観光客の哲学の余白に(15) ウラジオストクのソルジェニーツィン|東浩紀
初出:2019年07月19日刊行『ゲンロンβ39』
去る4月にウラジオストクに出かけた。1月に大連に行き、3月にハルビン、長春、瀋陽に行った、一連の旧満洲取材の続きである。
なぜ続きなのか。19世紀の後半、ロシアは不凍港を求め、東北アジアで領土的野心を剥き出しにしていた。ウラジオストクは、その野心の中心に位置した都市である。ロシアは1860年に、弱体化した清から広大な沿海州をもぎり取り、同じ年にこの街を建設した。その後は軍港として発展し、1891年にはロシア皇太子の出席のもとシベリア鉄道の起工式が行われた。そもそもウラジオストクという都市名そのものが、ロシア語で東方(ヴォストーク)を征服(ウラジェーチ)するという意味をもっている。日本は明治維新以来、ロシアの南下に怯え続けており、その恐怖心が最終的に満洲の強引な建国につながった。それゆえぼくは、満洲について記すにあたり、いちどこの街を歩いてみたいと思ったのである。
ところで、そんな関心で出かけたウラジオストクだったが、思いもがけずソルジェニーツィンについて考えることになった。というのも、この街の港には、彼の像が立っているのである。
あらためて確認しておくと、ソルジェニーツィンは、冷戦期を代表するソ連の反体制作家であり運動家である。いまや日本ではほとんど読まれていないので、本誌の読者にとっては、むしろぼくがときどき言及する作家として知られているかもしれない。ぼくは四半世紀まえに、彼の小説を扱ったエッセイ「ソルジェニーツィン試論」で批評家としてデビューした。
ソルジェニーツィンの作品は、1962年の『イワン・デニーソヴィチの一日』がもっともよく知られている。スターリン時代の収容所の実態を赤裸々に描いた中編だ。ソルジェニーツィンはこの作品でデビューし、いきなり世界的な知名度を獲得した。その背景には、当時のソ連の書記長がフルシチョフで、スターリン批判が政権の意向と合致したという政治状況がある。そして1964年にフルシチョフが失脚すると状況は変わり、ソルジェニーツィンは当局と激しく衝突し始め、作品の多くは出版禁止となってしまう。1970年にノーベル文学賞を受賞するが、1974年にはついに逮捕され、強制的に国外に追放となった。ソルジェニーツィンがロシアに帰国するのは、じつに20年後、冷戦が崩壊し、ソ連が解体したあとの1994年のことである。
ウラジオストクはその帰国のとき、はじめてソルジェニーツィンが足を踏み入れたロシアの街として知られている。彼は、空路でいきなり首都に戻るのではなく、まずは辺境のウラジオストクに入り、そののちシベリア鉄道に乗りたっぷり2ヶ月をかけてロシアを横断し、そのあとでようやく首都に入るという経路をとった。それはロシアの大地に敬意を表し、民衆(ナロード)の声に耳を傾けるためだといわれ、じっさいにソ連の崩壊で混乱が続いていた当時のロシアでは、彼はあたかも預言者のように見なされ、各地で熱狂的な歓迎を受けた。ウラジオストクはその熱狂の出発点になった街で、像はそれを記念して建てられている。
さて、問題のソルジェニーツィンの像は、写真のように、ウラジオストクの軍港近くの岸壁に立てられている。海を背にし、左手にノートを抱え、右足を一歩まえに踏み出しているそのすがたは、あたかも船上からロシアの大地へと降りる決定的瞬間を捉えたものであるかのようである。ぼくも、現実にそういう記録写真があって、それを模して造られた像だと思い込んでいた。
ところがそれはまったくのかんちがいだったらしい。ぼくはこの像を、昨年邦訳された『右ハンドル』という本の作者、ジャーナリストのワシーリイ・アフチェンコ氏とともに訪れた。じつはウラジオストクを訪ねたのは、この作家に話をうかがうためでもあった。そしてじっさいインタビューもとったのだが、そちらの話はまだべつの機会にとっておく(インタビューは本誌次々号に上田洋子の訳・構成で掲載予定である)。いずれにせよ、そのアフチェンコ氏は、嬉々として写真を撮るぼくを見て苦笑しながらいった。それ、嘘だよと。
