観光客の哲学の余白に(21) 郵便的不安と生権力|東浩紀
初出:2020年07月17日刊行『ゲンロンβ51』
ぼくは1993年に、「ソルジェニーツィン試論」と題された2万字ほどの原稿でデビューしている。そのエッセイには「確率の手触り」という副題がついていた[★1]。確率はそれ以来、ぼくの哲学のキーワードとなっている。
ぼくの問題意識はこうだ。たとえば災害において、あるいは戦争や虐殺において、ひとは死ぬかもしれないし死なないかもしれない。そして、その選択はときにまったく無意味に、「確率的」にのみ決まる。ぼくたちは自分の死にいろいろと意味や必然性を見出しがちだが、ほんとうはその「かもしれない」の感覚のほうが重要なのではないか。ぼくはこの30年近く、そのことを訴え続けてきた。
ところでこの確率という概念には、哲学的にみるといささか厄介な性質がある。確率は英語では probability である。この名詞は probable という形容詞から派生している。そして probable は、判断を形容するものとしても対象を形容するものとしても使うことができる。
たとえば災害が起きたとして、遺体が出てきたわけではないが、状況証拠から考えて人物が巻き込まれて死んだことは十分にありうるとする。そのとき「問題の人物が亡くなったことは probable だ」と表現できる。しかしちがう使いかたもできる。これから災害が起きるとして、その人物を含め、関係者のあいだでは死者がおおぜい出るだろうと予測できたとする。そのようなときも「問題の人物が亡くなることは probable だ」と表現できるのだ。前者の事例ではだれが死んだかはすでに定まっている。不確定なのは認識だけだ。他方で後者の事例ではだれが死んだかは定まっていない。不確定なのは現実のほうだ。にもかかわらず、同じ probable ということばが使えるのである。ここでは英語の例しか出さないが、同じことはフランス語やドイツ語やロシア語の対応する単語についてもいえる。
したがって probability は、哲学的に厳密に考えると、すでに確定した事象についての認識が不確定であるさまを指すことも、いまだ事象そのものが確定しておらずどっちに転ぶかわからないさまを指すこともできる、あいまいな二面性をもった概念だということになる。サイコロ賭博は古代から知られていた。にもかかわらず、確率の数学的理論は、17世紀にパスカルとフェルマーが試みるまでだれによっても探求されなかった。科学史家のイアン・ハッキングは、まさにその遅れの理由を、 probability のこの二面性に求めている[★2]。
認識にかかわる probability について考えることは、不十分な証拠からどのようにして正しい判断を引き出すか、その推論法について考えることを意味している。だからその検討は、数学よりむしろ法学や弁論術と関係するものとなる。確率の数学的理論がつくられるためには、現実にかかわる probability が、認識にかかわる probability から切り離され、独立して知的に操作可能なものになる環境が必要だった。ハッキングは、フーコーの『言葉と物』を参照して、その環境がいわゆる「古典主義時代」のエピステーメーであることを示唆している。
認識にかかわる probability と現実にかかわる probability 。もう少しわかりやすく表現すれば、主観的な probability と客観的な probability 。日本ではこのふたつはおおまかに「蓋然性」と「確率」に訳しわけられている。だから両者の近さを意識しない。けれども日本人が混乱を免れているわけではない。そのことは、学問を離れて日常的な日本語を使うとき、「かもしれない」ということばに probable と同じ二面性が現れることを考えればわかる。主観的な蓋然性と客観的な確率の混同は、だれもがもつ脳の癖のようなものなのだろう。
ぼくは、蓋然性ではなく確率について考えている哲学者である。ひとは死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。そのように記すとき、ぼくが考えたいのは、自分の死はすでに決まっているが、それがいつのことかわからないといった蓋然性(主観的な心理)が生み出す不安ではない。考えたいのはむしろ、ぼくが死ぬか死なないか、あなたが死ぬか死なないか、それはまだ決まっていないがいつかは確実に決まるはずで、そしてそのときの結果の偏りは数学で記述できてしまうという確率(客観的な現実)が生み出す不安なのだ。
東浩紀
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