当事者から共事者へ 当事者から共事者へ(最終回)|小松理虔

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初出:2023年9月5日刊行『ゲンロンβ83』
 共事をめぐる長い旅も、いよいよ終わりに近づいてきた。2019年9月の連載開始からすでに4年近くの月日が流れている。この間、ほんとうにいろいろなことが起きた。濃密すぎる4年間だった。コロナ禍があり、ロシアによるウクライナ侵攻があり、安倍元総理が凶弾に倒れるという事件まで起きた。安倍氏の銃撃事件以降、政治と宗教の問題も取り沙汰された。最近ではジャニー喜多川氏による性暴力の問題も大きな話題になっている。

 震災と原発事故以上にショッキングな出来事なんて、もう経験することはないだろうと思っていた。いやそれ以前に、震災や原発事故を経験したぼくたちは、だれもが「震災前よりもいい地域にしよう」と思って活動してきたはずだった。だが、そうはならなかった。世の中の混迷は増し、人々の暮らしは豊かになったとは思えず、社会の分断はより深くなった。そして、事件や事故、社会課題が生まれるたび、新たな「当事者」が登場し、さまざまな声を上げている。 

 4年近くこの連載で考えてきたが、結局のところ「共事者」とはなんなのか、ハッキリと定義することはできなかった。いや、できなかったどころか、ぼくは定義することを途中で放り投げてしまった。だが、「共事とは何か」を考えることで、ぼくは社会について考える時間を持つことができたし、他者について考えることもできた。沖縄本島や六ヶ所村、水俣市などに出かけることもできた。共事とはなんなのかを考える時間が、ぼくの人生を豊かにしてくれたとも思う。

 連載の1回目のテーマは「福祉」だった。「フクシマではなくフクシを考えることから、この連載を始める」とぼくは書いたが、22回目、最後はやはり「フクシマ」の話で連載を終えたい。自分が暮らす地域のこと、自分たちが直面する課題など、タッチしやすいものから思考の回路を開いていくことが共事なのだと繰り返しこの連載で主張してきた。数年ぶりに訪れた福島第一原子力発電所。そこで目にしたもの、考えたことから、共事/共事者についてさらに考えを広げ、この連載を終えようと思う。

 



 2023年6月。4年ぶりに双葉郡にある福島第一原子力発電所を視察した。資源エネルギー庁の職員で、福島第一原発の廃炉汚染水対策官を務める木野正登さんが個人で開催する視察だった。イチエフの視察というと東電が主催するものがほとんどだが、木野さんは数年前から少人数の視察をコーディネートしている。特にこの数年「木野さんのツアーに行ってきた」という投稿をSNSで頻繁に見るようになり、その模様がメディアでも取り上げられていることから、地元でもその名を知られるようになっている。検索で引っかかる記事を見ると、原発賛成・反対を問わずさまざまな人たちが木野ツアーに参加しているようだ。木野さんは「賛否はともかく現場を見て欲しい」という思いで、こうしたツアーを企画するようになったのだという。

 イチエフから南に数キロ、富岡町の「さくらモールとみおか」で参加者たちと合流し、4人のグループで木野さんの車に乗り込み、イチエフへと北上していく。国道六号線ロッコクはいつも通り、たくさんのトラックや作業者が行き交っていた。富岡町の北部から大熊町にかけての区域は、住宅の解体も少しずつ進み、以前よりも「帰還困難区域感」がなくなってきているように感じた。帰還困難区域というと、草木は伸び放題で家は荒れ、住宅や道の入り口に鉄のゲートが置かれている風景を思い起こす。来る者を拒むような重苦しい雰囲気が満ちていたが、更地が増えた今は、かつてのような陰鬱な表情は少しずつなくなりつつある。

 だが、更地になったことで、よそから来たぼくたちのような人間がこの土地の記憶を辿ることは一段と難しくなったと言える。以前は、家があったからこそ、そこに暮らしがあったと理解でき、原子力災害の恐ろしさ、被害の複雑さについて考えることができた。なんの手掛かりもなくなってしまったら、想像することは難しくなるはずだ。災害で1度目の喪失を味わい、復興の過程で2度目の喪失感を味わう。よその被災地が経験したことを、この地も繰り返すことになるのだろうか。だが、それが復興であり、復興とは破壊を内包している。そのことを、ロッコクを通るたびに考えさせられる。

 木野さんの運転する車は、15分くらいでイチエフの正面に到着した。中へ入りセキュリティチェックを受ける。事前に届けていた名簿と持参した身分証が合致するか一人ひとり確認され、そこで紙製のベストを羽織り、そのポケットに線量計を入れ、先ほど渡されたセキュリティカードを掲げてゲートを通過すれば、いよいよイチエフ内部に入る。

 ゲートの外で移動用の車両に乗り換え、視察が始まった。久しぶりに来たイチエフは、以前よりも復旧・復興が進んだように見えた。さらに整然として感じられる。作業員の服装も、前に比べてますます軽装になっていた。最前線から来たと思われる車両には、さすがにフル装備の作業員が乗っているが、よほど線量の高い場所でなければ普段の作業着に近い服装で働けるようになったそうだ。我々も、長袖長ズボンであれば普段の私服でいいと言われていた。念のためマスクをするが、それ以外の装備といえば線量計を入れておくベストくらい。驚くほどの軽装で原発構内に立ち入れるようになっている。復旧の証だ。

 だが次のポイントで、さらに驚くような復旧の証を目の当たりにすることになった。車に乗り換えて数分もしないうちに、1号機から4号機までを見下ろせる高台に出るのだが、別の視察客の一団がすでにそこに陣取っていて、東電の社員と思われる人の説明を受けているのが見えた。かと思ったら、なんと、ぼくたちの車の後ろに次の視察客を乗せたバスがすでに待っていたのだ!

