当事者から共事者へ(4) 震災を開く共事の回路|小松理虔
初出:2020年03月30日刊行『ゲンロンβ47』
三月である。いつもは「北」に向かう国道六号線(通称「ロッコク」)を、今年は「南」下している。一部区間が不通となっていたJR常磐線はようやく全線が再開し、三月四日には、県内で唯一、全町で居住が許可されていなかった双葉町の帰還困難区域の一部で、規制が解除された。北に向かう理由はいくらでもあった。けれども、なぜか南に足が向いたのだった。折よく、複数の人から「常磐炭田の遺構を案内してほしい」というオファーが来たり、日立駅で企画された展示のレビューを書いてほしいというオファーがあったりと、南からの依頼が立て続いたこともあった。いや、少し「福島」を離れてみようという気持ちが心のどこかにあったのかもしれない。この一ケ月、ぼくは何度も、南へと車を走らせた。
いわき市から南に四〇キロメートル。古くは炭鉱で栄えた高萩という町がある。茨城県北東部に位置する人口二万七〇〇〇人ほどの小さな町だが、この町は、心のどこかにずっと引っかかっていた。高萩のロッコク沿いに「高浜住宅」という団地がある。それが、いわき市の炭鉱の町、内郷に残る団地とよく似ていて、通るたびに、いわきのロッコクと同じ空気を感じていたからだ。高萩の団地も、炭鉱で働いていた労働者を受け入れていたはずだ。ロッコクを左折し、団地内の道路に入ってみた。古い建物はすでに閉鎖されており、緑色のフェンス越しに見えるコンクリートの黒ずみが、陰鬱な表情を際立たせていた。すでに住む人の気配はなく、ネットを検索しても、廃墟好きが写真を残しているのがいくつかヒットするだけで、ここが市営住宅であるということ以外、詳しい情報もあまり出てこない。
道路を挟んだところに比較的新しい団地がある。といっても、都市部のタワマンとはわけがちがう。一階にスポーツジムがあるわけでも、きらびやかなエントランスがあるわけでもない。建物のデザインは、どこか懐かしいような、一時代前の団地のにおいがした。すぐ裏手には美しい太平洋と砂浜が広がっていて、海までほんの数十秒といったロケーションである。時代が時代なら、桑田佳祐の歌う茅ヶ崎のような風光明媚な場所になっていたのかもしれない。しかし、ここはロッコク。団地の裏手の駐車スペースは舗装もされておらず、車が無造作に停められている。震災後に完成した新しい防潮堤には遊歩道もあるが、人の気配はまばらだ。どことなく、ぼくは地元の小名浜にも似ていると感じた。
ここ最近、ぼくは自ら企画している「ロッコクツアー」を、この高萩から始めることにしている。高萩市が輩出した歴史的人物に、長久保赤水という江戸時代の地理学者がいる。一七七九年、日本で初めて緯度を示す「緯線」と「方角線」の入った日本地図『改正日本輿地路程全図』を発行した人物だ。日本地図というと伊能忠敬がもっとも著名だが、赤水は忠敬より四二年も早く日本地図を完成させた。地図は日本に広く流布し、明治時代までの一〇〇年間で八刷を数えるベストセラーになったそうだ[★1]。新たな地図を作らんと日本国中を歩いたその赤水にあやかって高萩を出発点にしているというわけだ。なんとも安易ではあるが。
高萩駅から車で三分ほど。常磐線沿いに、『新復興論』で紹介した製紙工場「日本加工製紙」の廃工場があった。「あった」というのは、つまり、今はもう存在しないのである。跡形もない。かすかに、工場を取り囲んでいたフェンスがその面影を残すだけで、今は一面の太陽光パネルが大地を覆い尽くしている。このメガソーラー、正式には「高萩安良川太陽光発電所」という。
報道などによれば、設置された太陽光パネルは一一万二八〇〇枚。最大出力は二五メガワットで、高萩市全世帯数の三分の二にあたる八〇〇〇世帯分に相当するという。運用開始は二〇一八年五月だそうだ[★2]。かつて「ももクロ」がミュージックビデオを撮影した廃工場は、想像を絶するような大規模メガソーラーに姿を変えていた。
住宅地に、無機質に、そして暴力的に挿入された一面の黒。それは、除染した土を詰め込んだ黒いフレコンパックを思い出させた。フレコンパックは、確かに汚染の象徴ではあるが、それだけ除染が済んだという証でもあり、いわば復興の象徴でもある。黒い太陽光パネルはどうだろうか。再生エネルギーを生み出す復興の象徴といえるだろうか。運用年数はたったの二〇年だという。二〇年後、この場所はどのように姿を変えるのだろうか。この再生エネルギーは、地域を「再生」させるわけではない。負の遺産になりはしないか。ことの行く末は、もう少しじっくり見ていく必要があるだろう。いや、答えは、もう分かりきっているのかもしれない。
