当事者から共事者へ(19) カツオと共事|小松理虔

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初出:2022年9月12日刊行『ゲンロンβ76+77』
 夏になると食べたくなる料理第1位は、なんといっても「カツオの揚げ浸し」である。薄く衣をつけて揚げたカツオを、カツオだしの汁などにひたひたに浸して食う料理で、いわきを代表する夏の家庭料理として知られている。家庭料理なので家によって味つけが違うのが特徴だ。

 我が小松家ではこうだ。まず分厚く切ったカツオの切り身をニンニク&生姜醬油に一晩つけておき、その身に片栗粉や小麦粉をまぶして揚げたあと、適度に薄めためんつゆにぶち込み、さらに、大根おろしや刻んだネギ、大葉などを乗せて食べるというものだ。

 口に入れて噛むと、カツオの身そのものの旨さを感じる。刺身で食っていたときにはあんなに滑らかな食感なのに、カツオは火を入れると硬くなる。噛まなければ飲み下せないので噛むのだが、噛むたびに、口の中の旨みが広がり、味覚という味覚がその旨味を感知していく。一晩漬け込むことで濃縮された生姜やニンニクの風味が、大葉やネギの爽やかな香味と一体になり、また熱々なのも手伝って、さらにおいしく感じられる。我々はその瞬間、味を冷静に判断する力を失う。脳みそがやられてしまうわけだ。

 この料理の旨味は常に変幻の中にある。冷静な判断力を失ったまま「うめえ……」の一言で片づけるも一興。味覚の解像度を上げて味の変幻を感じ取ろうとするのも一興。キリリと冷やした冷酒があればさらによし。いわきの夏の名物カツオの揚げ浸し。ぜひご賞味あれ。
 
母が作ったカツオの揚げ浸し。小松家では大根おろしが入る

 

 味はなにが決めるのか



 なぜカツオの揚げ浸しはこれほどうまいのか。まず考えられるのが、カツオという魚が元来「旨みの塊」であるということだ。カツオは鰹節の原料になるほど旨味が強い。筋肉のなかに「イノシン酸」という成分が豊富に含まれているためだ。イノシン酸は動物の筋肉の中にあり、魚ではサバ、タイなどにも含まれるが、カツオやマグロなど海を長時間泳ぎ続ける回遊魚の筋肉には特に多いとされる。そのカツオから作られる日本の伝統食鰹節は、カツオから徹底的に水分を抜き、その過程でカビ菌などの力を借りてさらに熟成させたものだ。揚げ浸しも、鰹節とまではいかないが高温で調理するため余分な水分と臭みが抜ける。さらに衣によって外側もコーティングされ、旨味が閉じ込められるわけだ。

 ちなみに、このイノシン酸以外にも旨味成分はあり、よく知られているところだと、グルタミン酸(昆布など)、そしてグアニル酸(椎茸など)である。この3つの旨味成分は「三大旨味成分」とも称される。料理の情報サイトなどを調べていると、とりわけ「イノシン×グルタミン」と「グルタミン×グアニル」の組み合わせが、もっとも旨味の相乗効果が出てくるようだ。グルタミン酸は野菜類、長ネギや生姜、ニンニクなどにも含まれるという。カツオの揚げ浸しは、まさにその組み合わせだ。まずいはずがない。まだ「イノシン酸」などという言葉が生まれる前から、いわきの先人たちは当たり前にこの料理を食してきた。ばあちゃんやじいちゃんが食ってきたものを食しておけば、まあ、間違いはないのである。

 



 カツオの揚げ浸しのうまさにはイノシン酸だけでなく、ぼくのこれまでの人生も影響しているはずだ。これまでに食べてきたもの、あるいは自分の暮らす地域に対する誇りのような個人的な感情も、ぼくに「うまい!」と思わせる大事な要素になっている。

 まずは自分の生い立ちや家庭環境が大きいだろうか。カツオの揚げ浸しは、なんといってもうちの母の得意料理であり、夏には飽きるほど食べさせられたものでもある。あの頃は「また揚げ浸しかよ」と思っていたが、食べればうまいと感じていたし、齢40を超え、地酒などを愛飲するようになったこともあってか、この数年で余計にカツオの揚げ浸しをうまいと感じるようになった。42歳になって改めて思うが、ぼくは、うちの母が作ったカツオの揚げ浸しをうまいと感じるように育てられてきたということなのだろう。いや、もちろん、ぼくがうまいと感じているだけで、皆さんが食べたらしょっぱいとか甘すぎるとか、なにか違和感があるかもしれないし、「めんつゆ」で味をつけちゃうのは妥協では? などと感じる人もいるかもしれないが。

