韓国で現代思想は生きていた(10)諜報機関の政治介入? ──政治主導型社会、韓国|安天

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初出:2013年5月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #8』
 2012年12月11日、韓国ソウルにある平凡なマンションの6階──607号室前の通路に大勢の人たちが群がり、その後3日間、マンション内にいた「一人の若い女性」と廊下にいた「大勢の人たち」がドア越しに対峙する奇怪な事態が続いた。この対峙はネットにも生中継された。端から見れば若い女性一人が、ほとんどが男性である大人数の群れに取り囲まれた異様な光景だ。一体、何があったのか?

1 諜報機関の政治介入?


 まず、人物紹介から入ろう。「大勢の人たち」は野党の民主統合党関係者、選挙管理委員会職員、マスコミ記者、警察などで、「一人の若い女性」は国家情報院の要員。選挙管理委員会職員がいることからわかるように、選挙にかかわるかもしれない事件だ。そう。12月11日は、8日後に大統領選挙投票日(12月19日)を控えた、選挙運動真っ最中の時期だった。

 当日、野党の民主統合党は選挙管理委員会に、政治活動が法的に禁じられている国家情報院の要員が、ネット上で世論操作を行っていると告発した。それを受け選挙管理委員会職員・警察などが民主統合党関係者と──民主統合党の調査によればその要員の所在地とされる──607号室を訪ねた。在住者は最初、国家情報院の要員であることを否定した。しかし、国家情報院に問い合わせたところ、607号室の在住者は要員であることが確認される。その後、在住者も前言を撤回し要員であることを認めるが、政治活動について問い詰めると政治活動はしていないと否認、令状なしの捜査を拒否した。そして、令状が出るまで3日間、この奇異な対峙が継続された──というわけだ。

 進歩系のマスコミは諜報機関であり、政治的中立が義務とされる国家情報院要員の選挙介入疑惑を大きく取り上げた。一方、保守系のマスコミは令状もない状態で若い女性に半ば監禁状態を強いるのは人権侵害である、と民主統合党を批判した。お馴染みの構図である。

 しかし、時間が経つにつれ徐々に事件の全貌が明らかになり、国家情報院のあり方自体を問うものへと発展している。パク槿恵クネ大統領が就任し、国家情報院の院長も新任にかわった現在、五年間その座にいたウォン世勲セフン前院長は国家情報院法(政治関与禁止)違反容疑で告発され、海外に逃避できないよう出国禁止命令が出されている状態だ。

2 国家情報院とは?


 さて、諜報機関といわれる国家情報院は何をする機関なのか? この要員が所属している「国家情報院」という組織をご存知の方はあまりいないかもしれない。でも、アメリカのFBIとCIAならすぐピンと来るだろう。FBIは連邦捜査局という名前の通り、国内の犯罪捜査に携わる機関で、CIAは主に国外の情報収集などに携わる諜報機関だ。韓国の「国家情報院」は、その機能でいえばCIAに近く、一部FBI的な役割も併せ持つ諜報機関である。

 法的には大統領直属の機関であり、国家安全保障にかかわる情報収集・保安業務・犯罪捜査を担当する。日本には、類似した機関として「内閣情報調査室」があるが、組織の規模はおそらく国家情報院の方が大きいと思われる。推測でしかいえないのは、国家情報院の予算・規模・組織形態などが国家情報院法6条により非公開になっているためだ。ただ、国家情報院は日本の公安が担っている役割も一部担っているので、単純比較はできない。

 韓国に国家情報機関が設立されたのは約50年前の1961年である。パク正熙チョンヒ氏によるクーデタ(1961年)直後「中央情報部」が設立され、チョン斗煥ドゥファン氏の(1979年)後となる1981年「国家安全企画部」へと名称変更、さらにキム大中デジュン氏が大統領在任中の1999年に「国家情報院」へ名称を変更し、今に至っている。

