当事者から共事者へ(21) 共事者の困難と、新しいスタートライン──沖縄取材記(後篇)|小松理虔

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初出:2022年6月22日刊行『ゲンロンβ82』
 夏休みを利用して、小学2年生の娘と妻と沖縄取材に出かけた小松さん。『ゲンロンβ79』に掲載した前篇では、沖縄を訪れた人に研修プログラムを提供している「株式会社さびら」のガイドである島袋寛之さん(シマさん)、野添侑麻さん(ユマちん)とともに、戦跡や、基地近くの学校を巡りました(URL= https://webgenron.com/articles/gb079_01/)。タコライスで腹ごしらえをした小松さん一向は、「東アジア最大の飛行場」へ向かいます。(編集部)

アジア最大の飛行場へ


 金武町名物のタコライスで満腹になった腹をさすりながら向かったのは、極東最大の米空軍基地、嘉手納飛行場だ。ガイドのシマさんによると、我々は飛行場のすぐ隣にある「道の駅かでな」を目指すらしい。極東最大というだけあり飛行場は非常に広大で、近づいてくると四方すべてが基地のよう。本当に「そればかり」だ。車中でふと思い出したのは、原子力関連施設が立ち並ぶ青森県六ヶ所村の風景だった。六ヶ所村を訪れたことは少し前にこの連載で紹介しているが、村のあちこちに再処理工場など原子力関連施設が立ち並び、かつそのどれもが巨大で、その施設ばかりが目に入ってしまうのだ。原子力関連施設と米軍基地。まったく分野は異なるけれど、その地域をそれ一色で染め上げてしまうという点では共通しているように思える。

 道の駅かでなに到着して、さらに度肝を抜かれた。道の駅そのものが監視塔のようになっているのだ。四階建ての一階部分は物産ショップや飲食店が並ぶごく普通の道の駅なのだが、最上階が展望台になっており、しかもそのデッキが基地の方向にぐいっとせり出している。シマさんは「観光地になって誰もが入れるからこそ、監視の役割も担うことになっているんです」と説明してくれた。

 監視と観光。両者は異なるものだし、その機能をしっかりわけたほうが、それぞれに求められている役割を果たせるのでは?とも思うが、そうなってはいない。堂々と監視塔を建設できないからこそ、観光施設に「擬態」しているのだとぼくは理解した。最初から米軍の監視塔という位置付けにしてしまうとハレーションが起きかねない。しかし観光客として不特定多数の人が来れば、その人たちの視線にさらされることになる。だからここに展望台付きの道の駅ができたのだろう。
 こちらは、双葉郡双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館の屋上から中間貯蔵施設を見渡せる、あの場所に似ているかもしれない。観光施設と学習施設が混在し、屋上から最重要地点の現状を見ることができ、一般の人たちによる観光と監視が不思議と同居している、そんな場所。福島第一原発も早く誰もが見学できる場所になればいいのだが。

 展望スペースはとても広く、眺望がすばらしかった。青空と木々の緑の真んなかにドーンと飛行場があり、そのすぐそばに嘉手納の街並みが見える。真正面には滑走路が横向きに走っていて、日本の空港でよく見るジャンボジェット機と同じくらいの大きさの……輸送機だろうか、灰色の米軍機が何機か待機していた。

 ふと脇を見ると、展望台の一角に騒音を計測するメーターがついていた。何デシベルの騒音が発生しているのかをリアルタイムで確認することができるようだ。空間線量のモニタリングポストみたいなものだろう。不謹慎だが、メーターがあるから余計に数値が気になった。妻も娘も同じだったようで、ヘリコプターや輸送機が着陸するたびに「何デシベル!」と数値を報告し合った。

 ぼくが体験したものに限れば、ヘリコプターや輸送機は40から50デシベルほど。両耳を塞ぐほどではないが、十分に騒音と呼ぶべきものだった。戦闘機ともなると100デシベルを超えるそうだ。せっかくならそれを体験してみたいという思いに駆られて、結局ぼくたちはそこに1時間近く滞在することになった。

道の駅かでなの展望フロア


道の駅の展望台には騒音がリアルタイムで掲示される
 100デシベルをぼんやりと待ちながら、騒音を楽しむことができる自分たちの圧倒的な非当事者性に困惑する。ぼくたちの望みがかなうことは、嘉手納の人たちが実際の騒音に苦しめられることだからだ。だが、それを体験しないことには、どの程度の騒音なのかもわからない。100デシベルを知ることは、嘉手納の人たちに「共事」することになるはずだ。いや、そんな胸の内をシマさんたちに悟られるわけにもいかないだろうと思い直し、ちょっと深刻そうな顔をして、ぼくは周囲を見渡した。すると、飛行場をバックにピースをしたり、カップルで体を寄せ合ったりして撮影する人、「映え」を気にして何度もカメラの角度を調整している人がいた。巨大な望遠レンズを担いでいる人も大勢いた。

 この道の駅の最大の特徴は「嘉手納飛行場が見える」ことだ。だからこそたくさんの人がやってくる。外国の飛行機が見られることは魅力的だし、正直、軍用機を見て「かっこいいな」と思ってしまうことはぼくにもある。他方で、基地があることで地元は大きな負担を強いられる。有事となれば攻撃対象となって被害を受けるのは沖縄の人たちだ。嘉手納飛行場がオープンなものになれば、ふまじめな人たちの態度も可視化され、その態度が地域の人たちをさらに傷つけることもあるだろう。けれど、こうしてオープンになっているからこそ、図らずも基地とまちの距離の近さや米軍機の騒音のひどさを体験してしまい、この地の矛盾を「自分ごと」として捉えるようになる人だって、きっと生まれているはずなのだ。