 



 あるいは、身に降り掛かった出来事もうまさの決め手になる。ぼくの場合は、たとえば原発事故が挙げられるかもしれない。原発事故が起きた直後、汚染水の影響から、いわき市のすべての漁港から魚が消え、出荷ができなくなるという事態になったことがある。本当にショックだった。2011年の7月、ぼくは、自分が管理するウェブマガジンにこんな文章を掲載していた。



実家へ帰ると、母が夕食の準備をしていた。テーブルの上には、いつもの夏のように、インゲン豆やナスの天ぷら。冷えたビールの缶には細かな水滴がいくつもついて、コップに注がれるのを待っている。母は台所に立ち、スーパーで買ってきた半身のカツオを捌いている。そして僕に、「ニンニク、すっといて!」と一言。これが小名浜の夏じゃないかと、一瞬うれしくなった。けれど、母がポツリ。「千葉の、なんだけどね」。今年62歳の母が生きているうちに、小名浜のカツオの刺身を食わしてあげたい。でも、そんなささやかな夢さえも今はただ悲しい妄想なのかもしれないと、僕は静かに千葉のカツオに箸を伸ばした。大漁旗のことが頭に浮かんだ。カツオは少し、悲しい味がして、そして、うまかった。
 地元の港から魚が消えた。その絶望を、ぼくはこのタイミングで、カツオに結びつけて書き綴っていた。全文書き出すと恥ずかしいので一節だけを引用したが、ぼくは一度、小名浜港で水揚げされた魚なんて食べられない、もうこの港が復活することなんてないんだと思っていたからこそ、カツオを人一倍うまいと感じている可能性がある。震災後初めて小名浜港にカツオが水揚げされたときには嬉し涙を流したのを覚えている。そういう体験が、うまさをひとしおに強く感じさせているというのは、あると思うのだ。

 それに、カツオを食べると、やはり港の人たちの顔が思い浮かぶ。ぼくは日常的に魚の水揚げを撮影に行くのだが、特にカツオの水揚げはテンションが上がってしまう。スーパーで淡々と買い物しているのではない。港には、漁師、船長、市場関係者、魚屋や問屋の社長たち、乗組員の帰宅を待っていた家族などが大勢いる。こういう人たちの努力によってオレはこのカツオを食えるんだなあと納得してしまうだけの妙な説得力が現場にはあり、だから家でカツオを食おうとすると、そういう人たちの顔も思い浮かんでしまう。オレがうまそうに食っている顔を皆さんにも見せてやりたいと思うと思わず笑みがこぼれてしまう。そうなのだ。人が「うまい!」と感じるとき、そこに作用しているのは、旨味成分の働きだけではない。自分の人生や経験、地域の風景や人々の顔が思い浮かんだり結びついてしまうからこそ、人はうまいと感じるのだ。

 
巻き網漁船から次々に水揚げされるカツオ。小名浜の夏の象徴である

 

 うまさから社会を、地域を、「わたし」を考えることにつながる。なぜ自分はこれをうまいと思うのだろうか、というところから思考を立ち上げてみる。すると、地域と「わたし」を地続きに捉える回路が立ち現れる。しかも、食から考えるという行為は強い苦痛を伴わない。そもそもうまいものを食っているので幸せな気持ちになるし、酒が入っていればますます饒舌になり、思考も大胆になる。これまではつなげて考えられなかったものをつなげて考えてしまったとき、ああ、あれとこれとが、こう結びついていたのか! とスイッチが入る。そんな身勝手なスイッチが入る「食」は、とても共事的な営みなのだ。

 食うことができない郷土料理



 冒頭から熱く語ってきたカツオの揚げ浸し。小松がそこまでいうのならいわきで食べてみたい、という読者もいると思う。しかしこの料理、いわき市内の飲食店ではほとんど提供されていない。よその土地なら、商品化されたり複数の飲食店によるキャンペーンが行われたり、なにかしら町おこしに使われてもよさそうなのだが、あまりにも家庭料理感が強いためか、そういう動きにはほとんどつながっていない。いわきの名物メヒカリの唐揚げなどを積極的に出している店でも、そのメニュー表にカツオの揚げ浸しが入っているのを見たことがない。むしろ、お通しや突き出しとして提供されることが多いくらいだ。注文できないカツオの揚げ浸し。食べられたら相当ラッキーだといえるかもしれない。

