当事者から共事者へ(14) 共感と共事(1)|小松理虔

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初出:2021年11月29日刊行『ゲンロンβ67』
 突然思い立って、いや、追い詰められて旅をした。どうにも書くことが思い浮かばない。気が急くばかりで、こんな状態では誰かを唸らせるような、誰かの心に残るような文章など書けやしない、と思えた。こういうときは、旅をするにかぎる。どこかに行きさえすれば、まだ見たこともない景色にたどり着き、まだ知らなかった現実のなかに足を踏み入れることができるからだ。旅はいつだって現実の外をつくることができる。旅は、書けないぼくの「逃げ場所」でもあるのだ。

 



 というわけで10月中旬。青森県の下北半島を旅し、各所を取材して回った。「取材」というほど明確な対象があったわけではない。ただぼんやりと、本州の北の果てを見て回って、うまいマグロ丼を食べたいという願望があっただけだ。実際、ぼくの訪れた場所には一貫性がなかったし、特段誰かにじっくりと話を聞いたわけでもなかった。こんな記事を書こう、というはっきりとした目的があったわけでもない。けれど、完全に無目的かというとそうでもなかった。「下北半島で書くことを探す」という目的地だけはあったからだ。言うなれば取材と観光のあいだ。そこにぼくの逃げ場所はあった。

 行き先が下北半島だったことには二つ理由がある。ひとつは、むつ市がかつて「斗南藩」と呼ばれ、会津藩を追われた藩士たちが拓いた土地だったこと。もうひとつは、下北半島に原子力産業が集中していること。戊辰戦争と会津。そして原発とエネルギー産業。ぼくの暮らす福島と、なんだかとても深い関係があるように感じられた。10年来の友人がむつ市出身で、フェイスブックなどを通じて現地の景色を見ていたことも、距離を近くしてくれていた。そうして下北半島は、ぼくの心に引っかかっていたのである。

 だからこんな確信があった。下北半島にさえ行けば、何かしら書くことは見つかる。次の原稿のノルマをやっつけられると。そんなふまじめな動機で、ぼくは下北半島を目指した。自分の興味や関心から開かれる共事の回路もあれば、こんなふうに現実から逃れることで開かれる回路もあると思いたい。天童よしみの『みちのく慕情』にもこんな歌詞があるではないか。「海鳴り聞こえる下北は、うらぶれ女の行き止まり」。最果ての地・下北は、うらぶれライターの苦悩も、きっと受け止めてくれるはずだ。

 



 初日の朝。娘を小学校に送り出し、ひと息つく間もなく猛然と旅の準備を始めた。一番大きなリュックに着替えとノートパソコン、カメラを無造作に突っ込み、妻に簡単な挨拶をして慌ただしく家を出た。新幹線の出発時間まで余裕がない。郡山駅までの道を急がねばならない。乗車券を購入する時間も必要だったし、ホテルやレンタカーの予約もまだだった。さすがに無計画すぎたなと苦笑いしたが、いつもこんな調子なので仕方がない。ぼくはあらかじめ決められた旅程をなぞる旅が好きではない。だからしばしば電車にも遅れるし、割引サービスも受けられない。その無計画さを妻から指摘されることもよくあるが、何かが外れても外れたなりに面白い現実は転がっていて、旅は、そういうエラーを届けてくれるとぼくは確信しているのだった。だから、計画することに積極的になれなかった。

 しばらく車を走らせ、トイレ休憩のためにサービスエリアに車を停めた。いわきと下北半島は、同じ東北地方とはいえ600キロほど離れている。まずいわきから磐越自動車道を使って郡山に行き、そこで新幹線に乗って八戸まで向かう。次に八戸でレンタカーを借り、あとは車で、と考えていた。さすがにレンタカーくらいは予約しておこうとアプリを開いた。

