に広大で、近づいてくると四方すべてが基地のよう。本当に「そればかり」だ。車中でふと思い出したのは、原子力関連施設が立ち並ぶ青森県六ヶ所村の風景だった。六ヶ所村を訪れたことは少し前にこの連載で紹介しているが、村のあちこちに再処理工場など原子力関連施設が立ち並び、かつそのどれもが巨大で、その施設ばかりが目に入ってしまうのだ。原子力関連施設と米軍基地。まったく分野は異なるけれど、その地域をそれ一色で染め上げてしまうという点では共通しているように思える。
道の駅かでなに到着して、さらに度肝を抜かれた。道の駅そのものが監視塔のようになっているのだ。四階建ての一階部分は物産ショップや飲食店が並ぶごく普通の道の駅なのだが、最上階が展望台になっており、しかもそのデッキが基地の方向にぐいっとせり出している。シマさんは「観光地になって誰もが入れるからこそ、監視の役割も担うことになっているんです」と説明してくれた。
監視と観光。両者は異なるものだし、その機能をしっかりわけたほうが、それぞれに求められている役割を果たせるのでは?とも思うが、そうなってはいない。堂々と監視塔を建設できないからこそ、観光施設に「擬態」しているのだとぼくは理解した。最初から米軍の監視塔という位置付けにしてしまうとハレーションが起きかねない。しかし観光客として不特定多数の人が来れば、その人たちの視線にさらされることになる。だからここに展望台付きの道の駅ができたのだろう。
展望スペースはとても広く、眺望がすばらしかった。青空と木々の緑の真んなかにドーンと飛行場があり、そのすぐそばに嘉手納の街並みが見える。真正面には滑走路が横向きに走っていて、日本の空港でよく見るジャンボジェット機と同じくらいの大きさの……輸送機だろうか、灰色の米軍機が何機か待機していた。
ふと脇を見ると、展望台の一角に騒音を計測するメーターがついていた。何デシベルの騒音が発生しているのかをリアルタイムで確認することができるようだ。空間線量のモニタリングポストみたいなものだろう。不謹慎だが、メーターがあるから余計に数値が気になった。妻も娘も同じだったようで、ヘリコプターや輸送機が着陸するたびに「何デシベル!」と数値を報告し合った。
ぼくが体験したものに限れば、ヘリコプターや輸送機は40から50デシベルほど。両耳を塞ぐほどではないが、十分に騒音と呼ぶべきものだった。戦闘機ともなると100デシベルを超えるそうだ。せっかくならそれを体験してみたいという思いに駆られて、結局ぼくたちはそこに1時間近く滞在することになった。
この道の駅の最大の特徴は「嘉手納飛行場が見える」ことだ。だからこそたくさんの人がやってくる。外国の飛行機が見られることは魅力的だし、正直、軍用機を見て「かっこいいな」と思ってしまうことはぼくにもある。他方で、基地があることで地元は大きな負担を強いられる。有事となれば攻撃対象となって被害を受けるのは沖縄の人たちだ。嘉手納飛行場がオープンなものになれば、ふまじめな人たちの態度も可視化され、その態度が地域の人たちをさらに傷つけることもあるだろう。けれど、こうしてオープンになっているからこそ、図らずも基地とまちの距離の近さや米軍機の騒音のひどさを体験してしまい、この地の矛盾を「自分ごと」として捉えるようになる人だって、きっと生まれているはずなのだ。
シマさんは言う。「表面には出さなかったとしても、今の米軍基地のあり方に対してめっちゃ怒ってる人は多いですよ。だからこそ、単なる意見の表明で終わらせちゃいけないし、考えることをやめちゃいけないんです。オープンにすればいろいろな人が来ますけど、数打ちゃ当たるし、届く人もいるって思ってますから」。
数打ちゃ当たる。思えば、ぼくもそうだった。事故を起こした福島第一原子力発電所の沖で海洋調査を企て、福島の魚を存分に食するイベントを開催し、外からやってくる人たちを車に乗せ、津波や原発事故の被災地を何度も案内した。一体そのうちどれだけの人に、ぼくの思いが届いたかはわからない。一体どれほどの人が、震災と原発事故を自分の問題として捉えてくれたのかもわからない。だが、一人でも二人でも、何かが刺さってくれればいい、何かしら届けばいいと思い、震災後のいわきで、さまざまな活動をしてきた。ぼくもまた、自分の圧倒的な非当事者性を自覚しながら、それでも開くことのできる自分なりの問題意識を育てていくほかない。そう思った。
小松理虔
1 コメント
- Kokou2023/07/15 08:48
ゲンロンβも次号で終刊となる。思えば、ゲンロンβに感想を最も熱心に書いたのは、小松さんの文章だったと思う。年齢が近い、地方出身である、男性であるという共通点や、専門家や物書きとは違った文体や語彙が、自分にとって受け入れやすかった。今号の内容も「共事者」を考える上で、とても大切なことなので、感想を書いていこうと思う。 共事者とは「なってしまう」類のものだと小松さんは述べている。目指すものでも、認められるものでもないという。最近、國分功一郎さんの「目的への抵抗」を読んだ。そこでは、目的とはまさに手段を正当化するものであるというアーレントの定義が引用されている。今号の小松さんのエピソードで言えば、共事者になるという目的を持った小松さんと、沖縄を学び、楽しんだ奥様、娘さんの共事者になってしまう、という違いに示唆を与えるものだと思う。 目的を持って訪れることは、自分が見たもの、聞いたことに対して、自身の思い込みが作用しやすい状態であるとも言える。より具体的な目的があるほど、それに沿ったストーリーを構成する材料を探してしまう。他方、訪れた場所を素直に楽しみ、驚くことは、場合によって、軽薄であったり、迂闊さがつきまとうかもしれない。いわゆる観光客的な振舞いだろう。ただ、そんな態度が偶発的な言葉を生み出し、当事者/非当事者とは別の回路へ迂回するきっかけだとも思う。 文中で先知恵/後知恵に関する記述がある。先知恵が学術的な知、後知恵は振り返ったときに生まれた言葉であると整理している。これを読んで思うことは、知恵だけが身につくわけではないということである。学んだ結果として、感情や感想が生まれ、知恵と強く結びつくのではないか。先に知ることで、強い先入観にとらわれてしまうこともありうる。 もちろん、何も学ばないことを奨励するわけではない。矛盾する表現だと思うが、目的のない学びというものがあってもいい。目的を設定して、常にまじめに学び続けるというだけでは息苦しい。興味関心のおもむくままに、ふらふらとふまじめな学びを続けることも、一方で大切なことだ。私がゲンロンに出会って、こうして感想を書くようになったのも、目的なく自分の日常から飛び出した結果だと、今になって思うしだいである。次回の最終回も楽しみにしている。
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