 表向きの存在理由は、北朝鮮の諜報活動などに対応するため、ということになっている。実際に、反国家組織や北朝鮮のスパイ組織を多数摘発してきた実績がある。一方で、その一部は後に裁判所から「でっち上げ事件」と判断された。なかには前回の連載で取り上げたでっち上げ事件も含まれている。クーデタ直後に設立、名称変更した経緯からも窺えるように、歴史的には政権維持のため陰で活動する秘密警察としての側面があったことも否定できない。

3 日本でも事件を起こしていた


 初期の中央情報部は、海外ではその略称「KCIA」として知られており、実は1973年に日本で大きな事件を起こしている。所謂「金大中拉致事件」だ。朴正熙元大統領の政敵であり民主化運動家の、当時東京に滞在していた金大中氏を中央情報部要員らが拉致し、玄界灘で殺しかけた事件があった。その際、アメリカと日本政府などの働きかけにより金大中氏は九死に一生を得る。そのほかにも中央情報部は韓国現代史に大きな痕跡を残しており、朴槿恵現大統領の父である朴正熙氏は1979年、自分が任命した中央情報部長に暗殺された。1980年代に国家安全企画部に名称変更してからも、民主化運動の弾圧機関として機能した。ソウル市内には「南山ナムサン」と呼ばれる所がある。日本人をはじめとする海外観光客が大勢訪れる明洞のすぐ近くだ。1980年代にはこの南山に国家安全企画部があり、当時「南山に連れて行かれる」という言葉は「国家安全企画部要員らに連れて行かれ拷問を受ける」ことを意味する隠語であった。

 確かに韓国には大きな諜報機関が必要である。北朝鮮との対立が続く限り、北朝鮮に関する情報を収集する諜報活動が必要とされるからだ。特に北朝鮮内部の情報にアクセスできる人的ネットワークなどを確保・維持するのは長期的に韓国の死活にかかわる活動の1つといえる。

 1999年当時の金大中大統領が、自分を殺そうとしたこともあるこの機関を名称だけ「国家情報院」に変更し、存続させたのもそのためだ。その後、民主化運動系列が政権をとっていた10年間、国家情報院の国内政治介入はほとんど見られず、北朝鮮を中心にした国外における情報収集を軸に据えた諜報機関として再編された感がある。

 しかし、今回の事件で李明博大統領在任中、国家情報院が再び権力の下僕として活動していたのではないか、という疑惑が浮上している。政治的中立を守る義務がある諜報機関が秘密裏に国内政治に介入したか否か、それが問題となっているのだ。

4 監視ターゲットは「今日のユーモア」


 1月に行われた警察調査の中間発表によると、冒頭で話題になった国家情報院要員の金氏は昨年8月から12月11日まで、特定の2つのサイトに少なくとも16個のアカウントを開設し、選挙関連など政治的な内容に限定しても、120件の書き込みと99回の意思表示(賛成/反対)を行った。また10月1日から12月13日まで31万ページを閲覧した。これは1日に換算すると4000件以上になり、1ページあたり10秒で計算すると1日に11時間もネットを閲覧していたことになる。それも特定サイトに集中していた。そして、警察は「金氏は一貫した傾向をもって書き込んだ」としている。これは野党の主張に反対し、与党の政策に賛成する内容であったことを意味する。

 ここでまず重要となるのは金氏のネット上の活動が個人的なものか、それとも職務上のものか、である。ページ閲覧量から推測するに、ネット閲覧は彼女の業務であった可能性が高い。彼女が集中的に閲覧したサイトは「今日のユーモア(오늘의 유머 http://todayhumor.co.kr/ )」などだ。彼女は警察の調査で、自分の特殊任務は「従北性向サイトの監視」で「今日のユーモア」も国家情報院が監視する「従北性向サイト」に含まれていたと陳述している。したがって、金氏のネット上の活動は職務上のものと見てよい。

