当事者から共事者へ(15) 共感と共事(2)|小松理虔

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初出:2021年12月24日刊行『ゲンロンβ68』
 前回、思い立って下北半島を旅したぼくは、元会津藩士たちが拓いた斗南藩の遺構をいくつかめぐり、そこで会津のたび重なる敗戦の歴史を目にした。日本を背負いながら、なぜこれほどまで酷い仕打ちを受けねばならなかったのか。ぼくは思わず、会津の悲劇に深い悲しみや怒りを覚えた。

 しかし、その一方で、なぜ後世に生きる、会津人でもないぼくが、そこまで会津の人たちに共感を覚えるのだろうかということも考えた。ぼくは、テレビドラマや映画で繰り返し生産される悲劇のイメージに、強く影響されてこなかっただろうか。会津に対する共感は、いったいどこから生まれているのだろうか、と。

 そこで今回は、会津に対する「共感」から、「共事」について考えてみたい。似たような言葉として想起される共感と共事。そこにはいかなるちがいがあるのだろうか。

観光史学から考える会津


「斗南岡」で目にした、秩父宮と松平節子姫の婚姻を記念した石碑。そこから連想して、会津、悲劇、朝敵、雪辱というような単語をグーグルの検索窓に打ち込んでみると、あるひとつのキーワードにたどり着く。「観光史学」という言葉だ。これは、一言でいえば「観光のために活用される歴史」のことを指す。特に会津においては、1970年代から活躍した地元の郷土史家、宮崎十三八とみはちによって提唱され、地域に実装された概念だ。宮崎が会津若松市の職員として観光政策の中枢にいた時代に、会津の観光地は悲劇を纏うようになったと言われている。つまり、地域の観光を充実させるために敢えて「戊辰の悲劇」が強く打ち出されるようになったわけだ。

 この「会津史観」には、疑義を唱える人たちも現れた。歴史的な事実と合わないという学術的なものだけでなく、いつまで恨みを煽って金儲けするのか、今なお過剰に長州への恨みを煽る「怨念史観」ではないかという批判も寄せられている。特にネット上では「会津観光史学」という言葉は一種の揶揄として使われているようだ。体系的な反証研究はされていないようで、ネットで検索しても、引っかかるのはどれも粗い議論ばかりだった。

 



 もう少し詳しく知りたいなと思っていたところ、現在は摂南大学に籍を置く田中悟という研究者が2009年に書いた、会津の観光史学についての論文を見つけた★1。宮崎が提唱した観光史学の持つ二つの側面、シンプルでイノセントな「歴史探訪」的側面と、怨念史観的な側面の両方を整理するとともに、死者の忘却という問題にも視野を広げる論文で、大変勉強になった。

 



 ここから少し、田中の論文を参考にしながら、会津の観光史学を考えてみたい。

 田中によれば、戦後の会津の観光の目玉はあくまで自然公園や温泉だった。ところが戊辰戦争から90年にあたる1957年に開催された「会津まつり」で、たまたま白虎隊や藩士に扮した人たちの行進などを開催したところ、予想を超える大成功となったそうだ。そこから会津観光の「戊辰化」が進んだのだという。同時期に、戊辰戦争100年に向けた鶴ケ城再建事業が進められたこともその傾向に拍車をかけたようだ。

 宮崎十三八は、まさにその鶴ケ城再建事業の担当者だった。彼はさまざまなリサーチを通じて歴史を学び、1970年代からは郷土史家として執筆活動を行うようになる。当初は、会津の美しい自然や歴史探訪の魅力を伝えるような紀行文などを書いていたようだ。宮崎にとって、まさにこの「歴史ロマン探訪」こそが観光史学だったのだろう。