 シマさんは言う。「表面には出さなかったとしても、今の米軍基地のあり方に対してめっちゃ怒ってる人は多いですよ。だからこそ、単なる意見の表明で終わらせちゃいけないし、考えることをやめちゃいけないんです。オープンにすればいろいろな人が来ますけど、数打ちゃ当たるし、届く人もいるって思ってますから」。

 数打ちゃ当たる。思えば、ぼくもそうだった。事故を起こした福島第一原子力発電所の沖で海洋調査を企て、福島の魚を存分に食するイベントを開催し、外からやってくる人たちを車に乗せ、津波や原発事故の被災地を何度も案内した。一体そのうちどれだけの人に、ぼくの思いが届いたかはわからない。一体どれほどの人が、震災と原発事故を自分の問題として捉えてくれたのかもわからない。だが、一人でも二人でも、何かが刺さってくれればいい、何かしら届けばいいと思い、震災後のいわきで、さまざまな活動をしてきた。ぼくもまた、自分の圧倒的な非当事者性を自覚しながら、それでも開くことのできる自分なりの問題意識を育てていくほかない。そう思った。

道の駅の展望台から嘉手納のまちを見下ろす。このエリアに人や住まいが集中している


アジア最大とあってひっきりなしに米軍機が離陸していく
 帰り際、道の駅の3階にある展示学習室を見た。そこには多くの写真やジオラマなどがあり、この基地の開発の歴史や現状の課題を学ぶことができた。ショッキングな数字を目にした。1945年の飛行場建設開始以降、嘉手納町の面積のじつに約82%にのぼる広大な土地が、飛行場や弾薬庫の敷地として接収されたという。住民は今も、残された約18%のわずかな土地での生活を余儀なくされている。まちの八割が米軍基地。まちづくりも大きな制約を受けるはずだ。

 いや、まちづくり以前に、生活そのものが大きな制約を受けている。嘉手納町のウェブサイトに、こんな記述がある。「地域活性化の主柱となる生産活動の基盤整備やまちづくりなど大きな制約を受け、恒常的に発生する航空機騒音等もあって町の衰退の要因となり、『基地の島、沖縄の縮図』といわれてきた」。その構図は今なお解消されていない。そればかりか、縮図であることそのものが、ある意味で嘉手納町の観光を支えてもいる。なんとも言いようのない難しさ、出口の見えなさ、やるせなさを感じずにいられない。だが、そこに観光があることに、じつは救いもある気がする。観光客が訪れることで問題は外に伝えられ、基地の問題について考える人たちを生み出してくれるからだ。嘉手納飛行場とは異なり、観光地化されることもなく、他者から強い関心を寄せられることもなく、ひたすらに除染で取り除かれた土を受け入れ続けている双葉郡の「中間貯蔵施設」のことが頭に浮かんだ。

 何かお土産でも買っていこうと思って売店に行ってみると、U. S. AIR FORCE のTシャツや米軍機の写真が販売されている。ぼくの地元に当てはめるなら、TEPCOのTシャツや原子炉建屋の写真を販売するようなものだろうか。商店主はどういう気持ちでこれを販売し、購入者はどういう気持ちでそれを買っていくのだろう。経緯や背景に思いを馳せると、そう簡単に「嘉手納町はこうすべきだ!」という意見を出すのは難しくなる。いっぽうでこんなことも考えた。仮にこの嘉手納基地がすべて嘉手納町に返還されたとする。その跡地をどう活用するのか。「18%」に暮らす人たちに、「82%」の活用方法を考えるだけの余力はあるのだろうか。返還されたとしても、また巨大なモールやリゾート地が、現地の人たちの意見が反映されない形で建設されるだけなのではないかと。

道の駅で見つけたTシャツ

寄り添われていたのは、ぼくたちのほうだった


 1日がかりのツアーも終盤へと入り、ユマちん(このツアーのもう一人のガイド)の運転する車は、嘉手納町から那覇市への帰路についていた。道の駅からいったん西へ向かい、沖縄市コザ地区から沿岸の北谷ちゃたん町へと入っていく。このあたりはアメリカ人兵士が数多く暮らすエリアだそうだ。自転車に乗った米兵が道路を横切ったり、迷彩服を着たままの米兵が自宅の庭で愛犬と遊んでいたりするのが見えた。住宅の建築様式も手伝ってか、目の前の風景は、ちょっと古いアメリカ映画のワンシーンみたいだ。

 道中、娘の取材メモを見せてもらった。

 みちのえきかでな。1万4000人のまちの人が、せまいところでがまんしてくらしている。よる、ねようとしたらひこうきのおとでねむれなさそう。
 ふてんまだいに小学校。校しゃのちかくにきちがある。ひこうきが校ていの上をとんでいる。ひこうきがうるさくてべんきょうできない。ぶひんがおっこちてきたらこわそう。
 キングタコス。タコライスはピリカラです。レタスとおにくとおこめとトマトとチーズがかかっててあせがでました。


 どれも子どもらしい感想だが、ぼくは「なかなかちゃんと取材してるじゃないか」と誇らしいような気持ちになった。ちょうどそのときだった。赤信号で車が止まり、娘がこんなことを言った。

 



「わっ、憧れのアメリカ人が歩いてる!」

 



 金髪で瞳が青く、軍服姿の米兵がちょうど車の脇を歩いていたところだった。車内は爆笑に包まれた。じつは娘は、YouTube でアメリカのポップミュージックのクリップを見るのが大好きで、この数年ケイティ・ペリーにハマっている。瞳が青くて、美人でスタイルがよくて、セクシーで歌も上手いのがケイティを好きな理由らしい。ぼくの知らないところでアメリカ人に憧れを抱いていた娘。最近は冗談半分で「アメリカで歌手になりたい」と口走っていたほどだ。