 まさか、この場所で視察客を乗せた車両の「渋滞」が起きるとは思わなかった。木野さんによれば、東電は30名程度の視察団を、多いときで1日に20組ほど案内するという。単純に計算すれば1日600人ほどになる。もしそれが日常的に行われるとすれば1カ月で1万8千人、それが1年続ければ20万人を超える視察客が訪れることになる。もはや立派な「観光地」ではないか! 

 ちょうどぼくが今回の視察を終えた直後に、東電が主催する原発視察ツアーが正式に行われることになったと、複数のメディアで報じられた。報道によれば、福島県が取り組む「ホープツーリズム」の商標使用が認められた旅行会社が実施主体となるという。視察受け入れのための整備も行われており、今回ぼくが降り立った高台が視察の目玉になるようだ。他の場所にも見学用の高台が整備されていると記事には書かれていた。福島第一原発の観光地化がリアルに進んでいるのだ。あくまで東電が許可した場所だけ、という条件付きだが、一般の人たちがこの場所を訪れ、原発のリアルな状況を確認できるというのは大きな進歩だと言える。

 



 ここで、ゲンロンが2013年に打ち出した「福島第一原発観光地化計画」に触れないわけにはいかないだろう。同計画は、文字通り福島第一原発を観光地化すべきだという提言であり、『福島第一原発観光地化計画』という書籍も出版されている。東浩紀さんを筆頭に、津田大介さん、開沼博さん、藤村龍至さん、梅沢和木さん、速水健朗さん、清水亮さん、井出明さんという、そうそうたる八名のメンバーが名を連ねており、さまざまな提言・提案を打ち出した。

 ゲンロンの10年来の読者なら、ことの顛末は知っているだろう。この計画はSNSで炎上し、提唱者の1人であったはずの開沼さんが公然と東批判を開始。毎日新聞で「東・開沼往復書簡」が繰り広げられるも、開沼さんは計画から離脱してしまう(この往復書簡を担当したのが当時は毎日新聞記者だった石戸諭さんであった)。計画の策定や出版に莫大な予算をかけたため、ゲンロンは経営的にも苦しい状況に追い込まれることになったそうだ(詳しくは『ゲンロン戦記』をご覧いただきたい)。

 ゲンロンとしては思い出したくもない「黒歴史」かもしれないが、福島のアクチュアルな問題として「観光/観光地化」という概念を打ち出した意義は大きかったと今も考えている。ぼくたちは、好むと好まざるとにかかわらず、どこかでよそ者を受け入れることでしか復興できないと思うからだ。現実として県外に避難した人の大半は戻っておらず、新天地での生活継続を望んでいる。よそ者に選ばれる土地にならなければ、まちを再生することもできない。

 同書の「はじめに」には、軽薄でふまじめな観光客が少しずつ「フクシマ」のイメージを変え、啓蒙と共感を広げる媒介のような存在になる期待が記されていた。そしてそのことを、ぼくたちは震災からの12年で実際に経験してきた。観光と復興は切り離せないものだとぼくは思うし、その思いは『新復興論』にも綴っている。

 ぼくは、その後、「観光」という概念は、被災地という具体的なフィールドだけでなく、社会課題や当事者性の強い障害福祉などの領域に対しても当てはまると思うようになった。この連載でも、障害福祉、高齢者福祉、あるいは「死」というものに対して自分なりの方法で共事する人たちを紹介してきた。そのような「ふまじめで軽薄な観光客」が課題解決の鍵を握ってしまうかもしれないという可能性は、ぼくのような人間にとっては希望そのものだった。

 このタイミングで改めて同書を見直すと、「ふまじめさの希望」のようなものをあちこちに感じる。当事者の声を拾いつつ、忖度せずに夢想を重ねているし、大人たちが幾ばくかの遊び心を持ちながら、己の立場や賛否を超え、真剣に福島の復興を語っている。現地の事情などよくわからない広告代理店の打ち出すウソっぽいプランよりよほど血が通っていると思うし、2023年から見直しても十分に力のある提言が随所に残されている。今このタイミングで広く読まれるべき本であることは、まちがいないだろう。

 同書が出版されて10年になる。じつは、ぼくはこの本の中で、蒲鉾メーカー「貴千」の広報担当、小松浩二として紹介されている。「理虔」はまだデビュー前だったのだ(笑)。また、同書に収録された「被災地に拠点をつくる」という対談の会場として、ぼくたちの拠点「UDOK.」が使われた。ぼくは『福島第一原発観光地化計画』の取材のタイミングでゲンロンに関わり始めたわけだ。この本を読み返すと、自分のこの10年のあゆみ、福島県の復興のあゆみを思い起こさずにはいられなくなる。

 先ほど紹介した八人のメンバーの何人かは、さまざまな出来事のなかで袂を分かち、ゲンロンを離れ、それぞれの道を歩んでいる。だがこの10年、皆それぞれに「福島」と「観光」に関わってきたことは変わらないのではないか。さまざまな人間模様も含め、2013年ごろの、だれもが熱く復興を語ろうとしていた時代を、どこか懐かしいような気持ちで思い出す。