 ところが宮崎は、その後、急速に筆の趣を変え、戊辰戦争の惨劇を強調し、長州の非を責めるような文章を書くようになる。きっかけは1987年、戊辰120年の目玉として企画された長州と会津の「手打ち式」の計画に、市民から猛烈な批判が集まったことだという。市民からの批判は実証的なものではなく、「天皇の御宸翰があったにもかかわらず賊軍になった」とか、「会津藩士の死体は埋葬することすら許されなかった」とか、司馬遼太郎や早乙女貢といった作家たちが書く歴史小説からの影響を強く受けたものが多かった。宮崎本人は会津には怨念や憎しみなど残っていないと考えていたようだが、市民からの想像を超える激烈な反対の声に、120年ものあいだ語られなかった会津の怨念を「発見」したのだろうと田中は分析する。宮崎は、これをきっかけに悲劇の舞台としての会津を頻繁に語るようになり、観光史学の怨念史観的な側面が膨らみ始めた。

 



 しかしなぜこうも過剰に、宮崎は怨念史観的なものを内面化してしまったのか。田中はそこに、会津に続いた「死者不在」の歴史を見る。戊辰戦争後、会津は急速に「雪冤勤皇せつえんきんのう」に傾倒する。逆賊という「ぬれぎぬ」を「そそぐ」ためだ。そしてその勤皇精神こそが戦中の会津のアイデンティティとなった。事実、第二次世界大戦中、陸軍の基地のあった会津は多くの軍人を輩出している。その時代の会津は、田中の言葉を借りれば「軍国主義の模範として積極的にその片棒を担ぎ、我が世の春を謳歌した、国家の精神的支柱とも見なしうる存在だった」ようだ。

 多くの軍人を輩出したということは、戦死者も多かったということでもある。にもかかわらず、会津若松市には空襲など直接的な被害は少なく、このため戦後の会津には広島や長崎のように地域全体で死者を追悼するという文化は生まれなかった。同様に、アジア各国での軍の侵略行為も問題にならなかったという。そうして死者を顧みることなく、敗戦によってぽっかりと失われてしまったアイデンティティの空白に、戊辰の悲劇がすっぽりと埋め込まれ、上書きされていったのだ。

 



 恥ずかしながら、ぼくは会津がかつて軍国主義に染まっていたという事実を知らなかった。そんなことは観光ガイドには書かれていないし、自分でも進んで研究したことはなかった。それに、会津の歴史を学ぼうとするといきなり戊辰に直結してしまう。つまり、「あいだ」がすっぽりと抜け落ちてしまうのだ。いわきの歴史を学ぼうとすると、炭鉱や「フラガール」的なところにすぐに行き着いてしまうのに似ているかもしれない。

 田中の論文は、このあと日本における「忘却の非倫理性」について論じ、宮崎が後年に力を入れた巡礼の意味を模索していく。戊辰と戦後の「あいだ」を理解するための重要な内容だが、論文について取り上げるのはここまでとし、これ以降は少し角度を変えて、先ほど提示した問い、なぜぼくが会津の悲劇にことさら共感してしまうのか、という議論に戻ろう。

 



 なぜぼくは、会津の悲劇に、ことさらに共感してしまうのか。一言でいえば、ぼくが当事者ではないからだ。ぼくは会津人ではない。言い換えれば当事者ではないからこそ、自分の中にある似たような感情、たとえば原発事故後に感じた怒りを勝手に会津の歴史に見出してしまったのだと思う。同じ被害者として会津に寄り添おうとすることで、自分の怒りを正しいものとして捉えたかったのかもしれない。少し自虐的な言い方になるが、「国に裏切られた会津」は、原発事故後の浜通りに生きるぼくの琴線に触れたということだ。もちろん辛い歴史を共有する地域の人たち同士の連帯は必要だ。けれど、そこに「過剰共感」のようなものが生まれるおそれはないか。

共感と共事


 人は誰しも自分自身の当事者であり、他者の非当事者である。似たような境遇の人でも、自分とまったく同じ人間はいない。だから、社会課題や災害、なんらかの事件の当事者と出会ったとき、ぼくたちは非当事者として当事者に向き合うほかない。もちろん、出会うのは人だけではない。この連載で度々紹介しているように、ぼくたちは地域や風景、歴史とも出会う。

