韓国で現代思想は生きていた(18) 若者と老軍師のタッグ|安天

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初出:2016年7月15日刊行『ゲンロン3』

1 与党の大敗


 誰も予想できない結果であった。4月に行われた韓国の第20代国会議員選挙(以下「総選挙」)の結果は、事前の世論調査を覆すものだった。韓国を代表する巨大保守政党でありつづけた「セヌリ党」が、過半数確保に失敗しただけでなく、第1党の座を野党の「共に民主党」に譲ることになった。

総選挙を4ヶ月後に控えた12月13日、野党の有力政治家であるアン・チョルス(安哲秀)氏の離党を皮切りに、多数の議員が離党することになり、第1野党は2つに分裂、混迷を極めた。漁夫の利を得た与党は一時、単独で改憲できる議席数まで確保する勢いだった。1院制である韓国の議員定数は300名で、改憲に必要な議席は3分の2だから、200名以上の当選も不可能ではないという雰囲気だったわけだ。

 公職選挙法上、投票日の6日前からは、選挙に関する世論調査結果の公表が禁止される。その直前までに公表された複数の世論調査では、セヌリ党が200議席はいかないまでも、165議席以上を得るという結果で、過半数確保はほぼ確実視されていた。しかし、4月13日の選挙結果は、世論調査の結果とは大きく異なるものだった。

 選挙前146席だった保守与党のセヌリ党は、122席(小選挙区105席、比例代表17席)に留まり大敗を喫した。一方、選挙前102席だった第1野党の共に民主党は、123席(小選挙区110席、比例代表13席)を得て、わずか1議席の差で最大政党になった。

 加えて、選挙前20席だった第2野党の「国民の党」は、38席(小選挙区25席、比例代表13席)と大きく躍進した。第1野党から離党したアン氏の率いる党が、この国民の党である。また、選挙前5席だった第3野党の「正義党」は、6席(小選挙区2席、比例代表4席)になった。与党は大幅に議席数が減り、分裂騒ぎで不利と予想されていた野党は押しなべて議席数が伸びた。この劇的な変化の陰には、若者の政治意識の変化と、ある「老軍師」の暗躍があった。

2 現実を反映しない世論調査


 世論調査が、実際の選挙結果から大きく乖離したのは、その方法が現実を正確に反映できない仕組みになっているからである。世論調査はランダムに電話をかける方式で行われるが、さまざまな制度的制約により固定電話を主な対象としている。携帯電話が生活必需品となっている今、特に若い世代では固定電話を持たない人も増えてきている。契約数だけ見ても携帯電話は5000万件以上であるのに対し、固定電話(市内電話)は約1600万件だ。世論調査が現実を反映しないのは当然と言える。この現状を受け、世論調査業界は、携帯電話を対象にした世論調査に関する規制の緩和を主張している。

 加えて、世論調査は昼の時間帯に行われる。自ずと、昼間に固定電話に出て世論調査に応答する人々は限られてくる。そして、その限られた人々の意見が世論調査において実際より大きく反映されることになる。具体的には、高年齢層の支持を得ているセヌリ党の支持率が高くなる。

 しかし、今回の選挙を動かしたのは、高年齢層ではなく若者層だった。今回行われた総選挙の投票率は58%で、4年前に行われた第19代の54.2%より3.8%伸びた。特に注目すべきは、20代と30代の投票率が大幅に伸びたことである。
韓国総選挙年代別投票率の推移
 

 他の世代に比べて20代、30代の投票率は依然低い。しかし、前回と比べれば他の世代より明らかに大きく伸びている。30代は6.2%、20代は何と13.2%も伸びた。保守系新聞である東亜日報が「青年失業に怒っている20代と30代の投票反乱」★1という刺激的な見出しの記事を載せている。劇的だった前回の総選挙★2に劣らない、予想を覆す驚きの結果をもたらした決定的要因の1つが、若者の投票率増加であることは事実である。 高齢層は保守政党(与党)を、20代と30代は革新政党(野党)を支持しているため、若者の投票率増加は、野党の勝利に直結するのだ。

