当事者から共事者へ(4) 震災を開く共事の回路|小松理虔

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初出:2020年03月30日刊行『ゲンロンβ47』
 三月である。いつもは「北」に向かう国道六号線(通称「ロッコク」)を、今年は「南」下している。一部区間が不通となっていたJR常磐線はようやく全線が再開し、三月四日には、県内で唯一、全町で居住が許可されていなかった双葉町の帰還困難区域の一部で、規制が解除された。北に向かう理由はいくらでもあった。けれども、なぜか南に足が向いたのだった。折よく、複数の人から「常磐炭田の遺構を案内してほしい」というオファーが来たり、日立駅で企画された展示のレビューを書いてほしいというオファーがあったりと、南からの依頼が立て続いたこともあった。いや、少し「福島」を離れてみようという気持ちが心のどこかにあったのかもしれない。この一ケ月、ぼくは何度も、南へと車を走らせた。

かつての理想をとどめる町、高萩


 いわき市から南に四〇キロメートル。古くは炭鉱で栄えた高萩たかはぎという町がある。茨城県北東部に位置する人口二万七〇〇〇人ほどの小さな町だが、この町は、心のどこかにずっと引っかかっていた。高萩のロッコク沿いに「高浜住宅」という団地がある。それが、いわき市の炭鉱の町、内郷に残る団地とよく似ていて、通るたびに、いわきのロッコクと同じ空気を感じていたからだ。高萩の団地も、炭鉱で働いていた労働者を受け入れていたはずだ。ロッコクを左折し、団地内の道路に入ってみた。古い建物はすでに閉鎖されており、緑色のフェンス越しに見えるコンクリートの黒ずみが、陰鬱な表情を際立たせていた。すでに住む人の気配はなく、ネットを検索しても、廃墟好きが写真を残しているのがいくつかヒットするだけで、ここが市営住宅であるということ以外、詳しい情報もあまり出てこない。

 道路を挟んだところに比較的新しい団地がある。といっても、都市部のタワマンとはわけがちがう。一階にスポーツジムがあるわけでも、きらびやかなエントランスがあるわけでもない。建物のデザインは、どこか懐かしいような、一時代前の団地のにおいがした。すぐ裏手には美しい太平洋と砂浜が広がっていて、海までほんの数十秒といったロケーションである。時代が時代なら、桑田佳祐の歌う茅ヶ崎のような風光明媚な場所になっていたのかもしれない。しかし、ここはロッコク。団地の裏手の駐車スペースは舗装もされておらず、車が無造作に停められている。震災後に完成した新しい防潮堤には遊歩道もあるが、人の気配はまばらだ。どことなく、ぼくは地元の小名浜にも似ていると感じた。

【図1】旧団地(左)と新団地(右)。新しい団地には屋上からの避難階段がつけられている
 

 ここ最近、ぼくは自ら企画している「ロッコクツアー」を、この高萩から始めることにしている。高萩市が輩出した歴史的人物に、長久保赤水ながくぼ せきすいという江戸時代の地理学者がいる。一七七九年、日本で初めて緯度を示す「緯線」と「方角線」の入った日本地図『改正日本輿地路程全図』を発行した人物だ。日本地図というと伊能忠敬がもっとも著名だが、赤水は忠敬より四二年も早く日本地図を完成させた。地図は日本に広く流布し、明治時代までの一〇〇年間で八刷を数えるベストセラーになったそうだ★1。新たな地図を作らんと日本国中を歩いたその赤水にあやかって高萩を出発点にしているというわけだ。なんとも安易ではあるが。

【図2】高萩市生まれの地理学者、長久保赤水の誕生の地もある
 

 高萩駅から車で三分ほど。常磐線沿いに、『新復興論』で紹介した製紙工場「日本加工製紙」の廃工場があった。「あった」というのは、つまり、今はもう存在しないのである。跡形もない。かすかに、工場を取り囲んでいたフェンスがその面影を残すだけで、今は一面の太陽光パネルが大地を覆い尽くしている。このメガソーラー、正式には「高萩安良川あらかわ太陽光発電所」という。

 報道などによれば、設置された太陽光パネルは一一万二八〇〇枚。最大出力は二五メガワットで、高萩市全世帯数の三分の二にあたる八〇〇〇世帯分に相当するという。運用開始は二〇一八年五月だそうだ★2。かつて「ももクロ」がミュージックビデオを撮影した廃工場は、想像を絶するような大規模メガソーラーに姿を変えていた。