 そこでしばしば共感が立ち現れる。なにかの問題で苦しんでいる人たちに対して、ぼくたちは自分と共通するものを見つけたり、支援したい、支えたいと考えるようになったり、不条理に対して声を上げて共に戦おうとしたりする。

 その過程で共感が膨らむと、「共感共同体」のようなものが形成されていく。「自分も当事者として声をあげよう、あげていいんだ」という機運が生まれ、社会運動に変化してひとつの塊となり、法律や制度を変える力になることもある。だから共感は決して悪いものではない。

 だが一方で、周囲の非当事者ほど、被害者性を過剰に内面化してしまい、「過剰共感」を生み出してしまうということがあるのではないか。宮崎が後年、怨念史観的な観光史学に傾倒したことも、市民の感情的な怒りを内面化してしまったことが要因かもしれない。より過酷な当事者に出会ったとき、ぼくたちは語れるだけの余裕があるからこそ、かわいそうだ、ふざけるな、許せないという感情を言葉にできる。けれど、当事者に寄り添うなかで生まれたはずの言葉は、そのバランスを失えば、容易に相手を論破したり排除するための言葉に変わってしまうのだ。ぼくたちはよそものだからこそ、中の人よりも強く怒り、声を上げてしまう。それは希望になり、連帯の種にもなるが、一方で強い排除の言葉になるということだ。

 だからこそ、共感にはブレーキのようなものが必要だ。では何がブレーキ足り得るのか。ぼくは好奇心だと考えている。あるいはふまじめさと言ってもいい。共感するなと言っているわけではない。共感だけでなく、なぜ共感が生まれているのかを別角度から考えるような回路持てたら、宙に浮いた言葉を、再び地面に引っ張り戻す力になるかもしれない。

 当事者の声を伝えようというとき、すべてそのまま鵜呑みにするのではなく、いったん共感を抑え、興味や関心を起動し、なぜそういう状態になったのだろうと背景を考えてみたり、「似たような問題だ」と考えられていたもののちがいを探ってみたり、異なる考えをする人たちがどうしてその考えに至ったのかを探ってみたりする。そのために、少しだけ距離を保つのが「共事の回路」だといえないだろうか。それを経たうえで再び共感に戻ることができれば、まっすぐ共感の道を進んできたときとはべつのものが見えるはずだ。

 



 共感をただ強めていく道でも、さらに一歩深く当事者への道を進むのでもなく、それを入り口にしながら、知らないうちに共事の道へと回り道する人たちを、ぼくはこの連載で積極的に捉えてきた。なぜならぼくがそうだからだ。ほとんどの課題について当事者性が薄く、マジョリティで、大した苦しみもなく生きてきた。だからぼくは、いつも「自分に語る資格があるだろうか」と悩んできたし、悩んでいるうちにさまざまな社会課題を素通りしてしまった。それでも自分のやってきたことに小さな意味があったんだと思いたいから、ぼくは「共事」という言葉を編み出したのだと思う。ぼくは結局、そうして自分をエンパワーしてきたわけだ。

 



 共事者はルールを知らない。専門知識もない。だから武器も持たず徒手空拳でふまじめに課題に対峙するほかない。だから間違える。やらかしてしまう。当事者からこっぴどく叱られたりもする。それでもなおそこから学ぼうとすれば、これもまた強者による搾取だと言われるのだろう。たしかに、マイノリティはマジョリティの学びのために存在しているわけではない。だが、それでも無関心でいるよりはマシだ。批判も受け止めながら、学び、その都度間違いを訂正し、考えを深めていくほかないのだと思う。

 またぼくは、これまでの論考でなんども「さまざまな物事を自分に引きつけて思考し、言語化すればいい」と書いてきた。これも大変粗い言い方だと思う。ぼくたちの勝手な議論で傷つく人もいるだろうし、当然、自分の言葉を外に出せば批判の対象になる。しかし、盲目的な「言葉の自動機械」になって世間的に正しいとされる言葉を繰り返すよりはよほどいい。実践を通じて学び、対話を重ね、自分の言葉を晒し、間違い、そのたびに軌道修正していくほかない。共事者は、つねに「加害者」であること、間違うことを背負い続けなければならない。