3 最大の勝者はアン氏


 韓国の政党名が4つも出ているので、わかりやすく分類をしよう。これらの政党は、理念的な立ち位置で、ある程度特徴づけることができる。大まかに言うとセヌリ党が保守、国民の党が中道、共に民主党が革新、正義党が急進になるだろう。もちろん、韓国の政党支持基盤は、理念的な立ち位置だけでは説明できない、地域感情という強力な変数がある。本来はこれを勘案しなければならないが、話が複雑になるのでここでは割愛する。

 各党の理念的立ち位置に、今回の当選者数を当てはめると、次の通りである。議員定数が300議席であり、従って法案成立に必要な過半数は151議席であることを念頭におきながら見てほしい。

第20代総選挙後の政党分布
 
 第1党の共に民主党も、第2党のセヌリ党も単独で法案を成立させるのは不可能である。規模は第3党であるものの、法案成立の可否は国民の党の手に委ねられる構図になった。さらに、国民の党は、理念的立ち位置が共に民主党とセヌリ党の中間にあたる。すなわち、どちらを支持してもおかしくない。今回の選挙結果は、独自の政治勢力の構築に成功し、さらに法案成立の決定権まで手に入れた、アン氏の大勝利と言うことができよう。

 また、当選者数自体は共に民主党やセヌリ党の3分の1程度であるものの、政党支持率を示す比例代表の当選者数では他の2党に引けをとらないことも注目に値する。韓国の比例代表制は、選挙時に投票する人が(小選挙区投票とは別に)支持する政党を1つ選ぶ方式で、47議席が比例代表に割り当てられている。比例代表だけを見るとセヌリ党が17席、共に民主党が13席、国民の党が13席になる。全国的な政党支持率を反映していると言っていい比例代表では、国民の党が共に民主党と同じという結果が出ているのだ。

 来年の大統領選挙を見据えているに違いないアン氏としては、決別という大きな賭けに出たすえに、比例代表で共に民主党と肩を並べたことは大きな成果と言うことができる。彼は普通の政治家とは異なる経緯で政治の世界に登場し、政治に幻滅していた人々から支持を得ている、独特な政治家である。次期大統領選挙における有力候補の一人として注目を浴びているアン氏については、この連載ですでに論じたことがあるので、詳しくは本連載第5回(「新自由主義化から『経済民主化』への転換はいかに?」)を参考にしてほしい★3

4 勝利をもたらす老軍師 キム・ジョンイン


 今回の選挙で、アン氏以上に存在感を示した人物がいる。共に民主党の非常対策委員会の代表(臨時体制における党内の第1人者)★4、キム・ジョンイン(金鍾仁)氏だ。日本ではあまり知られていないようだが、最近の韓国政治、そして経済政策を考えるうえで欠かせない人物である。

 彼は色々な面で意外性のある人物である。まず、年齢が75歳で、現役政治家としてはかなり高齢と言える。今年の1月、当時の共に民主党の代表ムン・ジェイン(文在寅)氏が礼を尽くして迎え入れたキム氏は、入党するや否や党人事の全権を握り、力強いリーダーシップを発揮して人的刷新を行い、この党を危機寸前の状態から一気に第1党へと飛躍させた。

 加えて、これは特に驚くべき事実なのだが、4年前に行われた前回の総選挙および大統領選挙では、セヌリ党の核心ブレーンとして活躍し、セヌリ党とパク・クネ氏の勝利に一役買っている。当時ガチガチの右派政党だったセヌリ党の政策を中道よりのものに変え、右でも左でもない中間層をセヌリ党支持へと誘導するきっかけになった「経済民主化」という政策を打ち出したのが、キム氏だったのである。

 その彼が、今回は政治色のまったく異なる共に民主党の司令塔となって総選挙を陣頭指揮し、大勝利をおさめた。彼のこの4年間の活躍を見ていると、長い間政治に身を投じてきた百戦錬磨の大物政治家に思われるかもしれない。しかし、実は、彼の本職は経済学者である。1940年生まれのキム氏は、60年代にドイツへ留学して博士学位を取得後帰国し、韓国で経済学者、政策提案者、官僚として長らく活動してきた。
 彼は、政策的に大きな足跡をいくつか残している。まず、1970年代後半に、韓国の医療保険制度を提案したのが彼である。韓国は、日本と同じく医療保険制度が非常に充実している国の1つだ。韓国でも「国民健康保険」と呼ばれており、1970年代後半からその基となる「職場医療保険」が実施された。その生みの親がキム氏なのである。1977年、西江大学の教授だったキム氏は、当時は分配より成長を優先する雰囲気であったにもかかわらず、大統領のパク・チョンヒ(朴正煕)氏に医療保険制度の導入を建議、説得に成功し、職場医療保険が実施されることになった。