 嘉手納の道の駅を出てから、ずっと車内でシビアな話を繰り広げてきたので、なんてことを言うんだと一瞬思ったけれど、シマさんはニコニコしながらこう返した。

「そうか、佐和はアメリカ人が好きなんだ! シマさんも好きなんだよ、アメリカのヒップホップとかよく聞くし。俺はねえ、アメリカ人もアメリカの音楽も好きだけど、沖縄にはアメリカ軍の基地があって、いろいろ大変なこともある。だから余計につらいんだよ」。

 



 とても自然な感じで言葉を返すシマさんと娘のやりとりを聞いていて、ぼくはこんなことに気づかされた。共事者たらんと意気揚々と沖縄にやってきたのに、いつの間にか、ぼくは勝手にシマさんやユマちんに忖度し、こんなことを言っちゃまずいんじゃないか、これを言ったら気にするんじゃないかというような配慮ばかりしていたのかもしれないと。

 娘が「憧れのアメリカ人!」と話したとき、ぼくはかなりドキッとした。ひょっとすると、その「ドキッ」こそ、沖縄を語りにくくしている正体なのかもしれない。沖縄の人たちに寄り添っているようで、話を聞いているようで、現地の人たちの顔色を伺い、正しい応答をしなければと思っていなかっただろうか。そんなまじめな思いこそ、じつは沖縄を(引いては福島を)語りにくくしているものの正体なのではないか。

 



 シマさんも、ユマちんも、ここまで書いてきたように、たったの一度も、「沖縄人としてこう思う」というような言い方はしなかった。ぼくの不勉強を叱ることもなく、激しい口調で娘を諭すようなこともなかった。だけれど、ぼくたちはどうしたって、2人が話す内容に強い当事者性を感じてしまう。そこには「正しさ」が生じる。本人たちがそうは思わなくても、ぼくたち外側にいる人間はそう受け取ってしまうのだ。

 そうならないように、ぼくは「共事者」という言葉を発明した。当事者と非当事者の間、被害と加害の外側を探ろうとした、はずだった。でも、それが難しい。沖縄はかつての戦地だ。そこには強烈な「被害と加害」の構図がある。ぼくたちは、その歴史をしっかり学ばねばと思えばこそ、もしかしたらシマさんやユマちん以上に、加害と被害の構図を内面化し、被害者に寄り添わねばと考える。当事者が語る言葉は、当事者が思う以上に強く、ぼくたちは、ぼくたちが考える以上に、その言葉を正しいものと受け止める。そこに「落とし穴」がないか。沖縄で共事者であることとはいかなることなのか。ぼくはよくわからなくなってしまった。

 ツアー中は多くを語らなかったが、妻は「100デシベル」に触発され、沖縄旅行の3日目に「もう一度チャレンジしたい」と嘉手納飛行場を再訪している(結局100デシベルは体験できなかったが)。娘や妻のほうが、ぼく以上に共事者の姿を見せてくれていたのかもしれない。

 



 娘が意気揚々とアメリカ人への憧れを語るなか、ユマちんの運転する車は、北谷町から浦添市に入っていた。ツアーの最後に訪れたのは、浦添市に新しくできた「サンエー浦添西海岸パルコシティ」というショッピングモールだった。とてつもなく巨大なモールで、商業施設の面積でいうとイオンモール沖縄ライカムに次いで県内で二番目だという。そして、ライカム同様、このモールもまた「もともと米軍関連施設があった場所」に建てられている。

 モールのある一帯はかつて「キャンプ・キンザー」(牧港補給地区)と呼ばれる米軍の関連施設であり、2018年に返還された。その基地の海側を埋め立てて造成した土地にモールが建設されたそうだ。名前からもわかるように、モールには地元企業の「サンエー」が参入していて、ほかの開発事業のような「県外資本オンリー」ではない。そんな事情もあって、このモールには現地の関係者の大きな期待が寄せられているのだそうだ。

 ただ、シマさんたちがぼくらを連れてきたかった場所は、このモールではなかった。モールの向かい側にある海だったのだ。車を降り、少し西に傾いた夕陽を眺めながら歩いて海に出る。そこは美しい磯場だった。小さな熱帯魚が泳いでいるのが見えるほど水が澄んでいる。だがこの海もまた、基地の移設問題で揺れている。将来的に、米軍の港湾施設が建設されるかもしれないという。こんなに美しい磯場を犠牲にして新しい基地を作るなんて、にわかには信じられない。

埋立されるかもしれない浦添の海。広々とした磯場がとても美しい

もうひとつの基地移設問題


 なぜ今更、新しく米軍基地がこの地に整備されようとしているのか。少し補足が必要かもしれない。浦添市のすぐ南にある那覇市内に、「那覇軍港」と呼ばれる米陸軍の港湾施設がある。日米両政府による1974年の合意で、移設を条件に返還されることになり、95年に浦添市沿岸部への移設が決まった。那覇軍港は、近年は限定的な使用のみでほぼ遊休化していたこともあり、現地住民からは移設ではなく無条件返還すべきという声も上がったという(最近ではオスプレイの訓練などが行われており、住民から懸念の声が上がるなど状況が変わりつつあることを付言しておく)。だが、それまで移設反対の立場だった浦添市長が突如容認に転じ、計画が動き始めたのだそうだ。

 沖縄の米軍基地移設問題といえば、普天間基地の辺野古への移設を思い浮かべる人が多いと思うが、それだけじゃなかった。ただ、那覇軍港の移設計画は普天間とは異なり、国も沖縄県も那覇市も浦添市も強く反対していない。県や那覇市は、軍港跡地の開発を経済の起爆剤にしたいと考えているからだ。浦添市もまた、独自にマリーナやリゾートホテル、商業施設などを整備する「コースタルリゾート計画」をぶち上げていて、国が提示する「軍港と民港の同時開発案」に乗り気なのだという。沖縄県も那覇市も、そして浦添市も賛成した上での基地利用なのだとすれば、それは大きな事業になり得るはずだ。ニュースにする価値もあるだろう。しかし、皆が賛成しているからこそメディアは取り上げないというねじれがある。メディアは、敢えて言えば「基地に反対する沖縄」をわかりやすく伝えたいのだ。賛否両論渦巻くからこそネタになるわけで、みんな賛成ならばニュース性はないと彼らは判断する。普天間の厳しい反対と盛んな報道、それとは真逆の、浦添の不思議なほどの静けさ。それがとても気になった。

