観光客の哲学の余白に(6) 深さの再発明のために|東浩紀

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初出:2017年10月20日刊行『ゲンロンβ18』

 近代は「深さ」を発見した。フーコーは『言葉と物』でそう喝破した。近代人は、目のまえの世界を整理するだけでは満足しない。あらゆる場所に、「深さ」を、言い換えれば「見えないもの」を見いだそうとする。フーコーはその欲望こそが近代の本質なのだと指摘したのである。 

 多少ともヨーロッパに興味を抱くひとであれば知っているように、この指摘はたいへん有益である。深さへの欲望という図式は、近代西欧のさまざまな現象や表現をじつにうまく説明してくれる。文学や芸術の話だけではない。経済学や言語学や生物学といった「科学」もまた、深さの発見によって大きくパラダイムを変え、発展することになったというのがフーコーの主張だ(興味をもったひとは著作にあたってほしい)。近代人はとにかく「深さ」が好きだった。そして深ければ深いほどすごいと思い込んでいたのである。 

 他方、ぼくたちが生きるこの21世紀はどうだろうか。しばしば言われるのは、ぼくたちはもはや近代に生きていない、もうだれも「深さ」を必要としていないという主張である。この主張にはあるていど説得力がある。実際に1970年代からこのかた、ポストモダニズムとも呼ばれる風潮のなかで、ハイカルチャーと大衆文化とを問わず、かつてのような「深い」主張もなければメッセージもない、記号の組み合わせだけに基づく芸術表現が莫大に増えてきた。その例はポストモダン文学でもハリウッドでもサンプリングでもコミケでもなんでもいいが、重要なのはいまやその傾向が文化を超え政治をも侵犯していることである。ポスト真実やフェイクニュースと呼ばれる現象が、その侵犯の表れだ。現代では、政治すら深さを失い、記号(ワンフレーズ)の組み合わせだけに基づき漂流し始めている。ポピュリズムはポストモダニズムの政治的な帰結だと言える。 

 近代には深さがあった。現代には深さがない。この診断はとりあえずは正しい。しかしそれは危険な診断でもある。それは、いま目のまえで起きていることについて、あらゆる「分析」や「批判」の可能性を奪ってしまう診断でもあるからだ。 

 どういうことか。近代は深さを発見した。しかし、そもそもなぜ近代は深さを発見しなければならなかったのだろうか? それは、深さを導入すると、浅さ=見えるものの秩序を分析し、ときに批判することが可能になるからである。

 近代人は、あらゆるものを深さ(見えないもの)で説明する。ある作品がすばらしいのはそこに見えない真実が隠されているからだ、ある商品に対価が払われるのはそこに見えない労働が隠されているからだ、ある言語が一体性を主張するのはそこに見えない歴史が隠されているからだといった論理を組み立てる(いずれもフーコーが挙げた例である)。この論理はときに抑圧的なイデオロギーとして機能する。深さがないとなにも評価されないからである。しかし、それは他方で、作品批判や資本批判や国民国家批判を可能にする重要な枠組みにもなる。深さのレトリックを用いると、ひとはきわめてたやすく、この作品は評判がいいが真実がない、この商品は売れているが手間がかかっていない、この言語(民族)は一体性を主張しているがたいして歴史はないといった論理によって、現実の事象を批判することができる。 

 裏返せば、そのようなレトリックがまったく機能しないと、現実の批判はきわめて難しくなる。見えるものの背後になにもなく、表面の秩序はそれだけで完結していると考えるのであれば、評判がいい作品は評判がいいのだからいいのだとしか言いようがないし、売れている商品は売れているのだからいいのだとしか言いようがないし、一体性を主張している民族も彼らが一体だと言っているのだからそうなのだろうとしか言いようがなくなってしまう。実際、それがいま現実に起きていることである。ぼくたちはもはや、資本主義とポピュリズムを有効に批判する「理論」をなにひとつもてなくなっている。みながグーグルを望むのだから、みながフェイスブックを望むのだから、そしてみながトランプを望むのだから、それでよいとしか言いようがなくなっている。2000年代に入り「民主主義」が急に世界中で流行語になっているのは、もはやそれぐらいしか「主義」が存在できないからである。 

 ぼくたちはビッグデータとシミュレーションの時代に生きている。現実はあまりに複雑で、もはや理論は作れず、現実を理解するためにはデータを大量に集めてシミュレーションを走らせるしかなく、それは結局のところ現実の似姿を計算機内に作ることでしかない、そんな時代に生きている。格差は生じるべくして生じる。犯罪は生じるべくして生じる。事故は生じるべくして生じる。すべては確率であり、起きていることはすべて起こるべくして起きている ――ひとことで言えば、それがぼくたちの時代のイデオロギーである。『ゲンロン0』の読者であれば、ここでヴォルテールが批判したライプニッツの最善説を思い出すだろう。つまりはぼくたちは、もういちど最善説の時代に戻りつつあるのだ。そして、最善説ほど、弱者に厳しく悪に寛容な哲学は存在しない。 

