観光客の哲学の余白に(20) コロナ・イデオロギーのなかのゲンロン|東浩紀

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初出:2020年4月17日刊行『ゲンロンβ48』

 ゲンロンはこの4月で創業から10年を迎えた。今号はその記念号にあたる。だからなにか書いてくれと頼まれた。 

 けれど、いま明るいお祝いの言葉を書く気にはどうしてもなれない。理由はいうまでもなく、現在進行中のコロナ禍にある。ゲンロンカフェはもうひと月以上観客を入れることができていない。 

 それは経営的に打撃というだけではない。ゲンロンは──というよりぼくは、この10年、ずっと、情報の交換だけでは人間はダメになる、哲学や芸術を理解するためには情報の「外」との触れ合いが必要だと主張し続けてきた。 

 それを現実との触れ合いが大事だと要約すると、そこらへんのオヤジでもいいそうな素朴な話になる。じっさいぼくはそこらへんのオヤジでもあるが、ただぼくとしては、その主張を「誤配」とか「観光」とかいう言葉で武装し、AIとかビッグデータとかスマートシティとかばかりいっている「ネット万能主義」に対して、少しは抵抗を試みてきたつもりだった。そしてその実践として、ゲンロンカフェをやったり、スタディツアーを企画してきたつもりだったのである。 

 ところが現状はどうか。この数ヶ月で、世界は急速にそのネット万能主義に支配されてしまった。仕事はテレワークでいい、教育はオンラインでいい、友だちつきあいはSNSでいいし、買物も食事も宅配でいい、要は Zoom と Amazon と Uber Eats さえあれば身体の触れ合いがなくても問題ないと、世界中のひとが認めてしまった。そして移動の自由も集会の自由も放棄し、みな家のなかに引きこもってしまった。その動きに対する知識人の反発も、これまた驚くほど少ない。 

 ネット万能主義に懐疑を抱いてきたぼくは、この状況に困惑している。感染症対策だからしかたない、ネットがあってよかったじゃないか、という読者が多いかもしれない。けれどもその考えは素朴すぎる。 Zoom で可能な会議や授業はたかが知れているし、 Amazon で買えるものにも、 Uber Eats で頼めるものにも限界がある。高齢者の介護や乳幼児の世話はオンラインではできない。人間のコミュニケーションでオンラインで代替できるものは、現実にはきわめてかぎられている。それはほんとうはだれもが知っている。にもかかわらず、いまはみなが「社会の多くはオンラインで代替できる」という幻想にしがみついている。その幻想だけが、感染症への恐怖と社会維持の必要性を両立させてくれるからだ。 

 けれども幻想は幻想でしかない。現実にはオンラインで代替できないものが多いのだから、みなが幻想にしがみつけばつくほど、その「代替できないもの」を担う人々に負担が集中していくことになる。いいかえれば、みなが身体的接触を避ければ避けるほど、接触を担わざるをえないひとの負担は増える。 

 日本ではすでに「介護崩壊」「保育崩壊」という言葉がささやかれている。みなを自宅に閉じこめるならDVや児童虐待は救えなくなるし、オンライン授業では生徒や学生の心理的なケアはできない。 Amazon も Uber Eats もだれかが届けているのだから、遠からず彼らの労働環境も問題になるだろう。日本では労働格差と人種や民族は連動しにくいが、アメリカでは黒人の新感染症での死亡率が白人やアジア系の2倍近いと報じられている。黒人には公共交通機関や食料品店など、まさに「代替できないもの」に従事する低所得者が多いからだと分析されているが、そんなひどい話はない。10年ほどまえ、リチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラス」という言葉がもてはやされたことがあった。科学者やアーティストや弁護士など、いわゆる「知識労働者」を指す言葉だ。たしかに彼らの仕事はオンラインで代替できるかもしれない。そして彼らがいちばんお金を稼ぐのかもしれない。けれど社会はクリエイティブ・クラスだけでは成立しない。 

