韓国で現代思想は生きていた(20)『私は世界をリセットしたいです』|安天

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初出:2017年6月8日刊行『ゲンロン5』

1 みんなが滅べばいい


「戦争が起きればいい」「怖いけど、私だけ死ぬわけじゃありませんから。みんな死ぬじゃないですか。それは仕方がないのです」。

 社会を構成する様々な階層・世代の人たちの声を聞き、韓国社会の現状をスケッチしてきた社会学者オム・キホ(엄기호)は、最近、このような話をよく聞くようになったと言う。このくだりを読んだ瞬間、私の頭の中をよぎったのは、赤木智弘の「『丸山眞男』をひっぱたきたい──31歳、フリーター。希望は、戦争。」だった。赤木の論考が『論座』に掲載されたのは2007年だから、ちょうど10年が過ぎた。

 当時、赤木は、階級が固定され、いまより良い未来を描けない日本社会を生きる下層フリーターにとって、戦争だけがこのような希望なき社会構造を壊し、流動化をもたらすチャンスになり得る、という過激な主張を展開した。10年が過ぎたいま、韓国社会にもそのような考えを持つ人々が増えたのだろうか。

2 ヘル朝鮮


 実は、韓国では数年前から若者の間で「ヘル朝鮮 헬조선」という自虐的な言葉が流行っている。

「ヘル」とは英語のhell、すなわち「地獄」を指し、「朝鮮」は近代以前の李氏朝鮮や、日本の植民地支配下の朝鮮から来たもので、前近代あるいは植民地時代に退化した状態を指す。経済的な格差は広がり、就職も難しい状況で、若者たちの支持を受けていない朴槿恵パククネ氏が、父が元大統領だったこと以外は取り柄がないように見えるにもかかわらず大統領の座にいる韓国社会のことを皮肉った言葉だ。日本社会がそうであるように、韓国にも自らの社会に対する不満は常に存在し、また批判があってこそ社会の問題点を認識し是正できるという観点から、そういった不満や批判の表出を肯定的に評価する雰囲気がある。

 もちろん、不満を過剰に表出するのは、社会不安や自己軽蔑につながる恐れがあると懸念を示す人もいる。しかし、客観的に見たとき、韓国社会が、不満の表出自体に一定の意義と評価を与えてきたことは疑い得ない。韓国社会に独特な文化として語られたりもする大規模なデモも、このような不満や批判の表出に対する社会的な了解のもとで成り立っていると言える。韓国社会は、自己批判が自己更新を生み出すというダイナミズムを信じているのである。その延長線上で「ヘル朝鮮」のような自虐的な言葉が大流行するわけだ★1

 ところが、2016年11月に刊行されたオム・キホの『私は世界をリセットしたいです 나는 세상을 리셋하고 싶습니다』(チャンビ)の内容からすると、韓国社会における最近の自虐は度を超え、相当深刻なレベルであるように見える。今回は、この本の内容を紹介し、最近の韓国においてその構成員たちが社会をどのように捉えているのか、その一面を見てみることにする(筆者はこの本を電子書籍で読んだため、引用する際にページ番号を付記しないことをご了承願いたい)。

3 絶望=希望としてのリセット


 少し前まで、韓国では自己啓発が流行し、さまざまな自己啓発本が幅広い層に読まれていた。自己啓発ブームには2つの側面がある。自分を磨けば、より良い未来を手に入れることができるというオプティミズムと、自分磨きを怠ると脱落してしまうという焦りである。

 著者のオムによれば「現実において自己啓発言説は、かなり力を失ってきている。一時は、自己啓発があたかも私たちみんなを破産から救済してくれるかのように熱く信じていたが、その人気は段々衰え、いまや人々は自己啓発が自己搾取にすぎないことに気づきはじめている」★2。脱落してしまうという焦りは消えないが、より良い未来が待っているというオプティミズムは薄れているということだろう。