 が、検索すると意外にも空きの車がない。画面には表示されるが「予約」を押すとエラーが表示され、空車がないと示されてしまう。どうやらぼくの数十秒前に同じことをしようとしている人がいるようだ。軽自動車も、少し上のグレードの車も同じ状態だった。結局、三日間で3万円近い料金の車しか残らず、そこでレンタカーは諦めた。さすがに出費が大きい。

 そこでふと思いついた。このまま自家用車で行くのはどうだろう。グーグルマップで検索すると、車でも6時間半で着くと表示された。この長距離ドライブをあなたはどう感じるだろうか。ぼくはかつて木材商社の営業マンをしていた頃、秋田や静岡の材木屋に日帰りで商談に行くという無茶な営業をしていた(上司と一緒なので仕方ない)。朝5時にいわきを出て、6時間かけて営業先に行き、1時間商談をして、昼飯をとって同じ道を戻り、夜にいわきに帰ってくる。「リモート会議」が当たり前になった現代からは狂気の沙汰としか思えないが、そんな経験もあって、6時間半ならなんとかなる距離かなと思えた。自家用車なら、いざ車中泊になっても大丈夫だ。

 



 こうしてぼくは、郡山ジャンクションから東北自動車道に合流した。あとはひたすら北上するだけだ。福島、白石、仙台、大崎、栗原、一関、北上、花巻、盛岡、二戸、八戸、さらに三沢まで車を飛ばし、そこから下道へ降りてようやく下北半島に至る。東北の最南端から最北端。陸の奥へ。道の奥へ。道は遠い。

 



 東北道は、藤原泰衡が源頼朝を迎え撃つために防塁を築いた阿津賀志山あつかしやま、その奥州藤原氏の時代に栄えた中尊寺、さらには、その昔、蝦夷の族長アテルイが城を構えた胆沢いさわなどを通る。道を北上すれば、東北地方がかつては朝廷の支配の外にあったということを感じずにいられない。車のオートエアコンは、福島県内までは冷風を吹き出していたが、いつの間にか生ぬるい風に変わっている。車の外で吹く風は北上するほど冷たさを増し、空は、ぶ厚い灰色の雲に覆われていた。厳しい冬の訪れを予感させるような北行であった。

 



 青森県の三沢で高速を降り、まず向かったのが六ヶ所村だ。早速その話を書きたいところだが、この話は「原子力産業編」として、次回以降にまとめて紹介する。今回は、むつ市周辺に点在する「斗南藩」関係の史跡について取り上げていくことにしよう。初日の夜までギュルギュルっと早送りする。

 



 すっかり日も暮れた頃、ようやくむつ市大湊に到着した。初日の宿は、本州最北端の駅、JR大湊駅のとなりにあるホテルだった。ひたすら車を運転していたぼくの肩や足腰は限界に近づいていて、正直風呂に入って寝たい気持ちもあったが、町の雰囲気を感じるべく、とりあえず近所の居酒屋を目指した。
 ある店に入ると、客はぼくひとりで、座敷に座った大将がドラフト会議を見ながら栗の皮を剥いているところだった。座敷に席が二つ、カウンターには五つくらい。こぢんまりとした店だった。割烹着を着た女将にまずは生ビールと刺身を頼むと、イチゲンさんのぼくの扱いに困ったのか、女将は奥の厨房に引っ込んでしまった。大将も「光星から誰か1位いくかな」とつぶやきながら厨房に入っていき、しばらくして刺身の盛り合わせを持ってきてくれた。最高にうまい、というわけではない刺身。店に染み付いた匂い。テレビの音。2杯目から飲み始めた、銘柄もわからない熱燗。特別なものは何もなかったが、それがよかった。