 飲食店で出せなくても、レトルト食品にするとか、缶詰にするとか、気の利いたお土産として商品化するという手もあるが、それもない。ぼくをここまで熱くさせるカツオの揚げ浸しは、寿司屋や料亭や道の駅に行ったところで食べられないわけだ。しかし、それがほんとうにおもしろい。日常的でありながら不可視化されている。そこに住んでいる人は、なんの価値も見出していない。いかにもいわきらしいではないか。

 もしあなたがいわきでカツオの揚げ浸しを食べたいのなら、ただ観光するだけでなく、地元の人たちと関係を持ち、その人の家でメシが食えるようなレベルにまで距離を詰めておく必要があるだろう。さすがに現地の人と深く関わるのは難しいという場合は、何度か魚屋に通って「作っておいてほしい」と注文するのが近道だろうか。なじみの飲食店を作ってリクエストを出すのも有効かもしれない。ぼくに言ってくれても大丈夫かもしれないが、なにしろうちの母の機嫌も取らねばならない。それなりの「進物」も必要だ。カツオの揚げ浸しとは、観光客から一歩踏み込んで「関係者」になったとき初めて眼前に現れるものなのかもしれない。
 
一時期小名浜町内にあったスーパーの鮮魚店で働いていた母。慣れた手つきで調理していく

 

 
余った切り身を、ニンニク醤油につけておいたもの

 
 それにしても、なぜカツオの揚げ浸しはここまでドメスティックな環境でしか食されないのだろう。背景には「生食信仰」があるように思う。いわき人にとってカツオとは「刺身」で食うものだ。鮮度の良いものはまずは刺身に限る。いわき人、とりわけ小名浜の人たちはよく自慢げに「小名浜のカツオは鮮度が良すぎてタタキにする必要がない。カツオとは刺身で食うものでタタキにする土佐のカツオは鮮度がよくないゆえの無粋な食い方だ」などと話をすることがある。なぜ土佐で「タタキ」が愛されているかといえば、鮮度の悪さではなく、土佐藩の初代藩主、山内一豊が領民を案じてカツオの生食を禁じたことが起源だそうだ。もちろん土佐のカツオも鮮度抜群で、下手をすると小名浜よりもいいカツオを食っている可能性も高いが、よその土地のカツオをディスってまで小名浜のカツオが最高なのだと語る小名浜人に、ぼくはどうしてもシンパシーを感じてしまう。

 



 話がずれてしまったが、要は、いわき人たちは「カツオを刺身で食べる」ことに誇りを感じているということだ。揚げ浸しは、あくまで刺身で食い切れなかった「あまり」でつくるものであり、お客さまにお出しするようなものではないということなのだろう。しかも家庭料理であり味つけがその家独特のものになっているため、「お客様の口に合わないかもしれない」という懸念が生じる。つまり「遠慮して」、こんなうまいものを出すのを控えてしまうのである。自分たちの食文化に自信があるのだかないのだかわからない。

 カツオのまち? いわき



 ここまで話してきたついでなので、いわきとカツオについてさらに考察していきたい。まず参考にするのが家計消費に関するデータだ。Google で検索してみると、カツオの消費金額について調べた総務省統計局の家計調査のデータを見つけた。それによれば、1位は高知市(高知県)、2位がなんと福島市(福島県)、以下水戸市(茨城県)、高松市(香川県)、徳島市(徳島県)、仙台市(宮城県)となっていた。カツオの水揚げの多い四国や三陸の宮城が上位になるのは納得できるが、なぜ2位がいわき市ではなく内陸にある福島市なのか。各都道府県の県庁所在地や政令指定都市の住民に聞き取りを行って消費額を決めているというが、港もなく、水産加工業も盛んではなく、海のものを頻繁には購入していないように思える福島市民がいわき市民よりカツオを食っているはずがない。もしいわき市単体で消費額を計算したら福島市よりも上になるはずで、おそらく、いわき市の消費額は高知市と肩を並べるか、あるいはそれ以上であるはずだ。全国で最もカツオを食している市民は、いわき市民である。多分……きっと……。