 



 それに、自治体が皆賛成だからといって、地元の人たちもそうだとは限らない。シマさんは海を眺めながら、「人口の多い那覇の周辺で、こんなにきれいで手つかずの自然が残っている場所なんて、ここ以外ないんですよ。それなのにまた軍港を開発するなんて、ちょっと考えられない」と言う。ユマちんも、こう疑問を呈した。「海の目の前を走る湾岸道路だって、2018年の返還後に完成したばかりの道なんです。それまでは、風景が一番きれいな場所を米軍が独占してたわけですよね。ぼくらはドライブすることも遊ぶこともできなかった。ようやく戻ってきた海なんです」。

 この場所は、市民がようやく手に入れた手つかずの海だ。タツノオトシゴやクマノミなどの水中動物も観察できるというし、沖に向かってサンゴが広く生息しているのだそうだ。モールがオープンしたことで多くの市民がこの場所を訪れるようになり、地元の人たちも、那覇軍港の移設問題に関心を持ち始めているようだ。

 ユマちんは、この場所について「どう活用するか自分たちも一緒に考えたい」と言った。米軍から取り戻した土地をいったいどうするのか。いかに市民の手に取り戻し、次の世代に受け継いでいくのか。それはつまり「復興」の話だと思った。自分たちのまちの復興に関わることができない悔しさ、無力感は理解できる。この言葉には心の底から共感した。

 



 沖縄の海は、美しい眺望が楽しめる砂浜や、軍事施設に利用できそうな遠浅の砂浜から先に米軍に接収されてきたという歴史がある。沖縄でもっとも美しい場所は、たいてい米軍や米兵が占有してきたわけだ。一度米軍の関連施設になってしまうと、監視の目も行き届かず、沖縄県民の目に触れることも少なくなってしまう。だから、この浦添西海岸のように、返還されて初めて美しい自然が「発見」されることになる。「道の駅かでな」のように、観光と監視、基地が共存するような場所は珍しいということかもしれない。

 基地の返還や跡地利用は、日米両国や沖縄県、市などの自治体を交えて大規模に行われる。だからどうしたってグローバル資本を投入するビッグプロジェクトになってしまう。これまでに返還された土地は、リゾートホテルやビーチ、ショッピングモールなどに姿を変えてきた。いくら一緒に考えたいと思っても、住民がまちづくりに関わることは難しい。土地自体は返還されても、その地域の未来を自分たちで考える権利までは返還されないのだ。

 それでもユマちんは言う。「結局、返還されたあとの土地に、どういう地域をつくるのか、どうまちをつくっていくのか、沖縄の自治体も、ぼくたちも問われてるってことだと思います」。現状に対する怒りや焦燥感、無力感もきっと強いだろう。だがそれでもなお、「自分たちの地元のことを自分たちで決めたい」という、ぼくにも共感できる立ち位置で基地問題を語ってくれたのがこの青年だった。これが小名浜だったら? いわきの海の話だったら? 原発事故や震災の話だったら?と少し自分ごととして考えることができたように思う。西浦添の海の奥に、小名浜の仲間たちや小名浜港の姿を思い浮かべた。

浦添の海で話を聞く筆者と娘


上空を飛ぶオスプレイと見られる米軍機

土地の困難に共事すること


 沖縄県は一方的に基地負担を強いられ続けているばかりか、基地の多くは、第二次世界大戦の大きな犠牲の上に成り立っている。ぼくたちはそんなふうに、沖縄に旅をする前から、沖縄をとてつもなく大変な土地だとイメージしている。太平洋戦争で米軍に蹂躙され、巨大な基地の負担を強いられ、日米両政府に翻弄され、傷ついている土地なのだと。

 だが、自戒を込めてこんなことも考える。こうして沖縄を「紋切り型」で考えることそれ自体が、沖縄を一方的な「被害者」の側に押し留め、複雑な問題を単純化することにならないかと。問題の背後には自治体が果たすべき役割があるかもしれないし、地元の企業の捉え方などを知る必要があるかもしれない。考えるヒントは数多くあるはずだ。

 それに、前回の記事の最後に書いたけれど、沖縄に米軍基地があるという事実は、必ずしも大多数の日本人の関心ごとではないかもしれない。おそらく、そこを訪れている大勢の人たちにとって、沖縄はやはり「南の島のリゾート」であるだろう。ぼくたちが沖縄の被害者の側面ばかりに着目し、困難や障害の部分だけをクロースアップして伝えようとすれば、沖縄を何重にも「悲劇の土地」に固定し、語りにくさを増強することにならないか。

 同じことを福島に当てはめてみる。福島は被災地だ、放射能汚染されている、皆さんは助けが必要だろう、壊れた原発を抱え、処理場をつくり、それに向き合わねばならない。そんな土地に暮らしていて皆さんは大変だろう。福島は何重にも悲劇の土地なのだ、などと言われたら相当ムカつくにちがいない。

 だからと言って、沖縄の基地負担や人権侵害には一切目を向けず、チャンプルー文化が花開くリゾート地としてのみ存在すればいいのかと言われれば、もちろんそうではないはずだ。基地問題を放置していいとも思えないし、リゾート地を遊び尽くして課題を不可視化してしまうのもまた、現状の固定に力を貸すことになる。基地問題も沖縄戦の悲惨な歴史も、現実としてここにある。その一方では「観光立県」として経済も活性化させなければならないし、まちづくりも進めなければならない。そんな沖縄にシマさんにもユマちんの暮らしがあるのだし、リゾートや基地問題ばかりが沖縄の日常ではない。だからこそ、ユマちんが最後に語った、返還された基地を「どう活用するか自分たちも一緒に考えたい」という言葉が強い力を持って響いたはずなのだ。特別な体験をしている沖縄の人、ではなく、ぼくにも共感できる「そこに普通に暮らしている人」の目線で語られた言葉だからだ。