なぜ続きなのか。19世紀の後半、ロシアは不凍港を求め、東北アジアで領土的野心を剥き出しにしていた。ウラジオストクは、その野心の中心に位置した都市である。ロシアは1860年に、弱体化した清から広大な沿海州をもぎり取り、同じ年にこの街を建設した。その後は軍港として発展し、1891年にはロシア皇太子の出席のもとシベリア鉄道の起工式が行われた。そもそもウラジオストクという都市名そのものが、ロシア語で東方(ヴォストーク)を征服(ウラジェーチ)するという意味をもっている。日本は明治維新以来、ロシアの南下に怯え続けており、その恐怖心が最終的に満洲の強引な建国につながった。それゆえぼくは、満洲について記すにあたり、いちどこの街を歩いてみたいと思ったのである。
ところで、そんな関心で出かけたウラジオストクだったが、思いもがけずソルジェニーツィンについて考えることになった。というのも、この街の港には、彼の像が立っているのである。
あらためて確認しておくと、ソルジェニーツィンは、冷戦期を代表するソ連の反体制作家であり運動家である。いまや日本ではほとんど読まれていないので、本誌の読者にとっては、むしろぼくがときどき言及する作家として知られているかもしれない。ぼくは四半世紀まえに、彼の小説を扱ったエッセイ「ソルジェニーツィン試論」で批評家としてデビューした。
ソルジェニーツィンの作品は、1962年の『イワン・デニーソヴィチの一日』がもっともよく知られている。スターリン時代の収容所の実態を赤裸々に描いた中編だ。ソルジェニーツィンはこの作品でデビューし、いきなり世界的な知名度を獲得した。その背景には、当時のソ連の書記長がフルシチョフで、スターリン批判が政権の意向と合致したという政治状況がある。そして1964年にフルシチョフが失脚すると状況は変わり、ソルジェニーツィンは当局と激しく衝突し始め、作品の多くは出版禁止となってしまう。1970年にノーベル文学賞を受賞するが、1974年にはついに逮捕され、強制的に国外に追放となった。ソルジェニーツィンがロシアに帰国するのは、じつに20年後、冷戦が崩壊し、ソ連が解体したあとの1994年のことである。
ウラジオストクはその帰国のとき、はじめてソルジェニーツィンが足を踏み入れたロシアの街として知られている。彼は、空路でいきなり首都に戻るのではなく、まずは辺境のウラジオストクに入り、そののちシベリア鉄道に乗りたっぷり2ヶ月をかけてロシアを横断し、そのあとでようやく首都に入るという経路をとった。それはロシアの大地に敬意を表し、民衆(ナロード)の声に耳を傾けるためだといわれ、じっさいにソ連の崩壊で混乱が続いていた当時のロシアでは、彼はあたかも預言者のように見なされ、各地で熱狂的な歓迎を受けた。ウラジオストクはその熱狂の出発点になった街で、像はそれを記念して建てられている。
さて、問題のソルジェニーツィンの像は、写真のように、ウラジオストクの軍港近くの岸壁に立てられている。海を背にし、左手にノートを抱え、右足を一歩まえに踏み出しているそのすがたは、あたかも船上からロシアの大地へと降りる決定的瞬間を捉えたものであるかのようである。ぼくも、現実にそういう記録写真があって、それを模して造られた像だと思い込んでいた。
ところがそれはまったくのかんちがいだったらしい。ぼくはこの像を、昨年邦訳された『右ハンドル』という本の作者、ジャーナリストのワシーリイ・アフチェンコ氏とともに訪れた。じつはウラジオストクを訪ねたのは、この作家に話をうかがうためでもあった。そしてじっさいインタビューもとったのだが、そちらの話はまだべつの機会にとっておく(インタビューは本誌次々号に上田洋子の訳・構成で掲載予定である)。いずれにせよ、そのアフチェンコ氏は、嬉々として写真を撮るぼくを見て苦笑しながらいった。それ、嘘だよと。
本連載は『ゲンロンα』への再掲にあたり番外編を含めて通し番号を振り直したため、初出時とはナンバリングが異なります。(編集部)
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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