観光客の哲学の余白に(5) クレーリーとキットラー|東浩紀

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初出:2017年09月22日刊行『ゲンロンβ17』

 人類は長いあいだ、世界を記録する手段として表象しかもっていなかった。つまり絵や文字しかもっていなかった。それらはすべて人間の手によって制作された。その時代にはすべての顔は「だれかが描いたもの」であり、すべての過去は「だれかが語ったこと」だった。 

 ところが人類は19世紀に、世界を記録するための新しい手段を手に入れた。写真であり蓄音機であり映画である。つまり機械による知覚の記録である。人類はそのときはじめて、だれが描いたものでもない「客観的」な顔や、だれが語ったものでもない「客観的」な過去を手に入れた。少なくともそう信じることができるようになった。そして人類は、そのかわりに、表象の秩序に加えて知覚の秩序にも、言い換えれば、ひとの秩序に加えて機械の秩序にも支配されるようになった。19世紀には生理学と統計学が発達した。人間の発言や行動を機械によって計量し分析し、それを人間の行動の管理へと跳ね返す巨大なフィードバックループが整えられた。フーコーはそれを「生権力」と呼んだ。その力は、20世紀の後半、計算機が普及しネットが登場することでさらに高まることになる。 

 ぼくたちはいま、知覚の秩序の領域がとても広がった時代に生きている。自分の発言や行動が、逐一機械で記録され分析される時代に生きている。そしてその分析は、ときに本人の意識よりも正確に人間の嗜好や欲望をえぐり出す。ぼくたちは、機械が勧めるままに服を選び、機械が勧めるままに音楽を選び、機械が勧めるままに恋人を選び、機械が勧めるままに政党を選び、そしてそれらをすべて自分の自由意志だとカンチガイをし続けるような、そんな時代に生きている。 

 むろん、いまでも表象の秩序=ひとの秩序が消え去ったわけではない。ぼくたちはいまだに、人間の手で制作された作品を楽しみ、人間の手で運営される政治にコミットしている。「だれかが描いたもの」を鑑賞し、「だれかが語ったこと」について論争を繰り広げている。けれどもそれら「人間的」な活動は、いまでは広大なデータの海に浮かぶ小さな島のようなものでしかなくなっているのだ。あなたの感動、あなたの意見、あなたの愛や正義は、もはやなにひとつオリジナルなものではなく、数十億のサンプルのひとつにすぎない。 

 表象の秩序と知覚の秩序の共存体制。これは、21世紀のいま、あらゆる作品や現象を分析するうえで、まずは押さえておくべき前提のように思われる。表象の秩序で制作され消費されている作品を知覚の秩序に照らして分析すること、あるいはその逆という錯誤が、現在の研究や批評には頻繁に見られる。純文学や現代美術の娯楽性や動員数を市場論理で難じても意味がないが、ソーシャルゲームやYoutubeの画面に無理して作家性を見いだすのもまた滑稽である。目のまえの作品や現象が、表象の秩序に属するものなのか知覚の秩序に属するものなのか、分析のまえにまず慎重に見さだめねばならない。 

 

 



 知覚の秩序は19世紀に生まれた。それが本稿の仮説である。とはいえこれだけではあまりに単純な主張である。これから数回をかけて、この骨組みだけの仮説に多少の血肉を加えることにしよう。 
まずは美術史家のジョナサン・クレーリーの仕事を参照したい。彼は19世紀に起きた「視覚」の変動について、たいへん興味深い研究を行っている。 

 美術史では一般に、19世紀末に視覚表現の切断があったと語られることが多い。ルネサンス的で遠近法的で大衆的で、つまりは「リアリズム」に支配されていた視覚表現が、そこで大きく変容し、視覚そのもののありかたを問うような作家たち、たとえばセザンヌのような「モダニズム」の作家を生み出したと語られるのである。 

 けれどもクレーリーは、1990年に出版された『観察者の系譜』(原題は『観察者の技法』)で、その認識は誤りだと主張している。彼によれば、ほんとうに重要な切断は、19世紀末ではなく19世紀はじめに起きている。またその切断は、単純に大衆的なリアリズムと前衛的なモダニズムを分かつものではなく、むしろ、18世紀までのものとは大きく異なった視覚理解を広めることで、19世紀に大衆に普及するリアリズムの視覚芸術──そこには発明されたばかりの写真や映画の起源となったステレオスコープ、幻灯機などなどが含まれる──とのち芸術家が試みるモダニズムの視覚芸術の双方を可能にするような、より深い地殻変動として生じている。クレーリーの考えでは、リアリズムとモダニズムは双子の兄弟なのだ。 