 



 今回ぼくが書いてきた「沖縄観光記」を読み返すと、シマさんとユマちんの日常について書いている文章ではあるものの、二人を「被害者」の立場に固定してしまっていることに気づかされる。戦争や基地に関するツアーだったから、二人が語られた話を柱にするしかなかったという事情はあった……にせよ、結局ぼくが書いてきたのは「大変な思いをしている沖縄」という、これまで何度も何度も語られてきた沖縄の焼き直しでしかなかったということだ。車のなかで語った教育の話や音楽の話、酒場で語ったこと、娘の語ったアメリカ人の話、おもしろい話はいくらでもあったはずなのに……メモにも残っていない。シマさんやユマちんを一方的な被害者に押し留めていたのは、結局のところぼくだった。

 二人には、当然普段の暮らしがある。自分の暮らすまちで、家族や仲間たちと、楽しく自分らしく暮らしたい。好きな音楽を聴いて、たまにスポーツを楽しんで、週末は飲みに出て、うまいメシを食いながら笑い合いたい。そんな、何も特別じゃない普通の話をもっと聞かなければならなかったのではないか。まさに二人の日常に「共事」し、同じ風景を見、共に時間を過ごしてみて初めて、等身大の沖縄に出会い直すことができるのかもしれない。

 どれほど寄り添おうと思っても、自分には頻繁に沖縄に取材に来る余裕もなければ、直接的に沖縄の地域づくりに関わるチャンネルもない。ぼくにできるのはせいぜい、1年に1度、この8月に、日本がかつて行った侵略戦争に思い馳せ、その犠牲に手を合わせたり、沖縄の基地問題を伝えるニュースを見て「なんとかなんねえのかよ」と思ったり、たまにこうして沖縄を訪れ、シマさんやユマちんの話を聞いたりすることくらいだ。でも、それでいいのではないか。

 シマさんもユマちんも、一方的な被害者ではない人格を持っている。東日本大震災の被災地であるいわき市民のぼくが被災者であると同時に、被災者だけではない個性を持った一人の人間であるのと同じことだ。「被災者」や「沖縄県民」であることも頭に入れておきながら、当事者性の強いワードを外し、まさに等身大の、「一人の人間」として接する。そんなコミュニケーションができたらいい。

当事者ワードを外してみる


 当事者ワードを外す、というところで思い出したことがある。少し脱線したい。以前、地元で制作している福祉メディア「igoku」の取材で、認知症専門のグループホームを訪問したときのことだ。取材前は少し不安だった。「認知症の人たちは何もできないのではないか」とか、「支援の現場は大変なのだろう」などと心配していたからだ。ところが、実際に取材してみると、まったくそんなことはなかった。平穏な日常があっただけだった。たしかにぼんやりと虚空を見つめるような利用者さんもいたが、それはごくごく当たり前に「年寄りらしい」行動だったし、皆さん、普通に食事をしたりおしゃべりをしたり、歌を歌ったりしていた。ぼくが勝手に認知症に対して負のイメージを膨らませていただけだったのだ。

 この、いわば「当たりまえ」のことに衝撃を受けたぼくたちは、取材を終え、こんな話をした。認知症を困難なものにしているのは、ご本人の認知機能の衰えそのものより、周りの人々の勝手な思い込みやネガティブなイメージなのではないか。認知症になると何もできなくなる、認知症になったらすべてを忘れてしまう、外にも出られない、恥ずかしい。親が認知症になったら困る。そう思い込んでいるから、自分たちの親が認知症と診断されたとき、それが初期の段階だとしても、必要以上に先回りして支援しようとしたり、家に閉じ込めたりして、その人の可能性を削ってしまうような行動をとってしまうのかもしれないと。

 よかれと思って本来必要のない支援や行動制限をしていたら、本人はそのあとどうなるだろう。視力0.1の人が「0.01」の人が使うメガネを無理やり使い続けたら、メガネの矯正力のほうに実際の視力がフィットしてしまい、次第に0.01用のメガネが手放せなくなってしまうはずだ。それと同じで、周囲の勝手な思い込みやネガティブなイメージ、よかれと思ってしてしまう支援や応援が、その人の困難をより深刻なレベルに進行させてしまうこともある、ということだ。認知症をつくっているのは、我々のほうかもしれない。

 もちろん、だからと言って、そこで「認知症も普通の加齢と同じ」だと言ってしまったら暴論だろう。本人にしかわからない困難や苦労は厳然と存在しているし、認知症といっても症状は人それぞれで、人によって必要とされる支援や介助の場面は異なる。そもそも、ぼくが「意外と普通じゃん」と思えた理由だって、支援者が日々の仕事によって「普通の日常」を組み立て、かつご本人が快くぼくたちを受け入れてくれたからだ。

 



 ならば、ぼくたちはその日常に乗っかってみればいい。「認知症」という症状に関する情報も多少は頭に入れておきつつ、その人と向き合うときには、それをいったん外し、その人と向き合う」ことに徹してみればいい。そこで鍵を握るのが「ふまじめさ」なのではないか。あえてそこで「ふまじめさ」のスイッチを入れ、目の前の状況をおもしろがってみるのである。そうでもしないと、当事者性の強いワードはなかなか頭から外れてくれない。意識してふまじめになり、自分の関心や欲望から関わりの回路をつくることで、その人の本来の姿に接近するのだ。すると不思議なことに、その眼差しは目の前の人から跳ね返り、自分に向いてくる。目の前の普通を普通でなくしているのは、むしろ自分たちのほうなのではないかという気づきとともに。