 



 そして現在。ぼくの目の前には、初めて見る「壊れた原発」に声を上げているご一行。ぼくたちもまた少人数だがツアー客であることには変わりなく、ポカポカした陽気の中、「前のグループ、早く終わらねえかな」などと思いながら自分の番が来るのを待っている。観光地、そのものじゃないか。

 そのうちいつか、ツアー客用のおみやげや記念品が配られたりするのだろうか。人数が増えれば、それを当て込んだ周辺のツアーも充実化していくだろうし、宿泊業も多少は活気づくに違いない。人はやっぱりふまじめなもので、あれだけの災害を起こした福島第一原発を、見られるものなら見てみたいのだ。そんなふまじめさに復興も支えられている。

 ぼくたちの順番が回ってきた。視察用の高台に立ち、木野さんから1号機から4号機までの解説をしてもらう。それぞれの建屋がどのような状況になっているかは、情報サイトやニュースサイトを調べればすぐに見つかるのでここでは詳細な解説はしない。ぼくがここで紹介したいのは、高台から見えた、ある信じがたい光景のことである。

 ぼくが立っている場所からちょうど100メートルほど先。爆発のショックで外壁が吹き飛び、鉄の骨組みだけになっている1号機の最上部に、緑色の葉っぱをつけた植物が生えているのが見えた。目を凝らして何度もよく見た。ハッキリとは見えないが、それが木らしいものであることはたしかだった。

 ぼくは思わず「あれ、木が生えてませんか?」と周囲に声をかけてみた。すると、同行者からも「そうですね」「すごい、木が生えてる」という声が上がった。やはり、木が生えている。

 人間が立ち入ることのできない高線量の場所。しかも、爆発して骨組みだけになった最上部に木が生えているなんて、ちょっと信じられない光景だ。植物の種子を食べた鳥がフンを落としたのだろうか。とにかく、その風景はぼくの理解を超えていた。

 ぼくの理解を超えていたがゆえに、ぼくはあらぬ妄想を始めてしまう。ぼくは、この1本の木が(それはまだ細く小さな木だが)1号機を丸ごと抱きかかえ、原子炉を癒しているようにも見えた。おそらく、その体内に膨大な量の放射性物質を蓄えているに違いない。細胞レベルでは何かが起きているかもしれない。だが、その木は、放射性物質を含んだ水と空気を養分としながら天を目指している。

 この原発の行く末を見守るのは人ではない。直感が、そう告げていた。高レベルの廃棄物が安全な数値になるまでかかる年数は10万年とも言われる。文明が滅びてなお生き続けるのは自然だ。廃棄物を閉じ込めた施設や遺構も、いずれは森に沈んでいくのだろう。たった1本、そこに木があったことで、ぼくは森に沈んだ福島第一原発の遺構を思い浮かべることができた。

 勝手な妄想に過ぎない。だが、ぼくたちはたった1本の木から想像力を喚起され、さまざまなものを妄想してしまう。それはきっと人間の美しさでもあると思う。だから、この勝手な想像も、ぼくはここに記しておく。

図1 1号機を見下ろす丘の上で撮影。このポイントが、今後の視察ツアーの目玉にもなるようだ

 
図2 1号機の最上部に確認できたなんらかの植物。葉が生い茂っているのが見える

核のゴミとの共存


 建屋から向かって右のほうに目を移すと、視界の奥には無数とも思える貯水タンクが並んでいる。この建屋から流れ出る汚染水を貯めるためのタンク群だ。

 建屋には、日々地下水が流れ込んでいる。地下水は溶け落ちて粉々になった核燃料(デブリ)に触れ、その瞬間、汚染水となる。さまざまな対策を取ってはいるが、汚染水をゼロにすることはできず、日々吸い上げられてタンクに溜まり続けている。そこで政府は、汚染水を国際的な基準になるまで再処理したのち、海洋放出することを決めた。まだ具体的な放出開始日は決まってはいないが、流し始めれば、およそ30年間、じわじわと放出し続けることになるという。

 この場所を、ぼくたちは当たり前に「福島第一原子力発電所」と呼ぶが、たったの1ワットも発電していない施設を「発電所」と呼んでいいのだろうか。目の前に広がっている数えきれないタンクを見ていると、この場所はもはや「汚染水製造所」ではないかとすら思えてくる。国際的な安全基準は満たすと言われているが、今後30年もの間、さまざまな視線に耐えながら、福島の漁業はこの処理水放出とともに復興を目指さなければいけない。処理水放出はどのような影響を地域に与えていくのか。ぼくが生きている間に、結末を見ることができるだろうか……。

 そんなふうに、この高台は、ここに立つ者に多くのことを考えさせる。その意味で、やはり福島県屈指の観光ポイントだと言えるのかもしれない。どうかあなたも、機会があればこの高台に立って欲しい、そして目の前の風景から、さまざまなものを感じて欲しい。

図3 汚染水を溜めるタンク。これを再処理したものが「処理水」となり、海洋放出されている


 高台を離れ、5号機・6号機の真下を通り、海側に出る。津波でひしゃげたタンクを目撃したあと、木野さんは「もう1箇所、見て欲しいものがあるんです」と言って、そこから北側に少し離れた場所に案内してくれた。そこは、これまでの廃炉作業で使われた車両の仮置き場だった。

