アンビバレント・ヒップホップ(7) ラップ・ジェスチャー論~手は口ほどにモノをいう~(後篇)|吉田雅史

初出:2017年2月10日刊行『ゲンロンβ11』
1. ビートに言葉を置く手つき
前回の連載第6回に続き今回も、ラップをする身体について考察する。その目的は、特にジェスチャーを取り上げ、ラップの言葉との関係性を炙り出すことだった。前回連載では、ケンドリック・ラマーによる、マイクスタンドの利用により自由になる両手を使ったパフォーマンスを参照しつつ、ほとんどのラップのMVに現れるラッパーの手の動き=ジェスチャーについて考察した。MCたちの手の動きは、オーディエンスに対する一方向のコミュニケーションであり、「他者指向性」を持つジェスチャーの一種であると、まずは理解できた。それは具体的な単語や心情を示したり、あるいは言葉を強調する修辞的な意味を持つ。
さらに「他者指向」的であることの意味について考察を進め、そこには受け手の理解による意味の揺らぎが生じるばかりか、そもそも身振り自体が意味に先行して存在し、意味は後から生成されることについても確認した。そしてそのことは、ダブルミーニング(あるいは意味の複数性)が黒人の歴史上果たしてきた役割と密接に関係していた。
しかしそもそも、彼らの全ての身振りが、他者指向的なものなのだろうか。その疑問に答えるため、ケンドリックがHOT 97のファンクマスター・フレックスのラジオ番組の収録でフリースタイルを披露するケース[★1]を見てみたい[★2]。ここでは、ノトーリアス・B.I.G.の「Who Shot Ya?」のビートに合わせ、ケンドリックは右手でビートを刻む。入り組んだフロウに合わせ小刻みに震えるように右手を開いたり閉じたりする様は、言葉ひとつひとつを摘んでは離し、その肌触りを確認しているようだ。右手が収まると頭部の動きが激しくなる。頭部も右手と同様に細かい動きが多く、痙攣するかの如きである。
これはラジオ収録であり、スタジオには自分とスタッフしかいない環境だ。すなわちオーディエンスの視線を前提としないため、自己指向的なジェスチャーが発動していると考えられる。手の動きは全編にわたり継続しており、動きは非常に細かい。そこからは、フリースタイルの場合、明らかに他者を意識しないが、自身がラップをするために必要な手の動きがあるということが見て取れる。
自発的なジェスチャーのカテゴリのひとつに、「ビート(拍子)」と呼ばれるものがある。これは手を小刻みに上下左右に揺らす動きであり、単独で現れる場合も、何らかのイメージをジェスチャーで指し示そうとする表象的ジェスチャー(直示的ジェスチャーと描写ジェスチャー)に寄生する形で現れることもある。しかしその性質の多くはまだ分かっていないという。
まさにフリースタイルにおいて顕現しているのは、この自発的な「ビート」のジェスチャーではないだろうか。先の映像内で披露されている高速なライムは、高速だからこそ、その速度を管理する「ビート」が必要となる。私たちが、他者と一緒に伴奏なしで歌を歌うときに、共有するビートとしての手拍子。そのグリッドとしての手拍子を、ケンドリックの体内で刻まれるビートで翻訳したのが、この高速のジェスチャーなのだ。
しかし「ビート」が提供するのは、このようなリズムに対する「刻み」の機能だけではないように思われる。「刻み」とはすなわち、ビートに対してどこに言葉を置くかを指し示す動きである。これはフリースタイルなのだから、「どこに」言葉を置くかだけでなく、「何を」置くかも瞬時の判断が必要となる。この「何を」置くかの回答を引き出すのに、「ビート」の手の動きが寄与しているとは考えられないだろうか。
心理言語学の研究者である喜多壮太郎はジェスチャーの機能、その自己指向性に焦点を当て、人はジェスチャーで考える、つまり「からだで考える」と指摘している[★3]。狭義のフリースタイルにおいては、トップ・オブ・ザ・ヘッド(=アドリブ)で韻を踏みながら、リアルタイムで「考え」ストーリーテリングを目指す。そのために、自分が発した言葉をしばしの間記憶し、それを未来につないでゆく必要がある。具体的には、ひとつ前の行の最後の言葉の母音を記憶し、まだ口に出していない次の行で脚韻を踏むことのできる言葉の選択肢を脳内で広げ、ひとつを選択する。この「記憶」にも「選択」にも、言葉を置くような、手の動きが伴う。手の動きにより、少しだけ過去を記憶し、少しだけ未来を予兆する。つまり「考える」のだ。いままさに吐き出している言葉の輪郭を、ジェスチャーでなぞり、ある種可視化/物質化する。そして自らへフィードバックし、その後のライムの流れに活かす。「ビート」に代表される手の動きには、そのような効果があるのではないだろうか。