 



 同じ福島県に暮らし、会津とともに奥羽越列藩同盟に加わった磐城に生まれ育ったぼくは、どうしたって会津の悲劇に共感を持たざるを得ない。土地を追われ、斗南に渡った人たちの苦しみを思いたい。だからここで、共感をもっと深めて「長州は許せない」という感情を増幅させるのもありかもしれない。けれど、そこから少し距離を取り、なぜ自分は会津にそこまで肩入れしてしまうのか、会津の悲劇はどのように生まれたのかを考えてみる。そしてそのうえで、もう一度、改めて、共事者として会津の悲劇について思い馳せてみたい。

 事実、会津は蹂躙された。近代化の影で大きな犠牲を払った。加害者たち、体制の側にいる人たちは、会津を思いやろうともしない。しかしその一方には、被害者たる会津が見ようとしなかった歴史もあった。そこに、語られずに土に埋もれてきた言葉があるということだ。先ほど紹介した田中の論文で、晩年の宮崎十三八が会津の寺院を繰り返し巡礼したことが紹介されていた。宮崎は、かつての軍国主義や自らの観光史学によって土に埋められた言葉を探すために、自らの足で寺院をめぐり、心静かに手を合わせたのではないか。

 共感の道をまっすぐに進んで見える会津ではなく、ぼくは、いったん共事の回路へと外れたのちに見えてくる会津を感じたい。だからぼくはこうして旅に出て、外からふまじめに、そして自由に、ふるさとを見返しているのだ。

怨念史学と風評


 ああでもないこうでもないと思考をめぐらせているうち、観光史学の怨念史観的側面は思ったより射程が広く、もしかしたら原発事故後の「風評被害」の話にも接続できるかもしれないと思えてきた。このパートの最後に、怨念史観と風評被害について、言葉が出てくるのに任せて書き連ねてみようと思う。

 



 福島の食をめぐっては、さまざまな調査により、すでに2014年頃から、福島県産品を忌避する層は消費者の8パーセント程度にまで下げ止まっていることがわかっている。ビジネスの観点からいえば、この層を無視して残りの一般客、まだ福島県産の海産物を食べたことのない層へマーケティングを集中したほうがいい。だからぼくもかまぼこメーカーの時代から「福島県産を避ける選択は尊重しつつ放っておき、新規客への販路開拓に注力すべきだ」という持論を展開していた。このことは拙著『新復興論』にも書いている。

 ところが、そうしたデータの裏付けがあっても「風評被害はある」「許せない」という言説が一向になくならない。ツイッターでは、原発事故直後の、大きな混乱が続いた時期に投稿された匿名のツイートをあげつらったり、ネット上にわずかに残る珍妙な意見を声高に批判し、自らの被害者感情に結びつけたりするような投稿も少なくない。たしかにデマや誹謗中傷は批判されるべきだが、いまはむしろ、反原発派を叩く投稿のほうが買い控えをつくっているのではないかとも感じる。なぜなら「風評はまだ残っている」「叩き潰せ」と叫ぶ人がいるほど、業者は消費動向における福島県産品のリスクを、過剰に大きく見積もってしまう可能性があるからだ。彼らこそ風評被害を助長させているともいえる。

 さらにこの数年、「風評加害者」という言葉が極めて政治的に使われるようになっている。福島の現状についてデマを発信する人だけでなく、福島に関してネガティブなイメージを植え付けるものはみな風評加害だというように拡大解釈され、復興のネガティブな側面を伝えるジャーナリストや、海洋放出に厳しい視線を向ける人たちにすら「風評加害者」というレッテルが貼られている。