 さまざまなタイプの自動車が置いてあった。数多くの原発作業員を乗せたであろう洒落っ気のないバス、ワンボックスカー、バン。瓦礫を載せて運んだのだろう、ダンプカーやトラックなどもたくさん並んでいる。「見てください」と木野さんが指差す方向には、細く伸びるアームを折りたたんだ赤い高圧放水車があった。原発事故後、原子炉に放水を続けたあの車両たちだ。

 いやでも当時の混乱を思い出す。ぼくたちはあのとき、「もうおしまいだ」という気持ちと「なんとかがんばってくれ」という気持ちとの間で揺れ動きながら、原子炉建屋に注水を続ける車両たちの活躍を固唾を飲んで見守っていた。あのときの車がすし詰めになってここに置かれている。その数、何百台と。

 木野さんによれば、これらの車両は皆、汚染が激しく、その車両自体が高濃度の廃棄物になってしまうため、東電の敷地外に持ち出すことができないのだという。今後、ひとつひとつ解体し、鉄を溶かして放射性物質を分離するなどして厳重に処理するそうだ。そして、処理をする間も、作業員を乗せた自動車たちは活躍を続け、新しいゴミになっていく。廃炉を進めれば進めるほど、車両もまたゴミとなって排出されるということだ。

 車両置き場の近くには、伐採された木が積まれている場所もあった。汚染水タンクを増設するために伐採された木だそうだ。その量に圧倒される。この木も放射性廃棄物ゆえに持ち出しができず、敷地内の焼却炉で燃やさなければいけないのだ。燃やすのは木材ばかりではない。作業員が着る防護服、マスク、軍手なども焼却処分の対象となる。気が遠くなるほどの量のゴミと、この場所は向き合っている。

 東電は目下、敷地内に「仮置き施設」を増設している。廃炉作業した分、なんらかのゴミが大量に出てくるからだ。燃やせるものばかりではない。先ほど紹介した車両、作業に使う工具類、解体された建物の骨組みやコンクリートなども廃棄物になる。土壌もだ。溶け落ちた燃料デブリを取り出すためのロボットアームも、そのアームについた高性能カメラも、やはり廃棄物になる。廃炉に関わるもの、あらゆる物質が放射性廃棄物になるということだ。

 しかも、廃炉の道筋は未だハッキリと描ききれていない。当初30-40年と目されたが、明らかに遅れている。デブリの所在、量なども不明な点が多いし、これから技術を開発しなければいけないという段階なのだ。まだ技術すら開発できていないのに、どうして結末が予測できようか。福島県民に希望を持たせる意味もあったのだろうが、廃炉までの見通しは明らかに甘いと言わざるを得ない。実際、計画はどんどん後ろ倒しになっている。

 あるいは、どこかのタイミングで技術革新が起き、高性能ロボットが開発される未来もあるのかもしれない。だが、そうして開発されたロボットも、これから新しく投入される器具もすべてがゴミになる未来だけは確定している。廃炉したものはゴミになる。そのゴミは、今のところイチエフの外に出すことはできない。つまり、廃炉終了後も廃棄物の置き場は残るということだ。果たしてそれは廃炉と言えるのだろうか。

図4 きれいに整列して置かれているが、これらはすべて放射性廃棄物なのだ

 



 そうなのだ。福島第一原子力発電所は発電所なんかではない。核のゴミ処理工場なのだ! そう気づいた瞬間、これまで抱いていたイチエフのイメージが崩れ去っていく。

 これまでイチエフは、少なくともぼくの中では、史上最悪の原発事故を引き起こした場所だった。地域を引き裂いた元凶であり、人が長時間滞在することのできない、極めて危険でアンタッチャブルな場所だった。このイメージは多くの人たちも共有していると思う。だが、今回の視察を通じて「ゴミ処理工場」という現実が新たに挿入された。説明が難しいが、「自分たちに悲劇をもたらした場所」から、「将来にわたって核のゴミという現実を突きつける場所」に明確に変化したように感じる。

 もちろん、以前から、この場所が廃棄物の処理をめぐり、未来にわたって困難を抱える土地になるだろうということは理解していた。だが、最終処分場や中間処理場など、シンボリックな廃棄物処理場のほうにばかり意識を取られていた気がする。これに対して目の前の仮置き場は、イチエフが現実としてゴミ処理場であるという事実を強く突きつけてくる。

 同時に「廃炉」のイメージも大きく変わった。廃炉と聞くと、建屋などをすべて解体した「更地にしての返却」をイメージする人は(おそらく県内では)多いと思うが、現実として、廃炉と廃棄物は一体であり、廃炉したものがそのまま廃棄物なるのだから、少なくともこの土地が更地になるとは考えにくい。廃炉とはそもそも「廃止措置」、すなわち「原子炉や建屋の解体」までであって、その土地がどうなるかまでは想定されていない。経済産業省も廃炉後の用地については「今後さらなる調査と研究を進めながら、地元の皆様の思いもしっかりと受け止めて検討していきます」と述べるにとどめる(経済産業省『福島第一原子力発電所 廃炉と未来』パンフレットより)。