 住宅地に、無機質に、そして暴力的に挿入された一面の黒。それは、除染した土を詰め込んだ黒いフレコンパックを思い出させた。フレコンパックは、確かに汚染の象徴ではあるが、それだけ除染が済んだという証でもあり、いわば復興の象徴でもある。黒い太陽光パネルはどうだろうか。再生エネルギーを生み出す復興の象徴といえるだろうか。運用年数はたったの二〇年だという。二〇年後、この場所はどのように姿を変えるのだろうか。この再生エネルギーは、地域を「再生」させるわけではない。負の遺産になりはしないか。ことの行く末は、もう少しじっくり見ていく必要があるだろう。いや、答えは、もう分かりきっているのかもしれない。
 高萩市の中心部から西へ向かい、かつて炭鉱のあった山間部へと車を走らせると、一五分ほどで炭礦資料館に到着する。二〇一二年に開館した比較的新しい資料館だ。中には様々な資料が展示されているようなのだが、展示内容を変更する作業中で、この冬は何度来ても閉まっていた。三年前くらいに写真を撮りにこの辺りをうろついていた時にも同じだった。恥ずかしながら、実は、まだ一度も中に入ったことがない。三月二二日には再オープンの予定なので、また来るつもりだ。

 この資料館は正式名称を「菊池寛実記念高萩炭礦資料館」という★3。かつてこの地にあった高萩炭礦株式会社を経営した実業家、菊池寛実きくち ひろみ(かんじつとも呼ぶ)の名を冠している。菊池寛実は、戦後を代表する富豪として知られる。ネットで検索してみると、いくつかプロフィールめいたものが出てくる。明治末期にいわき市の中小炭鉱を経営して財を築くが、昭和恐慌で苦境に陥る。しかし、昭和一五年に再起を図るべく高萩炭礦株式会社を設立すると、戦後復興の波に乗り大成功。その後も株取引で莫大な利益を得て、数多くの企業の経営者を務めた。菊池寛実が興した企業の代表的なものとして、千葉県市川市に本社のある「京葉瓦斯」、港区虎ノ門に本社のある「南悠商社」などが挙げられる。菊池グループの傘下には、エネルギーを中心に、不動産、建設土木など四十以上の企業があるそうだ。

 その南悠商社の本社が入った東京のビルの一階には、「菊池寛実記念 とも美術館」がある。菊池ともは、寛実の三女。戦後、陶芸の収集を始め、一九七四年、ホテルニューオータニの中に、現代陶芸ギャラリー「寛土里かんどり」をオープンさせ、国内の陶芸家の育成や、海外との交流事業を展開してきた。一九八三年にアメリカのスミソニアン自然史博物館で開催された「現代日本陶芸展」で展示された三〇〇あまりの作品すべてが、菊池コレクションからの選出だったそうだ。その展示で、スミソニアン専属博物館の展示デザインを担当していたリチャード・モリナロリと出会い意気投合。二〇〇三年、そのモリナロリの設計により智美術館が完成したという。

 智美術館のウェブサイトに、智が陶芸と出会った時の逸話が残されている。

当館創設者の菊池智(とも、1923〜2016)が実際に陶芸と出会ったのは第二次世界大戦中のこと。炭鉱を経営していた父、寛実(かんじつ)が、徴用で働きに来ていた瀬戸出身の陶工のために登窯をつくり、東京から疎開してきた智がそこを訪れたのです。土からつくり出される新たな「生」との出会いは、二十歳をすぎたばかりの多感な彼女の目に宿命的なものと映りました。

「たまたま訪れた私は驚嘆いたしました。土の塊が、まるで魔術のようにろくろの上に形が整えられ、火の洗礼を受けて窯の中から美しい陶器に生まれ変わって私の前に姿を現したのでした。毎日のように死と対峙せざるをえない生活の中で『ここに生があった』という感動が、私の心の中を駆け抜けました。『土はすべての始まるところであり、また、いつか帰っていくところである。』多くの愛する人達を失った悲しくも鮮烈な想いから、土からつくり出される陶芸は私の人生において避けて通れないものになったのでございます。」★4


