観光客の哲学の余白に(10) 触視的平面の誕生(2)|東浩紀
初出:2018年2月16日刊行『ゲンロンβ22』
20世紀はスクリーン(映画)の時代だった。20世紀の人間は世界をスクリーンとして捉えた。スクリーンは受動的で視覚的な平面でしかない。だから20世紀の思想は、私と世界の関係を、能動的な主体と受動的な客体の関係としてしか想像できなかった。
けれども現代はタッチパネルの時代である。そしてタッチパネルはスクリーンとはまったく異なる性質をもっている。それは受動性と能動性、可視性と可触性をともに兼ね備えた平面だ。それゆえ、タッチパネルに囲まれた現代においては、世界の対象は、見えるだけではなく触ることもできるものとして、そして触られることでなんらかの「反応」を返すものとして、すなわち、受動的なだけではなく能動性も備えた存在として想像されることになる。ぼくは前回、視覚的であるとともに触覚的で、受動的であるとともに能動的でもあるそのような複合的な性格を、「触視的」という言葉で形容することを提案した。私と世界の関係を、一方向的な視覚性によってではなく、双方向的な触視性から捉える。それこそが、21世紀の、すなわちポストモダンの時代精神の特徴だというのが本稿の主張だ。
この主張は哲学と深く関係している。ゲンロンでは、いま石田英敬が2017年に3回にわたって行った講義[★1]を単行本として出版するべく、準備を進めている。講義に出席した読者であれば、そこで石田がフロイトの「マジックメモ Wunderblock」の概念を説明するにあたり、映画の例を出していたことを覚えているだろう。精神分析の心や記憶についての仮説は、映画のメディア論的構造に似ている。にもかかわらずフロイトは映画にほとんど言及していない。それは逆説だというのが石田の主張だが、けれどもぼくの考えでは、「マジックメモ」はむしろ映画よりもタッチパネルに似ている。フロイトの現代的な可能性は、映画に戻るより、彼がそこでスクリーンのなにに不満だったのかを考えたほうが、よりくっきり見えてくるのではないか。
あるいはまた勘のいい読者であれば、以上のような「触視性」への注目が、最近話題の新しい哲学の潮流、「オブジェクト指向存在論」の議論と関係することに気づいたかもしれない。実際、主体と客体のあいだに存在論的亀裂を認めず、木や石にも人間と同じような「接触」の身分を認めようとするグレアム・ハーマンの哲学は[★2]、ぼくにはまさに、特定のイメージに指を触れると特定のメニューが現れる、タッチパネルのユーザー体験の理論化のように思われる。そしてそれはまた、『ゲンロン』が次号で「ゲーム」を特集することとも密接に関係している。『Life Is Strange』や『BEYOND : Two Souls』といった近年の英語圏のアドベンチャーゲームで表現されているのは、仮想世界のあらゆる対象が3Dモデルで再現され、そのすべてと相互作用できるオープンワールドの理想とは異なり(一般にはこちらがゲームの未来だとみなされているのだが)、プレイヤーがある特定のものに触れると特定の選択肢が現れ特定の未来が開けるという、じつにタッチパネル的な世界観である。タッチパネルの触視性とオブジェクト指向存在論、アドベンチャーゲームの空間感覚のあいだには、真剣に検討すべき連関がある。
20世紀の哲学は(少なくとも大陸系の哲学は)映画の哲学だった。フッサールの現象学はデカルトの継承を謳い、それゆえ主体を徹底して視覚の比喩で捉えた。それを乗り越えようとしたハイデガーは触覚(手)の比喩を多用したが、それをさらに乗り越えようとしたラカンはかえってスクリーン(映画)のモデルに戻ってしまう。そして哲学者は世界中で映画を論じるようになる。ひとことで言えばそれが20世紀の思想史のドラマだったが、21世紀に入り、哲学もいよいよ、タッチパネルやゲームの普及に呼応したパラダイム転換を迎えつつあるのかもしれない。本職の研究者はなにを乱暴なことをと呆れるかもしれないが、キットラーの研究を持ち出すまでもなく、同時代のメディア環境が哲学を規定することは十分にありうる話だ。哲学の「厳密さ」などは、しょせんは日常の経験と切り離せないものなのである。タッチパネルの時代にはタッチパネルの哲学が必然的に現れる。
とはいえ、哲学やゲームの話は次回以降に回すこととしよう。まずは、前回の最後で積み残した宿題、GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)の本質がなぜ触視性の模倣にあると言えるのか、その理由を説明しておかねばならない。