以上のように、MCにとって、言葉を、リズムを伴った音声=フロウとして表出するための装置として、手の動き=ジェスチャーが機能していると考えられる。それは「公共空間」を起源とする「他者指向性」を持つとき、様々なエンブレムとして特定の語句の代替や、あるいは修辞的なものとして言葉に添えられる。ただし、それが指す意味は受け手によって事後的に決定されることから、身振りそのものには意味がなく、だからこそ、その意味がないものに意味が付与される過程こそが重要なのだと理解できる。一方で「自己指向性」を持つときは、それは「ビート」を刻むためのツールとしてだけでなく、「からだで考える」ための思考のツールとして用いられる。これはレコーディングやライブ、そして何よりもフリースタイル時に機能するものである。
ラップの身体的側面を考えるうえで次に見ておきたいのは、フロウを付与される以前、テクストとしての言葉=リリックが生み出される際の装置についてである。装置としてのジェスチャー、たとえば手の動きは、文字通り身体そのものの機能のひとつだったが、リリックを生み出す装置は身体を取り巻く環境の一部だ。その装置とは何だろうか。
ブッダ・ブランドのNIPPSがかつて、陣野俊史によるインタビューで、興味深い発言をしている[★4]。日本でリリックが書きにくい理由を、大きな机がないことに求めているのだ。
心理言語学の研究者である喜多壮太郎はジェスチャーの機能、その自己指向性に焦点を当て、人はジェスチャーで考える、つまり「からだで考える」と指摘している[★3]。狭義のフリースタイルにおいては、トップ・オブ・ザ・ヘッド(=アドリブ)で韻を踏みながら、リアルタイムで「考え」ストーリーテリングを目指す。そのために、自分が発した言葉をしばしの間記憶し、それを未来につないでゆく必要がある。具体的には、ひとつ前の行の最後の言葉の母音を記憶し、まだ口に出していない次の行で脚韻を踏むことのできる言葉の選択肢を脳内で広げ、ひとつを選択する。この「記憶」にも「選択」にも、言葉を置くような、手の動きが伴う。手の動きにより、少しだけ過去を記憶し、少しだけ未来を予兆する。つまり「考える」のだ。いままさに吐き出している言葉の輪郭を、ジェスチャーでなぞり、ある種可視化/物質化する。そして自らへフィードバックし、その後のライムの流れに活かす。「ビート」に代表される手の動きには、そのような効果があるのではないだろうか。
以上のように、MCにとって、言葉を、リズムを伴った音声=フロウとして表出するための装置として、手の動き=ジェスチャーが機能していると考えられる。それは「公共空間」を起源とする「他者指向性」を持つとき、様々なエンブレムとして特定の語句の代替や、あるいは修辞的なものとして言葉に添えられる。ただし、それが指す意味は受け手によって事後的に決定されることから、身振りそのものには意味がなく、だからこそ、その意味がないものに意味が付与される過程こそが重要なのだと理解できる。一方で「自己指向性」を持つときは、それは「ビート」を刻むためのツールとしてだけでなく、「からだで考える」ための思考のツールとして用いられる。これはレコーディングやライブ、そして何よりもフリースタイル時に機能するものである。
2. リリックが生まれる平面
ラップの身体的側面を考えるうえで次に見ておきたいのは、フロウを付与される以前、テクストとしての言葉=リリックが生み出される際の装置についてである。装置としてのジェスチャー、たとえば手の動きは、文字通り身体そのものの機能のひとつだったが、リリックを生み出す装置は身体を取り巻く環境の一部だ。その装置とは何だろうか。
ブッダ・ブランドのNIPPSがかつて、陣野俊史によるインタビューで、興味深い発言をしている[★4]。日本でリリックが書きにくい理由を、大きな机がないことに求めているのだ。
「なかなか思うように進まなくて。僕の言い訳としては、部屋が狭いとか、要するにテーブルの上がモノでごちゃごちゃで、テーブルの上が使えない、とか」[★5]
陣野は当時、カリフォルニア在住のバイリンガルMCであるShing02も同様の発言をしていたことを指摘している。つまり「空間の余裕」が生み出す「発想の豊かさ」があるというのだ。