 冒頭の「戦争が起きればいい」云々は、次の文章とつながっている。「ある青年は『みんなが滅ぶこと』のみがこの社会で夢見ることのできるただ1つの『公平さ』であると言った。[……]良くなるように努力すればするほど、人生はもっと悲惨なものになり、破壊されるだろうと憂鬱につぶやいた。希望は、この先の人生がいまより良くなるという期待があってはじめて持てるものなのに、その期待が持てないと言うのだ」。

 韓国では個々人が「公」を日本より身近なものとして受け止めているからなのか、日本語と同じく漢字語(韓国語には、漢字を基にした言葉と、漢字を基にしていない言葉があり、前者を「漢字語」と言う)を起源とする「公平 공평」「公正 공정」という言葉が、より日常的に使われていると、私は感じている。これを、社会のあり方と個人の人生との相互関係を日本より密に捉えている、と言い換えてもよいかもしれない。韓国では、自分が自分の人生に希望を持てないのは、個人の問題だけに還元されるものではなく、社会にもその責任の一端があると考える傾向が日本より強い★3

 そうした希望が見えない状況の中で、一部の人々は社会に対して新たな態度を見せるようになった。それが「リセット」である。
 多くの人々は──それがこの世の中を滅ぼすものであれ、創り出すものであれ──その力から排除され、自分はただ無気力な状態で自分の席に座っているだけだと感じる世の中になった。この根源的な無気力感は、世界への向き合い方を変えた。その向き合い方は、貧困と戦争の廃墟から国を立て直す「再建」ではない。そのようにして再建した国で、不正義であり不平等な体制の転換を夢見る「変革」でもない。世界自体を原点へと飛ばしてしまう「リセット」なのである。


 著者は言う、「現実を変える力がない人にとって、現実自体を消し去ることこそが唯一可能でありかつ『楽しい』想像となる」「それが現実的にあり得るからではない、唯一想像可能なものであるからだ」「最もニヒルなことしか想像できなくなったという事実は、その社会における他の可能性が封じ込められてしまっていることを意味する」。

 未来に希望が見出せない状況に置かれた人間を支配する感情は無気力、無力感である。「この無気力は、機会さえ与えられれば世界を一挙に消し去りたいという反歴史的な終末論的急進主義と非常に親和性の高い、過激な無気力である」「今日、韓国社会における無気力は、何事をも成さないという無気力ではなく、世界の変革可能性に対する根本的な不信に基づく『過激な無気力』だ」。

 著者は「終末論的急進主義」の事例としてオウム真理教やISISを挙げている。「過激な無気力」は、現状の韓国社会の一部に見られる特殊な集団的情念なのではなく、ある条件下に置かれればどの社会においても一定の存在感を持つようになる社会的現象である、ということだ。もしかしたら、赤木の「『丸山眞男』をひっぱたきたい」もその先行事例と言えるのではないか。

4 物語的主体の不可能性


 人は自らを、世界を生きる主体として構築しつつ生を営む。この主体が「自己アイデンティティ」を軸に自分をめぐる物語を紡いでいくことで機能することから、著者はこれを「物語的主体」と呼ぶ。「個人は時間の流れの中に、自分の経験と思考を連続的なものとして配置できなければならない。この連続性、すなわち人生を物語として紡いでいくために個人に求められるのが過去の省察と未来の設計である」。

 ある意味当たり前の話と言えるのだが、「しかし、今日、このような個人の伝記的物語はもはや不可能なものとなった」。なぜなら、連続した物語を紡ぐのが困難になったからである。「近代の核心をなす原理であり概念があるなら、それはリキッドまたは流動性 liquidityだろう。『リキッドな近代 liquid modernity』において人の生は臨時的で一時的なものとなった。しっかりとした連続する物語ではなく、断片と化し断続するエピソードの不連続なかたまりにすぎないものとなる。これがバウマンの言う断片化した生である」★4

 自己アイデンティティの構築が困難になったとき、すなわち物語的主体になれなくなったとき、人はどうなるのか。「人生がきちんと紡がれる物語になり得ないと感じたとき、人はもはや自分が自分になり得ないことに気づき、存在論的・実存的危機を経験する」。続いて著者は、社会学者らしく、この危機に対する個人の対応を4つに分類する。先取りして言うと、前述の「リセット」はこれら4つの分類のうちの1つである。