 と思ってしまうくらいに、我々はカツオをよく食してきた。近年は、原発事故と温暖化の影響でだいぶ水揚げ量が減ってしまったとはいえ、小名浜港と隣の中之作港にはカツオがよく水揚げされる。ぼくが生まれたころ、4、50年ほど前は、いまとは比べ物にならないほどの豊富な水揚げがあったようだ。港のある地域では水産業に関わる人も多くなる。水揚げがあれば地域全体で祝うものだし、知り合いから1尾まるごともらう、などということも日常的に起きる。

 水揚げされた以上、そのカツオをさまざまな形で消費しなければ、カツオの在庫がダブつき価値が目減りする。カツオの漁船だって、ダブついているような地域に水揚げしたくはないだろう。カツオを旺盛に消費し、効率よく市場へと流し、価値を高めてくれる港だからこそ、漁船も進んで水揚げしたくなるものだ。つまり、港町の住民たちは、そうしてカツオを食うことで港町の産業や経済を支えてきたといえるのかもしれない。
 小名浜港や中之作港に共通する特徴は「巻き網漁」でカツオを漁獲する船団が寄港し、水揚げすることだ。大型の巻き網船が入港するのは、福島県ではほぼ小名浜と中之作だけである。巻き網漁は、マグロ、サバ、アジやイワシのように大きな群れをつくって海の表面近くを回遊する魚を獲るときの漁法である。複数の船で船団を組み、長さ1キロメートル、深さ250メートル以上の巨大な網で魚群を囲い込み、網の下に仕込んだ鉄のロープをしぼって巾着のように逃げ口を閉じ、魚を獲る。通常1回の漁で2、30トンほど、多い時で100トンものカツオを漁獲できる。つまり大変効率の良い漁法なのだが、網の中に閉じ込められる過程でカツオ同士がぶつかり合ってしまい、体温が上がって身が焼けてしまったり、身割れが起きてしまうことも多い。また、一度に大量に漁獲できてしまうがゆえに、船内で氷水につけるときに「冷凍ムラ」が起きてしまってしまうこともあるようだ。

 これに対し、土佐がメッカとして知られる「一本釣り漁」は、巻き網漁船ほど大きくないが小回りの効く船に乗って出漁し、魚群を見つけると全速力で群れに追いつきイワシなどの生き餌を投入。カツオの群れがイワシを食べ始めたところに一斉に竿を出して次々に釣り上げていくというものだ。巻き網船よりは効率が悪く1回の漁で漁獲できるのは10トンほどだそうだが、魚体同士がぶつかり合わないため質が高く、鮮度も非常に高く保持できるため、巻き網漁で漁獲されたカツオよりも単価が高い。

 また、「ひきなわ漁」というのもある。小型の漁船の両舷から太い竿を出し、その先にいくつも仕掛けをつけた糸を垂らして海中に入れ、ひき回しながら獲るものだ。1回の漁では数百キロ程度しか獲れないが、すぐに氷水につけて鮮度保持ができるため、千葉県の勝浦などはひき縄カツオを地域ブランドに認定して力を入れている。

 もちろん、近年は鮮度保持の技術も格段に上がっており、巻き網漁で獲られたものでもうまいものは大変うまい。もし違いを感じたいという人がいたら、鮮魚店でカツオを見つけたときに漁法を聞いてみてもいいかもしれない。
 
港で働く人たちの思いもまた、小名浜のカツオの「味」になっている

 

 小名浜港で巻き網漁を行なっている船団のうち、特に頻繁に漁に出るのが、共徳丸きょうとくまる船団と寿和丸すわまる船団だ。小名浜の町民からはそれぞれ「儀助」「酢屋」と屋号で呼ばれて親しまれている。小名浜港にはこれら地元船団が水揚げするため、水揚げ時には船員の家族なども集合して大変賑やかになる。一方の中之作漁港は、地元ではなく他県の船団に水揚げしてもらう「廻船かいせん」を担う。たとえば、千葉県の船団がいわき沖でカツオの魚群に当たったとする。そんなとき、中之作漁港から船に連絡を入れ、中之作漁港に水揚げしてもらうわけだ。こうして地元船団、他県船団の両方に目配せしながら、小名浜と中之作とでいわきのカツオを支えてきた。

 