 酒を飲みながら、スマホでむつ市について調べてみた。むつ市は、この大湊地区と、少し南の田名部地区にわかれる。もともとこの地には「大湊町」と「田名部町」があり、それが合併して、昭和59年に「大湊田名部市」が生まれた。しかしその翌年、名前が長すぎたのか「むつ市」となる。大湊は明治時代には帝国海軍の軍港として栄え、現在も海上自衛隊の基地が置かれている。日本初の原子力船「むつ」の母港でもあったようだ。一方の田名部は古くから下北半島の中心として栄え、明治時代には戊辰の敗戦で領地を没収された会津藩が「斗南藩」を立藩したことでも知られる。自衛隊、原子力、戊辰、移住。福島のイメージとも重なる。ソトモノとヨソモノが流れ着く場所というイメージも浮かんできた。

 
現在も海上自衛隊の基地がある大湊地区。住宅地のそばに軍港がある。とても距離が近い

 

防潮堤ギリギリのところまで建てられている住宅群

 
 ほろ酔いになり店を出て、場末のスナックで歌でも歌おうとすぐそばにあった店に入った。ドアを開けると、ぼくを出迎えてくれたのはスナックのママではなく、胡散臭い口髭をはやした、やけに上機嫌のマスターであった。開口一番「お客さんはあれですか? 自衛隊の、幹部の方ですかい?」などと聞いてくる。「いやいや旅行っすよ」などと適当にお茶を濁していると、またひとり、男性が入ってきた。ぼくより10歳は若いだろうか、ガタイがよくスッキリとひげを剃った短い髪型の男性だった。マスターは迷いなく「お客さん、どの船だい?」と単刀直入に聞いた。イチゲンの男性には、みなこうして話しかけるのだろう。それほど自衛隊関係の客が多いということだ。

 その男性は、マスターの話に答えつつ、乾き物に手を伸ばして水割りを飲んでいた。はっきりとは聞き取れなかったが、たしかに自衛隊の隊員のようだ。またスマホで調べてみると、大湊基地に所属する大湊地方隊は、青森県以北の海域、特に津軽海峡と宗谷海峡の警備などを受け持つという。ということは、ロシアとの有事の際には真っ先に動く部隊だ。日々の任務には緊張もあろう。そんなことをあれこれ考えていたら、マスターがぼくにこんな話を振ってきた。

「お客さん、ホテルどこだい?」。駅前だと答えると、マスターは続ける。「駅前ってことはあれだな、あそこの302号室だったかな、ちょっと前にねぇ、髪の長い女性が自殺してね。出てくるらしいよ」。ぼくが泊まっているのはその真上の402だった。

 よくある酒場トークだと思って笑って聞き流していたが、ホテルに戻ってからその話が突如として気になり始めた。深夜1時くらいだっただろうか。何か気配を感じた。まさか。がんばって目を閉じて眠り直そうとするのだが、深い眠りに入るタイミングでどうにもこうにも目が覚めてしまう。寝ては覚め、スマホをいじり、うつらうつら。霊感なんてものは一切ないぼくだが、この地は霊場「恐山」のお膝元である。何かが出てきても……不思議ではない……。

斗南に想い馳せる


 と、気づくと朝になっていた。少しだけ眠ったようだ。ベッドの相性がよかったのか意外と寝覚めはよく、ぼくは気を取り直して朝食をとり、早速、大湊の漁港を目指すことにした。目的地は「斗南藩士上陸の地」である。この場所は、会津を追われ新天地・下北半島を目指した藩士たちが、最初に船でたどり着いた場所とされる。

 漁港のそば。海に面した岸壁のところに東屋が建てられていた。近づいて見てみると来訪者向けのパネルがあり、たしかにここが斗南藩士上陸の地なのだと書いてある。生垣や石碑の整備には会津若松市からも支援があったようだ。むつ市と会津若松市の友好の証としてこれらの場所が整えられたことがパネルの説明から窺えた。