 世界はいま「社会の多くはオンラインで代替できる」という幻想にしがみついて、肝心の社会を引き裂きつつある。コロナ禍が短期で過ぎ去らないことがほぼ明らかになりつつあるいま、ぼくたちはそろそろ、感染拡大に怯えるだけでなく、そのリスクについても考え始めねばならない。これはたんなる経済の話ではない。「社会とはなにか」という話なのだ。 

 ぼくは1990年代半ばにネットに出会い、その可能性に魅せられて言論活動を展開してきた。いまではネット万能主義に懐疑的になっているが、そちらにかなり近づいたこともある。それだけにこの状況をまえにすると気が滅入る。ネットがなければ、むしろ人々は、感染症への恐怖と社会維持の必要性をいかに両立させるか、もっと真剣に考えたのかもしれないと思うからだ。SNSがなければひとはもっと外出禁止の意味を考えたかもしれないし、テレワークがなければ政府も「接触を8割削減」なんて気軽にいい出さなかったかもしれない。つまりは、ネットなんて、今回にかぎってはなかったほうがよかったのかもしれない。 

 かつてバーブルックとキャメロンというイギリスの研究者は、ネットは一方でどんどん金持ちを生み出し、他方でどんどん人々も平等にするという、矛盾した主張を臆面もなく打ち出す議論を、マルクスの有名な「ドイツ・イデオロギー」を参照して「カリフォルニア・イデオロギー」と呼んだ。それにならえば、いま台頭しつつある新たな幻想は「コロナ・イデオロギー」とでも呼べるかもしれない。

 コロナ・イデオロギー。それは、身体的接触のリスクを冒さなくても、情報の交換さえあれば社会がつくれる、文化も守れる、人間としても生きていけるというイデオロギーである。 

 ずいぶんとゲンロン10周年から離れてしまった。話を戻すと、ぼくがいま打ちのめされているのは、今回のコロナ禍が、たんにゲンロンの経営に打撃だというだけでなく、そのような思想的な変動を引き起こしつつあるようにみえるからである。それはぼくには、ゲンロンがこの10年のあいだ試みてきたことが、あっさりとひっくり返されてしまったように感じられる。 

 むろんコロナ禍はいつか去る。ワクチンができるのか特効薬ができるのか、それとも感染が広がり集団免疫ができるのか、結末はわからないが、いずれにせよこんなふうに大騒ぎする期間はいつかは終わる。 

 けれども、そのときいっしょにコロナ・イデオロギーが終わるかといえば、かならずしもそうはいえない。なぜならば、それはそもそも、コロナ禍によって生まれたものではなく、もっとまえから、それこそネット誕生以前から準備されていたもののように思われるからだ。 

 アイザック・アシモフに『はだかの太陽』という長編がある。SFとミステリが融合した名作として知られている。舞台は架空の惑星「ソラリア」。住民は惑星全体でわずか2万人で、2億台のロボットがその生活を支えている。生産活動はすべてロボットが行うので、ソラリア人は基本的に働く必要がない。だから科学者やクリエイターのような「有閑階級」、いまふうにいえばクリエイティブ・クラスばかりで、みな広大な邸宅でロボットの従者に囲まれてひとりで暮らしている。そして彼らは、おもに感染症の恐怖から、人間同士の身体的な接触を徹底的に避けている★1。連絡はすべて立体テレビ電話で済ませ、夫婦といえども、国家から半ば強制で指示される性交渉のほかは会うことがない。子どもも同居しない。 

 この設定はいま読むと、まさにコロナ下の社会を描いたもののようにみえる。けれどもじっさいは1950年代のアメリカで書かれた小説である。そしてそこではすでに、ソラリアの──この名前そのものがおそらく solar とともに solo からつくられているのだろうが──隔離社会が人類の理想そのものであること、にもかかわらずそれは停滞にほかならず、そこからの脱出こそが必要であることがはっきりとテーマになっているのだ。興味をもった読者はぜひ『はだかの太陽』を読んでほしいが、前述のようにこの小説はミステリでもあり、ソラリアで起きたある殺人事件を、人間とロボットの刑事コンビが解決する過程が物語の中心になっている。ソラリアでは人間と人間はけっして接触しない。にもかかわらず殺人が起きるとは、どういうことなのか。アシモフはその謎を小説の軸に据えることで、人間がけっして孤独には生きられないこと、そして生産を他者(ロボット)に譲り渡し、知的生活に閉じこもることが現実逃避でしかないことを、寓話として力強く描き出した。 

