当事者から共事者へ(20) 共に歩き、友になる──沖縄取材記(前篇)|小松理虔

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初出:2022年12月23日刊行『ゲンロンβ79』
 家族になんと話を切り出せばいいか考えあぐねていた。そう、沖縄取材のことだ。前から沖縄には取材に行きたいと思っていた。しばしば同類のように語られてきた福島と沖縄とで、いったいどのような問題が共通していて、どのような問題が異なるのか、現地の人に話を聞きながら取材したいと思っていたのだ。

 だが、夏休みにいくら仕事だからといって、ぼく1人だけ南の島に乗り込むわけにもいくまい。ようやくコロナも落ち着きつつある夏に1人取材旅行を敢行した場合の、妻の壮絶な怒りは想像できる。飛行機に乗りたいと常々言っている娘は、もう2度とぼくの言うことを聞いてくれないかもしれない。抜け駆けだけはできない。じゃあ、百歩譲って家族も連れて行くとする。ぼくは取材に集中し、妻たちはどこかで遊んでいればいいということか。いや、それじゃあ家族で行く意味がなくなるし、ぼくが仕事をしているときに妻たちは遊んでうまいものを食っているというのではあまりに不公平だ。

 どうすれば……と悩んで閃いたのが、小学2年の娘や妻と共に沖縄を巡る、いわば学習旅行のような旅程を組み立てればいい、ということだった。ぼくも取材をする。妻や娘も取材をする。そして、彼女たちと語りあったこと、お互いの気づきや学びを記事にすればいいのだ。そうすれば、彼女たちの同行は取材に欠かせないものになり、したがって「経費」に計上できるはずだ。彼女たちが同行して初めてぼくの記事は完成するのだから、沖縄旅行の費用はすべてまぎれもない「取材費」であるはずだ。

 これはナイスアイデアだと思った。さっそく妻に打診してみると、「現地のガイドも教育旅行とかを手がけている人にお願いしてみたら?」と逆提案してくるほど乗り気だった。経費にできるかもしれないというのが刺さったようだ。経費に厳しい妻の性格を知り抜いた上での提案である。断られるはずがないと思っていたがそのとおりだった。娘は、社会科見学だということに少し不安もあったようだが、「勉強のあと2日間は海で遊べるから!」と説得した。

 



 残った懸念は、現地のガイドを誰に頼むのかということだったが、ぼくはすでに、1人で取材しようと思っていたときから候補を決めていた。地元の那覇でライターとして活動しているシマさんこと島袋寛之さんだ。『新復興論』を出す前だったと思うが、シマさんとはゲンロンカフェで初めてお会いしたときに意気投合し、5年ほど前にも、シマさんがナビゲーターを務める那覇のコミュニティFMの番組に出演させてもらったことがある。さらにその前、シマさんたちが東北を巡ったときには、ぼくの主催する食のイベント「さかなのば」に参加してもらったこともあった。ゲンロンの読者なら、2016年に開催され、よくも悪くも話題になった「ゲンロンカフェ沖縄出張版」を思い出す方もいるだろう。あのイベントを主催したのがシマさんであった。

 おまけに、そのシマさんは今年6月、編集プロダクション業と平和学習事業を手がける「株式会社さびら」を立ち上げたばかりだった。シマさんによれば、さびらは、沖縄を訪れた人たちにさまざまな研修プログラムやワークショップを提供する会社で、小学2年になるぼくの娘でも十分に対応できるとのことだった。むしろ小学2年生向けのプログラムを開発するのにリケンさんたちの家族旅行を活用させてもらいたい、というメッセージももらっていた。まさに渡りに舟というやつだ。シマさんにお願いすると、沖縄初心者ファミリー向けの1日ツアーを組んでもらえることになった。かくして小松家3名、4泊5日の沖縄学習旅行が始まったのである。

全然ちがう、8月15日


 8月15日の終戦記念日。早朝に家を出た我々は、常磐自動車道を南下して茨城空港へと向かい、飛行機で那覇へと飛んだ。茨城から那覇までは3時間と、それほど過酷な旅ではない。那覇空港に到着後、「ゆいレール」で県庁付近まで移動し、歩いてホテルへ。そのあとは、妻と娘からのリクエストもあり、さっそく買い物に出かけることになった。突き刺すような夏の陽光を浴びながら国際通りを歩き、牧志公設市場の周辺の店を品定めしていく。

