傷と共に走り続ける 当事者から共事者へ(番外編)|小松理虔
連載を書き終えたら振り返りの記事を1本書こうと思います──ゲンロンの編集担当、横山さんにそう連絡してから、もう数ヶ月が経ってしまった。本稿の締め切りは、もともとは昨年の11月であり、本来は昨年のうちに公開されていなければならなかったはずなのだが、そこからだいぶ時間が経過してしまった。慌ただしく師走が過ぎ、年が明け、すでに1月4日になっている。
能登半島で震度7の大きな地震が発生した。能登半島の先端、輪島市、珠洲市などが特に深刻な被害を受けているようだ。報道によれば、犠牲者は(この記事の執筆時点で)すでに70名を超えており、ここからさらに増える可能性がある。幹線道路が瓦礫や土砂などで埋まってしまったことで車両が入れず、被害状況を把握することはおろか、水や食料さえ満足に届けられていない状況のようだ。被災時の生存率が急速に下がる「72時間」のタイムリミットが迫る中、予断を許さない状況が続いている。
まさか元旦に、とショックを受けた人は多いだろう。地震が起きたとき、ぼくは犬の散歩中で揺れすら感じなかったのだが、妻から「大きな地震があったみたいだ」と聞かされすぐに帰宅。NHKの特別番組を見て衝撃を受けた。
画面には、強調された太いゴシック体で「大津波警報」の文字が表示され、女性のアナウンサーが強い口調で「今すぐ逃げてください」と訴え続けていた。緊急地震速報のアラームは感覚的に数十分に一度くらいのペースで鳴り響き、字幕ニュースが絶えず画面上部に流れていく。そして、13年前と同じ解説員が、能登半島の志賀町にある北陸電力志賀原子力発電所の被害の状況を伝えていた。いやでもあの震災を思い出さずにはいられない。
13年前、福島のさまざまな情報を世界に届け、同時に、ぼくたちの不安や孤独を埋めてくれたように思えたTwitterは「X」と名を変え、今は二つのタイムラインが流れる仕様になっている。「フォロー中」のタイムラインには、顔の見える知人や友人たちの「つぶやき」や、被災地を心配する声、それぞれの地域の日常の風景や言葉が流れていく。一方で、新しく導入された「おすすめ」のタイムラインはカオスだ。現地の人が撮影したと思しき動画、専門家や研究者とされる人たちからの有益そうな情報もあるが、それ以上に真偽不確かな投稿が多い。いや、「真偽不確か」くらいならまだマシなほうで、明らかに他者を攻撃することを目的とした投稿や、リンクを踏ませることでエンゲージメントを稼ぎ、広告収入につなげようとする投稿が増えている。しかも悲しいことに、そうした投稿ほど多くリポストされている。もはや正しさと別の正しさの戦いですらないタイムライン。だが、この「フォロー中」と「おすすめ」、二つの流れの断絶こそがぼくたちの現実なのかもしれない。思わずめまいがするような気持ちになる。
タイムラインの濁流から目を背け、テレビや新聞を見返すものの、東日本大震災から13年も経つというのに、住まいを奪われた人たちがプライバシーなど微塵もない体育館に雑魚寝せざるを得ない状況が続いていることにも頭を抱える。能登半島をはじめ、地方都市の中山間地域には小規模の集落が想像以上に数多く残っている。その住宅の多くは何世代にもわたって使われており、「耐震補強」などされていない。そして高齢者ほどそうした住まいに暮らさざるを得ないのが実情だ。五輪や万博といった国家イベントに何千億と言われる予算を投じようとする一方で、人命が軽視され、初歩的な避難対応すら満足にできず、また、地域の防災をアップデートすることもできないままの暮らしを余儀なくされている人たちが大勢いることに、大きな落差を感じてまた悶々とした気持ちになってしまう。
ぼくたちは、震災でなにを学んだのか、「復興」とはなんだったのか。そして、その復興の過程で生まれた「共事」という概念に、いったいどれほどの意味があったのか。元旦からそんなことばかり考えている。大好きな酒もさほど飲めていない。かといって、そうした状況を打開するような言葉もなく、今すぐに能登半島に駆けつけることもできない。できることといえば、働き、メシを食い、暮らしのもろもろの雑事をこなして、毎朝犬の散歩をすることくらいだ。心身の健康のためにはそのほうがいいのかもしれないが。
