当事者から共事者へ(18) 共事と取材|小松理虔

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初出:2022年5月30日刊行『ゲンロンβ73』

前回、ロシアによるウクライナ侵略について、取材者と被取材者の「距離の近さ」を取り上げた。世の中で大きな事件や事故が起きると、記者たちは当事者に寄り添おうとする。そして、そこでリアルな肉声を聞こうとする。しかし、その気持ちが高まるがあまり、距離感を見失い、自分たちの持つ強者性を忘れて、無自覚に自分たちの正義を発散しようとしてしまう。だからもう少し、距離を保とうとしなければいけないのではないか、というようなことを書いた。 

 

 



 記者たち、取材者たちが取るべき「距離」については、この連載でも、過去に何度か取り上げたことがある。たとえば以前、福島第一原子力発電所に溜まり続ける「処理水」について考えた。ぼくはそこで、大まかに次のようなことを書いた。処理水問題のような複雑な問題に接したとき、記者たちは「わかりやすく伝えなければ」と考え、国や東電が加害側、漁業者が被害者・反対側という単純な構図で切り取ってしまう。ところが、よくよく地元の関係者の話を聞いてみれば、賛成も反対も一枚岩ではないことがわかる。同じ「漁師」でも、年齢や漁法、事業規模などによって意見は異なるし、同じ「水産関係者」でも、業態や商品ラインナップ、流通の立ち位置によって意見が異なる。現政府を支持するか否か、原発政策について肯定的か否定的かといった個人の考え方によっても異なるはずだ。記者たちが、わかりにくい問題を解きほぐそうとするがあまり、「あいだ」の議論が抜け落ちてしまうということだ。

 また、わかりやすく被害を描こうとすれば、当然、当事者の声こそ最重要になり、それゆえ大々的に報じられることになる。一方でその論調は、非当事者を遠ざけ、結果として大きな責任を当事者に押し付けてしまうことにもなる。漁業者が「放出は国民全体で考えるべき問題だ」と感じていたとしても、多くの非当事者は、当事者を気遣うからこそ「当事者が納得したうえで決めればいい(自分にはあまり関係ない)」と思うようになるということだ。そこでもし漁業者が放出案に賛成すれば、「漁業者が流してもいいと言ったから流した」という結果だけが残ることになるだろう。国の責任で説明し放出すべきなのに、漁業者や水産業者が、ふたたび重い課題を背負わされることになってしまいかねない。当事者の声を拡散しようと距離を縮めた結果、外部を遠ざけ、当事者にとってネガティブな状態が生まれてしまうということは、震災原発事故報道に限らず、さまざまなところで起きている気がする。 

 

 



 記者たちが取材をするとき、そこには目的があり、意図があり、聞き出したい言葉があるはずだ。ニュースに使えない、まったく見当違いなコメントばかりだったら時間が無駄になる。だから取材者は「この人なら的確にコメントしてもらえるだろう」という人を選ぶし、特に専門家に対しては事前に「こんな話をしてもらいたい」と注文をつけることになる。 

 これは当たり前の取材手法ではある。だが、まさに当たり前の「目的」が、「取材する/される」という縦の関係を強いてしまうことはないか。「冷静に分析しよう」「当事者と同化せず声を届けよう」と思っていたとしても、自らの意図や企画、あるいは正義感のなかに当事者を組み入れてしまう点で、取材者は取材と極めて距離が近くなる。取材という行為は、共事的なものではなく、極めて「当事的」な行為になりつつあるのかもしれない。

 



 では、共事的な取材なんてあるのだろうか、あるとしたら、それはいかなるものなのか、というのが本稿の趣旨だ。前置きがずいぶんと長くなってしまったが、ぼくのこれまでの経験と実践から、「共事と取材」について考えてみたい。 

 

 



 冒頭で処理水放出に触れたのは、ぼくがその問題に「共事」していたからだ。ぼくは当事者を取材していたわけではない。具体的な執筆依頼があったわけでもない。だが、水産関係者とイベントを企画したり、合同でプロジェクトを立ち上げたりしていることもあり、賛否両論の声が自然に耳に入ってくるような状況だったのだ。打ち合わせ中に、あるいは打ち上げ中に。酒が入れば割り切れない本音が飛び出してくるものだ。総理や大臣が国民に対して説明をしてくれるなら賛成だとか、報道機関がしっかりと報道してくれるなら検討に値するとか、いやいやそもそも議論が足りてないじゃないかとか。どの意見も真摯であり、だからこそ明確に賛否を色分けすることはできなかった。 

 繰り返すが、ぼくは取材をしていない。たまたま仕事を一緒にしたり、酒を飲んだりしているだけだ。だが同時に、そこで交わされている言葉の重要性は理解していて、大事だと思えばメモくらいは取るし、いつでも書ける用意はしていた。だから、まったく取材していない、とも言えないのだった。言うなれば「取材と調査のあいだ」、「半取材」といったところか。目の前の人と取材する/されるという「縦の関係」をつくるのではなく、まずはフラットな「横の関係」を築こう。楽しい時間を過ごしていれば、そのうちどこかで本音が飛び出してくるかもしれない。まずはそれを待つ。書くかどうかを決めるのは、そのあとでいい。そう心がけた。専業ライターではないから、そんな余白があったのだろう。

「縦の関係ではなく横の関係を」という話は、この連載でたびたび紹介している浜松市のNPO法人、クリエイティブサポートレッツの活動にも接続できるだろう。レッツの活動拠点には重度の知的障害のある利用者がやってくる。だが、レッツのスタッフは、アートの手法を活用しながら、彼らとフラットな関係を切り結ぼうとする。一緒に散歩する、一緒に昼寝する、あるいは、なぜそのような行動をしてしまうのかの背景を探ろうとする。そうして「支援する/される」という関係の外側に出ようとするのだ。すると「障害者の○○さん」ではない、紛れもないその人「個人」が見えてくる。その先に、豊かな支援の場が成立する。レッツは、言うなれば支援を外れることで支援しているわけだ。 

 

 



 では取材はどうだろう。目の前の人とフラットな関係を築くことができているだろうか。少し前のことになるが、ある新聞社の研修会で、まさに今回ここに書いたこと、取材しないことで取材する、ということについて話をしたことがあった。ベテランたちは、フラットな付き合いは大事だ、昔はそういう余裕があった、という感想を寄せてくれたが、現場の若い記者の多くは、正論かもしれないがそんな余裕はない、という素直なリアクションだった。効率性が求められる昨今、目的や意図に対象を組み入れることでしか、取材は難しいのかもしれない。 

 おまけに、当事者に寄り添うことは正しいという風潮もある。その声を拡散して政治に訴えることがメディアの役割だと考える人も多い。記者たちは職場的にも、また社会的にも、当事者と極めて近い位置で取材することを要請されているわけだ。その結果、「縦の関係」を強める結果になっているのではないだろうか。福祉事業の支援者が、やはり日々の激務で余裕をなくし、目の前の支援者を文字通り支援することで手一杯になっているのにも似ている。こんな状況で、記者たちにさらに難しい注文をつけるのは酷だけれど、それでもできることはあると思う。ぼくがこの5年あまり地元で関わってきたメディア「igoku」の実例を踏まえ、「取材からの逸脱」について考えてみたい。

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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