その突拍子もない発言の数々から「イル」や天然と目されることの多いNIPPS[★6]。彼のリリックは、日本語と英語を並列に配置し、一見意味のつながらない様々な語句を連結させる。その語彙も、ヒップホップマナーに沿ったフレーズから、一般的にはラップには用いられないような日常的な単語を挿入するなど非常に幅広い。その落差の大きいラインたちは、直線的な物語性を持たず、一行一行をそれぞれ独立した規定の小節分にまとめてひとつの楽曲のリリックとするような所作に貫かれている。そのような意味で、NIPPSの楽曲群の全ての一行一行は交換可能であると言える。実際に、複数の楽曲に跨がって現れるパンチラインも多く、どの楽曲のリリックにも彼特有の刻印が押されている[★7]。彼が自ら言及しているように、単にイルな一行を並べるだけで、イルなリリックは出来上がる。それはシンプルなことだ。
意味に連続性のない英語と日本語の語句を、広い机に並べる。そしてどの組み合わせが一番イルに響くか検証する。それは、広いワーキングスペースの上で行うべき作業である。別の言い方をすれば、大きなワーキング「メモリ」が必要な作業である。つまり言葉の組み合わせを試す際に用いる「大きな」サイズのノートや、アイデアを書きとめた紙片を並べる「大きな」机を持つこととは、大きな「メモリ」を持つことを意味する。かつてロートレアモンは「手術台の上の蝙蝠傘とミシンの出会い」と述べた。シュルレアリスティックな言葉の組み合わせは、「広い」手術台の上でこそ実現するのだ。さらに言えば、脳内のワーキングスペースに言葉を配置し、そのような作業をする際に、目の前に物理的に十分な広さの机があり、十分な広さの空間があることが、作業の効率やアウトプットに影響を与えるのだ。
さらにはMCたちの「メモリ」の活用については、また別の特異な例にも着目しておきたい。たとえばノトーリアス・B.I.G.は、決してリリックをノートに書きつけることがなかったと言われている。スタジオで延々と流れるビートに耳を傾ける。そして時がやって来ると突然レコーディングブースに入り、一発でレコーディングを済ませたという。頭の中であらゆる言葉の組み合わせを試し、正解を導き出す。彼は「Warning」のPVに現れる高級ホテルのようなラグジュアリーで大きな寝室や書斎、「Hypnotize」のPVでクルージングするカリブ海の海面のように、広大な脳内のワーキングスペースを保持していたのだ。
しかしこのワーキングスペースの使い方、あるいは能力は、前述のNIPPSのケースとは別物である。たとえば5分間分のヴァースをメモ帳などの外部の記憶領域に頼ることなく、頭の中だけで冒頭から構築する場合を想像してみよう。一行一行少しずつ、頭の中に生起するラインを積み重ねてゆく。何度でも冒頭に戻り、一行ずつ付け足した最新版を反芻する。ここで必要となるメモリの種類は、リニアな時間にまつわるものである。端的に言えば、頭の中で行われる時系列のラインの構築力と、その記憶力ということになる。この場合のワーキングスペースには「一画面の広さ」よりも記憶可能な「トータルの容量」が求められる。一般的にメモリと言えばRAMを指すが、前者のNIPPSの特性は豊かなRAMに、後者のノトーリアス・B.I.G.の特性は豊富なROMに例えられよう。
映像編集の世界には、リニア編集、ノンリニア編集という区分がある。伝統的なリニア編集に対して、技術革新により90年代以降、急速に普及したのがノンリニア編集の手法だ。かつてはビデオテープをコピーしたり切り貼りするリニア編集が映像編集の手法だったが、映像をデータとして扱えるようになってからはPCの編集ソフトを用いたノンリニア編集が可能となった。これは音楽の領域でも同じであり、データで扱えるDAWの登場により、私たちは本来リニアな音楽を仮想的に画面上で目で見える波形に落とし込み、それらをパズルのピースのように自由にノンリニアなものとして扱えるようになったのだ。
直線上に進む時間を示すリニアに対置されるのはノンリニア=非直線的であるが、これは言い換えれば面的/空間的と言ってもよいかもしれない。先ほどのMCたちの例で言えば、リニアなリリック構築の能力に特化していたノトーリアス・B.I.G.と比較し、NIPPSはノンリニアなリリック生成の特質を持っていたと言えるだろう。勿論、全てのMCたちがリニア/ノンリニアのどちらかに帰属するということではなく、あくまでも両者の比率がそのMCの個性のひとつを形作っているというわけだ。
ところで、ノトーリアス・B.I.G.の特殊な例を除けば、ラップのリリックは、ノートやメモ帳に書きつけられるのが定番だった。メモ帳は英語で「a pad of paper」と表現されることがあるが、たとえばア・トライブ・コールド・クエストの「Pad & Pen」[★8]のように単に「パッド」と呼ばれることもある。しかし現在「パッド」と言えば、それはiPadのようなタブレットを意味するだろう。いまのMCたちがリリックのメモを取るのは、言わずもがなスマホである。KOHHなどの例に見られるように「iPhone」がリリックに登場することも多い。