 おそらく、この土地には処理場や廃棄物置き場は残る。完全なる更地にはならない。その事実はとても重い。将来、自分の子や孫の世代の人たちは、この「核のゴミ処理工場」を見て、何を思うのだろう。自分たちが犯した過ちではないのに、責任だけは背負わされる、ということにならないか。いや、自分たちがしたことではないのに責任を持つとはどのようなことなのか。それはいかにして可能になるのか。当事者なき時代の当事者性とは、いかなるものなのか。

 公害を経験した地域を参考にできるだろうか、いや、もはや「戦後責任」のようなレベルで考えたほうがいいのだろうか。テーマが大きすぎて、すぐには答えが出てこない。今の段階で一言言えるのは、福島のローカルな事象として捉えていていい問題ではない、ということだろう。ならばそのとき、観光が大きな鍵にならないだろうか。ホープでもダークでもいい。この場所で起きたこと、いまなお影響が続いていること、厄介な地域課題のなかで、それでも人々は日々楽しく、おもしろく生きようとしていることを外部の人たちに見てもらい、共に考えていけたらいい。閉じ込めるのは放射能だけ。議論は閉じ込めず、オープンに、あらゆる人たちに開かれたものであって欲しい。

図5 車体の墓場。廃炉作業に使われてきたであろう、何百台という自動車が廃棄されるのを待っている

処理水放出を「奇貨」に


 この場所が「ゴミ処理工場」だという事実は、処理水の捉え方にも小さくない影響を与えたように思う。処理水もまた原発から排出されたゴミであるのに変わりはなく、この圧倒的な量の廃棄物を前にすると、やはりとにかくゴミの総量を減らさなければ、という思いが強くなる。ぼくは依然として、現時点での放出には反対の立場だ。放出の是非以外に議論しなければいけないことが山ほどあるからだ。だが、前にもましてこの議論を早く進めなければいけないと強く思うようになった。

 



 処理水をめぐっては、もう何年も前から処理方法に関する議論が進められ、海洋放出にあたっても賛否さまざまな声が上がっている。国は経済的な合理性や科学的な見地から放出が最もよいと結論づけ、漁業者など関係者の説得にあたってきたが、漁業者は一貫して反対の姿勢を貫いている。風評被害が再燃して大きな経済的被害を受けるばかりでなく、産地が再起不能な傷を受けることになると懸念しているからだ。反対側からは安全性を問う声が多く、科学的なプロセスを無視するようなデマも相変わらず少なくない。あるいは基準そのものの安全性は理解しているが東電を信用できないという声もかなりある。また、社会の合意形成の不備を問う声も多い。国と東電が「関係者の理解なしにいかなるものも海洋に放出しない」と約束していたことが漁業者の反発を強いものにしているからだ。

 一方で、放出を支持する層の意見もさまざまで、「安全なのだから大丈夫だろう」という声には救われる気もするが、合意形成なんて意味がないとゴリ押しをするような声もあれば、放出に抵抗する漁業者を「復興の邪魔者」扱いする言説も生まれている。安易に賛同することはできない。

 地元に住んでいると、処理水の問題の複雑さを身にしみて感じる。安全性だけが論点ではないし、処理水を放出する代わりに漁業者に賠償金を払えばいいという単純な話でもない。処理水を「流すか流さないか」以外にも多様な論点があり、その論点をじっくりと議論することで、処理水放出を、語弊はあるが「漁業再生の機会」にもできたかもしれない、というのがぼくの考えだ。

図6 小名浜町内の雑踏から見るサンマ棒受け船

 



 それができていないのは、賛成派にも反対派にもさまざまな意見があるから、ではない。むしろ「賛成派=加害者と反対派=被害者」という単純な構図だけが強調されることが問題なのだ。単純化されている、ということだ。どれだけ強硬に反対しようと国は流す。それがわかっているから、漁業者も強く反対せざるを得なくなる。平行線だ。もちろん国の進め方は批判されるべきだが、反対の声を上げる層もメディアも「国・東電VS漁業者」の構図を強調し過ぎてしまったように思う。漁業者こそが処理水問題の当事者なのだ、漁業者が困っているのだから漁業者を説得すべきだと伝えていけば、当事者は限定されてしまう。

 しかしその構図になると、「当事者が反対しているのだから流すな」という声が大きくなり、漁師たちの本音が見えにくくなる。わかりやすい構図のなかでは、漁業者はますます賛成の条件に言及にしにくくなるし、間の意見が取れなくなる。結果として「反対する漁業者」のイメージが膨らみ、漁業者が戦いの場に追い込まれている側面があるわけだ。漁協は組合として国や東電と団体交渉に望まなければいけない。だから「組合員の総意」として「反対」が出てくる。関係者に話を聞くと、漁協は、組合員、つまり漁師に対して「処理水関連の報道には一切答えないように」と通達しているという。

 本当は、漁業者とて意見はさまざまだ。若い世代のなかには、賠償に頼るベテラン世代を苦々しく思う漁師も少なくない。賠償金を、生活補償ではなく事業拡大や成長に生かしたいと考えている人もいる。そもそも賠償は自立を遠ざける。本来は「いかに賠償を脱するか」を考えなければならなかったはずだ。もちろん、処理水放出によって経済的被害を受ける人たちには、しっかりと賠償は支払われるべきだ。賠償があることで東電の責任は明確になる。高齢化し、満足な出漁が困難になった漁師にとって賠償は生活の糧でもある。だが「加害者である東電/被害者である漁業者」という構図は、処理水放出のみに当てはまる構図であり、福島の漁業全体を俯瞰したとき、この被害と加害の構図だけでは検討は不十分だ。何度か繰り返すが、処理水放出の是非だけが福島の漁業の問題ではない。