ぼくは、この福島で「共事者」を自称した。だが、福島県浜通り地区在住というだけで、周囲から見れば「当事者」のように見えただろうし、実際、ぼくは被災地でのまちづくりに関わってきてもいる。だが今回は違う。テレビを通じて能登の状況を見守ることしかできない立場だ。もしかしたら、今回ほど共事者について考えるのにふさわしいタイミングはないかもしれない。そこでまずは、ぼく以外の誰かが、どのように「共事者」という言葉を使い始めたのか、どのように評価/批判しようと試みてきたのかを切り口に、共事者とは、共事とはなんだったのかを振り返っていくことにしよう。
当事者研究から共事者研究へ
「共事者」をキーワードにグーグルで検索してみる。自分が受けた取材記事や、ぼくの本について書かれた書評の記事などがいくつか見つかった。書いてくれている時点でありがたいし、ポジティブなものとして扱ってくれているのを目にすると、心の奥底に生きる気力が湧いてくる。
学術的に「共事者」を最初に使ったのは、2020年に慶應大学大学院の研究者、藤谷悠が執筆した「『ひきこもり学』を構想する二人のひきこもり経験者の対話」という論文かと思われる。藤谷は、ぼくの文章をいくつか引きつつ、「当事者研究という思想を下地に据えつつも、その担い手を当事者から共事者へと切り替えた形の研究、すなわち『共事者研究』という新たなフレームを提案する」と宣言している[★1]。
かつてひきこもり当事者であった藤谷は、「『知の巨人』たちが闊歩する」学術の世界で生きていくための「『武器』として」当事者研究という文脈を選択した。藤谷は上野千鶴子の論を参照しながら、当事者でもある研究者たちは「既存の概念や話法」を用いるか「対抗的な概念や話法」を用いるかの「せめぎあい」を迫られ、藤谷は「対抗的な概念」として「当事者であること」を選んだのだと述懐している。
しかしその後、藤谷は別の当事者との対話を通じて考えを少しずつ改めていく。真面目さから距離を置いて、肩の力を抜いて不真面目に取り組むからこそ当事者研究とは異なる余白が生まれるのではないかと考えるようになり、「共事者研究」を提唱するに至ったのだそうだ。
この論考が業界内でどのように評価されているのかは知る由もなく、教授でもないぼくが論文そのものを評価することはしない。けれども、「共事者」という概念に触れたことで、力を抜いて立ち続けられる位置を獲得できたのだとすれば、その役に立ててぼくもうれしい。藤谷が自ら書いているように、「当事者研究」は時として武器にもなるのだろう。だが、なにかを語るためには距離が必要である。だからそれを武器にできる時点で、「ひきこもり」の当事者性の中心からはすでに離れていると言えるだろう。一方で、研究を深めようとしたら、「ひきこもり」という概念に再度接近しなくてはならない。自分はすでにその問題の中心にはいないのに、だ。
それはある意味で「被災者」とも似ている。ぼくは13年前は被災者だったが、今は被災者ではなくなった。それなのに「被災者/当事者」を武器に語っていたら、ぼくはいつまでも「被災者/当事者」で居続けなければならなくなる。むしろ当事者の中心点から離れ、その外側にいる共事者として、当事者ではない場所から語る立場を得たことで、ぼくは以前よりも震災を語りやすくなったように感じるし、なにより生きるのが楽になった。藤谷にも、おそらくそんな感覚があるのではないだろうか。
思えば、「ひきこもり」も「被災者」も、困難の濃淡こそあれ、「そうでなくなることができる」という点で共通している。重度の障害のように、一生、その困難や障害と共に生きなければいけないわけではない。「ひきこもり」や「被災」は「動く」もの、いわばスペクトラム(連続体)として捉えられる困難や障害だと言えそうだ。それと同じで、当事者にも、「動かせる当事者性」と「動かせない当事者性」があるということを、やや飛躍があるかもしれないが、藤谷の論文から読み取ることができるだろう。