 炭鉱経営で莫大な利益を得、一代で億万長者へとのし上がった寛実。その財力がなければ、智も陶芸の収集は難しかっただろう。だからこそ美術館には「菊池寛実記念」の名もある。智はその後、自ら美術館の館長を長く勤め、菊池グループの企業をまとめながら、菊池美術財団の理事長として後進の指導にあたり、二〇一六年にこの世を去った。

 話を高萩の資料館に戻そう。資料館の敷地の中に、菊池寛実のレリーフがある。資料館の庭にこれ見よがしに置かれているので、見ずにはいられないのだ。碑文にはこうある。



大心苑は高萩炭砿株式会社の創立者 故 菊池寛実翁の遺志により開設されたものであり大心は翁の戒名 隆徳院殿大心寛実居士の一部であると共に 大自然 大宇宙の心を意味するものであります 翁は性極めて剛毅な反面豊かな人間性に溢れ自然を尚び 事業に徹する側ら 次代を担う青少年の薫育指導に撓まぬ情熱を捧げて来ました 殊に晩年は東京芝葺手町の大心塾にあって青年学僕と起居を共にし日常生活を通じて自立の教育を実践して来た事は夙に識者の窺ひ知る䖏であります 昭和四十二年三月十二日 翁は家族多くの指定に見守られ 其の手厚い看護も虚しく齢満八十一歳を以て大往生を遂げましたが 曾て翁の終生の事業でもあった高萩炭礦の跡地に翁の精神は大心苑として昇華したものであります 来苑の諸氏 本苑のいわれを汲み取られ 翁の意志の一片となりとも 諸氏の心の琴線に共鳴あらん事を希うものであります


【図3】高萩炭礦の創設者、菊池寛美のレリーフ
 
 寛実は後年、まさにこの地でリゾート開発を推進した。リゾート全体を「大心苑」という。広大な土地は、もともと炭鉱施設の跡地だったところだ。軟式野球場、体育館、グラウンド、キャンプ場やクラフト工房、レストラン、カフェ、合宿施設などを有する一大リゾート。オープンしたのは一九六九年。周辺各地の小学生や中学生が宿泊する拠点として栄えたという。バブル崩壊後、規模の縮小を余儀なくされ、その後は「森のホテル」として一般の宿泊客を受け入れていたが、二〇〇四年に閉鎖。現在は、高萩市に本校があり全国にキャンパスを持つ通信制の高校、第一学院高等学校の宿泊施設として活用されているという。

 大心とは、大自然、大宇宙の「心」なのだそうだ。寛実は、この地に理想郷でも作ろうとしたのか。あるいは、本当に、慈善的な思いから子どもたちの学びの場を作ろうとしたのだろうか。今となってはよくわからない。

 関係書籍をネットで探すと、一冊だけ彼の伝記のような小説を見つけたので、買って読んでみた★5。豪放な人間ぶりはよくわかったが、株価いくらでどこの会社を買収したとか金の話ばかりで、肝心の「大心」の思想は、正直あまりよくわからなかった。寛実は実業家としては大成功し、高萩で生まれた炭鉱の会社は、虎ノ門に本社を置く商社へと変貌した。素晴らしい経営者だったのかもしれない。しかし、高萩のこの場所から感じられる風景の虚しさは何だろう。単に賑わいがないことによるもの寂しさとはちがう。「大心苑」というその名前のスケールの大きさが、かえって目の前の風景との差を際立たせているようにも思えた。大心苑は、碑文にあるように、寛実の「遺志」によって作られた。つまり、寛実亡き後、残された遺族や会社の人たちが、寛実翁の夢を追いかけた末に完成させたものだ。だからこそこの場所は、寛実の思想ではなく、むしろそれを叶えようとした当時の人たちの等身大の理想や夢が詰め込まれているようにも見えた。

 一月にこの場所を訪れた時、たまたま双葉郡在住の友人が同行していた。彼は「双葉郡の公園みたいだ」と呟いた。双葉郡にも、原発を受け入れたことで得られる交付金が入っており、あちこちにハコモノが作られた。そしてそれらの公園にもまた、宿泊施設や大規模な運動場が整備されている。東京五輪の聖火ランナーがスタートするJヴィレッジとて、東電が整備し、県に寄贈した施設である。福島から離れようとして南に来たのに、どうしてもつながってしまう。むしろ福島を考えるためにこそ、ぼくたちは県境を越えてきたのかもしれない。