 さて、「従北」という見慣れない言葉が出てきた。これは韓国の保守派がよく使う言葉で「北朝鮮に従う」という意味だ。人によってその具体的な指示対象は異なり、狭義では以前連載で取り上げた「主体思想派の残存勢力」を、広義では野党勢力全般を指す、非常に曖昧な言葉である。

 よって、国家諜報機関が曖昧極まる「従北性向サイト」という言葉を使うのはあまり良い感じはしない。ともすれば、韓国のあらゆるサイトが国家情報院の監視対象になりえるからだ。空恐ろしい事実である。実際「今日のユーモア」運営者は、人々に笑いの輪を広げたい一心で10年以上サイトを運営してきたのに、国家情報院に集中監視されるはめになるとは夢にも思わなかった、とショックを隠せずにいる。

 その一方で、閲覧行為自体を政治的中立違反とみなすのは難しい。ネットの書き込みは「見られる」ことを前提にしているのだから、諜報要員に監視される可能性にも常に晒されている。また、閲覧はその行為自体がバレなければ、政治的影響力を与えない。

5 政治介入か、諜報活動か


 それでは書き込みはどうか? 国家情報院はこの件について、はじめは「対北心理戦の一環」と説明したが、2月には要員である金氏の「個人的な書き込み」と言い直した。しかし、3月18日には再び「従北勢力への対応」であると説明している。今の状況では書き込みも職務上の行為と見ていいだろう。しかし、書き込みは閲覧と根本的に異なる。諜報機関の要員が一般市民を装い、複数のアカウントで、特定の政党に有利な政治的意見を書き込んだり、意見表明することは、世論操作とみなされても仕方がない。

 もし、これが個人的な書き込みなら金氏だけを対象にした捜査になる。しかし、国家情報院は金氏の書き込みを「従北勢力への対応」であると説明している。よって問題になるのは、これらの書き込みが国家情報院の政治的中立義務に違反するか否かである。

 すでに見たように国家情報院は一連の活動を「北朝鮮の心理戦に対する対応の一環」として位置づけ、国家安全保障にかかわる業務内としている。一方、金氏を告発した民主統合党などは「諜報機関による国内政治への介入にあたる」と反発し、国会レベルで国家情報院を国政調査することが決まった。金氏の書き込みは公開されており、まとめると以下のような内容である。



①李明博政権の目玉公約である四大江事業の擁護
②原発推進政策の擁護
③国家保安法廃止の反対
④海軍基地新設の擁護
⑤全教組(日教組にあたる)の非難
 また、99件あった賛成・反対の意見表明のうち97件が当時与党の大統領候補だった朴槿恵氏に有利なものだった。まだ捜査は進行中であり結果は出ていないが、上記の内容から読者なりの判断はできると思われる。

6 ネット要員は多数?


 独立系メディア・ニュースタパの記事によれば、金氏が書き込みしたのと類似した内容を呟いていたツイッター・アカウントが約60個あり、これらは事件が起こった12月11日一斉に活動を停止し、今のところアカウントも削除されたという★1

 また、左派系の京郷新聞によれば当時の国家情報院長が出した「二五件の内部指針」のなかには「最近、国際原子力機関(IAEA)事務総長が韓国のように資源のない国が原発を活用することは賢明であり、管理能力も優れていると評価した事実を原発周辺住民に広報すること」という内容があり、このうち「国際原子力機関(IAEA)」は「国際エネルギー機関(IEA)」の誤表記であるにもかかわらず、多数のツイッター・アカウントが誤表記のまま、まったく同じ内容を呟いたという★2。「内部指針」は機密であるため国家情報院の要員以外は知りえない。したがって、この誤表記は国家情報院の要員によるコピペの可能性が高い。

 これらの情報から推測するに、ネット上で政治的な書き込みを行った要員は金氏以外にも複数いると思われる。民主統合党は、国家情報院が心理情報局傘下の3チームに70名の要員を配属し、ネット上で監視・書き込み活動をしたと主張している。そして韓国の法務部は3月23日、渡米予定であった前国家情報院長に対して出国禁止命令を出した。