共事者研究の新潮流
この「共事者研究」が書名にまでなってしまったのが、宗教2世当事者で文学研究者の横道誠による『あなたも狂信する──宗教1世と宗教2世の世界に迫る共事者研究』だ。横道はこの本の中で、共事者について「『当事者』という概念を信奉していた私には、『共事者』は問題の本質に茶々を入れてくるかのような、なんとなく疎ましいもののように錯覚されていた」と書いている。だが、加害者と見なされる人たちの救済こそが鍵だと考えるに至り、「私が彼らの『共事者』として、どのように関われるかという問題を『共事者研究』として提起すべきだと考えるようになった」と言う[★2]。
もともと横道は文学研究者であり、「当事者性」に関する社会学的・宗教学的な研究は専門ではない。研究と自身が宗教2世であることは、直接結びついてはいなかった。宗教2世は、いわば「被害者」として捉えられる立場であり、その立場が横道のアイデンティティの一部となっているとぼくは読み取った。だが横道は、問題の核心に迫るためには「加害者」と見なされる宗教1世を知らなければならないと考え、その関わりの回路として自分の得意とする「研究」を選んだ。つまり彼らを研究するという行為を通じて、1世がどのように「狂信」するに至ったのかを丁寧に聞き取り、そのプロセスを明らかにしようとしたのだ。
ここから横道の掲げる「共事者研究」とは、共事者として当事者の声を聞く、あるいは当事者を理解することを重要視するものだと読み取れる。前述した藤谷も、研究する主体を当事者から共事者にスイッチするという意味で「共事者研究」を掲げていた。つまり、自分を共事者の立場に据えて、誰か別の当事者を研究しようというスタイルだ。自分の得意なこと、好きなこと、関心のあることを通じて関わればいいじゃないかとぼくは何度も語ってきた。彼らは研究という「自分ごと」に変換しているわけだから、その意味で彼らのスタンス、行為は「共事的」だと言える。
だが、こうして文章にしてみることで、ぼくの主張との差異も、より明確になった気がする。ぼくは、当事者のことが知りたい、当事者を理解したいと言うより(その気持ちも当然あるけれども)、むしろ共事者自身のことが知りたかったのだ。当事者ではないのに、なんだか勘違いして行動していたら課題解決につながってしまった人や、不真面目に自分のやりたいことをやっていたら、プロフェッショナルを凌駕するような瞬間をつくり上げてしまった人、自分の趣味や特技を通じて、豊かなケアの時間を立ち上げてしまった人が、なにを考えて行動してきたのか。その原理やプロセスを知りたいと思った。つまりぼくの関心事は、やはり当事者本人ではなく、その隣にいる人とか、そこに関わっている人とか、第三者的にそこに介在してしまっている人たちなのだと思う。とするならば、ぼくがやってきたことは、共事者として「共事者とはなにかを研究してきた」ということになる。
こうも言い換えられるかもしれない。ぼくがこの連載でやってきたことは、「当事者を中心から外してしまう」試みだったのではないかと。ぼくはこの連載で「当事者だけが大事なのではない」とか、「当事者とされる人たちの周囲にも大事な人がいるはずだ」というような主張を繰り返してきた。当事者が持つ権威性について批判的に言及したこともある。そしてなにより、ぼくはずっと、当事者より「自分」に目を向けていた。毎回自分語りを続けてきたし、自分にもできる具体的な行為やアクションを考え続けてきた。結局ぼくは、当事者のことより、そのそばにいる誰かや、そのそばにいることしかできない自分のことを考えてきたわけだ。横道が「疎ましい」と語ったのは、おそらく、当事者を中心から外すような自己中心的な思惑を感じ取ったからではないだろうか。そのうえでなお、共事者という言葉にポジティブな響きを感じ取り、研究に役立ててくれていることに素直に頭が下がる。
実践的態度としての共事者
