アンビバレント・ヒップホップ(2) ズレる/ズラす人間、機械、そしてサイボーグ|吉田雅史
初出:2016年05月13日刊行『ゲンロンβ2』
1. 黒いグルーブを打つこと
そうだ。私に聞こえるものは、打っているものだ。身体の中で打っているものが、そして、身体を打っているものが、私には聞える。もっと適切にいえば、打っているこの身体が聞えるのだ。
打つ音の悦楽的な反復。これこそが、繰り返し歌われる歌の起源であろう。
(ロラン・バルト「ラッシュ」)[★1]
キックが打つ。スネアが打つ。ビートが打つ。ビートにノル。ビートのグルーブ。首を振る。ここで首を振るというとき、ロックやメタルにおけるヘッドバンギングを想像するなかれ。いや、勿論ヒップホップにも縦ノリは存在するし、縦ノリの楽曲にはヘッドバンギングはフィットする。縦ノリとは「下」でリズムを取るビートと言ってみよう。つまり4分の4拍子の場合のそれぞれの拍(1~4拍目)において、体の重心が下がり、振っている頭の位置が地面に一番近くなるようなノリ方である。
一方、「上」でリズムを取るとは、それぞれの拍で、振っている頭が地面から一番遠くなる(空に近くなる)ようなビートへのノリ方だ。「上」のリズムのノリ方は、数々のヒップホップのミュージックビデオで確認することができる(Pusha T「Numbers On The Boards」やMethod Man feat. Mary J. Blige「I'll Be There For You / You're All I Need To Get By」など)。そして三宅唱監督の『THE COCKPIT』(2014年)で、主演のOMSB(オムスビ)がビートにノル際の首の振り方を見てみれば良く分かる。アフロアメリカンにはデフォルトでインストールされているノリ。これが所謂「黒いノリ=グルーブ」の源泉の1つであろう。ここで留意しておきたいのは、この「上」のリズムの取り方は、「後ノリ」とも言われるように、少し遅れ気味な「ズレ」を孕んでいるように見えることだ。ジャストのタイミングから後ろに引き摺られるように。あるいは「音を噛みしめる」ように。
アメリカで成功を収めた日本人ダンサーのトニーティーこと七類誠一郎は、ダンスにおけるこの黒いノリを体系化し、『黒人リズム感の秘密』(1999年)に纏めている。彼は体幹によるビートの取り方とダンスを言語化しようと試みている。首や四肢が体幹に接続され、拍に対してジャストのタイミングで動くのではなく、互いに干渉し合う大きな波となる。その接続を彼は「インターロック」と呼ぶが、インターロックで結ばれた身体の各部間にはある種の「ズレ」が生まれ、それがダンスにおいてもグルーブとなる。トニーティーは、自身のリズム感覚について「私の場合、首の中にある装置が備わっているようである。首の中というより後頭部の下の方と首がくっついているあたりだろうか。[中略]私はこの装置を『絶対ビート』だと思っている。私の知る黒人の殆どがこれを感じている」と述べている[★2]。これは冒頭のバルトの文章を文字通りに取れば「身体の中で打っているもの」そのものではないか[★3]。
身体の中で「打つもの」が頭頂部に、あるいは四肢に伝わる際に「ズレ」は生まれる。本連載第1回から人力と機械の対立、マン・マシーンについての議論を引き継いでいる私たちは、ここであるイメージを想像するかも知れない。つまり頭と体、そして四肢をジョイントで接続されたマリオネットのようなマシーンの姿を。マシーンの首の付け根に埋め込まれた動力からの信号が、頭頂部や手足の先に達するのに必要な時間が「ズレ」を生む。主体はグリッドにジャストで拍を取っているが、末端部である頭頂部や四肢に伝わって表に現れる動き=ノリを外部から眺めたときに、そこに少し遅れるような後ノリを見出していると言っても良い。
すると一方の「下」で取るリズム、後ノリを伴わないそれは、体幹に動力を匿うことなく、頭や四肢が脊髄反射的に直接音に「ズレ」なく反応しているノリだと言えるだろう。たとえばヘッドバンギングは、体幹と頭の接続=インターロックとは無関係に、頭だけを音に合わせてジャストのタイミングで振る動作である。テンポが一定以上になると、体幹からの四肢へのグルーブを表現する隙間もなくなるため、単に飛び跳ねたり、頭を振ったりすることしかできなくなる=縦ノリしか選択肢がなくなることにも留意しておきたい。