 もうひとつ、この場所で考えたことがあった。いわきにある炭砿資料館のことだった。いわき市内郷白水町にある「みろく沢炭砿資料館」。かつて炭鉱のトロッコ巻き上げ士だった渡辺為雄さんが自力で作り上げた資料館だ。会館は一九八九年。年中無休。展示室は、かつて為雄さんが営んでいた「養鶏場」である。展示されるものにレプリカは一つもなく、すべてに為雄さんによる手書きのガイドがついている。今年九四歳になる為雄さんは、今でもトロッコの巻き上げの実演をしてくれる。為雄さんは、この地で亡くなった人たちの霊を弔い、石炭産業に邁進した人たちに感謝するためにこそ資料館を運営しているのだと、以前、ぼくたちに語ってくれたことがある。弥勒沢には、今ではもう為雄さんと、為雄さんの娘さんの家しかないが、昨年、資料館の奥に手作りの美術館がオープンした。奇しくも、高萩の資料館のそばにも小さな美術館がある。経営者の作る資料館。労働者の作る資料館。ぜひ見比べてみてほしい。

消し去られる炭鉱の面影


 資料館をあとにし、山あいの県道一〇号線を北上する。この県道沿いに常磐炭田の遺構が点々と残されているのだ。行き先は、北茨城市石岡地区に残る、常磐炭鉱中郷鉱の炭鉱住宅である。三年ほど前、つまり『新復興論』を書き上げる前、友人たちを連れて回った時には、炭鉱住宅跡にはまだ住人がいた。そのおかげでぼくたちは、炭鉱在りし日の姿を想像することができた。ところが今回、同じ場所を訪れてみると、なんと、住宅の解体工事が現在進行形で行われていたのだ。タイミングがもう少し遅かったら、完全に解体されていたに違いない。

【図4】中郷住宅跡の解体現場パネル。オレンジの太陽のような社章が常磐興産グループの企業の証だ
 

 解体工事についての情報が記入された看板を見ると、「旧中郷住宅解体工事」「令和2年3月31日まで」とある。その下に書かれたものを見て驚いた。発注者は常磐興産、施工者が常磐開発と書かれているではないか。

 常磐興産株式会社。かつての名を「常磐炭礦株式会社」という。常磐炭田最大の炭鉱会社だ。常磐開発はその関連のゼネコンである。つまり、この住宅の持ち主は未だに常磐興産(常磐炭礦)であり、身内の会社がその解体を担当していたというわけだ。近くには「私有地につき立ち入り禁止」という看板もある。この地の産業の歴史を語る「遺構」の破壊が「私有地内」で進められてしまうということだ。会社にとっては負の財産を金をかけて残す理由はないということなのだろう。結局、誰も口出しすることができない。
 以前、いわき市内の炭鉱遺構を回っていた時、地元の人からこんな話を聞いた。なぜ炭鉱の遺構がいわき市に残されているのかといえば、常磐興産が「放置」しているからだ。解体にはお金がかかる。その資金を出せるほど余裕はない。だからこそ放置され、放置されたがゆえに結果的に当時の面影を残しているのだ。企業側が後ろ向きだからこそ残り、こうして見ることができるのだと。その話を聞いて、ぼくはこう思った。もし観光地化されていたら、体裁が整えられて多くの犠牲のうえに労働が成り立っていたことや、朝鮮半島からやってきた徴用工たちが最前線で働いていたことなどが都合のいい歴史に書き換えられていたかもしれない。観光地化せず、朽ち果てていく遺構も悪いものではない、と。

【図5】やる気のなさが残した常磐炭鉱の遺構。このまま朽ち果てるのか、黒いパネルを受け入れるのか


 やる気がないからこそ残っている。やる気があったら、お金があったら、この遺構はないかもしれない。その消極性が、とてもいわきらしいなと思った。文化施設として守られるわけでも観光地化するのでもない。ただ野っ原に放置されて風化していく。そういう残り方もありうるのだと、その時は思ったのである。

 ところが、現実には、そう簡単にはいかないものだ。親会社に金がなかったとしても、別の大会社が、その遺構に、いや、「遺構のある土地」に金を払ったら、遺構などあっという間に消失してしまうのだということを、ぼくたちは次の現場で目の当たりにすることになる。