共事者についてポジティブに言及している本の代表的なものに、経済思想家、斎藤幸平の『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』がある。この本は、研究者である斎藤が、研究室に閉じこもることなくあちこちの地方都市に出向き、現場の人の声に耳を傾けたエッセイである。研究者の立場に批判的な目を向けて学び直そうとする斎藤の率直な葛藤なども綴られている。この本がきっかけになり、ゲンロンカフェで斎藤との対談企画が組まれたことを覚えている読者もいるだろう。
その巻末の部分で、斎藤は「共事者」の話をかなりの行数を割いて拾い上げている。その一節にこう書かれている。「一つの問題や正義に固執し、他の問題や自分の加害性に目を瞑るなら、それは共事者という視点からは不十分なものである。共事者は、むしろさまざまな問題とのインターセクショナリティ(交差性)を見出し、さまざまな違いや矛盾を超えて、社会変革の大きな力として結集するための実践的態度なのだ」[★3]。
「社会変革の大きな力」とか「実践的態度」とハッキリ書かれると、ちょっと大げさに書きすぎではないかとも感じるが、たしかに、ぼくもこの連載の中で自らの加害性、問題の交差性について取り上げたことがあるし、自分にも関わりのある社会課題について、できる限り引き受けて問題を考え、小さなアクションを起こしていこうという思いも書き綴っている。そんな思いを汲み取ってもらえたことは素直にありがたいと思う。
けれど、自分で書いておいてなんだけれども、みんなが考えるべき問題だといったところで、結局のところ真面目さを増強するだけで、むしろかえって関わりにくくなったり、優等生めいた言説になってしまったり、意識の高い人たちによる意識の高い活動になってしまったりするのではないか、とも思うのだ。
困難を抱えた誰かのために、小さな声を大きなアクションに変えていくために、社会変革の力として結集するために、と大きな目的を掲げることも重要だ。だが、目的を外れて不真面目な場に関わった結果、課題解決にワンチャン寄与してしまった(そう思っていなかったのに)、というような偶然の関わりや行動を促すことも、ぼくは共事的な態度だと思うし、そうした人たちの声を積極的に拾い上げてきた。やはりぼくの関心のベクトルは、「他者を理解すること」よりも、「自分を理解すること」や、不真面目な「アクション」のほうに向いているようだ。実践的な行為、失敗と反省、自己の行動変容、そういうものを大事にしてきたと思うし、不完全でどうしようもない自分、知識も言葉も頼りない自分、中途半端な自分を受け止め、自らケアし、チャレンジしていくための「言い訳」みたいなものを、ぼくは「共事者」という言葉に託したのだと思う。
地域医療と全人的理解
ここまでは「共事者」という言葉が、他の研究者によってどのような広がりを見せているかをみてきた。ここからは、連載終了後にぼく自身が行ってきた共事者としての実践を紹介したい。それが地域医療である。ぼくがこのようなアプローチを結果として意識することになった背景に、地域医療に関わってきたことが関係しているような気がするのだ。
今ぼくは、「かしま病院」という地元の総合病院が実施する研修プログラムの企画や運営に関わっている。かしま病院には、複数の大学からさまざまな学生が研修を受けにやってくる。これまでは、どちらかというと病院や施設の中だけで研修を行ってきたそうだが、地域住民の暮らしにも目を向ける場をつくりたい、ということでぼくに声がかかり、まち歩きや対話ワークショップ、座学講座などを提供することになったのだ。
では、なぜそのような講座やワークショップが求められているのか。一つは、この病院が「地域医療」を掲げていることが挙げられる。そしてもう一つは、地域医療を実践するために掲げられている「全人的医療」という概念の存在だ。順を追って解説する。
かしま病院は、開院当初から、この「地域医療の実践」と「全人的医療」を理念として掲げてきた。地域医療とは、病気や怪我の治療だけでなく、そこに暮らす人たちの健康的な暮らしのために提供される医療・福祉・支援などの総体を指す。介護やケアなどの領域を広く包摂しながら、地域全体の健康的な暮らしを支える考え方だ。