 ぼくは、公設市場のそばの、古いアーケード街が大好きだ。島ラッキョウやら豚の煮込んだのやらがダダダっと店頭に並べられ絶妙な芳香を漂わせている。夏の天気もあいまってか、台湾やベトナムあたりとも似た独特の南国アジア情緒を感じるのだった。ぼくは東北の人間だけれど、むしろ南のほうにルーツがあるのではないかと思ってしまうほど、このゆるい空気がフィットする。身体がどことなく喜んでいるようだ。ショッピングのあとはホテルへと戻り、近くの居酒屋でオリオンビールを存分に胃に流し込み、早めに休んで次の日のツアーに備えた。

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司

2 コメント

  • jetage632022/12/27 13:42

    ぼくの実家のそばにも「アメリカ」があった。 アメリカ軍が進駐し、空港は板付基地として接収されていた。 中学生のころ、英語の先生からFENを聞くことができたんだよ、教えてくれた。 今はアビスパ福岡や福岡国体の会場にもなった場所周辺は、 演習場跡だったようで、中には入れなかったけど絶好の遊び場だった。 都市伝説のように、土を掘り返すと不発弾が出てくるといううわさもあり、 子どもたち(ぼくも含め)は、夢中で土を掘り返してた。 そんな場所がたくさんあった。最高の遊び場でもあった。 もともと少し目を凝らすと「アメリカ」が多い。 西戸崎にも。雑餉隈にも、今の海の中道公園は元米軍基地だ。 航空自衛隊の築城基地は、普天間基地の「有事展開拠点機能」の移設先の一つになっている。 土地の記憶やひとの記憶になっている「アメリカ」と、今も生きている「アメリカ」 ぼくには何を考えられるだろう。 そんなことを思いながら読んでた。 理虔さんの文章はゲンロンで出会ってからずっと好きだ。