「ノリ」という極めて曖昧で、感覚的な概念。その言語化のため、「ズレ」という補助線を参照しながら「ノリ」という概念が孕むアンビバレンスを暴こうというのが今回の眼目である。この「ノリ」や「ズレ」の正体に踏み込む前に、この議論が単なる印象論になってしまわないように、実際に音を聞きながら、ブレイクビーツ、拍、アクセントといった概念の理解を進めよう。なお、いくつかのビートの例に関しては簡便性のために自作のサンプル音源のリンクを貼るが、原則あくまでもドラムのみの参考音源であり、原曲が持つグルーブ、他のパートとの絡みで生まれる細かなニュアンスなどとは全く別モノであることに留意されたい。
2. バックビートとダウンビートの狭間で
一般的な4分の4拍子においては、1小節が4つの拍に分割される。ドラマーの「ワン・ツー・スリー・フォー」の掛け声と共に始まる楽曲があるが、これが4つの拍を表している。最も単純なロックやファンクのリズムの1つは、「ズン」「タッ」「ズン」「タッ」(「ズン」がキックで「タッ」がスネア)のパターンで、たとえばマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」の冒頭のブレイクビーツを思い出して欲しい[★4]。[音源1]「ビリー・ジーン」風ビート
拍はアクセントを伴う。つまり、この4つの拍は、均等に同じ強さで打たれるのではなく、そこには強弱が存在する。バルトは、演奏は「調性とリズムと旋律の修辞学」の下から「アクセントの網目を浮かび上がらせる能力」であり、アクセントこそが「音楽における真理」であると述べている。そしてその強弱は、個々の音楽ジャンルを象徴する要素の1つである。
では「ビリー・ジーン」の場合は、どの拍が「強拍」で、どの拍が「弱拍」なのだろう。「ビリー・ジーン」では2拍と4拍のスネアの音に強いアクセントが置かれている。これは8ビートのロックやR&Bにおける基本的な構造である。低音を支えるキックドラムに対して、高音が強いスネアドラムの音色は、まさにこのアクセントを強調するために用いられると言っても良い。この2拍4拍に強いアクセントが置かれることを「バックビート」と呼ぶ。そして黒人音楽の特徴の1つはバックビートだと言われている。ロックも、そのルーツの1つである片仮名表記のリズム・アンド・ブルースも、その根幹にはバックビートを共有しているのだ。
そしてヒップホップもこれと同様に、多くの曲で2拍4拍のスネアにアクセントが置かれる。90年代、ゼロ年代とテクノロジーの発展もあり、スネアはより粒立ち良くアタック感のある、過剰にクラッピーなサウンドを目指してきたと言ってもよいだろう[★5]。そして特筆すべき1つの出来事は、ギャング・スターによる「Mass Appeal」(1994年)のリリースである。ビートメイカーのDJプレミアはこの曲で、かつて誰も試したことのなかった、1拍目のキックを「打たない」という選択をした。制作の過程でアクシデント的に訪れたその機会を、彼は選び取ったのだ。1拍目のキックが存在しないとは、端的にループの起点を失うことだ。頼れるのは2拍4拍のバックビートだけである。しかしこの未明のループは、果たして成立し、名曲を表す「クラシック」として今もクラブでプレイされている。ヒップホップのビートはその起点である1拍目を失っても、迷子になることはなかったのだ。
[音源2]「Mass Appeal」風ビート
対してたとえば日本の音楽などにおいては、この1拍目を指す「ダウンビート」が強調されると言われている。日本人は音楽だけでなく「ダウンビート」の文化を持っている。前述のトニーティーは、武術を例に両者を比較している。たとえば剣道、空手のような武道は一撃必殺、つまり1拍目の勝負である。対して黒人が得意とするボクシングにおいては、一撃必殺ではなくヒットアンドアウェイを基本とし、「前動作」であるタメから「主動作」であるパンチ、そしてアウェイ=引きの「終末動作」の3つの動作の流れが一連のバックビートを起点とするリズムを形成していると言う。