 



 沖縄に話を戻す。シマさんとユマちんは、外からやってくる観光客や学生たちを相手にしている。問題だけをまじめに語っていても彼らには伝わらないはずだ。だから、シマさんとユマちんはある意味で「ふまじめさ」を意識して問題を外に開き、若者たち、よそ者たちと交流しようとしているのではないか。ところがぼくは、下手に予備知識があったためか、事前に収集していた「沖縄」の情報に合致する、いわば被害について語られたことを抽出し、文章を書こうとしてしまった。

 ユマちんは浦添の海で、基地は自分たちの問題だと語った。そして「まちづくり」の問題としてぼくに伝えようとした。それを正直に受け取り、ぼくにも関心のある領域から考えればよかったのだ。まちづくり、ローカル、地域というような論点なら、ぼくだって二人と同じ目線に立てるかもしれない。

 本土の人間が沖縄の当事者と同じ目線に立つなんて許せない、横柄で暴力的だと感じる人も多いだろう。それはぼくも意識している。ただぼくは、勝手な錯覚だとしても、ユマちんやシマさん、つまり現地の人たちとの共通言語を持たなければ、自分たちの問題として考えようとするスイッチが入らないのではないかと思う。彼らにいかに寄り添うべきなのか、という方向ではない。では自分はどうすべきか、いわきで何を考えたらいいのか、という身勝手な方向だ。

 



 浦添から那覇へと向かう国道58号線、通称「ゴーパチ」。アメリカンレトロなショップも見かけるが、全国チェーンの店も案外多いといういわきっぽい一画もあった。かと思えば、突如広大な米軍の施設が視界に入ってくる。夕方とはいえまだ陽は高く、窓を開けると蒸し暑い空気が車内に入ってきて、ここが真夏の沖縄なのだと思い出す。

 シマさんとユマちんのツアーは、沖縄の捉え方を大きく変えるものだったような気もするし、友人たちと久しぶりにドライブをしただけのような気もする。二人は、ガイドでありながら友人のようだった。それに妻と娘もいたからか、家族旅行のようでもあり、まじめな修学旅行のような瞬間もあった。沖縄の話を一方的に聞くだけでなく、ぼくも、震災や原発事故の話をした。そのたびに、ユマちんもシマさんも、ぼくの話に耳を傾け、意見を聞かせてくれた。「教える側/教えられる側」「話をする側/聞く側」というような区別も少しずつ融解し、なんというか、共に考え、共に笑い、共に学ぶ関係としかいいようのないものが車中にできあがっていた。

 



 車は渋滞を抜け、県庁のそばにあるホテルに着いた。妻も娘も大満足の様子だった。部屋へ向かうエレベーターのなかで、何を見てきたか、何を学んだかということ以上に、妻から「シマさんもユマちんも、ほんといい人たちだった。また次も会いたいね」という感想が出てきたところが、なおさらよかった。妻のなかでは(いやぼくのなかでも)、彼らはすっかり「沖縄の友人」ということになっているようだった。共事とは友になってしまうことだ。改めて、そう妻から教えられた気がした。

 部屋に荷物を下ろしたぼくは、シマさんたちの待つ居酒屋に向かった。シマさんが、ライター仲間を紹介してくれることになっていたのだが、酒を飲み始めたあとのことは正直詳しく覚えていない。島らっきょうをつまみながら、ひたすら「さんぴんハイ」を飲み続けた記憶だけがある。さんぴんハイは、焼酎を沖縄名物の「さんぴん茶(ジャスミン茶)」で割っただけのシンプルな飲み物で、ものすごく飲み口がよく、調子に乗ったぼくはそれを10杯以上は飲んだ。したたかに飲み、語り、握手をして別れると、もう何を話したかなんてすっかり忘れているのに、「いい夜だったな」という実感だけが残る。そんな時間もまた、当事と非当事の間に、細くとも強い関わりの回路を通してくれるとぼくは思う。

 24時間、365日、シマさんやユマちんと同じ空気を吸うことはできない。だが、沖縄の海を思うことならできるし、自分が暮らす地域ならばなんらかのアクションを起こせる。妻や娘と写真を見ながらツアーを振り返ることは今後何度もあるだろう。幸運にも、いわきには那覇で修行を積んだ店主が営業する沖縄料理店もある。そこで語り合うのもいいだろう。そんなふうに、個人的で、細くて、小さくて、ふまじめで、中途半端だけれど、自分にできること、続けられそうな手法で思考の回路を開き続けることならできる。

 そもそも、こんなたいそうな文章を書いていても、今回がようやく4度目の「来沖」だ。たった4回しか来たことがない。これからさらに、学ぶべきこと、新しい友人、そしてうまいものや魅力的な場所と出会えるだろう。次の日は家族三人で、沖縄本島南部を訪ねる予定になっていた。展示室が新しくなった「ひめゆりの塔」にも行くつもりだ。沖縄そばも食べたいし、やちむん(焼き物・皿や器のこと)も買いたかった。あちこちに、沖縄の魅力も歴史も、課題もその背景も立ち現れるはずだ。だからまずは、明日を全力で楽しむことだ。いや、その前にもう少しだけ、この酔いと旅の余韻を楽しもう。部屋に戻ったぼくは、妻と娘を起こさないように注意しながら、冷蔵庫に入ったオリオンの缶ビールに手を伸ばした。

基地問題の共事者とは


 沖縄での旅を終え、このレポートを書き、読み返していると、改めて共事することの難しさも見えてきた。ぼくはいつも、自分勝手に、自分の興味関心から課題と接すればいいんだ、ふまじめでいいんだ、などと言ってきたにもかかわらず、沖縄では、それが難しかった。本稿で何度も書いてきたけれど、沖縄という地域の課題や困難ばかりを予習しようとし、そこから得られた「被害者性」ばかりに気を取られ、日常風景や、現地の人たちの暮らしぶりを自分も楽しもうとできなかった。要するに、ぼくは「まじめ」過ぎたのだ。逆に言えば、沖縄という土地は、容易に人をまじめにしてしまう側面があるということかもしれない。