これらのスマホの狭い画面でリリックを入力する場合、当然ながら画面に表示される総文字数には限界がある。それはスマホのモデルや文字の大きさに依存するものの、基本的には書き終えたリリックは画面外へ次々と流れ去ってゆく。いま書いているものだけが表示される画面においては、リリックの前後のつながりや大局が掴み辛い。必然的に生まれてくる言葉にも影響が現れる。たとえばワンテーマでシンプルな言葉遣いが増え、さらにそれが加速すればリリックの記号化のような現象にもつながるだろう。
自分の頭の中で生まれる言葉を、どのように記録するか。これは小説家たちが常に向き合っている事象でもある。手書きからタイプライター、PC、そしてスマホへ。たとえば作家の山下澄人は、iPhoneを使って小説を執筆している。あらかじめストーリーを考えておくことはせず、その場で湧き上がるイメージを書き留めてゆく。飽きてしまわないよう、意外な展開を呼び込むという。自分を常に裏切るように、自分自身にホラを吹くつもりで、書く。過去に過ぎ去った部分を、読み返すことは原則ないという[★9]。そのような書き方が可能となるのも、いま目の前に見えている画面には、過去が表示されないからではないだろうか。現在進行形の文章によって、常に少しだけ過去の文章の痕跡から自由でいて、それを裏切ること。
ここにも、フリースタイル的な書き方を採る最近のリリックの特徴との類似がある。少しだけ過去、つまり前の行の語尾と韻を踏む言葉をリアルタイムに近い形で選択してゆくことは、ひと続きの物語として続くリリックに、裏切りを取り込むことだ。韻だけは踏んでいるがその内実は全く関連性のない単語に誘引される、連続性のない、予想不能なフレーズやイメージ。さらに言えば、山下の小説がそうであるように、従来の起承転結に沿うことのない物語は、どのタイミングで裏切りをもたらす一文が導入されるかも予測不能である。最後の一行まで継続する緊張感。ワーキングスペースが貧しいことによる効用が、ここにはあるのだ。
直線上に進む時間を示すリニアに対置されるのはノンリニア=非直線的であるが、これは言い換えれば面的/空間的と言ってもよいかもしれない。先ほどのMCたちの例で言えば、リニアなリリック構築の能力に特化していたノトーリアス・B.I.G.と比較し、NIPPSはノンリニアなリリック生成の特質を持っていたと言えるだろう。勿論、全てのMCたちがリニア/ノンリニアのどちらかに帰属するということではなく、あくまでも両者の比率がそのMCの個性のひとつを形作っているというわけだ。
ところで、ノトーリアス・B.I.G.の特殊な例を除けば、ラップのリリックは、ノートやメモ帳に書きつけられるのが定番だった。メモ帳は英語で「a pad of paper」と表現されることがあるが、たとえばア・トライブ・コールド・クエストの「Pad & Pen」[★8]のように単に「パッド」と呼ばれることもある。しかし現在「パッド」と言えば、それはiPadのようなタブレットを意味するだろう。いまのMCたちがリリックのメモを取るのは、言わずもがなスマホである。KOHHなどの例に見られるように「iPhone」がリリックに登場することも多い。
これらのスマホの狭い画面でリリックを入力する場合、当然ながら画面に表示される総文字数には限界がある。それはスマホのモデルや文字の大きさに依存するものの、基本的には書き終えたリリックは画面外へ次々と流れ去ってゆく。いま書いているものだけが表示される画面においては、リリックの前後のつながりや大局が掴み辛い。必然的に生まれてくる言葉にも影響が現れる。たとえばワンテーマでシンプルな言葉遣いが増え、さらにそれが加速すればリリックの記号化のような現象にもつながるだろう。
自分の頭の中で生まれる言葉を、どのように記録するか。これは小説家たちが常に向き合っている事象でもある。手書きからタイプライター、PC、そしてスマホへ。たとえば作家の山下澄人は、iPhoneを使って小説を執筆している。あらかじめストーリーを考えておくことはせず、その場で湧き上がるイメージを書き留めてゆく。飽きてしまわないよう、意外な展開を呼び込むという。自分を常に裏切るように、自分自身にホラを吹くつもりで、書く。過去に過ぎ去った部分を、読み返すことは原則ないという[★9]。そのような書き方が可能となるのも、いま目の前に見えている画面には、過去が表示されないからではないだろうか。現在進行形の文章によって、常に少しだけ過去の文章の痕跡から自由でいて、それを裏切ること。