ファンクの帝王JBことジェームス・ブラウンは、1拍目を「THE ONE」と呼び、その重要性を説いている。彼は当時大流行であったディスコミュージックをファンクの劣化版と看做している。ディスコミュージックはいわゆるキックの4つ打ちを基盤に、2拍4拍にはスネアを被せている。4つ打ちのキックだけならアクセントのないフラットな状態だが、アクセントはスネアが被さる2拍4拍にある。対するファンクは、まずダウンビート=1拍目のキックを最大の強さでズドンと落とし、その後に続くスネアやキックは裏拍を含め細かく刻まれる。
たとえばJBの「Funky Drummer」を聴いてみよう。
5分20秒辺りから始まるクライド・スタブルフィールドが叩くブレイクビーツは、ヒップホップ史上最もサンプリングされているビートの1つである[★6]。しかもブレイクに入る前にJBの「One, two, three, four, Hit it!」との掛け声に加え、1拍目にギターのカッティングも入ることから、極めて「THE ONE」の威力が感じられるブレイクであろう。JBの他の楽曲でも、1拍目に、キックドラムとベースの音以外にも、ホーンセクションやギターのカッティングが重ねられアクセントがより強調されることも多く、確かに「THE ONE」が感じられる場面は多い[★7]。
[音源3]「Funky Drummer」風ビート
そして、ひたすら反復されるブレイクビーツとベースラインの上に、ホーンやギター、JBのシャウトが自由に乗せられる形式は、極めてヒップホップの楽曲に近い。ファンクはヒップホップのルーツの1つである。とすると、ファンクを象徴する「THE ONE」の扱いはどうなったのか。ヒップホップはニューヨーク、つまりイーストコーストに誕生し、その後LAを中心とするウエストコーストへ、そしてアトランタを中心とするサウスサイドへと拡大してきたが、それぞれの地域毎の音楽性には特徴がある。極めて大雑把に整理するならば、90年代末に南部のヴァージニアから登場したネプチューンズやティンバランドなどの音楽プロデューサーがヒップホップのビートメイクに革命を起こし、その流れは現行のUSヒップホップシーンを牽引するアトランタ発祥のトラップと呼ばれるスタイルにも息衝いている。
トラップにおいては、1拍目のTR-808の低音キックと同時にベースが超重低音を鳴らすことで、「THE ONE」に強いアクセントが置かれている。そしてスネアは2拍4拍に限らずイレギュラーに乱打されることが多い。通常であれば音質的に高音が強調されるスネアが強拍をもたらすことは前述の通りだが、TR-808の低音キックとベースによる圧倒的な音圧は、特にクラブやウーファーのあるカーステレオなどで大音量で鑑賞すれば極めて端的に理解されよう。つまり圧倒的な音圧を1拍目に持つため、「バックビート」より「ダウンビート」が強調されているように聞こえるのである。
[音源4]トラップの例
鮮烈なアクセントが付与されるダウンビートの「THE ONE」は、発された後、その小節内に響き渡る残響音のような、余韻を引き摺る。その一撃と余韻は、次の小節がやってくると、再び次の「THE ONE」に引き継がれる。ダウンビートは、バトンを渡して行くように、1拍目を蝶番に各小節を接続し続ける。私たちの体は、その反復する余韻に沈み込むように、ビートを「下」で取る。一方、バックビートのクラッピーなスネアのサウンドは、都度ダウンビートの余韻を切断する。高音のアタックが効いたスネアは、2拍4拍の度に、まるで警告音のように私たちを奮い立たせる。私たちは頭を上げ、それがビートを「上」で取る所作につながる。「バックビート」と「ダウンビート」の間の引き裂かれ。反復と切断。または絶妙なバランスによる「上」と「下」の「ノリ」の依存関係。ここにはヒップホップのグルーブが孕むアンビバレンスが存在する。
[音源2]「Mass Appeal」風ビート