地域医療を推進する中で、医師の役割は病院の外にも広がっていく。患者の症状だけでなく、暮らしぶりやコミュニティにも目を配る必要が出てくるからだ。その地域特有の社会課題、産業形態、食文化などを理解することが、ひいては患者を知ることになり、診断にも役立てられる。だから病院の外に出よう、地域の人たちに会おう、まちを歩こうという研修が生まれたわけだ。
そしてもう一つのキーワード「全人的医療」。これは、特定の部位や疾患に限定することなく、患者本人の心理、社会的側面、人間関係、これまでの人生の歩みなども含めて幅広く考慮しながら、総合的な診断・治療を行う医療のことを指す。かしま病院でも、研修医や学生を指導する医師たちが「症状だけでなく人を診よう、その人の背後にあるものを知ろうする姿勢が大事だ」というメッセージを繰り返し伝えてきたそうだ。ぼくの関わっている研修プログラムも同様で、地域の人たちとの対話の機会を提供したり、幼稚園や保育園に訪問して、ただ子どもたちと遊ぶ時間をつくったり、ぼくのように地域に根差して活動する人たちともワークショップなどを企画したりと、地域で学ぶ時間を設けてきた。
地域医療や全人的医療を支える鍵となるのが「総合診療専門医」である。特定の部位や臓器ではなく、家族や生活背景、地域の暮らしなども総合的に把握しながら患者を診断する医師のことだ。地方都市には、臓器別の専門クリニックや大学病院のような大きな病院が少なく、地域に暮らす人たちを、限られたリソースで受け止めなければならない。このとき活躍するのが総合診療専門医だ。腹痛も怪我も、感染症も生活習慣病も、あらゆる疾患をいったん丸ごと診断し、必要とあらば大病院・専門医へとつなげる役割を担う。
地域医療、全人的医療を実現するには、総合診療専門医が必要だ。そして、総合診療専門医を育てるためには、病院や大学に閉じこもるのではなく、地域に出て、多様な人たちと出会い、語り、地域を知る必要が出てくる。しかし、病院は、あくまで治療の場であり、地域の人たちとの交流が豊富なわけではない。そこで、ぼくのような地域を地盤に活動する人間と病院とがコラボし、医学生たちが地域で学ぶ場をつくることになったわけだ。
疾患は、その人の一部でしかない。仮に目の前になんらかの生活習慣病を抱えた患者がいるとする。専門医なら、数値を測り、その数値を下げる処方をし、しかるべき指導をして終わりかもしれない。けれど、総合診療医の研修では「その人の背景を探って欲しい」というメッセージを繰り返し伝えている。運動不足なのか、食生活の乱れなのか、あるいは、その根底にストレスがあるのか。ストレスなら、仕事が原因なのか、親子関係に由来するものなのか、就職がうまくいかないからなのか、経済的困窮が原因なのかまで探ってみよう。処方や指導だけでなく、別の支援が必要ならそこにつなげるところまで考えられるようになって欲しい。そして、それぞれの悩みを吐露してくれるような信頼関係を患者さんと、地域の人たちと築いて欲しい。人を症状だけで、臓器別の疾患だけで、患者という立場だけで把握するのではなく、全人的に、つまり人を丸ごと理解しようとする姿勢が必要だ。研修では、そんなことが語られる。
目の前にいる人に、なんらかの困難や障害があるとする。だが、それもまた、その人の「一部」だ。もちろん、大きな障害であり困難だから、当事者はそれらを和らげ、なくすため、あるいは、私たち非当事者に考えて欲しいからこそ声を上げ、支援者はそれを手助けする。当然、その声を無視してはいけない。けれど、なにかの課題の当事者であることは、その人の一部でしかないことも忘れてはいけない。目の前にいる人を、なにかわかりやすい用語でカテゴライズされた当事者として見ると、その人の複雑さ、多面性を見えなくさせてしまう。つまり「全人的」に捉えにくくなるということだ。