7 政治主導型社会、韓国


 正直なところ、人を拷問していた昔に比べれば、国家情報院も大分紳士的になった──と苦笑いしたくなる。何せ今回はネットでの活動に限定されていたのだから。しかし、そういった脱力系のユーモアは横においておき、少し違った角度から今回の事態を見てみよう。

 民主統合党が12月11日、国家情報院の金氏を突き止めたのは、国家情報院から間接的な内部告発があったお陰のようだ。要員しか知りえない「二五件の内部指針」も、この内部告発者を通して明らかになり、国家情報院もそれを事実として認めるに至った。他方、この内部告発者は内部調査で特定され、国家情報院により「国家情報院法違反(機密漏洩・政治介入)」の理由で懲戒免職・告発されたという。個人的には、国家情報院からこのような内部告発者が出たこと自体、国家情報院が昔と比べて変わったことを証明しているように思われる。国家情報院の内部で自浄能力が芽生える希望を見た、といえよう。そして、重要なのは今後どうなるかだろう。

 また、今回の事件で見えてくる構造的問題がひとつある。韓国では大統領をはじめとする政治家が握っている権力が依然として強く、官僚の自律性が脆弱であることがはっきりした。この事件は国家情報院のような巨大な諜報機関も、大統領の意中如何で私物化する危険性があることをあらわにした。これは日本と対照的な韓国の特徴である。日本は官僚主導型社会で、政治の力が発揮されにくい、という見方があるが、韓国は反対に政治主導型社会で、官僚の自律性が損なわれる嫌いがある。政治に人的リソースが集中するのも、この構造的問題と関係があるのだろう。

 



 前回の連載では〈SNSにおける個人の自由〉と〈それを制限する国家〉との関係を、韓国の「国家保安法」を軸に論じたが、今回は国家諜報機関がネット世論を操作したとされる事件を取り上げた。いわば〈ネットに潜伏した国家〉である。その意味で前回の連載を念頭において読んでいただければ、より複眼的に韓国におけるネットと国家の関係を把握できるはずだ。

 突き詰めて言えば、韓国における国家の介入は多くの場合、北朝鮮の存在により正当化されてきたことが見えてくる。敵を名指すことは最も有効な内部統制の方法なのだ。ここで連載の題名につなげよう。韓国社会では、敵を名指すことで諸言説を二分法的な枠組みに還元してしまう思考様式が依然として強靭な影響力を発揮している。資本主義が熟し、民主化を遂げ、価値観の多様化が進んだにもかかわらず、二分法的な言説の勢いはそう簡単には衰えない。

 左右の対立による陣営論理(前回の連載参照)もそこから派生したものといえる。そして、この問題の根本を辿っていけば、北朝鮮と対峙し続けてきたという、韓国固有の問題にたどり着く。北朝鮮の存在自体が、そして北朝鮮の脅威を政治的・社会的に利用しようとする勢力が韓国社会に二分法的言説を召喚し続けるのだ。

 最初の連載で、なぜ柄谷行人からたにこうじんが韓国で最も読まれる思想家の一人になったのかについて触れた。韓国で特に広く受け入れられたのは、脱構築を試みていた初期の柄谷である。彼以外にも、韓国社会では依然としてポスト・モダニズムをはじめ、脱構築的な現代思想の社会的な意味が問われ続けている。なぜなら韓国社会の言説において、脱構築的な現代思想が崩そうとした〈二分法的な枠組み〉が強力に機能し続けているからだ。

安天

1974年生まれ。韓国語翻訳者。東浩紀『一般意志2・0』『弱いつながり』、『ゲンロン0 観光客の哲学』、佐々木中『夜戦と永遠』『この熾烈なる無力を』などの韓国語版翻訳を手掛ける。東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)では聞き手を務めた。
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