 だからこそ、総合的で長期的な再生ビジョンを描いておく必要があった。処理水の放出を終える三◯年後、どのくらいの漁師に残っていてもらいたいのか。その時、どのような新規事業が行われ、どのくらい魚が水揚げされているのか。再生のために、どうやって若手を確保していくのか。観光業は漁業を包摂しながら、どのような将来を描きうるのか。そうしたビジョンのうえで賠償のあり方や予算の使いみちを検証していかなければ、漁業者の自立は遠ざかるだろう。

 漁業者が誇りを持って生業を続けられなければ、子どもや孫に稼業を継がせたいとは思わないはずだ。そうなれば水産業全体がさらに衰退し、港町の価値も大きく傷つけられる。廃炉はできたが港町の復興はできなかった。そんな未来にしてしまってはこれまでの努力が無駄になる。廃炉と復興を両立できる道を探らなければいけない。

図7 小名浜港。中心に見える建物は、福島県漁連の野崎哲会長が経営する酢屋商店本社ビル

 



 廃炉も復興も両立させようと思ったとき、被害と加害の線は揺らぐ。

 福島の漁業には、震災前からさまざまな課題が存在していた。技術の導入や組織の改革は必要だったし、先ほど紹介したような漁協の閉鎖性は批判の対象になるだろう。そのとき、漁業者は一方的な被害者ではなくなる。国任せだった県のリーダーシップも問われる。福島県の内堀雅雄知事は「国と東電がしっかりと説明を果たして欲しい」というような言葉を繰り返してきたが、地元の漁業をどうするのか、水産業の将来をどうするのかという議論を率先して進めることもできたはずだ。いわき市はどうだろう。地域のステークホルダーを招き、処理水問題をさらにオープンにしながら、港町の未来を考える場をつくることだってできただろう。もちろん、この問題に関心を持たず、他人事にしてきたぼくたちにも責任の一端はある。国や東電ばかりを責め立てていても、逆に反対派ばかりを責め立てていても、リアルな課題は一歩も改善しない。

 改めて思う。もっと議論できる余地はあったと。だが、それはできなかった。「流すか、流さないか」だけが議論されてきてしまった。最悪なのは、議論できない状態で処理水が流されるということだ。分断は深まるだろう。もっとマシな流し方があったのではないだろうか……と頭を抱えたくなる。もちろん、処理水を流したあとでも議論はできる。こんなことで地元の水産業を衰退させてはいけない。地元のうまいものを届け、生産者を支え、自ら消費者としてそれを楽しみ、外部の人たちと共歓の場をつくるというぼくのやるべきことも変わらない。だが、もっと議論できたはずだという思いを拭い去ることができない。

 



 知り合いの漁師や、水産会社の社長たちの顔を思い浮かべながら、社会課題の「当事者/被害者」は、国を相手に訴訟を起こし、戦い続ける未来しかないのだろうか、とふと考えた。

 もちろん、本人にその意思があればぼくたちには止めようがない。だが、周囲の支援者が当事者を闘いの構図に巻き込んでいるケースがしばしばあるような気がしてならない。あなたはもっと怒るべきだ、国を相手に闘うべきだ、負けても闘い続けよう。連帯しよう、共に戦おうと。そしてその闘いの結果、本人たちが望んでいた未来から遠ざかってしまうということはないのか。闘うこと、闘わせることが目的化してはいないか。

 支援者は「闘わずに済む道」や「別の闘い方」を提示することもできるはずだ。相手は国であり社会である。当事者の思いは痛いほどわかるが、そのやり方だけでは闘えない、目指すべきは別の道なのではないかと伝えることもまた支援ではないか。当事者の思いだけが重要だ、というわけではないだろう。もちろん、支援者の思いだけが重要でもない。

 ぼくがそう感じるのは、ぼくが被害者ではなく、圧倒的に優位な立場で、暮らしを脅かされない立場にあるからなのだということもわかっている。だが、ぼくは被害者本人ではないし、被害者とまったく同じ人生を歩んできたわけでもない。当事者たちの訴えに耳を傾けつつ、当事者ではない立場だからこそできることを、自分の持ち場で、この社会がよりマシになるように続けるという闘い方もあるはずだ。おいしく魚を食べ続けるという闘い。年に1回福島を訪れ、原発を視察して考えるという闘い。福島について書かれた本を読み、学び続けるという闘い。それぞれのできる範囲で、自分たちの暮らしをよりよいものにしながら、その結果として、当事者や被害者も生きやすくなるような社会に「どこかで」寄与できたらいい。

図8 小名浜港に水揚げされるカツオとビンチョウ。処理水放出によって魚価に変動はあるのか注視したい

当事者としての人格


 とここまで書いていて、いかにもぬるいなと我ながら思う。福島に暮らしている当事者とは思えない軽薄さだ。だが、ぼくはこの軽薄さ、ふまじめさこそ、一方的な被害者の立場を脱する数少ない道だと思っているのだ。