かつての理想をとどめる町、高萩
いわき市から南に四〇キロメートル。古くは炭鉱で栄えた高萩という町がある。茨城県北東部に位置する人口二万七〇〇〇人ほどの小さな町だが、この町は、心のどこかにずっと引っかかっていた。高萩のロッコク沿いに「高浜住宅」という団地がある。それが、いわき市の炭鉱の町、内郷に残る団地とよく似ていて、通るたびに、いわきのロッコクと同じ空気を感じていたからだ。高萩の団地も、炭鉱で働いていた労働者を受け入れていたはずだ。ロッコクを左折し、団地内の道路に入ってみた。古い建物はすでに閉鎖されており、緑色のフェンス越しに見えるコンクリートの黒ずみが、陰鬱な表情を際立たせていた。すでに住む人の気配はなく、ネットを検索しても、廃墟好きが写真を残しているのがいくつかヒットするだけで、ここが市営住宅であるということ以外、詳しい情報もあまり出てこない。
道路を挟んだところに比較的新しい団地がある。といっても、都市部のタワマンとはわけがちがう。一階にスポーツジムがあるわけでも、きらびやかなエントランスがあるわけでもない。建物のデザインは、どこか懐かしいような、一時代前の団地のにおいがした。すぐ裏手には美しい太平洋と砂浜が広がっていて、海までほんの数十秒といったロケーションである。時代が時代なら、桑田佳祐の歌う茅ヶ崎のような風光明媚な場所になっていたのかもしれない。しかし、ここはロッコク。団地の裏手の駐車スペースは舗装もされておらず、車が無造作に停められている。震災後に完成した新しい防潮堤には遊歩道もあるが、人の気配はまばらだ。どことなく、ぼくは地元の小名浜にも似ていると感じた。
ここ最近、ぼくは自ら企画している「ロッコクツアー」を、この高萩から始めることにしている。高萩市が輩出した歴史的人物に、長久保赤水という江戸時代の地理学者がいる。一七七九年、日本で初めて緯度を示す「緯線」と「方角線」の入った日本地図『改正日本輿地路程全図』を発行した人物だ。日本地図というと伊能忠敬がもっとも著名だが、赤水は忠敬より四二年も早く日本地図を完成させた。地図は日本に広く流布し、明治時代までの一〇〇年間で八刷を数えるベストセラーになったそうだ[★1]。新たな地図を作らんと日本国中を歩いたその赤水にあやかって高萩を出発点にしているというわけだ。なんとも安易ではあるが。
高萩駅から車で三分ほど。常磐線沿いに、『新復興論』で紹介した製紙工場「日本加工製紙」の廃工場があった。「あった」というのは、つまり、今はもう存在しないのである。跡形もない。かすかに、工場を取り囲んでいたフェンスがその面影を残すだけで、今は一面の太陽光パネルが大地を覆い尽くしている。このメガソーラー、正式には「高萩安良川太陽光発電所」という。
報道などによれば、設置された太陽光パネルは一一万二八〇〇枚。最大出力は二五メガワットで、高萩市全世帯数の三分の二にあたる八〇〇〇世帯分に相当するという。運用開始は二〇一八年五月だそうだ[★2]。かつて「ももクロ」がミュージックビデオを撮影した廃工場は、想像を絶するような大規模メガソーラーに姿を変えていた。
住宅地に、無機質に、そして暴力的に挿入された一面の黒。それは、除染した土を詰め込んだ黒いフレコンパックを思い出させた。フレコンパックは、確かに汚染の象徴ではあるが、それだけ除染が済んだという証でもあり、いわば復興の象徴でもある。黒い太陽光パネルはどうだろうか。再生エネルギーを生み出す復興の象徴といえるだろうか。運用年数はたったの二〇年だという。二〇年後、この場所はどのように姿を変えるのだろうか。この再生エネルギーは、地域を「再生」させるわけではない。負の遺産になりはしないか。ことの行く末は、もう少しじっくり見ていく必要があるだろう。いや、答えは、もう分かりきっているのかもしれない。
小松理虔
1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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