 カツオだしで知られる「にんべん」のウェブサイトに、カツオの漁場や漁法についての詳しい解説が掲載されていた★1。それによれば、カツオ漁の発展は、人々の間に鰹節が広まった江戸時代に始まり、時代と共に沿岸から遠洋へと漁場が広がり、大規模化してきたようだ。特に戦後の一本釣り漁の発展はめざましく、ミクロネシア全域も漁場となり水揚げ量が急増したという。しかし、昭和54年以降は、オイルショックや200海里水域制限などの影響もあり水揚げ量が減少。その後は、大型の巻き網船が南方へと出船して効率よく漁獲するという手法が柱になっていたようだ。

 興味が湧いて、それぞれの自治体や漁協などが発信するウェブサイトなどを調べてみると、どの水揚げ港も大変熱心に、地域とカツオの結びつきを紹介していて驚かされた。水揚げ量ナンバーワンを20年以上も続けている三陸の雄、気仙沼。一本釣りカツオの水揚げ量ナンバーを誇る日南。鰹節の生産でも有名な枕崎など、自治体や漁協、観光団体や民間企業が力を合わせて情報発信している。しかし、いわきはここでもやる気がない。いわきの魚の旨さを発信すべきはずの「いわき常磐もの」のウェブサイトには、こんな文章しか掲載されていないのだ。

 




いわきカツオは鮮度が抜群。「常磐もの」の初カツオは、例年6月頃に、いわき沖が絶好の漁場となり、水揚げされるカツオの鮮度が抜群。いわきではニンニク醤油で食べるのが常識?★2


 



 気仙沼などは、江戸時代の古文書を紹介しながら、気仙沼にカツオ一本釣り漁が伝わった歴史から書いている★3。カツオ一本釣りに使われる仕掛けや、カツオに関する伝統文化まで紹介する力の入れようで、我らがいわき市も水産業を盛り上げたいのならこのくらいの発信を随時心がけたいところだが、地元の人たちが地域の食文化に対して関心も持たず、発信も適当で、そのくせうまいものはガッツリ食っているというのも、なんだかいわきらしいなあとも思うのだった。

 地域ブランディングを疑ってみる



 地方都市に行くと、その土地を代表する「ブランド海産物」が売られているはずだ。たとえば富山に行けば白エビがあり、静岡には桜エビがあり、金沢はノドグロがあり、三陸にはウニやホタテ、そしてホヤがある。それらのブランド海産物の多くは、現地でしか食べられないものとして流通したり、築地へと流れてきたり、ふるさとの納税の返礼品に選ばれたりする。そうしていつしか市場価値が上がり、現地の人もなかなか食べられないものになっていくわけだ。土佐のカツオのタタキも同じような文脈にあるだろう。ウェブサイト上で「土佐の藁焼きカツオ」を調べてみると多くの商品が見つかる。一本釣りのカツオだけを使っていることが謳われ、その風味や鮮度のよさがデザインや包装にも落とし込まれている。

 海産物だけではない。いまや国内のほとんどの市町村が、有名無名に関わらず、食や物産に力を入れている。その広報やPRの手法も年々進化しているが、変わらないのは「生産者との距離の近さを訴えること」だ。ビジュアルには、都市では感じられない美しい田園風景や大自然の写真が使われるし、頑固な生産者たちが「素朴に」登場する。商品を売るには、商品の特性や味、品質ばかりでなくストーリーが重要だとされるから、当然、生産者のインタビュー記事なども掲載される。きまじめに田畑と向き合い、海と対峙し、真心を込めて商品をつくる、そんな、頑固一徹で、不器用で、でも味へのこだわりを持った生産者像がそこには登場する。それもまたブランドの価値を高める有効な手法だからだ。

 だが、ちょっと待てよ、とも思うのだ。ぼくたちは、そうした地産商品マーケティングに慣れ過ぎてしまい、生産のプロセスやそうしたPRを疑うこともなく、広告代理店の思い描く「美しい田園風景」や「素朴な生産者」を内面化してしまっていないだろうか。ぼくとて、地元いわきではそういう仕事を引き受けることもあるし、実際に地方都市は生産者との距離は近く、古き良き港町や農村の風景も残ってはいる。だが、地域から自発的に発せられる声ではなく、外部の目線で「過剰に盛られた地方」が、かえって見えなくさせているものがあるはずだとも思うのだ。立ち止まって考えなければいけない。

 



 その点、いわきのカツオはいい。一本釣りに比べて一段商品価値の劣るとされる「巻き網漁」で獲られたカツオだが、地元の魚屋を使えば、抜群の目利きでいいものを選んでくれる。その目利きから学べば、今度はスーパーに並んだカツオからいいものを選ぶことができるようになる。しかも都市部に比べて安価で鮮度がいい。脂の乗った秋口の戻りガツオなどは、正直マグロより圧倒的にうまい。