 それでは、19世紀はじめにいったいなにが起きたのだろうか? ひとことで要約すれば、彼がそこで指摘したのは「身体」の発見である。

 クレーリーによれば、18世紀までの視覚論にはじつは身体がなかった。視覚について語るとは、世界と主体、外界と内界の幾何学的な対応関係(表象関係)について語ることにほかならなかった。外界がどのように内界に射影されるか、ひとびとはそのことにのみ関心を抱いていたのであり、だからこそそこでは、視覚論の中心は、カメラ・オブスキュラをモデルとしたじつに抽象的な円錐図でしかなかった。ところが、19世紀以降の視覚論では身体が語られるようになった。網膜や神経の構造について生理学的な知見が蓄積され、残像や錯覚のような現象に注目が集まるようになった。つまりは、視覚とはなによりもまず身体の現象であり、それゆえさまざまな装置によって「騙す」ことも可能だと考えられるようになった。ソーマトロープ、ファナキスティスコープ、ゾートロープ、ステレオスコープ云々といった、19世紀の大衆社会を席巻した(そしてのちベンヤミンが注目した)さまざまな視覚装置がこの発見から生まれ、映画の発明を準備することになった。そしてまた、同じ発見が、ターナーやラスキンやセザンヌを通過し、視覚の自律性に注目するモダニズムを生み出すことにもなった。これが、クレーリーが描く19世紀の視覚史である。 

 クレーリーのこの整理においては、19世紀的なリアリズムと20世紀的なモダニズム、大衆向けの娯楽と前衛作家が生み出す芸術作品を対立させる常識的な見方は、根本的にまちがっていることになる。それらはともに、同じ「身体」の発見のふたつの帰結にすぎない。この主張は多くの美術史家に衝撃を与え、さまざまな議論を引き起こすことになった。 

 

 



 このクレーリーの研究は、本連載の議論にとってじつに大きな示唆を含んでいる。ぼくが知覚の秩序の誕生と呼んでいるもの、それもまた19世紀のできごとであり、写真や映画の発明と関係していたからだ。 

 では、知覚の秩序の誕生、つまり複製可能で計量可能な機械的記録の誕生は、クレーリーが指摘した「身体」の発見とどのような関係にあるのだろうか? ぼくたちはここで、本稿の問題意識を、19世紀を対象としたもうひとつの重要な研究と交差させてみたいと思う。 

 ぼくがここで参照したいのは、メディア研究者のフリードリヒ・キットラーが1985年に出版した『書き込みシステム 1800/1900』および1986年に出版した『グラモフォン・フィルム・タイプライター』である。キットラーはこの2冊で、19世紀のメディア史を独自の観点で整理し、新しい人文学の担い手として広い注目を集めることになった。そして、あまり指摘されないことだが、彼が描く19世紀メディア史は、さきほどまで見てきたクレーリーの19世紀視覚史とちょうど補完的な関係になっている。 

 どういうことか。クレーリーが19世紀のはじめに大きなひとつの切断を見たのに対して、キットラーは19世紀のはじめと末のふたつの切断があると主張している。彼はその時期を1800年と1900年に象徴させた。「1800年」に生じたのは、キットラーによれば、文字(エクリチュール)あるいは文学の覇権の確立である。文字=文学は、この時期に「記号を超える現実」(キットラーはそれを「魂」や「他者」や「自然」や「歴史」といった複数の言葉で表現している)に接続する媒体として特権的な地位を獲得する。現実は記号を超える。文字は現実を不完全にしか描写しない。しかしそれゆえに、人々は、文字の隙間、いわゆる「行間」を読む想像力をこぞって鍛えることになる。それが「1800年」に起きたことであり、近代文学の黄金期がここから生まれる。近代の主体とはなによりもまず文学を読む主体であり、近代の権力とは文学的想像力を管理する権力だった。