 近代には深さがあった。現代には深さがない。この診断はとりあえずは正しいが、しかし深さの欠如はぼくたちから批判の能力を奪う。現実の悪や不条理に対する感性を根こそぎ奪う。これが、ぼくの見るところ、ぼくたちの時代の、根底の根底にある問題なのである。

 



 

  

 さて、ぼくが今回、前回までの流れを断ち切っていきなり「深さ」の話をしているのは、「インターフェイス的主体性」を主題とするはずのこの連載の議論が、『ゲンロン0』の政治哲学と、そして現在のアクチュアルな社会状況と密接な関係をもつことを理解してほしかったからである。

 近代には深さがあった。現代には深さがない。深さがないことがあらゆる美学的、倫理的、政治的問題を引き起こしている。この認識からはとりあえずふたつの立場が引き出せる。ひとつめは諦めである。現代には深さはない、だからしかたないじゃないかとすべてを肯定する立場である。『ゲンロン0』では、このような立場をグローバリズムあるいはリバタリアニズムと呼んだ。もうひとつは抵抗である。現代に深さはない、ならば近代に戻るべきだ、かつての「見えないもの」を取り戻すべきだと考える立場である。『ゲンロン0』ではこの立場をナショナリズムあるいはコミュニタリアニズムと呼んでいる。ぼくたちの時代を特徴づける深さの欠如、それを認めるか認めないか。現代の政治はそこで分岐している。現代思想のほとんどもそのどちらかに分類される。つまりは、近代に戻るか戻らないかばかりが議論されている。そして、あらためて指摘するまでもなく、日本にかぎらず、左翼はいまや近代への回帰を主張する一大勢力となってしまっている。 

 けれどもそこにはほんとうは第三の道がある。近代には戻らない、しかし浅さを全面的に肯定するのでもなく、21世紀の現代でも通用する新たな「深さ」(浅さに還元されないもの)の可能性を探る、あるいは発明するという道がある。ぼくの考えでは、それこそが哲学がいまなすべきことである。その発明がないかぎり、ぼくたちはいつまでも、悪と不条理と闘うために、古ぼけた近代的な理念を呼び出し続けざるをえないからである。そして、その理念の有効期限もさすがに切れ始めてきているからである。いつまでも過去の栄光にしがみつくわけにはいかない。 

 新たな「深さ」を言葉にする。哲学者としてのぼくの目標は、ひとことで言えばそれに尽きる。ぼくはかつて、その新たな深さについて、『存在論的、郵便的』では「複数的超越論性」という言葉で、『動物化するポストモダン』では「大きな非物語」という言葉で語ろうとした。けれども、当時のぼくはまだ若く、知識もなく、十分に広がりのある議論を展開できなかった。『ゲンロン0』はその20年ぶりの再挑戦であり、論点は『存在論的、郵便的』や『動物化するポストモダン』よりもはるかにクリアに抽出されているが、それでも著者としては当然満足していない。シミュラークルとフェイクニュースに満たされたこの21世紀の世界において、どこにどのようにして「深さ」を見つけるのか。『ゲンロン0』ではヒントに止めざるをえなかったその手がかりのひとつを、あらためて主題的に展開しようというのがこの連載だ。 

 だから、ぼくはこれからさき、コンピュータのインターフェイスやVRの体験について語るだろうが、それはなにも新しい視覚芸術論を展開したいからではない。ぼくはむしろそれらを、映画、すなわちカメラと映写機とスクリーンの組み合わせによるものとは異なる、新しいもうひとつの「深さの装置化」の例として捉えたいのである。そしてその企図は、ここまで記してきた政治哲学の問題と不可分に結びついている。ラカン派精神分析によれば、近代の人間は、あたかも映画を見るように世界を見、カメラ(神の視点)に同一化することでスクリーン上の現実(浅い現実)から脱出する術を心得ていた。しかし、だとすれば、二一世紀の人間は、映画を見るようにではなく、インターフェイスに接するように世界に接し、カメラへの同一化によってではなく、マウス(現実との接触)を動かすことでウィンドウ内あるいはアプリ内の現実(浅い現実)から脱出する術を心得ていると言えないだろうか? そしてもし、そのような対比が表象文化論的あるいはメディア論的に可能なのだとすれば、それをさらに政治哲学に翻案し、前述のような新たな「深さ」の発明につなげることはできないだろうか? ――このような表現でどこまで通じるのかまったく心許ないが、とにかくはそれが、ぼくがいま考えていることである。 

 今回は、前回までの議論をいったん横におき、独立の原稿を記させていただいた。次回はまた視覚の話に戻る。 

 本誌の読者であればみなさんご存知のことと思うが、この原稿を書いている現在(10月16日)、ぼくのツイッターアカウントははげしく炎上している。原因についてはあらためて記さないが、この二週間、つぎからつぎへ押し寄せる罵倒のリプライを眺めるなかで、あらためて自分の使命について考えるところがあった。この原稿にはその経験も影を落としている。  



 



 

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東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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