 中郷住宅から車で一五分ほど内陸に進むと、北茨城市磯原町大塚地区に「重内炭鉱」跡がある。重内炭鉱跡は、当時の商店などが数軒並んでいて賑わいが見て取れた。石炭を列車につむ「万石まんごく」と呼ばれる施設の遺構も残っているはずだ。集落の背後にある山には、かつて山神様を祀った神社跡があり、緑の森の中の鳥居を『新復興論』でも写真つきで紹介している。

 友人たちを乗せてそこへ向かうと、目を疑う光景が広がっていた。かつてそこにあったバラックの集落が消え去り、広大な工事現場になっていたのだ。何が起きたのかすぐには理解できなかったぼくは、重内橋を渡ったところにある看板を見つけ、さらに驚かされた。この地でも、メガソーラーの開発が進んでいたのだ。全くノーマークだった。まさかこんな場所にメガソーラーが作られるとは。かつて山神社があったはずの場所は跡形もなく整地され、多くの工事車両が並んでいた。炭鉱の飯場はんばを思い起こすようなプレハブの工事事務所が置かれ、作業員たちが慌ただしく動いている。なんということだ。

【図6】メガソーラーの建設現場となっている、重内炭鉱跡
 

 ぼくは、思わず言葉を失った。出てくるのはため息ばかりだった。かつてここには、炭鉱町の痕跡があった。隠しきれないリアルが漏れ出していた。漏れ出す何かに、ぼくたちは興奮し、ああでもないこうでもないと想像を重ね、その想像の先に、かつての暮らしを思い描こうとした。そこには、人の姿が、エネルギーを生産する人の姿があった。

 ぼくの母方の祖父は、常磐炭鉱の炭鉱夫だった。危険の伴う「先山さきやま」だったそうだ。一般的に炭鉱労働は、石炭を掘る「先山」と、後方で石炭を運搬する「後山あとやま」に分けられる。先山は常に命の危険が伴う環境で後山を指導する。

 激務がたたったのか、祖父は、母が高校生の時に癌で亡くなった。だからぼくは祖父に会ったことがない。写真でしか見たことがないのだ。母たちが暮らすのは狭い長屋だったが、祖父はよく本を読んでいたそうだ。新しいものが好きで、ほかの家ではあまり食べないチーズが好きだったという。母は隠れてそのチーズを食べたが、見た目があまりにも石鹸に似ていて、しかも初めて食べる味だったから本当に石鹸を食べてしまったと思い大泣きして謝ったという話を、昔懐かしそうにしてくれたことがある。祖父の家には、祖父が書いた遺言の書が額に入れて飾られていた。母が語る祖父は、いつだって威厳と知性に満ちていた。袴を羽織り、白髪を短く刈り上げた祖父の遺影から、母が語る祖父の威厳と知性を感じていたものだ。

 ぼくは勝手に、そんな祖父に憧れのようなものを抱いていたのだろうか。会ったことがなかったからこそ、祖父の幻を探して、いわきから離れたエリアにまで足を伸ばし、かつての炭鉱町をさまよい歩いてきたのかもしれない。

 目の前の景色からは、やはり炭鉱の町らしさはなくなり始めていた。確かに、一部の住宅は壊されずに残ってはいる。けれど、その光景は「再開発」であり「漂白」であった。祖父の姿を探すことは、もうできなくなるかもしれない。

【図7】重内炭鉱跡に残るいくつかの住居。当時の雰囲気を今に伝えてくれる
 

 太陽光パネルが完成すれば、エネルギーを作るのは人ではなくなる。太陽と黒いパネル、それを制御するコンピューターが電気を作るのだ。そこに人の姿はない。だからこそ便利であり安全でクリーンなのだということは頭で考えればよくわかる。危険の伴う作業から解放されれば、安全にエネルギーを作ることができる。祖父の同僚たちのように、落盤や坑内火災、酸欠などで命を落とす人もゼロにできる。