ここにも、フリースタイル的な書き方を採る最近のリリックの特徴との類似がある。少しだけ過去、つまり前の行の語尾と韻を踏む言葉をリアルタイムに近い形で選択してゆくことは、ひと続きの物語として続くリリックに、裏切りを取り込むことだ。韻だけは踏んでいるがその内実は全く関連性のない単語に誘引される、連続性のない、予想不能なフレーズやイメージ。さらに言えば、山下の小説がそうであるように、従来の起承転結に沿うことのない物語は、どのタイミングで裏切りをもたらす一文が導入されるかも予測不能である。最後の一行まで継続する緊張感。ワーキングスペースが貧しいことによる効用が、ここにはあるのだ。
3. からだで考えるために
本論においては、リリックの誕生に際して、ジェスチャーとワーキングスペースという鍵となるふたつのツールに着目した。リリックは、フリースタイルに代表されるように、MCの頭の中から直接ラップの形で発語される。そのような音声としてのライムの誕生に際しては、ジェスチャーが重要な役割を担う。ジェスチャーの機能を考えるうえでは、他者指向性と自己指向性の分類を考慮する必要があるが、ラップにおいて前者は一般的なジェスチャーと同様、言葉の代替としてのエンブレムの役割を負っていた。後者の自己指向性のジェスチャーには、たとえばビートと呼ばれるものが観察されるが、特にフリースタイルの際にはライムを生み出すためにこれが用いられている可能性について考察した。
一方、テクストとしてのリリックの誕生にあたっては、MCが活用するワーキングスペースが鍵となっていた。ワーキングスペースには、リニアにライムを構築し記憶することに向くものと、ノンリニアにライムを並列し組み合わせることに向くものとがある。これらの組み合わせやバランスが、MCたちの個性を形作っている。そして具体的にはその個性が、リリックを書く際に利用するiPhoneのようなツール/環境に大きく左右されている可能性について考察した。たとえばiPhoneの狭い画面=ワーキングスペースには、その狭さ故に得られる効果もある。
最後に見ておきたいのは、これらふたつのツール、すなわちジェスチャーとワーキングスペースの関係性である。音声としてのラップの言葉と、テクストとしてのそれの誕生に際して、両者はどのような関係を切り結んでいるのだろうか。
まずはテクストとして書きつけられた言葉を想像してみよう。ラップではない言葉。次にその言葉を朗読する様を想像する。すると、そこには必然的にリズムや抑揚、音程=パラ言語が発生する。これらパラ言語の匙加減次第で、この言葉は、所謂私たちがラップだと認識するものに近づくだろう。そしてそのときにこそ、そこにはジェスチャーが召喚される。目の前の空間を手の動きで区切ることで、時間を区切る。この見えざるグリッドを生み出し、言葉をリズム上に配置するのが、ジェスチャーの役割だ。
それではテクストと音声の両方が同時に生成されるフリースタイルの場合はどうだろうか。一行前のライムを踏まえ、次の一行を指向するとき、頭の中に思い浮かんだテクストとしての言葉は、次の瞬間には音声として出力される。そのときMCの頭の中で起きている経験を言葉で記述しようとするならば、次のようになるだろう。(1)一行前の語尾と韻を踏む言葉の一覧が、脳裏に表示される。(2)その中から、いまリアルタイムで口から出ている言葉とつながりそうな一語を選択する。(3)その選択した一語と、いまリアルタイムで口から出ている言葉を、一行前の文の意味を踏まえ、可能な限り意味が通る言葉で接続する。この(1)において脳裏に言葉の選択肢が表示されるフィールドは、まさにノンリニアなワーキングスペースである。フリースタイルの場合、リアルタイムであるが故にリニア性が強調されるが、実は時間を十分にかけてリリックを書く場合も、一語一語が選択されてリズムに乗せられる過程は同じである。何度でも繰り返すことのできるトライアンドエラーの上に成り立っているかどうかの違いに過ぎないのだ。
つまりテクストとしての言葉を、音声としての言葉へ変換する役割を、ジェスチャーが担っているとは言えないか。ジェスチャーとは、ノンリニアに言葉の選択肢が無限に広がる世界=ワークングスペースから、特定の言葉を掴み取り、それをリズム=ビート上にリニアに落とし込むツールである。MCたちは、ジェスチャーを用いて「からだで考えている」のだ。
ケンドリックは、自身のリリックの書き方について、インタビューに応じている[★10]。そのプロセスはそのときどきのフィーリングによって左右されるものの、ファーストアルバムの制作時には、スタジオのブースに入ると、メモ帳に書きつけられたリリックの世界だけに閉じてしまうことを避けようとしたと言及している。そこで、テーブルに腰を降ろし、そこら中に散らばる何枚ものナプキンや紙片に書かれた言葉を並べ、それらに通底するアイデアをまとめたという。過去に書きつけられたリリックの断片を、それが記された時間を超えて、ノンリニアな平面に並列させる。そしてその平面を貫通する言葉の群れを掴み取ろうとするとき、自然と手や頭の身体表現が伴う。言葉を身体表現=からだで掴み取り、リニアなビートに乗せる。