 どういうことか。だれかから押し付けられる「被害者/当事者」というレッテルを、ふまじめさによって引き剥がすことが必要だとぼくは思う。福島は原発事故によって深く傷つけられた。被害を受けた。かわいそうな土地だ。そういう言説はまだ多い。そして、そう考える人たちは自らの正義と被災地・福島とを重ね合わせながら寄り添おうとする。だがそれは支援にかこつけた「私物化」ではないか。

 いつだったか、東京で講演が行われたとき。話を終えて参加者と交流していると、ある方がぼくのところにやってきて「さぞかしお苦しい時間をお過ごしだったんですね」と涙ながらに語りかけられ、手を握られたことがあった。ぼくは「被災地だとしても楽しくおもしろい日常はあり、悲痛なことばかりではない」という話をしたばかりだったから、少し違和感があった。それを思い出した。

 ぼくがどういう人間か、ではなく、最初に「原発事故の被災者」とか「国家権力の暴力に苦しんでいる人」だというカテゴリ分けがまずあって、自分たちが支援する価値がある人たちか見定めたうえで寄り添おうとする、というタイプの人がいる。そうした人たちの前では、ぼくたちは被災者であり続けなければならない。まさにその「当事者/被害者」という強い属性からひととき離れ、1人の個人であるために、支援するわけでもない、研究されるわけでもない、自分で闘わなくてもいい「共事者」が必要なのではないだろうか。

 未曾有の原発事故を引き起こした福島第一原子力発電所。この場所で起きたことを語り継ぎながらも不幸の土地に固定しない。深刻な影響を受けた場所でありながら、たくさんの学びを与えてくれもする。そういう場所であるためには、多様な人たちに開かれることが欠かせない。その人たちが「悲劇の土地・福島」のイメージを変える回路を開いてくれるかもしれないからだ。人間は、たった1本の木から想像してしまう。その想像から、これまでの考えが改められたり、次なる思考に促されたりすることがある。この場所は、やはりぼくたちの観光資源でもあるのだ。

 



 木野さんのツアーは、その後、再処理施設ALPSの建屋などを見学したあと、2時間弱ほどの時間で終了した。ぼくたちはゲートを再び出て、富岡町の集合場所に戻り、それぞれに別れを告げ解散した。「お疲れさまでした」とあいさつしたあと、ぼくはもう一度大熊町、双葉町に向けてロッコクを北上した。何枚か写真撮りたいと思っていたのだ。

 車を運転しながら、結局のところ、共事とはなんだったのかなと考え始めた。ふと思いついたのは、「ピントを合わせる」ということだった。

 ぼくはこれまで、共事者とは、無関係な人たちが関係を持つ言葉、当事者との距離を縮めるための言葉だと考えてきた。当事者とは言えなくとも、社会の構成員として課題や問題と事を共にしているじゃないか。だから自分には関係ないと思わず、事を共にして欲しい。当事者じゃないかもしれないけれど共事者ではあるよね? と。

 だが、共事とは、それとは反対に距離を取る言葉、離れる言葉でもあった。目の前のその人は被害者や当事者という人格だけで成り立っているわけではない。その人は、なんらかの生きづらさを抱えた当事者でありながら、何かが好きであったり、得意なことがあったり、これまでのあゆみがあったりする多面的な存在だ。目の前の人を当事者や被害者として見るのではなく、フラットに、その人のあるがままを見てみる。そのためには、やはりピントを合わせるための距離が必要だ。

 ぼくにとって「共事」いう概念は、自分が近すぎるときには離れ、離れすぎているときには近づく。つまり、対象とズレた距離感を諫め、修正し、ピントを合わせていくような言葉だと言えるかもしれない。

 ぼくはすぐに距離を見誤ってしまう。何か問題が起きると、正しくこの問題を理解しなければ、当事者たちに連帯しなければ、などと思ってしまうタイプの人間だ。そんなとき、共事は自分に「ちょっと冷静になってよ」と距離を保たせる。

 一方で、この問題はオレに関係ないよとか、当事者がなんとかしたらいいんじゃない? と無関心を決め込んでしまうこともある。そうしたときほど、自分の心の中にあった無意識の差別や加害性が潜んでいることが多い。だから共事は、無関心だったことを自分に引きつけ、その問題についてしっかりと考えさせる、つまり距離を詰めるための言葉になる。そうしてその都度、自分の距離感を修正しながら、自分の立つ位置を確認するしかない。

 ぼくは、いろいろなことに好奇心を持つタイプだが、何ごとも中途半端で、なんの専門性もない。こうして文章は書いてはいるものの、作家でもなければライターでもない。クリエイターにもなりきれず、自分がしっくりくる居場所などないと感じてもいる。社会課題の当事者ではなく、トラウマティックな出来事を体験しているわけでもない。自分は強者でマジョリティの側であり、だからこそ当事者たちの打ち出すメッセージの強さに打ちのめされ、才能を持った人たちを羨ましく感じ、自分の中途半端さを恥ずかしく感じてきた。正直、それが苦しかった。

 だが、そんな人たちにこそ共事者性は開かれている。中途半端だからこそつくれるものがあり、立てる場所があるということだ。こうして文章を書きながら自分の共事者性に気づくことで、ぼくは、中途半端な自分を受け入れることができるようになった。43にして。

 