 ここに完成するであろう黒いパネルを想像してみた。やはり人の息づかいは聞こえない。原発ですら人が介在するのに、である。人が作るがゆえにエラーが起き、原発事故を引き起こしもしたが、それでもやはり人がいる。将来的には、AIやロボットが電気を作ることになるのだろうか。廃炉が終わる頃、エネルギーは、いったい誰が作っているだろう。AIやロボットが電気を作る時代に、ぼくたちはいかに原発事故を伝えていけばいいのだろうか。疑問は尽きずに浮かんでくる。
 久しぶりに訪れた茨城で見たのは、かつての産炭地が太陽光パネルの町になっているという光景だった。炭鉱町は、常磐興産や高萩炭礦がそうであるように、かつての炭鉱会社が未だに強い影響力を持ち、同時に土地も所有しているため用地の取得が容易なのだろう。先ほど紹介した高萩炭礦の後継会社、南★6。場所は特定できていないが、すでに炭鉱会社が地元で太陽光発電所を運営しているのだ。京葉プラントエンジニアリングもまた、寛実翁ゆかりの菊池グループの企業である。かつて自分たちが石炭を採っていた場所に自社で太陽光発電所を作るのだから、文化の破壊だなどと文句をつけても仕方ないのかもしれない。

 常磐炭田の産炭地が、いずれも阿武隈山系の東側の斜面に位置しており、日照時間が長いということもあるのだろう。石炭を採取するのに適した地域は、太陽光を採取するのにも適しているということだ。エネルギーの呪縛からは逃れようがない。

 エネルギーの町は、そこに「人の仕事」があるがゆえに労働者が集まり発展を遂げた。太陽光パネルの町は、完成したら雇用をほとんど生み出さない。太陽光パネルの寿命は二〇年ほどと言われる(法定耐用年数は一八年だそうだ)。石炭や原子力よりも圧倒的に短期間のうちに使い物にならなくなってしまう。原発の廃炉が終わる前に「産業遺構」になるのかもしれない。サイクルは早い。黒いパネルの次は、あるのだろうか。


モヤモヤとした思いを抱えたまま、さらに北にある北茨城市関本町の「神の山住宅」に向かった。かつての常磐炭鉱神の山鉱の炭住である。これでも相当解体されてきたそうだが、幸いにも、かつての姿をまだ保っている建物が何棟か残っている。中郷住宅なき後、炭鉱長屋の佇まいを今に伝えてくれる貴重な場所だ。

【図8】神の山住宅の炭住。なんとか残せないものか
 

 おそらく、この場所も中郷住宅のように解体される日が来るのだろう。重内炭鉱のように、巨大なメガソーラーの建設工事が始まるのかもしれない。山肌を切り裂き樹木を押し倒して作るより、炭住の跡地を整地してメガソーラーにしたほうが自然環境への影響も少ない。旧炭鉱町の活性化案・土地の再活用案として積極的に推進されていく可能性も高い。いわき市内の産炭地だって同じだろう。そうならない保証はない。

 メガソーラーは、かつてそこにあったものを黒く上塗りする。大地を、町を、集落を、その歴史ごと黒く塗り潰すようなものなのだ。それを犠牲にしてエネルギーを作り出すのである。エネルギーは、何かを犠牲にすることでしか生まれない。人がすべきは、それを忘れないでいることだ。ぼくも、祖父を忘れないでいようと思う。

復興支援から距離を置く


 前回の連載で、ぼくは、「支援から離れようとすること」こそが、課題を社会に開き、多様な人たちが楽しさを持ち寄ることにつながると書いた。一旦、回り道することで距離を置く。その回り道を、家族の愛やプロフェッショナルの知識や技術という「当事」的なものではなく、個人の関心や興味、面白がること、あるいは民俗学や芸術、演劇などの回路を通過すること。ぼくは、それを共事と呼んでいる、と。

 震災を考えることも、もしかしたらそうかもしれない。直接的に、当事的に考えるのではなく、一旦、自分の興味関心や想像を迂回する。今回ぼくが試みたのも、思わず真剣に震災復興を考えなければいけない三月だからこそ、自分の祖父に対する思いや、石炭の町に対する純粋な興味関心を経由して福島を考えることだった。この迂回路は、誰かに提示されたものではない。自分ならではのものだ。だからこそ、そうして近づいた課題は、前より少し「自分ごと」になる。

 課題には、確かに紛れもなく「当事者」がいる。震災にも「当事者」はいる。けれど、いつの間にかその当事者の周辺には、当事者「性」の強い膜ができてしまう。家族、親や兄弟、支援者、専門家、現場のプロフェッショナルたちが膜を作り、さらにその外側に、関心のある人たちの薄い層があり、さらにその外側には無関心が広がっている。