対してたとえば日本の音楽などにおいては、この1拍目を指す「ダウンビート」が強調されると言われている。日本人は音楽だけでなく「ダウンビート」の文化を持っている。前述のトニーティーは、武術を例に両者を比較している。たとえば剣道、空手のような武道は一撃必殺、つまり1拍目の勝負である。対して黒人が得意とするボクシングにおいては、一撃必殺ではなくヒットアンドアウェイを基本とし、「前動作」であるタメから「主動作」であるパンチ、そしてアウェイ=引きの「終末動作」の3つの動作の流れが一連のバックビートを起点とするリズムを形成していると言う。
ファンクの帝王JBことジェームス・ブラウンは、1拍目を「THE ONE」と呼び、その重要性を説いている。彼は当時大流行であったディスコミュージックをファンクの劣化版と看做している。ディスコミュージックはいわゆるキックの4つ打ちを基盤に、2拍4拍にはスネアを被せている。4つ打ちのキックだけならアクセントのないフラットな状態だが、アクセントはスネアが被さる2拍4拍にある。対するファンクは、まずダウンビート=1拍目のキックを最大の強さでズドンと落とし、その後に続くスネアやキックは裏拍を含め細かく刻まれる。
たとえばJBの「Funky Drummer」を聴いてみよう。
5分20秒辺りから始まるクライド・スタブルフィールドが叩くブレイクビーツは、ヒップホップ史上最もサンプリングされているビートの1つである[★6]。しかもブレイクに入る前にJBの「One, two, three, four, Hit it!」との掛け声に加え、1拍目にギターのカッティングも入ることから、極めて「THE ONE」の威力が感じられるブレイクであろう。JBの他の楽曲でも、1拍目に、キックドラムとベースの音以外にも、ホーンセクションやギターのカッティングが重ねられアクセントがより強調されることも多く、確かに「THE ONE」が感じられる場面は多い[★7]。
[音源3]「Funky Drummer」風ビート
そして、ひたすら反復されるブレイクビーツとベースラインの上に、ホーンやギター、JBのシャウトが自由に乗せられる形式は、極めてヒップホップの楽曲に近い。ファンクはヒップホップのルーツの1つである。とすると、ファンクを象徴する「THE ONE」の扱いはどうなったのか。ヒップホップはニューヨーク、つまりイーストコーストに誕生し、その後LAを中心とするウエストコーストへ、そしてアトランタを中心とするサウスサイドへと拡大してきたが、それぞれの地域毎の音楽性には特徴がある。極めて大雑把に整理するならば、90年代末に南部のヴァージニアから登場したネプチューンズやティンバランドなどの音楽プロデューサーがヒップホップのビートメイクに革命を起こし、その流れは現行のUSヒップホップシーンを牽引するアトランタ発祥のトラップと呼ばれるスタイルにも息衝いている。
トラップにおいては、1拍目のTR-808の低音キックと同時にベースが超重低音を鳴らすことで、「THE ONE」に強いアクセントが置かれている。そしてスネアは2拍4拍に限らずイレギュラーに乱打されることが多い。通常であれば音質的に高音が強調されるスネアが強拍をもたらすことは前述の通りだが、TR-808の低音キックとベースによる圧倒的な音圧は、特にクラブやウーファーのあるカーステレオなどで大音量で鑑賞すれば極めて端的に理解されよう。つまり圧倒的な音圧を1拍目に持つため、「バックビート」より「ダウンビート」が強調されているように聞こえるのである。
[音源4]トラップの例
鮮烈なアクセントが付与されるダウンビートの「THE ONE」は、発された後、その小節内に響き渡る残響音のような、余韻を引き摺る。その一撃と余韻は、次の小節がやってくると、再び次の「THE ONE」に引き継がれる。ダウンビートは、バトンを渡して行くように、1拍目を蝶番に各小節を接続し続ける。私たちの体は、その反復する余韻に沈み込むように、ビートを「下」で取る。一方、バックビートのクラッピーなスネアのサウンドは、都度ダウンビートの余韻を切断する。高音のアタックが効いたスネアは、2拍4拍の度に、まるで警告音のように私たちを奮い立たせる。私たちは頭を上げ、それがビートを「上」で取る所作につながる。「バックビート」と「ダウンビート」の間の引き裂かれ。反復と切断。または絶妙なバランスによる「上」と「下」の「ノリ」の依存関係。ここにはヒップホップのグルーブが孕むアンビバレンスが存在する。