こんなこと、ぼくが言うまでもないけれど、人は多面的だ。自分を成り立たせているものを円グラフみたいにわかりやすく書き出してみたらいい。なんらかの苦しさを抱えている自分だけがそこにあるわけではないはずだ。なにかのゲームが好きな自分、母親や父親である自分、ラーメンが好きな自分や、マージャンにはまっている自分もいる。なにかの困難があったとしても、それは自分のせいではなく、生い立ち、教育、交友関係、過去の恋愛が関係しているかもしれない。専門家は、その一部の側面に深く関わっているだけだ。そうではない側面、そうではない領域に私たちの関わりが広がっているのではないか。いや、とするならば、人を「全人的」に理解し切ることなんて到底できないとすら思える。ぼくたちにできることは、分化された人格があるだけだという理解に立ち、複数の人たちで、それでもなおその人を全人的に理解してみようと「試みること」くらいなのかもしれない。
複数の「わたし」と共事者
地域医療の実習や現場の医師たちとの交流を通じて、ぼくはこう思うようになった。専門性というものは、その多面性の一部を深く掘り下げ、鋭く洞察することができる一方で、その領域だけしか見えなくさせてしまうと。そして今、ぼくには「当事者研究」もそう見える。なにかの側面を深く深く洞察しようとするあまり、それしか見えなくさせてしまうということがあるのではないか。なにかの課題、なにかの障害の当事者としての人格だけがあるわけではないのに。
この考えを、作家の平野啓一郎が提唱する「分人主義」と結びつけてもいいかもしれない。ふつう人間は、個人を分割できない一人の人間として捉え、その「本当の自分」がさまざまな仮面を使い分けて社会生活を営むと考えている。そうではなく、対人関係ごと、環境ごとに分化した異なる人格すべてを「本当の自分」だと捉え、それら複数の人格すべてを認めていくのが分人主義だ。
くっきりとした一つだけの「本当の自分」があるわけではない。とするならば、なにかの困難の当事者である自分だけがあるわけではない、と考えるのが自然だ。なにかの当事者ではない自分もいるし、障害者ではない自分もいる。分人主義を支持するなら、当事者研究とは、ある人格の特定の一部を扱う、極めて専門性の高いアプローチだとカテゴライズできる。
自分の人格は複数あり、なんらかの「当事者」ではない自分の人格がある。共事者とは、まさにその「分人化されてなんらかの当事者ではなくなった自分」と接してくれる存在だと言えないだろうか。「認知症のおばあちゃん」ではなく一緒にお茶を飲む隣人として捉える。「迷惑な行為を繰り返す知的障害者」ではなく大事な表現を繰り広げる作家なのだと捉える。「被災地」として捉えるのではなく、酒や魚を楽しむ場所として見てみる。そうやって、「なんらかの課題の当事者ではない人格」を期せずして掘り起こし、その人の「分人的側面」を通じて出会う回路を立ち上げる。共事者には、そんなこともできるのではないだろうか。
たとえば、寿司屋でたまたま隣り合った人が、うまく言葉を出せない人だとする。専門家ならば、その人は「場面緘黙」だろうか「失語症」だろうかと、知識や情報と結びつけて考えることができる。しかるべき対応をすることもできるはずだ。だが、その時点で、目の前の人を「場面緘黙当事者」とか「失語症の方」とラベリングせずにいられない。
ぼくたちは、そんな障害があるとは知らない。あれ、おかしいなあ、言葉が通じないのかなと戸惑うかもしれない。でも、筆談したりジェスチャーしたり、あるいは、適当に相槌を打ったり乾杯したりして、いい時間を過ごすことができるかもしれないのだ。そのあとカラオケになだれ込んで、仲良しになれるかもしれない。
だから、なんらかの当事者ではない自分に引け目を感じたり、当事者性が低いことを嘆くのではなく、専門性のない「わたし」を頼りに動いてみることだ。正しい方法でなくても、アクションを起こして0から1を生み出す。それが、先ほど斎藤幸平が言及した共事者の「実践的態度」であるのかもしれない。当事者ではないからこそ、専門家ではないからこそできることがある。「しっかり」やるのではなく、「うっかり」やってしまおう。ぼくたちの先走りこそ、「思いがけなさ」に火をつけるスイッチだ。
現場の傷痕と共に