5 冷笑、猶予、逃避


 1つ目は「冷笑シニシズム」である。ご存じのようにシニシズムは無敵だ。その成否とは関係なく、物語を築こうとするあらゆる努力それ自体をあざ笑う視点に立っているのだから、負けようがない。「彼らは現実における物語の可能性を冷笑し、冷笑をもって自分を守る。[……]冷笑は、これ以上傷つきたくないという強い決心である」。そう、シニシズムの無敵さは、闘わない者の無傷と同等のものだ。

 2つ目は「猶予」である。シニシズムが物語への参画の否定である一方、猶予する主体は物語を否定したりはしない。物語は構築されるはずなのだ。ただ、いまはその準備をする段階だから、まだ現実に向き合う必要はないと考える。実のところ、彼らは「不可能となった人生の実態と向き合うことを、絶え間なく猶予する人たち」である。より具体的に言うと「彼らは『勉強中毒者』である。[……]自分が現実と向き合えないのは、まだ準備ができていないからであり、現実と向き合って失敗した場合、それは自分の準備不足の証となるため、さらに勉強に邁進・依存する」。補足すると、ここでの「勉強」は、就職にプラスになるとされる英語や各種資格取得のための勉強、あるいは公務員試験の勉強等を指す。

 著者は、自己啓発と勉強中毒を次のように区別している。「自己啓発が不可能となった生の物語的構築へのファンタジーに基づくなら、勉強中毒は、その不可能性を猶予する戦略を取る。したがって、勉強中毒はポスト・自己啓発的な行為であると言える。自己啓発が生の物語性をより強く信じ勉強をもって突破しようとする徒労な身振りだとしたら、勉強中毒は不可能性を勉強で埋め回避しようとする主体の無能の表れである」。

 3つ目は「逃避」である。荒ぶる社会から撤退し、身近にある小さな関係性の中に閉じこもろうとする傾向を、著者は「逃避」と呼ぶ。「『大きな社会』には関心がなく『小さな社会』に注目しているという人によく会うようになった。[……]彼らにとって世界は『外』にあるのではなく、いま私に与えられている素朴な関係それ自体である。[……]彼らは何かを積極的に求めることをしない。彼らが求めるのは、社会の変化というより、もともと大きくない自分の欲望に相応しいライフスタイルと人間関係である」。彼らは「冷笑」や「猶予」を選んだ人々と異なり、物語を生きている。ただし、その物語のスケールは大幅に小さくなっており、このような対応は真の世界からの「逃避」に他ならないと著者は言う。

6 リセット願望の心理構造


 そして、最後が「リセット」である。以下に引用する箇所は、著者の現状分析の核心と思われる。

 彼らの眼に映る歴史は「進歩」の過程ではなく「堕落」の過程である。よって歴史の「中」で何かを追求するよりは、歴史にピリオドを打ち、原点から新しく出発しなければならないと考える。この怨念と復讐の情念は、無気力と対になっている。人生が変わる兆しがまったくない、という無気力の中で唯一できることは復讐と破壊である。生の物語性、すなわち時間的な自己アイデンティティの構築が不可能になったとき、私たちが手にすることになるのは世界を「作る」技術ではなく、「壊す」技術である。他者を嫌悪し、憎悪し、排斥する技術である。


 著者はこの現象を個人の心理的問題に帰する見方を拒否する。各々の人生を物語として思い描くのは個人だが、そのような物語が相互作用し、交差することで社会は成立するのであり、かつ社会の中にいるからこそ、個人は各々の物語を構築できるからだ。しかし著者は言う。「この時代の人々が自分を失い、自らを破壊しているのは信頼できる外部の消滅とともに起きた、社会的かつ歴史的な出来事である。[……]主体の崩壊を、病理学的な問題に置き換えること、これこそがこの社会の病理学なのだ」。