 過度に称揚されたブランド商品をありがたがるのでも、日々大量生産される商品を不可視化するのでもなく、暮らしに埋没しそうなコモディティに着目し、自らそれをおもしろがり、探究していく先にも「うまさ」はある。そしてそんなとき、やはり「カツオの揚げ浸し」が光を放つ。圧倒的なうまさでいわき市民の胃袋を掴んでいるにも関わらず、飲食店では食えず、商品化もされず、地域ブランドを支える産品にもならず、ただただ家庭でのみ消費される。こういう商品だからこそ、地域を、食文化を、産業構造を考える「入口」になるのではないだろうか。

 巻き網船団と震災遺構



 さきほど二つの巻き網船団を紹介した。屋号「儀助」と「酢屋」。それぞれに、震災と原発事故にまつわるエピソードがあるので紹介したい。

 儀助漁業の「第一八共徳丸」は、震災直後に気仙沼港の市街地に打ち上げられ、震災遺構として残すかどうかで議論になった漁船である。全長60メートル、重量330トンの堂々たる船だ。震災前からサバやイワシの魚群を追いかける船として稼働しており、当日は定期的な検査のために気仙沼に入港していたが、津波によって港から750メートルも流されてきたという。

 当時の報道などを確認すると、気仙沼市としては、2013年ごろまで震災遺構として残す検討をしてきたようだ。しかし、市民アンケートをしてみると解体を希望する住民が多く、最終的に解体となった。「思い出したくない」「見るのが辛い」などという声が多く寄せられたようだ。宮城復興応援ブログ「ココロプレス」というウェブメディアにも、地元の男性のこんな声が紹介されていた。


「共徳丸は大漁をする船で金華山沖や八戸沖の漁場で漁をして、漁場からエンジンをうならせて12時間ほどで気仙沼魚市場に入港して水揚げをしました。市場にこの船が入港するのを昔はとても楽しみにしていました。津波でこの場所に打ち上げられてからは共徳丸を見ると悲しくなりました」
「観光客が、ビールを片手にピースサインをして写真を撮っている姿を見るたびに憤りも覚えました。観光客は震災での私たちの苦労も共徳丸への思いも知りません」
「共徳丸は気仙沼魚市場と私たちの生活を潤してくれた恩人です。周囲に打ち上げられた船は沖に戻されたのに、この船だけがこの場所に2年7カ月も置き去りにされました。その姿がとても悲しかった。やっと心が痛む風景がこの場所からなくなりました」★4
 小名浜港を母港とする共徳丸が、気仙沼の人たちにとっても誇りになっていたんだと思うと、胸が熱くなる思いがする。同時に、共徳丸を残すか残さないかで、さまざまな感情の軋轢を当地に残したのだろうと思うと複雑な気持ちにもなる。ビール片手にピースを決めた人もいたかもしれないが、あの船を見て、津波は恐ろしい、どうにかこの町が復興してほしいなと思った人もいたに違いないのだ。外部に開けば、どうしたってそういう「不届きもの」は出現する。でも、伝え方ひとつで、ガイドのお話ひとつで、そうした不届きものの意識や考え方が大きく変わることもある。生来の不届きものであるぼくは、そんなことを感じてしまう。

 



 震災遺構は、後世の人たちに津波の恐ろしさや防災の大切さを伝えたいと思えばこそ残されるものだろう。つまり、震災を直接は体験していない「非当事者」のために作られるものだといっていい。ところが、震災遺構を残すか残さないかを決める段階では「当事者」の声だけが最重要視されてしまう。そこに大きな矛盾があるようにも感じる。タイムマシーンにでも乗って、50年後の若者から「遺構があったおかげで防災について考えるようになった。当時の人たちは辛い思いをしていたかもしれないけれど、残してくれて感謝している」なんてコメントを取れたら、当事者の皆さんの気持ちも変わったかもしれない。