とはいえ、自分のなにもできなさに、言いようのない劣等感を感じることもある。能登の地震でも、まさにぼくはそんな感情を味わった。それでも一人テンションを上げ、冴えない自分に喝を入れて奮起しなければならない時もある。そんなときの新しいルーティンがぼくに生まれた。自分の右肩をさすることだ。ぼくの右肩には黒ずんだ痣がある。とある障害福祉事業所で(あえて名前は伏せておこう)、利用者に強く噛みつかれた痕だ。ある朝、なにか気に食わないことがあったのだろう。いきなり怒り出して他の利用者を殴ろうとした彼を宥めた。しかし、どうしてもそいつを殴ろうと暴れる。ぼくはスタッフではないが、朝の時間で男性スタッフは送迎のためほとんど出払っており、周囲には女性しかいない。たまたまそこに居合わせた者として体全体で止めに入り、「大丈夫だ! 大丈夫だ!」と宥めながら彼を押さえたが、彼の興奮は収まらず、ぼくの肩に噛みついた。
異変に気づいた男性スタッフが駆け寄り、複数がかりで利用者同士を引き離し、なんとかその場を鎮めることができたものの、服を脱いでみると、ぼくの右肩は、彼の歯形そのままに皮がめくれ、肉が剥き出しになって血が出ていた。すぐに消毒して大きな絆創膏を貼ったが、ぼくの痛みも怒りもすぐには収まらなかった。なぜ自分が噛まれなければいけないのか。スタッフでもないし、ただの客として、そこに居合わせただけなのに。
そのとき考えたのは、これが現場だということだった。専門家づらしてご高説を垂れ流している連中や、部屋に閉じこもってふんぞりかえっている連中には、この痛みはわかるまい。これが現場の痛みなんだとぼくは思った。福祉の現場は、危うい均衡のうえに成り立っていて、わずかな綻びや、ふとした食い違いによって一気に崩壊してしまう。ぼくはその福祉の現場の「ままならなさ」、そのものに噛みつかれたのだと思った。
傷をさすりながら、ぼくはこの傷の意味を考え続けている。この傷は共事者の傷痕だ。当事者でもない、支援者でもない、福祉の専門家でもない、ましてやスタッフでもないぼくが、なぜか噛みつかれた。噛まれはしたが、現場には介入し、ぼくはぼくなりに動くこともできた。そしてなにより、こうしてさまざまなものを考えることができた。ふさわしい行動だったかはわからない。でも、勇み足だろうと、先走りだろうと、そこにいて物事に「共事」したからこそこの傷はできた。だからこの傷は、共事の痕跡、いや、共事の「勲章」だと思いたい、いや、そう思わななければやってられない。傷をさするたび、自分は現場に生きる人間なのだ、その現場で考え続ける人間なんだと思うことができる。そして傷をさすることからまた、力を得て、歩み出すほかない。
ありがたいことに、この連載は4年もの間、続けて書かせてもらった。なんでも放り込んでおける連載だった。おもしろかったものも、楽しかったものも、美味かったものも、悩みも葛藤もぜんぶ文章にして放り込んでおくことができた。書くべきことがあって書いたわけではない。すべては即興にして勇み足。うっかりやった先で、後先考えず行った先で考え、それを書いたものが4年も続いたのだ。改めてゲンロン編集部の皆さんには感謝を伝えたいと思う。
だが、この文章の序盤で紹介したように、ぼくの勇み足にヒントを得て、共事者の存在に関心を寄せ、それぞれの研究や論を深堀している研究者たちも生まれている。ぼくの蛮勇が専門家を動かし、研究が広がりを持ったのだとしたら、ちょっとくらい誇らしい気持ちになってもバチは当たらないだろう。これからも、自由に「共事者研究」が生まれて欲しいし、そこで再解釈される「共事者」もまた、さまざまな人格を持つことになる。出会った人の数だけ解釈がある。それらも皆まとめて共事者。そういうことでいいんじゃないだろうか。
思えば、ぼくが障害福祉事業所で傷を受けたのと同じように、ゲンロンでもたくさんの傷を受けた気がする(笑)。何人もの専門家に論破され、コメント欄で「強者」認定され、勇み足で参加した署名運動の謝罪を泣きながらする羽目にもなった。どうにも場違いだった。だから傷を受けたのだ。けれど、思いがけない傷がまた、自分を変化させる力になり、現場に立ち続ける矜恃に育っていくということも学んだ。勇んだ分だけ、先走った分だけ、そこに余白ができる。その余白の中で、ぼくたちは思考を重ねることができる。