 
上陸の地の奥には大湊ホタテセンターの看板が

 
 ここで、幕末から明治最初期における会津藩の歴史を簡潔に振り返っておこう。

 江戸末期、幕府は開国を迫るアメリカと日米和親条約を結んだ。朝廷の許可を得ないまま条約を結んだ幕府に対し、不満を持つ武士たちは尊王攘夷運動を起こした。幕府は朝廷との融和を図るものの、薩摩と長州は薩長同盟でこれに対抗。徳川慶喜は政権を朝廷に返還することになる。すると今度は佐幕派の武士たちがこれに不満を抱いて蜂起し、鳥羽・伏見の戦いに発展。戦いの末、会津を含む佐幕派は敗れた。これを受け会津藩主・松平容保かたもりは、慶喜とともに新政府へ恭順の意を示したが、新政府は容保を討つべく会津へと進軍し戊辰戦争が始まった。会津藩は近隣諸藩と奥羽越列藩同盟を結んで抵抗するも、敗れた。

 逆臣・朝敵とされた会津。「白虎隊」に代表される悲劇は大河ドラマなどでも広く伝えられているが、その後のことはあまり知られていないかもしれない。戦後、容保は所領のすべてを没収され蟄居を命じられる。その後、嫡子の容大かたはるが家督を継ぐことで存続を許されたものの、陸奥の北郡へと領地替えとなる。会津藩は、この新たな領地を「斗南藩」と命名。明治3年頃から藩士たちが次々に移住したという。特に、田名部地区の郊外の土地は「斗南ヶ丘」と名付けられ、長屋などが建設されて開拓基地となった。最終的に1万7千人もの藩士、その家族が移住したそうだ。

 
斗南藩士上陸の地の石碑。会津藩主松平家の当主による揮毫

 

 開拓は困難を極めた。下北半島は火山灰の地質であり農作物が育ちにくい。そればかりか、厳しい寒さのあまり凍死、病死する者が相次いだそうだ。それでもなお不撓不屈の精神で開拓を進めていたさなか、明治4年、突如として廃藩置県が行われる。斗南藩は斗南県となり、さらに近隣の弘前県などとともに青森県に組み込まれた。立藩からたったの1年半で、「斗南」の名は完全に消滅したわけだ。主人を失った藩士たちもバラバラに離散してしまったそうだ。会津の悲劇は、この斗南にも引き継がれていたのだ。

 



 幕府に忠義を尽くし、徳川を守り、だからこそ朝敵となり、その結果、会津の地を蹂躙され、多数の犠牲者を出した。さらには領地を奪われ、ようやく新天地を得られたと思ったら、そこでもまた悲劇が続く。まさに流亡ではないか。新しい国をつくるために、それほどまでの犠牲が必要だったのだろうか。

 つらく厳しい斗南の悲劇がこの港から始まったのだと思うとつらい気持ちになる。目の前には、青々とした陸奥湾と釜臥山が見えた。斗南藩士たちはこの山を、福島県の磐梯山に見立て「斗南磐梯」とも呼んだという。ならばこの海は猪苗代湖か。藩士たちは、ふるさとの景色を思い浮かべては、厳しい寒さに耐え続けたのだろう。

 
むつ市のシンボル釜臥山。斗南藩士たちはこれを磐梯山に見立てたという

 

 頭のなかで、磐梯の山並みや猪苗代の広々とした湖面を思い浮かべた。そして、国策によって、自らの土地を、風土を奪われた福島の人たちのことを考えずにいられなくなった。

 奥会津の只見川沿岸は、明治時代以降、水力発電の一大拠点として開発され、次々に巨大なダムが築かれた。開発によってなくなった村は、いまなおダムの湖底に沈んだままだ。同じ頃に、浜通りでは石炭産業が活性化。そこから2011年の福島第一原子力発電所の爆発事故に至るまでの歴史は、『新復興論』で綴ったとおりだ。