 未来の世代が、震災を知らない人たちがその遺構を必要としているかどうかを、ほぼ当事者だけで決めなければならない。傷ついた心が回復しないうちに、それと向き合い、残すか残さないかを決めなければいけないのは心理的にもつらいものがあるだろう。だからこそ、残すか残さないかを一旦「先延ばしする」というのも手だったかもしれない。造船所のドックのようなものを作り、船の周囲を囲って残し、その先で議論することもできたかもしれない。クリストとジャンヌ゠クロードのように布で覆ってしまうのは難しかっただろうか。試験的運用を続けて観光客や来訪者からアンケートを取り、あらためて残すか残さないかを決めることもできたかもしれない。またあるいは、復興の当事者とはだれを指すのか。当事者の枠はどこまで拡張できるのか。そんな議論もできたかもしれない。解体されたのは2013年。もう少し、あそこに置いておくことはできなかったのだろうか。

 こういうことを書くと「たられば」はよくないという声もあるかもしれないが、「たられば」の話でいいと思う。災害の記憶を後世に残す、その是非を住民で話し合わなければならない「潜在的被災地」は、ほぼ日本全国各地にある。よその土地でいつ起きるかわからない災害を前に、何度でも、震災遺構のあるべき姿を考えられたらいい。

 巻き網船団と原発事故



 もう一方の屋号「酢屋」と聞いて思い出すのは、酢屋商店の代表取締役であり、県漁連の会長である野崎哲さんのことだ。野崎さんは、巻き網船団を率いる中小企業の社長でありながら、東電や国との交渉に明け暮れてきたひとりでもある。ひとりの生産者として、経営者として会社を立て直さなければいけないのに、漁連の代表としても動かなければならない。これまでの奮闘に思い馳せると、やはりこちらも胸に熱いものが込み上げてくる。

 処理水放出をめぐる議論で、彼は常に批判の矢面に立ってきた。ここ数年は、漁業者が放出は認められないと反対の声を上げるほど、「福島の復興を阻んでいるのは漁業者だ」「賠償金を吊り上げたくて反対しているのでは」というようなコメントが散見されるようになった。ネットだけかと思っていたらそんなことはなく、処理水放出をめぐる住民同士のワークショップなどでも漁業者に対する批判をしばしば耳にする。ここまで議論を先送りしてきた為政者たちへの批判ではなく、国や東電に翻弄されてきた漁業者に批判の矛先が向いてしまうというのは見ていて本当に悲しい。もちろん、賠償制度が漁業者の自立を阻んでいる点はあると感じるし、より良い制度設計が必要だとも思う。

 規模も漁法もさまざまで、多様な考えを持つ漁師たちをまとめるのは至難の業だ。野崎さん個人が全ての漁業者の意見を代弁できるわけでもない。たとえば、大型の巻き網漁船は漁場が海外になることもあるほど操業範囲が広く、必ずしも地元の港に寄港して水揚げしなければいけないわけではない。一方、漁師の多くは底引き網漁で近海の魚を獲って生計を立てており、基本的には自分の港に魚を水揚げすることになる。その差は大きい。

 巻き網船団を率いる野崎さんは、地元の漁師から「オレたちのような小さな船の漁師の気持ちを代弁できるのか」というような疑念を向けられやすい、ということだ。しかし、それでもなお、野崎さんは漁連の代表として処理水問題の矢面に立ち、漁師たちの総意として「反対」を訴え、粛々と、地元小名浜に、カツオを水揚げし続けている。数年前、一度直接話を伺ったとき、哲学の本を読むのが好きだと話してくれたことがあった。野崎さんが心穏やかに本を読める日は来るのだろうか。そんなことを考える。

 
朝日に照らされる、酢屋商店の巻き網船「寿和丸」

 
 地域内での温度差は、いわき地区と北の相双地区を比べても同様だ。温度差以前に、漁業の文化からして異なる。相馬の漁師から聞いた話だが、彼らは台風の日でも出漁して魚を獲ってくることを誇りにしているそうだ。海が荒れていて市場に魚が並んでいない日も、相馬の魚だけはしっかりとある。そういう漁業を目指すからこそ魚がたくさん獲れ、収入も上がって仕事としての魅力も増すんだ、と。福島県唯一の水産高校である小名浜海星高校に入学する漁師の子どもたちの多くは、いわきではなく相双地区の漁師の子どもだということを漁師から聞いたことがある。それほど相双地区は後進の育成にも力を入れているということだ。外から見れば「福島県の漁師」でも、中身は違う。魚種も規模も、考え方も大きく異なるわけだ。