3. 見えないグリッドからズレること
サンプラーにはクオンタイズという機能がある。クオンタイズは、人力で入力したドラムなどの音を、強制的に拍=メトロノームのグリッドに合わせる機能で、手動ならではのグルーブをフラットに強制してしまう。しかしたとえば前述のDJプレミアは、愛用のMPC-60Ⅱに実装されているクオンタイズを使いながらも、恐るべきグルーブを体現している。プレミアにしか出せないグルーブであるとも称されるこれは、実際には「ハネ」を含むクオンタイズである。「ハネ」とは音符が「跳ねる」様を指している。シャッフルや3連のリズムとも言われ、ブルースのリズムもこの上に成り立っている。 参考までに、16ビートの典型的なビートにこの「ハネ」を適用してみよう。適用前[音源5]は直線的でフラットなノリが、適用後[音源6]にはグルーブが変化するのが感じられるだろうか。〈ハネ入りででクオンタイズされた16ビート〉の図では「ハネ」の部分をグリットから後ろにズラして可視化している。バツ印が丸で囲まれているハットが「ハネ」を表している。
[音源5]スクエアにクオンタイズされた16ビート
[音源6] ハネ入りでクオンタイズされた16ビート
そしてこのプレミアのグルーブは、彼にしか出せないものだとしばしば言われてきた。これはクオンタイズによって機械的にグリッド上に整列されたキック、スネアやハットと、それらの上に重ねられる別レイヤーの音たちとの相関関係によるものだろう。つまり彼の多くのビートの裏側で覇権を握っているベースラインや、チョップして切り刻まれたサンプリングネタの数々が、ブレイクビーツと交わるところにグルーブが生まれる。それらの音は、ブレイクビーツの個々の音とときに重なり合い、ときに微妙にズレながらグルーブの形成に寄与している。
改めて、グルーブとは一体何なのか。英語の「groove」はもともと「溝」という意味である。
頭脳は その溝の内側で
等しく そして正しく振る舞う
でも 破片が向きを変えるがまま
放っておいてごらん
あなたにとっては
それは 簡単なことだろう
その水を 押し戻すことは
洪水が 丘を裂いて
道路を えぐり取ってしまうとき
水車小屋を 破壊してしまうとき
(エミリー・ディキンスン)[★8]
「Groovology」とも呼ばれるグルーブの研究で有名なチャールズ・カイルは「グルーブの定義」と題されたエッセイで、このエミリー・ディキンスンの詩を冒頭に引用している。1行目にある「溝」に「groove」が当てられているが、この語がレコードの「溝」をも指すことから、溝の内側の頭脳=意識の流れ=水流を音のアナロジーと見立てることもできるだろう。レコードの溝をグルーブを纏った音が流れ、ついには溝から離れて暴走し外の世界を破壊するに至るのだ。
カイルはこのエッセイの中で、グルーブを形成するのはリズムセクションであるとし、ドラマーとベーシストは「互いに一貫してシンクロすると同時に、一貫して食い違い、異なり、少しだけ位相を異にしたり、同調したりしなかったりする」[★9]と指摘する。彼はこの「ズレ」を「参加的非同調性(participatory discrepancies)」と呼ぶ。ベースとドラムの同時演奏、あるいはドラマーだけを見ても手と足の動き、キック、スネア、ハットは互いにぴったり合ったり少しズレたりするのだ。
そしてサンプラーのパッドを叩くことによって制作されるヒップホップのビートにも、これと全く同じことが言える。まず、1~2小節分まるごと抜き出されたブレイクビーツは、それぞれの音のパーツごとに分割(チョップ)され、それぞれのパッドにアサインされる。パッドAにはキック、パッドBにはスネア、Cにはハットというように。そしてそれらのパッドを実際に叩きながら音のタイミングと強さを記録する。ビートメイカーはサンプラーから出力されるメトロノームの音をガイドにパッドを叩くが、ドラムの演奏と同様、このパッド演奏が人力である以上、グルーブの元となるズレが生じる。
