アンビバレント・ヒップホップ(7) ラップ・ジェスチャー論~手は口ほどにモノをいう~(後篇)|吉田雅史
初出:2017年2月10日刊行『ゲンロンβ11』
1. ビートに言葉を置く手つき
前回の連載第6回に続き今回も、ラップをする身体について考察する。その目的は、特にジェスチャーを取り上げ、ラップの言葉との関係性を炙り出すことだった。前回連載では、ケンドリック・ラマーによる、マイクスタンドの利用により自由になる両手を使ったパフォーマンスを参照しつつ、ほとんどのラップのMVに現れるラッパーの手の動き=ジェスチャーについて考察した。MCたちの手の動きは、オーディエンスに対する一方向のコミュニケーションであり、「他者指向性」を持つジェスチャーの一種であると、まずは理解できた。それは具体的な単語や心情を示したり、あるいは言葉を強調する修辞的な意味を持つ。
さらに「他者指向」的であることの意味について考察を進め、そこには受け手の理解による意味の揺らぎが生じるばかりか、そもそも身振り自体が意味に先行して存在し、意味は後から生成されることについても確認した。そしてそのことは、ダブルミーニング(あるいは意味の複数性)が黒人の歴史上果たしてきた役割と密接に関係していた。
しかしそもそも、彼らの全ての身振りが、他者指向的なものなのだろうか。その疑問に答えるため、ケンドリックがHOT 97のファンクマスター・フレックスのラジオ番組の収録でフリースタイルを披露するケース[★1]を見てみたい[★2]。ここでは、ノトーリアス・B.I.G.の「Who Shot Ya?」のビートに合わせ、ケンドリックは右手でビートを刻む。入り組んだフロウに合わせ小刻みに震えるように右手を開いたり閉じたりする様は、言葉ひとつひとつを摘んでは離し、その肌触りを確認しているようだ。右手が収まると頭部の動きが激しくなる。頭部も右手と同様に細かい動きが多く、痙攣するかの如きである。
これはラジオ収録であり、スタジオには自分とスタッフしかいない環境だ。すなわちオーディエンスの視線を前提としないため、自己指向的なジェスチャーが発動していると考えられる。手の動きは全編にわたり継続しており、動きは非常に細かい。そこからは、フリースタイルの場合、明らかに他者を意識しないが、自身がラップをするために必要な手の動きがあるということが見て取れる。
自発的なジェスチャーのカテゴリのひとつに、「ビート(拍子)」と呼ばれるものがある。これは手を小刻みに上下左右に揺らす動きであり、単独で現れる場合も、何らかのイメージをジェスチャーで指し示そうとする表象的ジェスチャー(直示的ジェスチャーと描写ジェスチャー)に寄生する形で現れることもある。しかしその性質の多くはまだ分かっていないという。
まさにフリースタイルにおいて顕現しているのは、この自発的な「ビート」のジェスチャーではないだろうか。先の映像内で披露されている高速なライムは、高速だからこそ、その速度を管理する「ビート」が必要となる。私たちが、他者と一緒に伴奏なしで歌を歌うときに、共有するビートとしての手拍子。そのグリッドとしての手拍子を、ケンドリックの体内で刻まれるビートで翻訳したのが、この高速のジェスチャーなのだ。
しかし「ビート」が提供するのは、このようなリズムに対する「刻み」の機能だけではないように思われる。「刻み」とはすなわち、ビートに対してどこに言葉を置くかを指し示す動きである。これはフリースタイルなのだから、「どこに」言葉を置くかだけでなく、「何を」置くかも瞬時の判断が必要となる。この「何を」置くかの回答を引き出すのに、「ビート」の手の動きが寄与しているとは考えられないだろうか。
心理言語学の研究者である喜多壮太郎はジェスチャーの機能、その自己指向性に焦点を当て、人はジェスチャーで考える、つまり「からだで考える」と指摘している[★3]。狭義のフリースタイルにおいては、トップ・オブ・ザ・ヘッド(=アドリブ)で韻を踏みながら、リアルタイムで「考え」ストーリーテリングを目指す。そのために、自分が発した言葉をしばしの間記憶し、それを未来につないでゆく必要がある。具体的には、ひとつ前の行の最後の言葉の母音を記憶し、まだ口に出していない次の行で脚韻を踏むことのできる言葉の選択肢を脳内で広げ、ひとつを選択する。この「記憶」にも「選択」にも、言葉を置くような、手の動きが伴う。手の動きにより、少しだけ過去を記憶し、少しだけ未来を予兆する。つまり「考える」のだ。いままさに吐き出している言葉の輪郭を、ジェスチャーでなぞり、ある種可視化/物質化する。そして自らへフィードバックし、その後のライムの流れに活かす。「ビート」に代表される手の動きには、そのような効果があるのではないだろうか。