このような、言葉をノンリニアな平面からリニアな時間へ変換するケンドリックの書き方そのものが、両手を自由にしてまでも彼が拘ったジェスチャーの効用と符号していたのだ。
ラップの言葉を発することは、あくまでもリニアな時間軸に沿った行為である。この時間芸術は、時間に縛られる。しかし、ケンドリックのリリックは、紙の上に閉じ込められない。彼の曲作りの仕方は、常にその楽曲の内側に限定されず、外側への視線に溢れている。リリックの一部は曲間を跨ぎ、アルバムを跨ぎ、共有される。さらにコンセプチュアルな軸に沿って制作されるアルバムは、アフロアメリカンの抑圧された歴史を跨ぎ、ブラックミュージックの歴史をも跨ぐ。
MCたちの言葉とジェスチャーによる試みを通じて、時間芸術がこのように時間を超え出る様を、私たちは目撃している。ラップが拡張する地平は、いまだ限界を持たないようだ。
■
ケンドリックは、自身のリリックの書き方について、インタビューに応じている[★10]。そのプロセスはそのときどきのフィーリングによって左右されるものの、ファーストアルバムの制作時には、スタジオのブースに入ると、メモ帳に書きつけられたリリックの世界だけに閉じてしまうことを避けようとしたと言及している。そこで、テーブルに腰を降ろし、そこら中に散らばる何枚ものナプキンや紙片に書かれた言葉を並べ、それらに通底するアイデアをまとめたという。過去に書きつけられたリリックの断片を、それが記された時間を超えて、ノンリニアな平面に並列させる。そしてその平面を貫通する言葉の群れを掴み取ろうとするとき、自然と手や頭の身体表現が伴う。言葉を身体表現=からだで掴み取り、リニアなビートに乗せる。
このような、言葉をノンリニアな平面からリニアな時間へ変換するケンドリックの書き方そのものが、両手を自由にしてまでも彼が拘ったジェスチャーの効用と符号していたのだ。
ラップの言葉を発することは、あくまでもリニアな時間軸に沿った行為である。この時間芸術は、時間に縛られる。しかし、ケンドリックのリリックは、紙の上に閉じ込められない。彼の曲作りの仕方は、常にその楽曲の内側に限定されず、外側への視線に溢れている。リリックの一部は曲間を跨ぎ、アルバムを跨ぎ、共有される。さらにコンセプチュアルな軸に沿って制作されるアルバムは、アフロアメリカンの抑圧された歴史を跨ぎ、ブラックミュージックの歴史をも跨ぐ。
MCたちの言葉とジェスチャーによる試みを通じて、時間芸術がこのように時間を超え出る様を、私たちは目撃している。ラップが拡張する地平は、いまだ限界を持たないようだ。
★1 URL=https://www.youtube.com/watch?v=nWSo-Yb-mZQ
★2 フリースタイルという語には、いくつか意味がある。狭義のそれは、トップ・オブ・ザ・ヘッドと呼ばれる、アドリブで韻を踏みながらライムを披露することで、おそらく現在流通しているのはこちらの意味だろう。一方で、かつては何でも自由なトピックでラップすること、つまり自由なスタイルを意味していた。その意味で、持ちネタを自由に披露することもフリースタイルと呼ばれ、アドリブだけに制限されるものではない。ここでのケンドリックのフリースタイルは、トップ・オブ・ザ・ヘッドではなく持ちネタも含まれていると思われる。しかしあらかじめ記憶したヴァースを披露する場合も、ビートはその場で選択されたものであり(ラジオでのフリースタイルの場合はクラシックとされている曲のビートが使用されるケースが多い)、普段そのヴァースを披露しているのとは異なるBPMやピッチ、グルーヴが要求される。その意味で広義のセッションであり、やはりその場でアドリブでそれらの調整を行う必要がある。
★3 喜多壮太郎『ジェスチャー 考えるからだ』、金子書房、2002年、9頁。
★4 NIPPSの発言は全て興味深いことをここに付言しておきたい。
★5 陣野俊史『ヒップホップ・ジャパン』、河出書房新社、2003年、89頁。
★6 形容詞の中には「ヤバい」のように、語義通りのネガティブな意味だけでなく「スゴい」というポジティブな意味に反転して使用されるものがある。ヒップホップの世界においてはこれが顕著であり、「dope」「sick」「ill」のようなネガティブな形容詞がポジティブな意味で使われる。「イル」はNIPPSが属するブッダ・ブランドが広めた表現であり、「病的」にカッコいい様を示す。しかしこれは従来「ヤバい」にあたる「ドープ」とは少しニュアンスが異なることに留意しておきたい。「イル」はシリアスさをユーモアに転じるほど極端な様である。「ドープ」はシリアスネスのみで成立するが、「イル」は笑いの要素を匿っている。