  • Kokou2023/01/08 09:18

     ゲンロンβ76+77を最後に全編アンケートを控えていた。ゲンロンβ及びゲンロン本誌の刊行のタイミングが不明瞭になり、自分が書きたいペースとズレが生じてきたからだ。持続性にも色々な尺度があると思うが、定期刊行ということが自分にとって大事だと思った次第だ。とはいえ、ゲンロンβを読むことをやめたわけではなく、ゲンロンβ79も面白く読んだ。その中で、小松さんの取材記は、再び感想を書きたいと思わせる素晴らしいものだった。これからは書きたいと思ったものに対して、不定期で書いていくことにしようと思う。その最初が小松さんの沖縄取材記である。  2022年は沖縄復帰50周年であった。私の趣味のひとつとして観劇があるが、沖縄を舞台にした演目を多く見たことでそれを実感していた。その中で、2022年12月初旬に観劇したKAAT神奈川芸術劇場『ライカムで待っとく』とこの取材記は響き合うところが多いと感じたので、それを軸として感想をまとめたいと思う。この演目は、アメリカ占領下の沖縄で起こった1964年の米兵殺傷事件を基に書かれたノンフィクション「逆転」(伊佐千尋著、新潮社・岩波書店刊)をもとに、沖縄在住の作家・兼島拓也が書き下ろし、沖縄に出自を持つ田中麻衣子が演出を手掛けたものである。主人公である雑誌記者の浅野が、過去の事件を調べていくうちに沖縄の物語に絡めとられていく様を描いたものである。沖縄のシーンではセリフが沖縄方言が主となり、沖縄特有ののんびりとした雰囲気がありつつも、シーンを重ねるにつれ、重たく緊張感のある展開になっていく。  劇中に「バックヤード」というセリフがあった。小松さんの「新復興論」で福島を表すときに用いられた言葉でもある。劇中の「バックヤード」という言葉は、不都合なものは表に出さないという隠匿性が強調されていた。ある場所の平和を守るために必要な犠牲もある。それは誰でもよく、選ばれたことに意味はない。その物語は知られてはいけない。沖縄の物語はそのようなものであり、主人公である浅野が無意識にそう書いているのだと。いわゆるNIMBYの問題である。対して、小松さんは生産者としてのポジションや誇りを、消費者へ伝えることにベクトルが向いていたと思う。もちろん、福島にも原発問題があるので、すべてをポジティブに伝えることは難しいのだと思う。  バックヤードというのは、経済的・商業的に考えれば、商品を販売して利益を得るのに効率的だから必要なのである。それはシステムとして切り離すことはできず、観光地としての沖縄や生産地としての福島は、経済的な機能としてのバックヤードを期待されている部分があると思う。そこにはつながりが求められる。他方、基地問題や原発問題は、切り離すべきものとして扱われている。ただ、軍事・防衛やエネルギーという分野に限っていえば、沖縄や福島はバックヤードどころかそれらの問題の最前線である。『福島第一原発観光地化計画』やこの取材記のシマさんやユマちんの学習旅行は、その側面に焦点を当てたものであると思う。その「バックヤード」として両面を持つことが沖縄と福島で共通しているのではないかと感じた。  この取材記の中で、ユマちんが本土の高校生とのエピソードとともに、なぜ学ぶ必要があるかから伝えないといけない、という問題意識を語る部分があった。小松さんが共事として考えるゆるい興味から沖縄や福島に関心を持つ回路もあると思う。この取材記や演劇のように、アウトプットやクリエーションをするために学ぶという回路もありそうだ。40代半ばに差し掛かって改めて思うことだが、目的もなくただ学ぶというのは定着せず、継続することも難しい。劇中で、主人公が娘の行方がわからないと知ったときに、タクシー運転手が寄り添う場面がある。役としてはタクシー運転手であるが、ある種の語り部としてタクシー運転手は登場する。ここでタクシー運転手は寄り添うだけである。本土の人たちがそうしたように、自分も主人公に寄り添っていると、タクシー運転手というか、語り部はいう。主人公とタクシー運転手はお互いにそばにいるが、まるで異次元にいるかのように離れている感覚に陥った。劇中のワンシーンなので、極端ではあるが、お互いの日常の遠さにつながる場面だと思った。その遠さを埋めるためだけに、学ぶことを押し進めることは難しいのではないだろうか。  ユマちんがヘリコプターが飛んできた音で会話が止まる日常を語った。それを読んだ後、「違日常」という言葉が思い浮かんだ。私と違う日常ということだけでなく、「こうでない日常」についても思いをいたす沖縄や福島の日常を思い描くイメージに当てはまる言葉だと思う。沖縄には訪れたことがないが、劇中の沖縄方言の語りや、この取材記の文章や写真で日常を少しは想像できる。取材記の中に、普天間飛行場が見える景色に、戦前・戦中・戦後が揃っているという部分がある。これまでの時間の積み重ねが、目の前の景色に凝縮しているということかもしれないし、最前線ということかもしれない。  2021年5月に双葉町の原子力災害伝承館を訪れたことがある。原子力災害伝承館の新しさと伝承館の周囲の2011年のままの町の光景の分断されているように感じた。それらをつなぐのは、新しい施設に向けてのみ並ぶ電柱である。必要なインフラであるが、つながりの寂しさを感じる印象的な景色であった。すべてが私の日常と遠く離れているが、その土地の日常がこうあるべきと思えるときは来るのだろうか。こう書くこと自体が他人事で真面目にコミットしていないと言われれば、その通りだとも思う。ただ、それぞれの日常を取り替えることもできないし、自分の日常に取り込むことも難しいと感じてしまう。  この取材記の最後は、小松さんらしくタコライスを取り上げた食の話題で締めくくられている。その中で、タコライスの来歴と沖縄のチャンプルー文化について書かれている。アメリカ文化と沖縄文化の融合の象徴としてのタコライス。小松さんがいわきの方言として「しゃあんめい」というしょうがないを意味する言葉をゲンロンの何かの番組で紹介していたことがあった。沖縄と福島が「受容力」でも共通しているように思えた。例えば、タコスの具を乗せたライスのように、相手の意見を一旦受け止めることができるだろうか。ユマちんの言うみんなで話す平和の形というのは、相手の言葉を受け止めて、応答することを互いに繰り返し、会話にしていくことかもしれない。その一歩として、相手の言葉を受け止めることが重要なのではないか、そんなことをぼんやりを考えた。

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