MPC-60、MPC-3000、MPC-2000と連なる16のパッドたち。「16のパッドのうちその1つが死んだ」と言ったのはDJ Klockであったが、ビートメイカーたちにとってはこの16のパッドこそが楽器であり、唯一無二のグルーブを求めて、それこそ壊れるまで叩き続けるのだ[★10]。
4. サイボーグのビート
われわれ人間、暖かく優しい顔と、考え深い目をした人間――われわれはひょっとするとほんとうの機械かもしれません。
(フィリップ・K・ディック「人間とアンドロイドと機械」)[★11]
機械は、いわば裏返しにされた人間です。機械はあるプロセスのすべてのディテールを表現できますが、人間にはできません。逆に、機械は、人間のようにプロセスじたいを経験することができないのです。
(ロジャー・ゼラズニイ「フロストとベータ」)[★12]
重なり合いながら、微妙にズレる。あるいは、微妙にズラす。両者の間にもまた、大きな「ズレ」がある。そして、黒いグルーブに関わる「ズレ」とは位相を異にするそれを巡る、また別の音楽ジャンルの誕生に纏わる系譜が存在する。
ミニマルミュージックの系譜。その反復の内に、重なりとズレをコンセプトに新しい音楽を探求したのは、スティーブ・ライヒであった。彼はインタビューの中で、ミニマルミュージックのルーツとしてジョン・コルトレーンの『アフリカ/ブラス』(1961年)を挙げている。約16分間にわたりルートのE音のバリエーションが延々と反復されるこの楽曲が「現在ミニマルミュージックと呼ばれている音楽全ての元となっている先駆け」だと言うのだ。確かに同曲におけるリズムセクションは、変奏という形でひたすら反復されている。
そしてライヒはピアノなどの2台の同じ楽器を用いて、その反復を極端な形で実践することになる。つまり極端にミニマライズされたフレーズをまず1台の楽器で反復し、もう1台の楽器でそれと完全にシンクロするフレーズを演奏するのだが、片方の演奏速度を、完全に意図的な管理の元、徐々に徐々に少しだけ「ズラ」して行くのだ。彼は、それによって得られる効果、つまりフェイズ=位相が重なり合ったり微妙にズレたりする際に生じる効果に着目した。しかし彼がインタビューで「ピアノ・フェイズ」(1967年)の誕生について「『これは確かに素晴らしいテクニックで、夢のようなテクニックだけれども、人にはできないな』と思った」「6ヶ月にわたって自ら苦行を課した」と語っているように、この演奏を実践するには、正確な反復と、徐々に進行する「ズレ」を完全にコントロールするための高い集中力と技術が必要だった。
1967年に彼が「ピアノ・フェイズ」を着想し、演奏するに至る過程とはまさに、自らをサイボーグ化することだったのではないか。この曲の演奏には、機械のような正確さ――微妙なズレをコントロールする人間離れした正確さ――が必要だったのだ。そして彼のフェイズ・ミュージックは、同様のコンセプトのもと、ヴァイオリン、マリンバ、そしてドラムなど他の楽器によっても展開される。
そしてこの意図的なズレをどのように組み込むかというテーマは、ヒップホップのビートメイクにおいても共有される。メトロノームが示す拍=グリッドに対して、グルーブを生み出すために戦略的にズレること。「ズレ」はマシーナリーでモノクロな拍に身体性を付与する。しかしそれは、フェイズ・ミュージックの追求する「ズレ」とは性格を異にする。どういうことか。
「ピアノ・フェイズ」における「ズレ」とは、2人の演奏者が長い時間をかけて一定のフレーズをユニゾンで反復する際に、1人が少しずつ意図的にその速度をコントロールして継続的に「ズラす」手法だった。一方、ビートメイカーが扱う「ズレ」は、その目的も、時間的な単位も異なる。ビートメイカーたちは、それこそ「ピアノ・フェイズ」の演奏時のように、ドラムパターンを何度も何度もパッドを叩いて反復する。しかし彼らがグルーブを生成するためにキックやスネアの「ズレ」を封じ込めるのは、ループされる数小節のパターンの中である。彼らは反復の軌跡を、シーケンサーに記録しては消去し、また記録しては消去する。最良のグルーブが生まれるまで、反復は繰り返される。彼らは、クオンタイズを捨て、そこから自由になり、自らの叩いたグルーブそのものをループさせるようになるのだ。