★7 「緑の五本指」「知ったふりしろ」など。
★8 1998年にリリースされた5thアルバム『Love Movement』に収録。
★9 山下澄人と佐々木敦により2015年9月3日に行われた『鳥の会議』刊行記念のトークイベントより (URL=http://www.nicovideo.jp/watch/1442214134)
★10 URL=http://2dopeboyz.com/2013/10/23/kendrick-lamar-control-fame-xxl/


吉田雅史
1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
アンビバレント・ヒップホップ
- ヒップホップを/が生きるということ(後)
- ヒップホップを/が生きるということ(中)
- ヒップホップを/が生きるということ(前)
- おしゃべりラップ論
- アンビバレント・ヒップホップ(20) 筆記体でラップする 〜マンブル・ラップ論〜|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(19)変声を夢見ること──ヴォコーダーからオートチューンへ|吉田雅史
- ラップとしゃべりを分かつもの
- 『Act Like You Know… ―演じる声に耳をすますこと―』
- アンビバレント・ヒップホップ(16)『ギャングスタ・ラッパーは筋肉の夢を見るか?』|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(15) 変身するラッパーの身体を演じよ!|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(14)無名の群衆 vs.ラップヒーロー|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(13)RAP, LIP and CLIP──ヒップホップMVの物語論(後篇)|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(12)RAP, LIP and CLIP──ヒップホップMVの物語論(中篇)|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(11) RAP, LIP and CLIP──ヒップホップMVの物語論(前篇)|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(10) 訛りのある眼差し──日本語ラップ風景論|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(9) 抒情ガ棲ミツク国ノ詩|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(番外篇)「後ろめたさ」のフロウ──鬼と小名浜の距離|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(8)ねじれた自意識、ラップの生き死に|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(7) ラップ・ジェスチャー論~手は口ほどにモノをいう~(後篇)|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(6) ラップ・ジェスチャー論~手は口ほどにモノをいう~(前篇)|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(5) この街に舞い降りた天使たちの羽根はノイズの粒子でできている|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(4)サウンドトラック・フォー・トリッパー|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(3) 誰がためにビートは鳴る|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(2) ズレる/ズラす人間、機械、そしてサイボーグ|吉田雅史
- アンビバレント・ヒップホップ(1) 反復するビートに人は何を見るか|吉田雅史