 ところが「1900年」に大きく状況が変わる。文字の特権的な地位が崩壊したからである。キットラーによれば、その崩壊はふたつの方向で進んだ。第1に、文字のような不完全な媒体に依存せず、現実の声を現実のまま記録する新しい技術、すなわちグラモフォン(蓄音機)が登場した。また第2に、文字を、固有の書き手による意味のあるテクストではなく、純粋な「記号」として、すなわちデータとして処理する装置、タイプライターが急速に普及した(この装置はのち計算機の発明につながる)。つまり、文字は一方で無用なものとなり、他方ではデータへと還元されることになった。文字の地位のこの崩壊によって、「1800年」のパラダイムは解体され、主体のかたちも権力のかたちも大きく変わる。たとえば文学の黄金期はここで終わる。これが、ごくおおざっぱに要約すれば、キットラーが描いた19世紀から20世紀にかけてのメディア史である。 

 1800年と1900年のふたつの切断を強調するこのメディア史は、いっけんクレーリーの視覚史と無関係、あるいは矛盾するようだが、じつはそうではない。両者は深く関連している。 

 というのも、キットラーの19世紀史は、ふたつの明確な切断に挟まれたひとつの時代を定義するものというより、むしろ、あるメディアの配置(1800年)からべつの配置(1900年)へのゆるやかな推移を描くものとして差し出されている。さきほども述べたように、キットラーの著書の「1900年」はあくまでも象徴的な年号であり、グラモフォンもタイプライターも実際は1900年に現れたわけではない。グラモフォンの発明は1870年代だし、タイプライターにいたっては19世紀前半に特許が取得されている。つまりは、キットラーは19世紀を、「記号を超えた現実」の表現媒体としていちどは文字が勝利したものの、100年をかけて徐々にその勝利が解体されていく、そのような時代として描き出していた。したがって、彼のメディア史はクレーリーの視覚史と整合的である(学説史的に補足すれば、この一致はそもそも両者がともに同じフーコーを下敷きにしているので当然でもある)。クレーリーが視覚史において「身体」の発見と解釈したパラダイムの変化を、キットラーは文学史において「魂」や「他者」の発見として見いだしたわけだ。それは最初は、文字=文学により、すなわちひとの手を経た表象により記録されていた(記録されていることになっていた)が、約1世紀をかけ、20世紀はじめにはその手段は機械による記録にとって替わられた。 

 人類は19世紀に知覚の秩序を手に入れた。クレーリーとキットラーの研究は、それが単に技術的な発展を示すだけではなく、「記号を超えた現実」あるいは「表象を超えた現実」への注目というパラダイム転換と連動した、大きな哲学的事件でもあったことを示している。

 

 以上のように、骨組みだけだった本稿の仮説も、クレーリーやキットラーの研究を導入すると多少は血の通った豊かなものになる。これからもしばらく似た作業を続けていくつもりだが、ここで彼らの仕事を並べて紹介したことには、じつはもうひとつ狙いがある。 

 ぼくはいま、クレーリーとキットラーの研究は統合的に理解可能だと記した。実際そうなのだが、両者の主張にはむろん齟齬もある。 

 そのなかでも重要なのが、写真や映画といった視覚技術あるいは芸術の位置づけである。クレーリーは、それらは19世紀のパラダイム転換(表象から知覚へ)が生み出したものだと考えた。ところがキットラーのメディア史においては、そのようには語られていない。 

 ではどう語られているのか。じつはキットラーは明確な答えを出していない。前述のように、キットラーは『グラモフォン・フィルム・タイプライター』と題された書物を出版している。そのタイトルからは、蓄音機(グラモフォン)と映画(フィルム)とタイプライター、それら3者がひとしく19世紀のパラダイム転換を象徴する技術として分析されるのではないかと期待されるだろう。ところが実際にはそうなっていない。蓄音機とタイプライターの役割については、さきほども説明したようにクリアな議論が立てられている。エクリチュールから蓄音機とタイプライターへの歩み、すなわち「手で記した文字」から機械的な記録とデータへの歩みは、本稿の言葉で言えば表象の秩序から知覚の秩序への歩みを表すものであり、すっきりと理解できる。しかし、ではそのとき映画の誕生はどのような役割を果たしていたのか? キットラーはどうもその問いをごまかしているように見える。『グラモフォン・フィルム・タイプライター』は、タイトルのとおり「グラモフォン」と「フィルム」と「タイプライター」の3つの章から構成されているが、フィルムの章はもっとも短く、またほかのふたつの章ともうまく接続していない。 

 ここにはじつに興味深い問題が現れている。そしてこのキットラーの戸惑い、あるいは言いよどみこそが、ぼくには、本稿の出発点にあった問題、「インターフェイス的主体性」とはなにか、それは近代的=映画的主体性とはどう異なるのかという問いへの新たな入口になるように思われるのだ。次回はここから始めよう。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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