1990年代にヒップホップから派生したサブジャンルの1つとして、UKを中心とするビートシーンが生まれ、「アブストラクト・ヒップホップ」あるいは「トリップホップ」と称された。ラップを乗せないインストゥルメンタルのビートに焦点が当てられることで、ラップを支え、並走するものではなく、ビートそれ自体が前景化することになる。ビートが持つ細かい音質=テクスチャーや解像度の高いグルーブが直接聴取される中で、DJ KRUSHやDJ Vadimがクオンタイズを捨てて「ズレ」を取り入れた作品により、革新をもたらした。そして本流のヒップホップにおいてもJ・ディラ、マッドリブ、RZA、El-Pら、それぞれ出自が全く違いながらもビートの「ズレ」という点で共通項を持つビートメイカーたちが群雄割拠する時代に突入する。しかし彼らは当初あくまでもマイナーな、「例外者」たちであったことを忘れてはならない。
あるいは基準となるメトロノームが刻むグリッドを持たず、バルトの言う「身体の中で打っているもの」に従って、ただひたすらに人力でパッドを演奏する。1つのドラムループをパーツとして反復させるのではなく、5分の曲なら5分間パッドを叩き続け、そのグルーブの軌跡をそのまま記録すること。フライング・ロータスの初期作品である『1983』(2006年)、『Reset』(2007年)、『Los Angeles』(2008年)には、そのような手法によって、グリッドを参照することから自由になる過程が刻まれている。サンプラーによるマシーナリーな反復からも自由になり、ライヒがインスピレーションを受けたコルトレーンによる反復に立ち返ったようにも見えるのは、彼がコルトレーンその人の甥という出自を持つこととも無関係ではないだろう。
そしてゼロ年代以降、既にJ・ディラの「ズレ」のグルーブが十分に共有されていたシーンに、フライング・ロータスの登場とLAビート・ミュージック[★13]の隆盛が加わることで、この「ズレ」は例外者たちだけのものではなくなって行く。
さらには、サンプラーによる「ズレ」を孕むビートの反復を再現するドラマーたちの存在を忘れてはならない。たとえば、ザ・ルーツに代表される、ラップのバックトラックをサンプラーではなく生バンドに置き換えたグループのドラマーたちである。ザ・ルーツのドラマーを務めるクエストラヴや、新世代ジャズドラマーのクリス・デイブ、マーク・コレンバーグ、カリーム・リギンスらは、まるで自身がサンプラーのシーケンサーであるかのように「ズレ」を正確に再現しつつ、それを何度でも反復する。彼らは「ズレ」の完全な理解のため、1拍を5連符や7連符に分割し、譜面上で正確に認識した上でそのタイミングをインストールしてさえいる。ライヒの「ドラミング」(1971年)でボンゴを演奏するドラマーたちとは目的も方法論も全く違えど、彼らもまた、自らの演奏する身体をサイボーグ化しているのだ。
一旦整理しよう。マンとマシーンの対立軸で纏めるならば、ヒップホップにおいては、2種類のグルーブが共存している。一方は、DJプレミアに見るように、クオンタイズによって強制的にグリッドに配置されるビートから生まれる、つまり機械によるグルーブであり、他方は、ズレの上に成り立つ、DJ KRUSHやEl-Pらによる動物的でさえある人力のグルーブである。そして、その人力のグルーブを自らをサイボーグ化することで反復するクリス・デイブのようなドラマーたちが、ジャズと接合されたヒップホップの新たなるフォームを提示している。これらのいずれもが、それぞれ異なった手法で、「ズレ」がもたらすグルーブをビートに封じ込めている。
そして、この「ズレ」を意識的に音楽に持ち込む前例として、フェイズ・ミュージックの存在があった。目的は全く違えど、反復を前提とする点が共通項であった。
更にこれらの「ズレ」の持ち主であるビートメイカーたちは、実は2つの異なる位相に分けることができる。黒いノリがそのまま表出する「ズレ」をビートに反映させるビートメイカーたちと、意図的にビートを脱臼させ、「ズレ」をアバンギャルドなビート表現の一形態として取り入れる者たちの存在である。端的に言えば、自然なノリとしてのズレを記録しているのか、故意に意図的にズラしているのかの違い。J・ディラ、マッドリブたちは前者に、DJ KRUSH、RZA、El-Pたちは後者にあたる。実際にはこれらは完全な二項対立ではなくバランスの問題であり、フライング・ロータスは双方のバランスを限りなく上手くコントロールしている存在とも言えよう。
