当事者から共事者へ(9) メディアと共事|小松理虔

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初出:2021年1月29日刊行『ゲンロンβ57』
 今年も3月が近づいている。2011年から10年だ。「アニバーサリージャーナリズム」という揶揄を払拭するかのように、いや、それを半ば実証するように、じわじわと震災関連の報道も出始めている。防災に絡めて、原発の後始末に関連づけて、あるいは、コロナ禍に結びつけながら、様々なアイデアを絞って記者たちは震災を取り上げている。ぼくは「アニバーサリージャーナリズム」は大歓迎だ。毎年3月。震災や原発事故について考えること。それが「国民的行事」になればいい。震災を考えるにはきっかけが必要だ。

 



 3月になると、ぼくのところにもいろいろな人から連絡がくる。在京メディアのディレクターや編集者、震災について研究をしている研究者からは取材の問い合わせが、シンポジウムやトークイベントを企画している官庁や団体の人たちからはイベントへのお誘いが、というように。国や県に対して何かと批判的で、長く「活動家」として動いてきたぼくのような人間のところに接触しなければいけないほど、みなさん追い込まれているのだなあと思うと、無下に扱うわけにもいかず、専門知識があるわけでもないのに、こうしてみたらどうだろう、あんな切り口はどうだろうと、いっしょに悩んだりしている。

 彼らの話を聞くと、どうも「切り口」への悩みがあるようだ。震災のことはやはり取り上げたい。原発事故もずっと前から気になっている。帰還困難区域だった地区への住民の帰還も注視してきたし、風評被害についても自分なりにずっと考えてきた。もっと前からこうして取材に来るべきだった。関心がなかったわけではない。けれど、福島を取り上げるのは難しいのだと彼らは言う。伝えることを生業とする人たちがこれほど悩んでいるわけだから、福島について語ることのハードルはやはり高いと言わざるを得ない。と同時に、いやいや、それでどうするんだと。堂々と、その「福島を書くことの難しさ」や「切り口の悩ましさ」そのものからスタートすればいいじゃないか、その語りにくさはどこから来るのか、何が作り出しているのかを考えてみてはいいのでは? などと身もふたもない提案をしてしまう。

 



 なぜ彼らは切り口に悩むのだろう。震災と原発事故は当事者性が非常に強い。「被災者」という言葉がまさにそうだろう。その言葉は「被災した人」と「被災していない人」を分けてしまう。この連載の読者にも、震災の直接の被災者でないと震災を語れない、震災は当事者こそが語るべきで自分は語るべきではない、と考えている人は多いと思う。いわきに住んでいるぼくですら「岩手や宮城で被災し、家族を失った人のほうが当事者性は強い。ぼくなんぞは語るべきではない」と感じることがある。「被災三県」以外の土地に暮らす人、遠方でことの推移を見守るしかなかった人ほど、その思いは強いだろう。

 



 そもそもメディアは事件や事故を外側の目線で取り上げようとする。その職能的な意識と「被災者」の当事者性があいまって、2重の意味で「私には震災を語れない」と考えてしまうのだと思う。そうしてメディアに関わる人すら、自分と被災者を切り離すうち、もっともらしい「当事者」を探し始めてしまうわけだ。

 さらに、震災と原発事故がもたらした課題は年々複雑になり、表に見えにくくなってきている。語るには前提知識がそれなりに必要だと思ってしまう人も多いだろうし、事実、「原発廃炉について説明してください」と言われてスラスラと語れる人はそう多くないはずだ。数年に一度異動のある大手メディアの記者たちにとって、震災や原発事故だけが「主たる問題」ではないし、原発の話題は、ネットで炎上するリスクもある。複雑化した被災地の課題を取材するハードルは、さらに上がってしまうだろう。

 世の中の関心は年々下がり、震災報道にも「わかりやすさ」が求められているように感じる。詳細に伝えたところで多くの読者や視聴者は震災復興に関心があるわけではない。だから、できるだけシンプルに、わかりやすく、感情に訴えかけるように取り上げたくなる。メディアはそもそも「わかりやすさ」を追い求める傾向があり、そこに課題の複雑さが拍車をかけ、さらに「わかりやすさ」を求めてしまうのではないか。かくしてメディアは、わかりやすい当事者の声に加え、わかりやすく答えを示してくれる「専門家」を探し始める。

当事者型報道の限界


 何かの問題が起きたとき、メディアはまず当事者の声を伝える。当事者の語る小さな怒りの声や痛切な悲しみを、自身の役割として社会に伝えようとするからだ。すると、そこに共感が生まれる。「私もそうだった」、「私も声を上げていいんだ」という勇気を読者たちに与えることにもなるだろう。たった一人の声から共感が生まれ、社会を大きく動かすうねりになる。そんな「拡声器」のような力をメディアは持っている。当事者同士の連携、声を上げられなかった人たち同士の共感を生み出すためにも、当事者の声を伝えることは必要だと思う。それはまったく否定しない。

 ただ、この「共感」は、同じ体験をした人や同じ課題を抱える人の間には生まれても、そうではない人たちには届きにくい。「悲しかったんだな」、「辛かったろうな」と同情のような気持ちは生まれても、その課題を共にしている感覚は生まれにくく、生まれたとしても、その時だけで終わってしまう。これだけ苦しんでいるのなら、自分ではなく専門家が関わるべきだろう、自分には助けられない、しかるべき支援が行われるべきだ、などと感じる人もいるだろう。誰かの苦しみを尊重して見守ろうとするほど、自分とその誰かを切り離してしまう。当事者の声を伝えようとすると、共感も生み出すが、同時に「非当事者」を作り出してしまう面もある。つまり「他人事」になってしまうわけだ。

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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