 中途半端でもいい。専門性はなくてもいい。何者でなくてもいい。何かの当事者じゃなくてもいい。ただ自分の、今ある暮らしの些細なものや小さな疑問からも、社会や哲学や思想は立ち上がるのだ。自分を起点に生まれていくものをおもしろがっていくことが、だれかの生きやすさや、だれかの自分らしさにどこかできっと通じていることを、連載で取材させてもらった共事者たちは教えてくれた。

 だから、困っているだれかのため、他者のため、社会課題解決のためと、大義名分や大きな目的を掲げなくていい。自分の好きなものや、関心のあるもの、苦しさ、悩み、そういうものからスタートすれば、それはいずれ他者に開かれて、どこかで何かと接続される。

 



 そうだ。わたしという当事者から、他者の共事者となる。それでいい。

 



 イチエフのすぐ北にある浪江町では銘酒「磐城寿」が醸される。ほどよく冷えた純米吟醸酒を口に含めば、このまちが体験した被災の記憶につながる。生米を美酒に変える微生物たちの存在も感じられるだろう。アテにするのは我らがいわきのカツオだ。カツオはシンプルにうまいだけでなく、漁師や水産業者のこれまでの苦悩を考えることにつながる。栄養や生物資源、地球環境にまで話を広げてもいいだろう。満腹になったら楢葉町の天神岬で風呂に入ろう。ゆったりと風呂に浸かりながら、エネルギーのことを考えてもいい。夕暮れ時の風を感じながらロッコクをドライブすれば、意外にも美しい夕焼け空や、行き交う車の種類に驚かされるかもしれない。そこで働く人たち、暮らす人たちの表情も見える。そうして、あなたがいる地点から、「今ここ」を飛び出し、興味や関心を広げ、想像していけばいい。

 すべては、目の前にあるものを、おもしろがることから始まる。自分の立場も、起きていることも、まずはおもしろがってみることだ。とんだ勘違いや思い込みもあるかもしれないが、謙虚に学び、変化を楽しむ気持ちがあれば、その都度ピントを修正し、自分の過ちを認め、前に進んで行ける。細く小さく、ふまじめな関わりから思わぬ宝物を見つけてしまう。そんな可能性に開かれている人を共事者と呼ぶ。それは、この連載をここまで読んでくれたあなたのことかもしれない。

 



 ぼくの視界の右側には低くなだらかな阿武隈の山並みがあり、その奥にじわじわと太陽が沈んでいく。反対側には太平洋があり、海は空と一緒になって、薄紫やピンクのグラデーションをつくっている。このロッコクは、北は仙台、南は東京に通じている。ある一時期、その道は途絶え、人が立ち入れない場所が生まれたが、たしかに道は通じているのだ。当事者が通い続けたロッコクは、遠くない未来、共事者が通う道になる。当事者から共事者へ。すべての道は開かれている。そう、ぼくの目の前の、このロッコクのように。

写真提供=木野正登(図1-5)、小松理虔(図6-8)



 


小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司

2 コメント

  • qpp2023/08/31 11:47

    小松さん最終回おつかれさまでした。 最後まで悩みながら、議論もふまじめさも大事とするバランス感覚はさすがでした。 廃棄物処理は困難で長い道のりだと思います。 だからこそ、みんなで考えたい。 共事者だからできる多角的な立場から見た福島の話、 これからも聞かせてくださいね。 実は魚があまり得意ではありませんが、 いわきのカツオは食べてみたいです!

  • jetage632023/10/10 10:52

    1号機に根を下ろす木の写真は圧倒的だった。 風に舞い着地した土、鳥の糞が運んだであろう何かの植物の種子。 様々な放射性物質を栄養として育ち、ただ立っている木。 泣きそうになる。 原発がひとたび破壊されると、誰も触れることができないごみ処理場にすがたを変えてしまう。 全てをごみとして飲み込むその場所はいったい何なのだろう。しかもその場所と共存していかなくてはいけない。 そして小松さんは以下のように語る。  自分たちが犯した過ちではないのに、責任だけは背負わされる、ということにならないか。ー中略ー  当事者なき時代の当事者性とは、いかなるものなのか。 このことばは、ぼくらの戦争に対する距離感そのものだと思った。 沖縄の基地問題にしてもそうだろう。 自分が生まれた場所になぜか他国の巨大な基地があり、そのことで分断さえ起こる。 美味しい食べ物や酒があり、けんかや恋愛で傷ついたり、うれしくて抱き合ったり。ほぼそんな日常を過ごしているのに。 前々回、前回が沖縄取材記だったので、余計にそんなことを考えてしまう。 戦争を引き起こしたひとたちは亡くなってしまっている。まさに当事者なき時代に当事者性だけを背負わされている。 ぼくは東京電力福島第一原発事故の当事者でも沖縄の基地問題の当事者でもない。 中途半端な、こんなふうに記事に触れて考える程度の他者だ。 だけどそこにこそ「共事」の道が開かれているかもしれないと、小松さんは言われる。 寄り添いではなく「ともに」あろうとする在り方だ。 賛成とか反対とかの一切をぶっちぎって立っている木。 その木が種を落とし、また木が生えほんとに森になればいい。 森に沈んだ原発の遺構なんてほぼナウシカの世界だ。 違うのは、その森は破壊された原子炉や核廃棄物を抱きかかえ地下に浄化された世界を築くのではなく、 地上を浄化していくかもしれないということだ。 1号機の最上部に根を張る木と小松さんの文章を読みながら、ぼーっとそんなことを考えていた。 いつかぼくもその木を見てみたい。

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