 だから、コロナ・イデオロギーは、半世紀以上まえから亡霊のように徘徊していたといえる。おそらくはそもそもネットの理想そのものが、そんな亡霊の声に惑わされてつくりだされたものなのだ。身体と身体の面倒で不潔な接触を経なくても、情報の交換さえあれば、社会はつくれるし、文化も守れるし、人間としても生きていける。人間はずっとそう信じたがってきた。 

 アシモフはその亡霊を追い払った。けれども、コロナ後の世界がそれをふたたび追い払えるかは、たいへん心許ない。 

 話題が拡散するので本稿では触れなかったが、コロナ・イデオロギーは社会問題は基本的に情報の管理で解決できるという思想だから、ビッグデータやスマホの位置情報を利用した個人監視と親和性が高い。じっさいにいま、感染症の恐怖を追い風として各国やネット企業は新たな監視のアイデアをつぎつぎ提案しており、そこにはつい数ヶ月まえなら自由やプライバシーの侵害として問題になったものが目白押しになっている。けれども世界の言論人はほとんどそれに対抗できていない──どころか、むしろ歓迎さえしているようにみえる。ぼくはその状況にも困惑している。 

 いずれにせよ、ゲンロンはこの10年、そんなネット万能主義の亡霊に抵抗する場としてあり続けてきた。来るべきコロナ・イデオロギーの全面化の時代において、ゲンロンがそれでも「ゲンロンらしさ」を保つためにはどうすればよいのか。新たな挑戦が求められている。 
 

 


 最後に。とりあえず本誌読者には、今年はもはや無理だとして、いつかもういちど「ゲンロン友の会総会」を開くことができるかどうか、それを指標としてゲンロンの今後を見守ってくれればと思う。五反田の片隅の雑居ビルに寿司詰めになって──そして文字どおり寿司も食べて──、午後早くから翌日早朝までぶっとおしで12時間以上アルコール片手に登壇者と一般参加者が入り乱れて騒ぎ語る、あれこそいま話題の「3密」であり、感染症の専門家にいわせれば絶対にリスクが高い場だという話になるにちがいない。でもだからこそ、あの会は楽しいし、また「誤配」の場としても機能していたのである。 

 あの総会がもういちど開催できれば、ゲンロンは「ゲンロンらしさ」を保ったことになるのだろうと思う。 

 



★1 正確には『はだかの太陽』ではあまり感染症への恐怖は描かれていない。けれども、その設定が重要なことは、前日譚にあたるべつの長編『鋼鉄都市』の記述からわかる。 
 なお、『鋼鉄都市』と『はだかの太陽』はともに人間とロボットの刑事コンビが主人公で、同じく未来世界での殺人事件が中心となった双子のような作品であり、2作続けて読むのが好ましい。『鋼鉄都市』では人口過密で身体的な接触が過剰な地球(ニューヨーク)が舞台で、『はだかの太陽』では人口過疎で身体的な接触が皆無な植民惑星(ソラリア)が舞台となっている。『鋼鉄都市』の地球は人間の雇用確保のためロボットの導入を制限しており、ソラリアは逆にロボットに過剰に依存している。本文では紙面の都合上『はだかの太陽』にしか触れていないが、アシモフの主張はほんらいは、人間だらけ(いわば感染症だらけ)の地球とロボットだらけ(つまり感染症がない)のソラリアはともに停滞を運命づけられており、歴史をまえに進めるためにはその適度な組み合わせが必要だというところにある。アシモフの作品群は大きく近未来もの(ロボットもの)と遠未来もの(銀河帝国もの)に分けられるが、この2作はそれをつなぐ蝶番のような位置にある。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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