ぼくは、福祉や医療の共事者でもあるが、思想や哲学の共事者でもある。そしてなにより、複雑で不安定で不透明な世界の住人だ。予測不能な出来事をできるだけ緩やかに受け止め、複雑さに対峙し、それでもなお、生きる喜びや「美味さ」を楽しむ心の余裕を忘れずいるために、ぼくはこれからも勇み足と先走りを続けようと思っている。その先に、次なる共事者が生まれると信じて。
小松理虔
2 コメント
- tomonokai80432024/02/22 12:06
小松さんの文章。毎回いいなと思いますが、今回は本当に良かった。 「共事者」という言葉を世に出し、それから小松さんがどう考えてきたのか。 他の方が使っている「共事者」の概念について、なにかが違う気がするという感覚があって、それはなんなんだろうと、小松さんが考えた痕跡を一緒に辿っているような読後感。 そして常に、後に続く者を意識し、自らを捨て石のようにさらけ出していくスタイルは、本当にロック!(ロックっていう言葉が合っているのかわかりませんが、魂を感じるっていう意味で、ロックです!) 個人的に、平野さんの「分人主義」の考え方に感銘を受けたし、「全人医療」は、自らが医療関係に携わることを決めたときに掲げた理想なので、刺さるものがあっら。 また、医療・福祉系の職種の1人として、「寄り添う」という言い方は嫌いじゃないけれど、少し、おせっかい過ぎる気もして、「お手伝いする」という言い方をすることがある。でも、「お手伝い」っていう言い方もおせっかいな感じもある。 そして、仕事として関わっていくと、意識的に、個人を見すぎないようにバリアを張ってしまうところがある。でも時折雑談をして、その人の意外な一面をみられたとき、一番ハッとさせられる。 疾病や障害に括られない人間を相手にしているって気づかされること、本当に大事だと思う。 小松さんの「共事者」という言葉。 東さんの「観光客の哲学」とも重なるところがあって、本当に良い言葉だと思う。
- TM2024/03/05 12:37
小松さんが地域医療に関わられている理由が共事者と滑らかにつながりました。 医療従事者、特に医師は治療の提案実施を担うわけで疾患の当事者である患者にとって直ぐ側にいる共事者です。 疾患との付き合い方は当事者の背景と切っても切り離せないものであり、この共事者という視点がなくなると到底医療は成立しません。 疾患の診断、疾患の状態分析で既報の統計的に最も生存率が望める治療を一方的に投げつけるのであれば、それこそAIの方が得意になりそうです。 自分も研修医の頃、東北の診療所で2ヶ月研修をしました。 村唯一の診療所。唯一の常勤医である所長のもとで勉強させていただきました。 研修中、所長は驚くほど積極的に村のイベント、祭りとか飲み会に参加していたことが印象に残っています。 しかも所長は研修医である自分のために、小学校訪問やスキー会といったイベントも開いてくださったのです。 あのときは村の人との関係性づくりのためなんだろうな、大変だな、なんて思っていたのですが、きっとあれは共事者としての視点を所長は忘れていなかったということなのでしょう。 確かに診察室の外で私服で話すと、患者さんはもはや患者さんではありませんでした。 相手も研修医ではなく、変な短期滞在の若者として接してくれていた気もします。 都市部の病院勤務だと全く出会わない大事な経験です。 あの顔と出会えたからこそ、忘れそうになりながらも診察室の外の顔に想像が広がり、共事者としての視点を保てている気もします。 当事者を知るための共事者視点。 そもそもの共事者という視点への関心。 小松さんの言葉を起点に拡がっている世界。 その世界を俯瞰できる素晴らしい番外編でした。 ありがとうございます!
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