 外側にいる人たちから見れば、支援者や専門家も当事者らしく見える。一方、支援者からすれば、本人やその家族は自分たちより当事者性が強く見えるから、物申すのは躊躇われてしまう。みんな「より当事者性の強そうな人」に遠慮してしまうわけだ。私は被災したわけではない、もっと大変な人がいる、私には語る資格がない、当事者に迷惑をかけてしまうのではないか。そうして遠慮し、蓋をし、閉じ込めてしまう。それが、課題を個人に押し込め、語りにくさを生み出し、当事者の孤立を深くする。そのことを、この一年間関わってきた障害福祉はぼくに教えてくれた。
 福島第一原発で溜まり続けている「トリチウム処理水」の問題でも、当事者の孤立は起きている。福島の漁業の問題は福島の漁業者が考えるべきだ。政府がなんとかしろ。専門家や有識者が考えるべきだ。そういう一見すると正当性のある批判は、福島の課題を考えることの負担を当事者のみに押しつけ、彼らの依存先を減らし、考える場をなくす。

 それと同じように、障害のある人たちは家族が見るべきだ、施設に入れておけ。専門家や有識者が考えるべきだ。そういう、一見すると正当性のある批判は、彼らの依存先を減らすことになる。依存先が減れば、彼らの自立は遠のき、障害者はずっと障害者でいなければいけなくなる。同時に、ぼくたちが障害を知る機会をも奪い、ぼくたちが、いかに多くの依存先を持っているかを自覚することもなくなる。

 浜通りの漁師や、障害児の家族を孤立させているのは、ぼくたちの「遠慮」や「忖度」なのかもしれない。当事者か否かという線を引いてしまったり、当事者性の高い人たちに遠慮してしまったりする、そういう遠慮や忖度、線引きが、障害や困難を個人に押し込め、社会に開くことを阻んでいるのだ。当事者「性」の罠。それこそ「障害」なのではないだろうか。

 ぼくたちには、被災地に道路を作ることも、病院を整備することもできなければ、毎日ボランティアに駆けつけることもできない。専門知もないしインフルエンサーの持つような影響力もない。けれども、「当事」の回路を持たないからこそ、ぼくたちには「共事」の回路が広がっている。それは、素人にこそ開かれている回路だ。多少無理にでも、ぼくはそう考えることにした。

 福島の問題を、障害者の課題を、当事者の文脈ではなく、自分の興味や関心、想像を通じた共事者の目線で語る。それにより、当事者の課題は、共事者を通じて社会に開かれる。「課題」を「悲しみ」に置き換えてもいいだろう。ぼくは被災した人たちの悲しみを癒すことはできない。けれど、その悲しみに共事することならできるかもしれない。そうして社会に開くことで、悲しみは一握りの希望になりうるのではないか。

 震災の語りもまた、外に開かれるべきだとぼくは思う。年に一度の311。より悲しい出来事を経験した人たち、より感動的な体験をした人たち、より当事者性の強い人たちの声が紹介される時期だ。年に一度の機会だから、そうなるのも仕方がないのかもしれない。それでも、語られないよりはマシだろう。けれど、当事者の声が重いほどメディアを通じて伝わってくる言葉は単純なものになり、だからこそ関わりにくさも生まれる。関わりにくさが生まれれば、課題は当事者に閉じ込められてしまう。当事者「性」の膜を、どこかで突きやぶらなければ、その課題は、悲しみは社会に開かれない。

 当事者から共事者へ。道は開かれている。遠慮はいらない。三月は、一年で一番、ふまじめに震災を考える月にしたい。そこから、福島を、そして日本を考えるための「新しい地図」が作られていくことを願っている。

★1 高萩市教育委員会のウェブサイトを参照。URL= http://www.city.takahagi.ibaraki.jp/page/page002920.html
★2 「高萩市の工場跡地に25MWのメガソーラー稼働、双日グループ」、『日経クロステック』、二〇一八年六月四日。URL= https://xtech.nikkei.com/dm/atcl/news/16/060411161/
★3 公式サイトは以下。URL= https://www.takahagitanko.org/
★4 「ストーリー」、菊池寛実記念 智美術館ウェブサイト。URL= https://www.musee-tomo.or.jp/
★5 早乙女貢『怒濤のごとく――菊池寛実の不屈の生涯』、原書房、二〇〇八年。
★6 「沿革」、南悠商社ウェブサイト。URL= https://www.nanyu-corp.com/history
 

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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