 ネット界隈の小さな動きではない。たとえば10月末の衆院選において、処理水を「汚染水」と呼ぶ野党議員に対しても、「風評加害者」という言葉とともに批判の声が寄せられた。朝日新聞の記事には、政治家や研究者たちが公式の場で「風評加害者にならないように」などという文言を使っていることが報じられている。加害者という強い言葉までは使わないが、「風評こそ最大の課題」だとする考えは福島県の政策にも通底している。大人たちが「風評」を最大の課題とすることで、福島の若者たちがそれを過度に内面化してしまうという問題も起きつつある。周囲の人の多くはすでに関心すら失っているにもかかわらず、過度に内面化された怨念。ぼくはここに、会津の観光史学にも共通するものを感じてしまうのだ。
 過去のできごとを、被害者として現在に召喚しようというとき、そのこと自体に隠れた加害性がないだろうか。自分たちの加害性を忘れ、あるいはそこから目を背け、徹底して被害者の側に置いて相手の責任を「盛る」ことで、一時的には共感が生まれるのかもしれない。怨念史観的な負の感情を抱かざるを得ないほど、反原発勢力が原発事故直後に投げかけた言葉はひどいものがあったのだろう。しかしその増幅された怨念は澱のように沈殿していき、かつて会津がそうなったように、じわじわと市民の心に溜まっていくのではないだろうか。ぼくは、杞憂であることを願いつつ、それこそが心の復興を阻むものになってしまうのではないかと案じる。

 いや、そもそも長州や東電すら、東北や福島に負担を強いてきた「わかりやすい敵」でしかないのかもしれない。だから、自分が抱いた「許せない」という感情はいったいどこからやってくるのか、目の前の敵はほんとうに敵なのか考えてみたい。共事という概念が、事実を自分に都合よくつなぎ合わせることと紙一重だからこそ、自らの加害性を出発点に、真摯に、謙虚に、柔軟に、そしてふまじめに、目の前の現実を楽しんでいくほかない。そうして距離を置いて振り返ることで、ぼくは、ぼくのなかにもある怨念を飼い慣らしたいと思う。

 
天気にも恵まれた下北行

恐山と温泉


 斗南藩の史跡をめぐる旅がひと段落し、ふとスマホを見ると、時計はもう午前11時頃になっていた。そろそろ昼めしを意識した行き先を考えたほうがいい頃合いだ。そうだ。あれを食べずに帰るわけにはいくまい。大間のマグロである。グーグルマップで検索すると、むつ市中心部から恐山を経由して大間方面へ抜ける道を見つけた。マグロを食うついでに恐山にも参拝できるとあらば行かない手はない。

 
威風堂々とした総門

 

 郊外の住宅地を抜け、山道に入り、「霊場恐山」のゲートをくぐる。登り坂の角度が高くなると次第にカーブが増え、道端に置かれた地蔵の数が増えてきた。周囲の山々は深く静かで、その静けさがかえって何物かの気配を感じさせた。なんだろう、誰かに「見られている」ような視線。よもや、ホテルから誰か連れてきてしまったか……。

 いきなり視界がひらけ、目の前に美しい湖が広がった。そして、その湖の奥に荘厳な寺院群が見えた。恐山菩提寺である。寺は山々に囲まれており、湖のあるところだけが周囲より低い。岩肌がむき出しになった様もよく見えた。お寺に参拝しなくても、すでにこの風景に祈りを捧げたくなる、そんな美しさがあった。寺を開いた慈覚大師円仁の気持ちがわかる気さえした。
 
湖の岸を囲むように建物が広がっている


斗南藩の藩庁が置かれた円通寺。恐山菩提寺の本坊でもある

 
 さすがは比叡山、高野山と並ぶ日本三大霊場に数えられるだけはある。建物の規模、迫力、整然とした美しさ。どれをとっても、よそとは違って感じられた。かなりのお金もかかっているのだろう。なんというか、ここに来るだけで霊験があるような雰囲気だ。