 原発のある双葉郡も、下北地方同様に土地が狭い。それでも先人たちは土に水をやり、丁寧に肥料をまき、豊かな土をつくってきた。漁民たちは常磐沖の多様な魚を獲り、独自の食文化をつくりあげた。しかし、原発事故は放射性物質を飛散させた。ある人は安心して作物を育てられなくなり、ある人は検査をしなければ魚を獲れなくなった。暮らしも、なりわいも、土地そのものも、家族の絆すらも傷つけられ、家を、ふるさとを追われる人が大勢生まれた。震災から時間が経過し、復興が進み、地域が新たな国策産業「廃炉」に突き進むなか、いまなお安住できる住まいすら手に入れることができない人もいる。目の前の下北の風景と、記憶のなかの会津や浜通りの風景が混じり合う。
 だがぼくが思い浮かべたのは、会津や浜通りだけではなかった。中通りにある郡山市は、明治維新がなければ存在しなかった都市だ。もともと郡山には小さな宿場と原野しか存在しなかった。しかし明治時代に猪苗代湖の水を引く「安積疏水」の開発が始まり、日本を代表する穀倉地帯になったのだ。疏水によって水力発電も盛んになり、製糸業など工業も発達した。この事業は士族の失業対策も兼ねていたようで、各藩から入植者がやってきた。こうして郡山は、一挙に人口が増加し、福島県下最大の経済都市にまで成長した。会津やいわきが「戊辰一五〇年」を掲げたとき、郡山だけは「維新一五〇年」を掲げていたことを思い出した。郡山市内には疏水事業に尽力した大久保利通を祀る「大久保神社」があるほどだ。福島はまったく一枚岩ではない。とても複雑だ。その複雑さの背景には日本の近代化があり、斗南もその歴史に連なっている。

 



 爽やかな朝。目の前には斗南の海と山の景色が広がっているのに、ぼくは福島の風景を思い浮かべていた。やはり、旅をすると目の前の風景に「わたし」を見つけてしまうようだ。

 



 次の目的地は、会津藩士で帝国陸軍大将にもなった軍人、柴五郎の住居跡である。住宅は残っておらずパネルと石碑があるだけだったが、公園の奥の山中にあり、なんとなく当時の面影が感じられるような場所だった。パネルにはこうある。「開墾地からの収穫は少なく、柴家や他の藩士は困窮生活をしいられた。柴家は常食の稗飯さえ満足に食べられなかった。五郎はこの地で強さを培った」と。

 
柴五郎の住居跡に続く道。静謐な空気が流れていた

 
 五郎は、中国で起きた義和団事件の折、北京城内の居留民の保護にあたり、他国の軍と協力して篭城戦を戦ったことで知られる。その武勇と指揮は各国からも称賛されたそうだ。目の前のパネルは、斗南の地での苦労があったからこそ五郎は忍耐力を鍛え、軍人として成功したのだと言わんばかりだった。

 不撓不屈の精神で、自分たちをこれだけの目に合わせた新政府の軍人になるというのはどんな気持ちだったのだろうか。軍人として天皇に仕え、戦果をあげることで会津が朝敵ではないと示そうとしたのだろうか。元藩士たちは、五郎の活躍をどのような気持ちで見ていたのだろう。原発事故後のいまに例えるなら、五郎は、浜通りの出身者が東電に就職して幹部になるようなものかもしれない。ぼくが仮にそんな立場になったらどうだろうか。東電に忠義を尽くそうという理由では働かないだろう。自分が利用されてもいいと割り切り、地元の復興のことを考え敢えてそこに乗り込むはずだ。いや、案外初志を忘れ、大きな組織に居心地のよさすら感じるかもしれない。

 



 同じような感慨を、次に訪れた斗南ヶ丘の史跡でも抱いた。柴五郎の住居跡からさらに数キロ郊外の住宅地に、公園のように開けた場所があり、その中央に石碑が立っている。車を停め、そばに立っていたバス停を見てみると、やはり「斗南岡」とあった。斗南の名は、こうしてバス停に刻まれて日常の風景になっている。