5 経済民主化


 現在の韓国憲法に、「経済民主化条項」と呼ばれる119条2項を書き入れたのもキム氏である。韓国の今の憲法は、民主化運動で軍事独裁が終息した1987年に作られた。当時、キム氏は憲法に左記の条項を載せるため尽力、その努力が実を結び、今は憲法の一文になっている。


国家は、国民経済の成長および安定、そして適正な所得の分配を維持し、市場の支配と経済力の乱用を防止し、また経済主体間の調和を通じて経済の民主化のために経済に関する規制と調整を行うことができる。


「経済の民主化のために」国家が「経済に関する規制と調整を行う」ことを明記しているため、この条項は「経済民主化条項」と呼ばれているが、この条項を作った彼の名をつけて「キム・ジョンイン条項」とも呼ばれる。

 先ほど述べたように、4年前、セヌリ党はキム氏の「経済民主化」政策を前面に打ち出して、一時は党の崩壊までささやかれた危機から脱し、勝利をおさめた。しかし、セヌリ党の「経済民主化」は上辺だけのものだったらしく、まもなく、元のガチガチの右派に戻ってしまう。パク・クネ大統領の就任から1年後、「経済民主化」の実現が遠のいたことが確実になり、キム氏はセヌリ党と袂を分かつことになる。

 そして、今回は、セヌリ党と対立する第1野党の老軍師となり、再び「経済民主化」の実現を掲げて選挙を勝利へと導いた。彼の政治的な履歴だけを見れば、何回も所属党を変え続けた、移り変わりの激しい政治家に見えなくもない。しかし、キム氏の行動をじっくり見れば「経済民主化」の実現を目標に、一貫してそれを達成するために最適と思われる選択をし続けてきたことが伺える。

 



 キム氏は、過去に独裁者であるパク・チョンヒ氏にも政策を建議し、その後の軍事独裁政権においても官僚として活動した。4年前も保守勢力の政権維持に大きく寄与している。民主化運動の系譜を重視する韓国の正統的な革新系から見れば、いかがわしい経歴の持ち主であり、従って彼を快く思っていない人も多々いる。一方、彼も「運動圏」(民主化運動時代に学生運動をしていた人々を指す用語)出身の政治家は時代遅れであるということで、共に民主党の人的刷新を行う際に、運動圏出身を大幅に切り捨てた。

 選挙結果は、キム氏の示した方向性を後押しするものとなった。若者たちの投票参加と、75歳の老軍師による第1野党再編という組み合わせが、予想を覆す与党大敗を招いた。キム氏の登場は、野党の体質を大きく変えていくきっかけになりえる。それに対する抵抗も、大きいだろう。キム氏の動きが、今後の韓国の政治に並ならぬインパクトをもたらすかもしれない。政党は浮き沈みしてきたが、彼の「経済民主化」は勝ち続けている。

★1 『東亜日報』2016年4月16日。URL= http://news.donga.com/3/all/20160415/77614306/1
★2 前回の総選挙については、本連載第5回「新自由主義化から『経済民主化』への転換はいかに?」(『ゲンロンエトセトラ』3号、2012年)を参照。
★3 同コラム。
★4 「非常対策委員会」とは、党などが通常の体制で運営できなくなった際に、臨時に構成される指導部である。共に民主党は、当時、党の分裂により通常の体制を維持できなくなり、非常対策委員会が党指導部となった。

安天

1974年生まれ。韓国語翻訳者。東浩紀『一般意志2・0』『弱いつながり』、『ゲンロン0 観光客の哲学』、佐々木中『夜戦と永遠』『この熾烈なる無力を』などの韓国語版翻訳を手掛ける。東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)では聞き手を務めた。
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