以上のように、MCにとって、言葉を、リズムを伴った音声=フロウとして表出するための装置として、手の動き=ジェスチャーが機能していると考えられる。それは「公共空間」を起源とする「他者指向性」を持つとき、様々なエンブレムとして特定の語句の代替や、あるいは修辞的なものとして言葉に添えられる。ただし、それが指す意味は受け手によって事後的に決定されることから、身振りそのものには意味がなく、だからこそ、その意味がないものに意味が付与される過程こそが重要なのだと理解できる。一方で「自己指向性」を持つときは、それは「ビート」を刻むためのツールとしてだけでなく、「からだで考える」ための思考のツールとして用いられる。これはレコーディングやライブ、そして何よりもフリースタイル時に機能するものである。
ラップの身体的側面を考えるうえで次に見ておきたいのは、フロウを付与される以前、テクストとしての言葉=リリックが生み出される際の装置についてである。装置としてのジェスチャー、たとえば手の動きは、文字通り身体そのものの機能のひとつだったが、リリックを生み出す装置は身体を取り巻く環境の一部だ。その装置とは何だろうか。
ブッダ・ブランドのNIPPSがかつて、陣野俊史によるインタビューで、興味深い発言をしている[★4]。日本でリリックが書きにくい理由を、大きな机がないことに求めているのだ。
心理言語学の研究者である喜多壮太郎はジェスチャーの機能、その自己指向性に焦点を当て、人はジェスチャーで考える、つまり「からだで考える」と指摘している[★3]。狭義のフリースタイルにおいては、トップ・オブ・ザ・ヘッド(=アドリブ)で韻を踏みながら、リアルタイムで「考え」ストーリーテリングを目指す。そのために、自分が発した言葉をしばしの間記憶し、それを未来につないでゆく必要がある。具体的には、ひとつ前の行の最後の言葉の母音を記憶し、まだ口に出していない次の行で脚韻を踏むことのできる言葉の選択肢を脳内で広げ、ひとつを選択する。この「記憶」にも「選択」にも、言葉を置くような、手の動きが伴う。手の動きにより、少しだけ過去を記憶し、少しだけ未来を予兆する。つまり「考える」のだ。いままさに吐き出している言葉の輪郭を、ジェスチャーでなぞり、ある種可視化/物質化する。そして自らへフィードバックし、その後のライムの流れに活かす。「ビート」に代表される手の動きには、そのような効果があるのではないだろうか。
以上のように、MCにとって、言葉を、リズムを伴った音声=フロウとして表出するための装置として、手の動き=ジェスチャーが機能していると考えられる。それは「公共空間」を起源とする「他者指向性」を持つとき、様々なエンブレムとして特定の語句の代替や、あるいは修辞的なものとして言葉に添えられる。ただし、それが指す意味は受け手によって事後的に決定されることから、身振りそのものには意味がなく、だからこそ、その意味がないものに意味が付与される過程こそが重要なのだと理解できる。一方で「自己指向性」を持つときは、それは「ビート」を刻むためのツールとしてだけでなく、「からだで考える」ための思考のツールとして用いられる。これはレコーディングやライブ、そして何よりもフリースタイル時に機能するものである。
2. リリックが生まれる平面
ラップの身体的側面を考えるうえで次に見ておきたいのは、フロウを付与される以前、テクストとしての言葉=リリックが生み出される際の装置についてである。装置としてのジェスチャー、たとえば手の動きは、文字通り身体そのものの機能のひとつだったが、リリックを生み出す装置は身体を取り巻く環境の一部だ。その装置とは何だろうか。
ブッダ・ブランドのNIPPSがかつて、陣野俊史によるインタビューで、興味深い発言をしている[★4]。日本でリリックが書きにくい理由を、大きな机がないことに求めているのだ。
吉田雅史
1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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