 沖縄に共事者として関わるということは、いったいどういうことなのか。そんな問いが、さらに大きな問いとなって立ち上がってきた10月のある日、沖縄に関する、ある衝撃的なツイートを目にすることになった。2ちゃんねる創始者のひろゆき(西村博之)氏が、テレビ番組の取材で沖縄の辺野古にあるキャンプ・シュワブを訪れ、抗議日数3011日目と書かれた掲示板のそばに立ち、笑顔で「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」と投稿したのだ。大きな騒動になったので覚えている人は多いことだろう。ニュースの顛末や抗議活動の実態、「ひろゆき的なもの」に対するさまざまな批評的言説については、ほかに詳しい記事や文章がたくさんあるからここでは詳述しないけれども、自分なりに考えを整理しておきたい。

 



 ひろゆき氏の発言や嘲笑に対して、ぼくは何ひとつ同意できる点はなく、徹底して批判されるべきだと考えているが、気になったのは、ひろゆき氏とテレビ番組に出演していた、ある若者のツイートだった。彼はひろゆき氏を批判するリベラル側の人たちに対し、ツイッターでこう言い放つ。「リベラルの排他性に反吐が出ます」。「第三者的に発言する事は悪なのか」。「自分達は関心を持ってる、沖縄の人の気持ちをわかってるから言う権利があるという事なのかな」。

 この意見を見て、ぼくは、あえて言えば「共事的」だなと思った。当事者以外は何も語ってはいけないのか。第三者的に発言する事は悪なのか。共感を得られないんじゃないか。なんだかぼくが普段から言っているような台詞ではないか。たしかに、この若者が言うように、ある社会課題について語ろうとすると、もっと正しく語るべきだ、運動の歴史を1から学ぶべきだ、という強い発言を頻繁に目にする。そして、そうした声は、たいていは当事者ではなくその周囲、むしろ当事者を支援する人たちから聞こえてきている。その意味で、ぼくはこの若者に賛同すべきかもしれない。

 一方で、この若者のツイートを批判する側の意見もよく理解できた。彼は座り込みは「入管施設内等の限られた手段しかない人」のためのものであり、キャンプ・シュワブのような方法は「行為の持つ意味を弱体化する」とも呟いている。その発言は、辛い状況に追い込まれ、厳しい声を上げざるを得ない人たちに向かって、安全圏から「そんな伝え方では伝わりませんよ」と上から目線で諭すように聞こえる。さらに、その発言は、困難を押しつけている政府のほうには向けられず、国家権力を公使されている側にのみ向けられていて、結果として現状維持に手を貸すことになっている。反対運動を続ける人たちにとって、この若者に賛同できる点などないだろう。沖縄の各地をめぐったぼくも、やはり沖縄の負担軽減を進めるべきだと思っていて、賛同できない点も多い。

 



 そこでもう一度考えたい。この若者の意見は「共事者的」だと言えるのか。

 考えてみたが容易に答えが出てこない。むしろ判断を保留したい気持ちだ。なぜか。「共事的か否か」をぼく自身が掘り下げて考えていけば、当然、共事者と非共事者の線引きをしなければいけなくなる。そして、その結果として、正しい共事や、あるべき共事を定義することにつながり、「当事者/非当事者」の線引きがもたらす分断を繰り返すことになる。「当事者か非当事者か」という二項対立の外に出るためにつくった言葉が、同じ分断をつくり出してしまったら、発明の意味がなくなってしまう。概念が曖昧なままのほうがいいのではないだろうか。

 だが一方で、ここまで連載を続けてきて、共事に関して「どうもこういうことなら言えるのではないか」ということも見えてきた気がする。「製造責任者」として最低限の定義を書いておかなければいけない。沖縄観光とひろゆき騒動。この2つを材料に、ここで改めて共事/共事者について考えてみたい。

 



 共事者とは、目指すものでもなければ、誰かに認められてなるものでもない。ならなければいけないものでもないし、正しい共事者があるわけでもない。「なってしまう」類のものだ。意識せずになってしまうものなのだから、どうすれば共事者になれるのかなんてぼくにだって説明は難しい。それに、共事者という言葉自体が、社会学や政治学など学術の基礎を踏まえて考案されたものではない。ぼくが実践のなかからたまたま編み出した言葉に過ぎない。先にあった言葉ではなく、あとになってから「つまりこういうことだったんじゃないか」と振り返ったときに生まれた言葉だということだ。その意味で共事者とは「後知恵」的な概念だと言える。これに対し、教科書や専門書が定義する言葉を「先知恵」と位置付けてもいい。「先知恵」という言葉の本来の意味とは異なるが、それを「実践前・体験前にインプットする知」と定義づけてみよう。そのほうが、「先」と「後」とで、イメージの違いがよりはっきりとする。

 先知恵は、専門家や研究者が書いた学術的な知だ。だが、それですべての問題が解決できるはずがない。日々の現場で人を相手にするとき、学術的な知恵や、科学的で正しい結果が通用しないなんてことはよく起きる。だからその都度、微調整し、やり方を変え、自らを省みながら実践を続けるほかない。実践のあと、現場での奮闘のあとで後知恵は立ち上がる。そうか、こういうことだったのか、これはこれでよかったのかもしれないと。いや、気づかないパターンもあるだろう。本人は楽しんでいるつもりでも、思い切り遊んでいるつもりでも、人と人の豊かな時間をぼくたちは立ち上げることができてしまう。その意味で、共事の種はすべての人に撒かれていると言っていいのかもしれない。種が発芽したのかしていないのか、スクスクと伸びているのかそうでないのかすらよくわからないまま、人は誰かを癒し、勇気づけ、背中を押してしまうことがあるということだ。だから思い切って、自分自身のチャンネルで、自分の好きなことや思いを大切に、言い換えれば「自分」という当事者性を通じて、現場と向き合い、他者に共事すればいい。