 先ほど私は、韓国社会は日本と比べて個人の人生を社会との関係性の中で捉える傾向が強いと述べた。ところが、「主体の崩壊を病理学的な問題に置き換える」とは、「主体の崩壊」を個人の問題に帰結させる言説を指している。すなわち、韓国社会において、個人と社会の関係性を密接なものとして捉える言説の力が弱まりつつあるのだ。そして著者は、そのような傾向に異を唱えている。

 著者の立場を私なりに解釈すると、個人と社会は物語を経由し相互作用を行う。したがって、物語の構築が不可能になることは、個人と社会の相互作用に亀裂が走ることであり、そのような社会はやがて機能不全に陥ることになる。著者はそうした機能不全の予兆を、リセット願望の中に見ている。

7 物語を紡げる社会へ?


 最近、韓国でよく耳にするようになった言葉がある。「各自図生 각자도생」だ。漢字語だが、日本ではあまり聞いたことのない言葉である。これは「各自が生きていく手段を講じる」という意味で、国や社会はもう頼りにならないから、各自で何とか生き抜くすべを用意しましょう、という韓国社会の最近の雰囲気を代弁する言葉になっている。国や社会に対する不信感が相当高まっているのは間違いない。

『私は世界をリセットしたいです』の著者、オムは言う。「生が『保護』されるとき、人は自分の生を予測し設計できるようになる」。社会が個々人の生を保護するとき、個々人ははじめて物語的主体になり得るのだ。保護の領域を著者は3つ挙げている──安全、医療、福祉である。セウォル号事件、MERS(中東呼吸器症候群)の流行、就職難と、朴槿恵政権は3つすべての面で無能さを露呈した。そのような国家を見て、人々は「各自図生」を口にするようになった。

 直接的な原因は他にあるものの、昨年末に毎週のように開かれた朴槿恵大統領への大規模な下野要求集会は、このような背景の中で行われた。韓国は、大規模な抗議から大統領弾劾までにいたる全社会的な熱気の中で、社会と個人が相互作用する接点としての物語を回復するきっかけを手にしたように思われる。社会に対する個々人の訴えが、実際に社会を変え得ることを経験したことで、「リセット」という究極の選択以外の方法で、現状を変える可能性を垣間見たのである。あくまで心もとなく、やわい可能性ではあるが。

 もし、その可能性の収束点が大統領個人への糾弾に留まるなら、恐らく韓国社会にたいした変化は起きないだろう。そのとき、個々人は「各自図生」の道を探す方向に進むしかない。一方、社会のあり方を変える契機になるなら、「ヘル朝鮮」という言葉を、そう言えばそんな言葉もあったよね、と笑い飛ばせるようになるはずだ。

★1 そういえば、日本でも2016年に「日本死ね」という自虐的な言葉が色々と話題になったことが記憶に新しい。
★2 「自己搾取」は在独の韓国人哲学者ハン・ビョンチョルが『疲労社会』という本で提出した概念で、成果を優先する成果主義社会においては、最大限の成果を生み出すために、個々人が自らの判断で自分自身に鞭を打つ「自己搾取」が行われるようになると述べている。
★3 歴史認識問題で、韓国と日本が時々対立する理由の1つとして、この「責任」の設定や追及の仕方における両国の相違があるのではないかと思うことがある。
★4 ジグムント・バウマンは、イギリスで活動したポーランド出身の社会学者であり、長い時間をかけてモダニティの問題を論じてきた多作の研究者であった。代表的な著作の1つとして『リキッド・モダニティ』があり、筆者も『立法者と解釈者』をはじめ、彼の著作から啓発されたところが大きい。ちょうど、この連載原稿を書き終えたころ、彼が亡くなったという悲しい知らせを耳にした。

安天

1974年生まれ。韓国語翻訳者。東浩紀『一般意志2・0』『弱いつながり』、『ゲンロン0 観光客の哲学』、佐々木中『夜戦と永遠』『この熾烈なる無力を』などの韓国語版翻訳を手掛ける。東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)では聞き手を務めた。
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