 
バス停にも斗南岡の地名が残る
 

 歩いて石碑に近づいてみる。「斗南開拓地」などと書かれているのかと思ったが、「秩父宮両殿下御成記念碑」と大書してあった。秩父宮雍仁といえば昭和天皇の弟にあたる皇族だ。いったい斗南とどのような関係があるのか。そう、秩父宮雍仁親王の妃であった勢津子は、あの会津藩主、松平容保の孫だったのだ(容保の六男、恆雄の長女)。パネルにはこうある。


 昭和三年九月の秩父宮殿下と松平節子姫(御婚礼後勢津子と改名)との御婚儀は、戊辰戦争以降、朝敵という汚名に押しつぶされながら生き続けてきた会津人にとって、再び天皇家と強い絆を結ぶことができるようになった大きな出来事でした。[中略]やはり会津は逆賊ではなかったということが天下万民に知らしめられ、さらに最果てのこの地にまで両殿下に足を運んでいただいたという感激が、斗南藩が農業授産を夢見て建設した斗南の地に立つこの石碑に込められています。
秩父宮両殿下の行幸を伝える石碑。その大きさから当時の歓迎の空気がうかがい知れた

 

当時の旧会津藩士たちの喜びようを伝えるパネル

 

 逆臣と指差され、刃を向けられ、国に裏切られてなお、反体制的な立場に身を置くのではなく、ただただ一心に朝敵という屈辱を雪ごうとしてきた会津の歴史が、その石碑から読み取れた。婚儀について調べると、若松城天守閣郷土博物館の学芸員、湯田祥子の文章を見つけた。そこに、当時についてのこんな記述がある。


 ご婚儀決定の翌年の昭和3年7月26日から、一家はご婚儀の前に祖先への報告のために会津を訪れられた。4日間の滞在期間だったが、全会津の人々は歓喜をもってお迎えし、まさに狂喜乱舞の様相だった。[中略]沿道の人々は手に手に日の丸をふり、その頃はまだ天守閣再建前で石垣のみだった鶴ケ城址では大々歓迎会が開催され3万人もの人々が詰め掛けたとされる。[中略]会津藩出身の新島八重も、このご成婚に寄せてこんな歌を残している。「いくとせか みねにかかれるむら雲の はれてうれしき ひかりぞ見る」。★1
 会津の人たちの雪辱への思いに、思わず胸が熱くなるような気がした。けれどもその一方で「待てよ」とも思った。後世に生きるぼくたちは、ものすごく安易に「会津の悲劇」を持ち出してしまう。けれど、多くの人たちの頭にあるその悲劇は、ぼくがそうであるように、大河ドラマやテレビドラマなどから強い影響を受けているはずだ。ぼくは、藩士の末裔でもないのに、会津の人たちの怒りを過剰に内面化し、そこに共感していないだろうか。

 この連載のテーマである「共事」は、「共感」という言葉とよく似た響きを持つ。目の前の人が怒っているならば共に怒り、笑っているならば共に笑う。そんなイメージがあると感じる。第一段階ではそうだろう。ただ、共事者はもう1段階、思考を深めてみる。共事者とは、もし目の前にシクシクと泣く人がいれば、共に肩を落とし慰めるだけでなく、その肩をさすりながらも、心のどこかに「なにが彼をそこまで悲しくさせるのか」という好奇心を起動する人たちのことをいう。

 とするならば、ぼくがここで考えるべきは、会津の悲しみ、怒りだけでなく、なぜ会津人ではないぼくが、会津の悲劇をことさらに悲しんでしまうのかだ。そこで次回、この「会津の怨念」の起源について考察することで、旅で感じた斗南と会津への共感を、共事へと深めていく。鍵となるのは「観光史学」という言葉だ。下北観光記、少し長くなりそうだが、ぜひ最後までお付き合いいただきたい。

次回は2021年12月配信の『ゲンロンβ68』に掲載予定です。


★1 「福島の進路」2016年12月号(とうほう地域総合研究所刊)
 

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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