 車を降り山中を歩く。所々岩がむき出しになっており、その隙間から硫黄の煙が吹き出している。「無限地獄」と看板には書かれていた。なるほどここが地獄だとすれば先ほどの美しい湖が極楽だということか。案内板には、硫黄ガスが充満しているからタバコやろうそくを使うなと書いてある。ガスはそれほどの濃度である。山を歩いて体調を崩し、それを霊の力だと感じてしまう人がいるというのも納得できる。地獄の岩場に置かれた地蔵さまのラフさは、ぼくのような世俗の人間にはちょうどよく、目に入ると思わず手を合わせたくなった。ぼくは心のなかで「いいマグロに出会えますように」と願いを込めながら「南無阿弥陀仏」を唱えて歩いた。ぼくの信仰心は、その程度のものだ。

 
無間地獄に置かれたお地蔵さん

 
あちこちに仏像が置かれており、思わず手を合わせたくなる

 
 ゴツゴツした岩山の地獄を抜けると、再び視界がひらけ、先ほど見た湖がまた姿を現した。どうやら湖の周囲をぐるりと回り、対岸に出たようだ。鉱物や硫黄の影響でところどころ金色に見える。その手前に、新しい仏像を見つけた。よく見るとその仏様は、東日本大震災の犠牲者を弔うものだった。マグロのことばかり考えていた自分を叱りつけ、静かに手を合わせる。

 目を開けると、奥にある山が目に入った。美しいというのでもない。雄々しいというのでもない。けれどぼくは、思わず目の前の仏像に、ではなく山に手を合わせているような気持ちになった。木々が、金色の湖の水面が、風に揺れている。

 地獄と極楽が隣り合う恐山。会津で、そして斗南で、戦地で、震災で命を落とした人たちのことを考えた。藩士や軍人たちは、戦争で人を大勢殺めたことを閻魔大王に責められただろうか。いや、極寒の斗南や戦地での暮らしがすでに生き地獄のようなものだったかもしれない。それでも今は怒りや苦しみから解放され、目の前の湖のような心持ちでぼくたちを見守ってくれていると思いたい。

 
東日本大震災の犠牲者を弔う供養像

 
 ちなみにだが、恐山のなかには温泉がある。境内に湯小屋があり、誰でも入れるようになっているのだ。ぼくはそのうちのひとつに入った。境内を歩き回り、少し足が疲れたな、汗ばんできたなと思っていたところだった。男湯と書かれた湯小屋の引き戸をガラガラと開けると、洗い場もなく、シンプルな木造の風呂場がこぢんまりと口を開けていた。硫黄の匂いが泉質のよさを予感させた。さっと湯をかぶり浴槽に入ってみると、ぼくの好み、まさにドンピシャの湯温だ。おそらく42度から43度のあいだくらいだろうか。熱めだがビリビリッとくるほどではない、浸透するような熱さ。硫黄泉なので長湯に気を付けるべしと書いてあったが気にせず、入っては涼み、涼んでは入ってを数回繰り返した。

 ほんとうはここにビールがあれば最高だったがさすがに霊場で飲む酒はない。人間というのはふまじめなもので、神妙な面持ちで地獄と極楽をめぐり、東日本大震災の慰霊像に手を合わせた次の瞬間には、温泉に浸かってビールを飲みたくなるのである。

 体の内側から温まったのを確認してお湯から上がった。体を拭いて風を感じる。これを極楽と言わずなんといえばいいのだろう。小さな窓から、雲ひとつない青空が見えた。遠くに読経の音が聞こえる。耳を澄ますと、今度はぼくのお腹から昼飯時を告げるぐうという音が聞こえた。マグロ丼の準備が整ったな。ぼくは早々に着替えを済ませ、さらに北に向けて、そう、大間に向けて車を走らせた。
 
湖の周りに岩場が広がる。写真右手の建物が温泉小屋

 
最高の泉質だった恐山の温泉



撮影=小松理虔
 
次回は2022年1月配信の『ゲンロンβ69』に掲載予定です。

 


★1 田中悟「戦後会津における『観光史学』の軌跡」、『国際協力論集』第17巻、神戸大学大学院国際協力研究科、2009年。URL=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_81001449
 

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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