けれども現代はタッチパネルの時代である。そしてタッチパネルはスクリーンとはまったく異なる性質をもっている。それは受動性と能動性、可視性と可触性をともに兼ね備えた平面だ。それゆえ、タッチパネルに囲まれた現代においては、世界の対象は、見えるだけではなく触ることもできるものとして、そして触られることでなんらかの「反応」を返すものとして、すなわち、受動的なだけではなく能動性も備えた存在として想像されることになる。ぼくは前回、視覚的であるとともに触覚的で、受動的であるとともに能動的でもあるそのような複合的な性格を、「触視的」という言葉で形容することを提案した。私と世界の関係を、一方向的な視覚性によってではなく、双方向的な触視性から捉える。それこそが、21世紀の、すなわちポストモダンの時代精神の特徴だというのが本稿の主張だ。
この主張は哲学と深く関係している。ゲンロンでは、いま石田英敬が2017年に3回にわたって行った講義[★1]を単行本として出版するべく、準備を進めている。講義に出席した読者であれば、そこで石田がフロイトの「マジックメモ Wunderblock」の概念を説明するにあたり、映画の例を出していたことを覚えているだろう。精神分析の心や記憶についての仮説は、映画のメディア論的構造に似ている。にもかかわらずフロイトは映画にほとんど言及していない。それは逆説だというのが石田の主張だが、けれどもぼくの考えでは、「マジックメモ」はむしろ映画よりもタッチパネルに似ている。フロイトの現代的な可能性は、映画に戻るより、彼がそこでスクリーンのなにに不満だったのかを考えたほうが、よりくっきり見えてくるのではないか。
あるいはまた勘のいい読者であれば、以上のような「触視性」への注目が、最近話題の新しい哲学の潮流、「オブジェクト指向存在論」の議論と関係することに気づいたかもしれない。実際、主体と客体のあいだに存在論的亀裂を認めず、木や石にも人間と同じような「接触」の身分を認めようとするグレアム・ハーマンの哲学は[★2]、ぼくにはまさに、特定のイメージに指を触れると特定のメニューが現れる、タッチパネルのユーザー体験の理論化のように思われる。そしてそれはまた、『ゲンロン』が次号で「ゲーム」を特集することとも密接に関係している。『Life Is Strange』や『BEYOND : Two Souls』といった近年の英語圏のアドベンチャーゲームで表現されているのは、仮想世界のあらゆる対象が3Dモデルで再現され、そのすべてと相互作用できるオープンワールドの理想とは異なり(一般にはこちらがゲームの未来だとみなされているのだが)、プレイヤーがある特定のものに触れると特定の選択肢が現れ特定の未来が開けるという、じつにタッチパネル的な世界観である。タッチパネルの触視性とオブジェクト指向存在論、アドベンチャーゲームの空間感覚のあいだには、真剣に検討すべき連関がある。
20世紀の哲学は(少なくとも大陸系の哲学は)映画の哲学だった。フッサールの現象学はデカルトの継承を謳い、それゆえ主体を徹底して視覚の比喩で捉えた。それを乗り越えようとしたハイデガーは触覚(手)の比喩を多用したが、それをさらに乗り越えようとしたラカンはかえってスクリーン(映画)のモデルに戻ってしまう。そして哲学者は世界中で映画を論じるようになる。ひとことで言えばそれが20世紀の思想史のドラマだったが、21世紀に入り、哲学もいよいよ、タッチパネルやゲームの普及に呼応したパラダイム転換を迎えつつあるのかもしれない。本職の研究者はなにを乱暴なことをと呆れるかもしれないが、キットラーの研究を持ち出すまでもなく、同時代のメディア環境が哲学を規定することは十分にありうる話だ。哲学の「厳密さ」などは、しょせんは日常の経験と切り離せないものなのである。タッチパネルの時代にはタッチパネルの哲学が必然的に現れる。
とはいえ、哲学やゲームの話は次回以降に回すこととしよう。まずは、前回の最後で積み残した宿題、GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)の本質がなぜ触視性の模倣にあると言えるのか、その理由を説明しておかねばならない。
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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