 漁業者は海に生きる人間であり、その多様さゆえに、話はここまでこじれてしまった。どれほど条件を提示されるようと自分たちで放出にゴーサインを出すことないだろう。そして国や東電は、このまま処理水を放出するだろう。漁連は猛烈に抗議する。メディアもそれを報じる。野崎さんは、漁連の会長を退くまで闘い続けることになるのだろうか。そして闘うほど、ひどい中傷を寄せられることになるのだろうか。賠償は続き、水揚げは戻らない。自前で食べられない漁業は魅力的な産業たりえず、いわきではさらに漁業の崩壊が進むだろう。以前食べられたものが水揚げされなくなる、食べられなくなる、という未来の方がむしろ現実的かもしれない。処理水放出によって原発は廃炉に近づくのかもしれない。しかしその代わりに漁業は深い深い傷を受ける。東電が掲げる「廃炉無くして復興なし」というのは、つまり、そういうことだ。

 しかし、かといって、ぼくには漁師になって議論の風向きを変えることもできなければ、問屋になることもできない。結局ぼくらにできることといえば、関心を失わず、その複雑さを受け止め、だからこそ思考を止めずに考え続けることくらいだ。だが、考え続けるには燃料も必要だ。ジャーナリストとして取材するわけでも、大学の研究者として深くコミットして調査するわけでもないぼくにとっての燃料が、酒や魚だったということだったのだろう。共徳丸や寿和丸が水揚げしてきたカツオを食いながら、福島の酒を味わいながら、震災のこと、原発事故のことをダラダラと考えてみるだけである。

 食い続けること、考え続けること



 カツオの揚げ浸しについて書きたかっただけなのに、思考が広がり、想像以上の長文になってしまった。大好きな食い物について考えたからだろう。カツオの揚げ浸しだったからこそ、書いている間、ぼくは考え、調べ、そしてまた考え、こんなふうに一万字を超える文章を書くことができた。地域と自分がつながり、社会課題について考えることにもつながった。そうして一万字分の思考を、「カツオの揚げ浸し」はぼくに与えてくれたわけだ。食べること。これがぼくにとってもっともハードルの低い「思考のスイッチ」である。体重も右肩上がりでさすがに腹肉がやばいことになっているのだが、これは脂肪ではなく「思考」が溜まったのだと思うほかない。

 この連載を書き始めてから、もう何年になるだろうか。書き進めるほど世の中の混迷が深まってきた。コロナについて考えたと思ったら戦争が始まり、元総理が凶弾に倒れた。世が乱れ、人々が放つ言葉は尖り、お互いが疑心暗鬼になり、それぞれが正義を持ち出して正論をぶつけ合う様は、さらに日常的になったようにも思う。さらに、ぼくも歳をとり、下の世代から突き上げられる年代に入り、自らの強者性・加害性に思い馳せることも増えた。この連載には、次第に憂鬱な文章が増えた。だからこそぼくは、自分が自分でいるために、食べ、考え続けたいと思う。

 



 8月となり、暑い日が続く。ちょうど冷酒がいい頃合いだ。夕方早めに風呂に入り、ビールを飲み始め、まずはカツオの刺身をいただく。キュウリやトマトといった夏野菜をつまみつつ、とうもろこしの天ぷらを揚げて食う。ひとしきり冷酒を楽しんだら、少し味の濃い料理も出す。そうだなあ、ごまだれをぶっかけた豚肉の冷しゃぶなんかがいいだろうか。そのあとは日本酒をぬる燗にして熱々のカツオの揚げ浸しを合わせ、最後は素麺でキリリと締める。食べている間、会話は弾み、食について、地域について、政治について、人生について語ることができる。そして話した一切を忘れて「なんだか昨日はすげえいい飲み会だったな」という記憶だけが残る。ぼくはそういう飲み会が心の底から好きなのだ。

 

写真提供・撮影=小松理虔


 
次回は2022年12月配信の『ゲンロンβ79』に掲載予定です。


 


★1 「カツオの漁業と漁法」、にんべんウェブサイト。URL= https://www.ninben.co.jp/about/katsuo/gyojyo/
★2 いわき常磐もの公式サイト。URL= http://joban-mono.jp/product/product06
★3 「気仙沼人のソウルフィッシュ! カツオの歴史と文化について」、気仙沼さ来てけらいんWEB。URL= https://kesennuma-kanko.jp/oshietesensei_katsuo/
★4 「第18共徳丸の解体終了と不明者の捜索 (気仙沼市鹿折)」、宮城県復興応援ブログココロプレス。 URL= http://kokoropress.blogspot.com/2013/10/18_30.html  

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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