 正しさや知識なんて、ある意味でなんの役にも立たない現場にぼくたちは生きている。だからこそぼくは、それでも考え続け、対峙できる言葉が必要だと考えてきた。したがって先ほどの若者が共事者かどうかを判断することはしない。彼があとになって「自分は沖縄の共事者だ」と自覚したらそれでいいし、自分は間違っていたと気づいたならそれでもいい。人は現場に行き、人と会い、変化する。そうやって学んでいくのだ。その可能性を奪い、一瞬の発言だけで誰かを悪と決めつけてしまってはいけない。共事は、とても個人的で、細く、頼りない回路だが、すべての人に開かれている言葉だとぼくは思う。

 



 他方で、こんなことも考える。共事は、社会課題や当事者と距離をつめ、よそ者であるぼくたちが現場に深くコミットするきっかけを与えてくれる言葉でありながら、反対に、対象と距離を保つ、いわば「ちょっと待てよ」と立ち止まるための言葉でもあるのではないか。

 ぼくたちは、本稿で何度も繰り返し書いてきたように、困難を抱えた人たちを目の前にすると、思わずそこに「まじめに」関わらなければ、深くコミットしよう、現場に寄り添わねばと思ってしまう。だが、その先には「当事者性」の高さを突き詰める道しかなくなってしまう。現場に足繁く通って支援活動を始めるとか、当事者の代弁者となって社会に問いかけるとか、そういう関わりしか認められなくなってしまうのではないか。共事は、当事者になる入り口ではなく、むしろ当事者とはべつのかたちで関わる回路を開くためのものだ。何事に対してもすぐにアクションを起こさねばと思うぼくのような人間が、距離を保ち、複雑さに向き合う、そのために「立ち止まる言葉」だとも思う。危うくそのことを忘れてしまうところだった。

 



 だが、こうして定義を考えている間に、やはり「正しい共事」をぼく自身が探してしまっているような気がする。この連載も、そろそろ終わりにしたほうがいいのかもしれない。ぼくがこのまま連載を続けていけば、いずれは誰かを「共事者か否か」で線引きしなければいけなくなるからだ。共事がどういうことかなんて、みんなで探っていけばいいじゃないか。今すぐに結論を出さなくてもいい。ぼくが書ききらなくていい。研究を深めるのでも、突き詰めるのでもない。曖昧で中途半端なままで、現場で問い続け、関わり続け、考え続ける。そういう関わりでいい。共事者という言葉は、向かうべきゴールラインではない。誰もが立てる「スタートライン」だ。その先でどこに向かうのか、どう走るのかなんて人それぞれでいいはずだ。

 今回の沖縄観光も、ぼくにとってはスタートラインだ。これから何度も、沖縄をめぐり、戦争について考えることはできるし、その都度、自分なりの関わりを開けばいい。それはもちろん、まだまだ酒が飲め、うまいものが食えるということでもある。その先で、ふまじめで小さく、個人的な関わりを開いていけばいい。ぼくたちの現場での実践のあとに、「共事」はその都度新しい姿をぼくたちに示してくれるのではないだろうか。

写真提供=小松理虔



次回は2023年8月配信の『ゲンロンβ83』に掲載予定です。本連載は次回が最終回となります。

 

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司

1 コメント

  • Kokou2023/07/15 08:48

     ゲンロンβも次号で終刊となる。思えば、ゲンロンβに感想を最も熱心に書いたのは、小松さんの文章だったと思う。年齢が近い、地方出身である、男性であるという共通点や、専門家や物書きとは違った文体や語彙が、自分にとって受け入れやすかった。今号の内容も「共事者」を考える上で、とても大切なことなので、感想を書いていこうと思う。  共事者とは「なってしまう」類のものだと小松さんは述べている。目指すものでも、認められるものでもないという。最近、國分功一郎さんの「目的への抵抗」を読んだ。そこでは、目的とはまさに手段を正当化するものであるというアーレントの定義が引用されている。今号の小松さんのエピソードで言えば、共事者になるという目的を持った小松さんと、沖縄を学び、楽しんだ奥様、娘さんの共事者になってしまう、という違いに示唆を与えるものだと思う。  目的を持って訪れることは、自分が見たもの、聞いたことに対して、自身の思い込みが作用しやすい状態であるとも言える。より具体的な目的があるほど、それに沿ったストーリーを構成する材料を探してしまう。他方、訪れた場所を素直に楽しみ、驚くことは、場合によって、軽薄であったり、迂闊さがつきまとうかもしれない。いわゆる観光客的な振舞いだろう。ただ、そんな態度が偶発的な言葉を生み出し、当事者/非当事者とは別の回路へ迂回するきっかけだとも思う。  文中で先知恵/後知恵に関する記述がある。先知恵が学術的な知、後知恵は振り返ったときに生まれた言葉であると整理している。これを読んで思うことは、知恵だけが身につくわけではないということである。学んだ結果として、感情や感想が生まれ、知恵と強く結びつくのではないか。先に知ることで、強い先入観にとらわれてしまうこともありうる。  もちろん、何も学ばないことを奨励するわけではない。矛盾する表現だと思うが、目的のない学びというものがあってもいい。目的を設定して、常にまじめに学び続けるというだけでは息苦しい。興味関心のおもむくままに、ふらふらとふまじめな学びを続けることも、一方で大切なことだ。私がゲンロンに出会って、こうして感想を書くようになったのも、目的なく自分の日常から飛び出した結果だと、今になって思うしだいである。次回の最終回も楽しみにしている。

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