前回見たように、嘗てドゥルーズはリズムを「批評的」であると述べた。同時に、その後景に位置する機械的な「フラット」な拍の世界は「断定的」であると批判したが、これはジェームス・ブラウンが4つ打ちをベースにしたディスコのビートを紛い物と喝破したこととも共鳴するだろう。しかしその裏側ではアフリカバンバータがクラフトワークの機械仕掛けのビートにグルーブを発見し、さらにDJプレミアはシーケンサーの機械的なグリッドでグルーブを量産するに至った。
一方、人間的な「ズレ」は、サンプラーが導入された当初のヒップホップの世界では、単なるミス=ヒューマンエラーとしてクオンタイズされ、ビートは強制的にグリッド上に整列させられた。しかしイノヴェイターたちはこのズレを意識的にビートメイクに持ち込むことで、グルーブの新たな、しかし根源的な姿(人力のグルーブの原初の姿)を提出したのだ。
機械と人間、そして高度な技術で「ズレ」を再現するサイボーグの三者間で研磨されてきたのは、フラットとズレの交点で引き裂かれるアンビバレントなグルーブである。そしてビートメイカーたちによる「ズレ」の利用は、ときに意識的であり、ときに無意識的でもあった。結果、ヒップホップの「ノリ」が内包する「ズレ」に対して、聴衆は意識的に「ノリつつ」も、無意識的に「ノセられ」ることになる。ここにも、「ノリ」に纏わる、ある種のアンビバレンスな性質がみとめられるのだ。
もう1つ、別の視点からマン・マシーンの対立とグルーブの関係性について考えてみたい。フライング・ロータスの作品全般や、ラス・Gの『Ghetto Sci-Fi』などのLAビート勢の作品には、宇宙をイメージに取り入れているものが散見され、その音もしばしばスペイシーであるとか、コズミックであると形容される。ここで前景化しているのは、アース・ウインド&ファイアーからジャネール・モネイ、あるいはジョージ・クリントン率いるPファンク、デトロイトテクノ全般、そしてサン・ラーからカマシ・ワシントンに至るスピリチュアル・ジャズなどに顕著である、彼らの音楽と、未来や宇宙のイメージを、ときには古代のイメージと一続きにつなぐ、所謂アフロフューチャリズムと呼ばれる美学である[★15]。これは彼らの音そのものだけでなく、コスチュームや作品のアートワーク、ミュージックビデオなど、あらゆるアーティストイメージにかなり意図的に干渉している。
アフロフューチャリズムが提出する世界観においては、現在とは異なる身体性を有していたであろう古代の人間と、機械じみたサイボーグのイメージが重ね合わされる。つまりマン・マシーンの対立は、「ズレ」を内包しながらも、ゼロ年代に興隆しアフロフューチャリズムのイメージをその一端とするLAビートのムーブメントの中で、一旦は対立軸を失うのだ。この造語を生み出した批評家のマーク・デリーは、サミュエル・R・ディレイニーの小説世界に古代と未来を接続する回廊を見出したが、一方のディレイニーは、人間とサイボーグの中に等しく、四肢を接続する神経回路が存在することを見出している。そしていまやフライング・ロータスに受け継がれたと言える、サイボーグの神秘的な部分とは、即ち人間の意識的とも無意識的とも異なるズレを生み出し得る、サイボーグの身体性ではないだろうか。
菊地成孔と大谷能生は『アフロ・ディズニー』(2009年)の中で「マシーンは、まだ部分的に揺らぎを提供する側」であり「基準側に属する」ので、「黒人ラッパーは現在、身一つでマシーナライズされた世界を渡る」と述べている[★16]。しかし、J・ディラを経てフライング・ロータスとLAビート・ミュージックの只中で進化を続けるビート・シーンにおいては、ビートがズレる/ビートをズラすことは徐々に当たり前になりつつある。最早サイボーグは例外者たり得ないのだ。むしろ本来のグリッドからキックもスネアもハットも全てがズレた状態で、ラップだけが本来のグリッドに沿っているということもあり得るのが、菊地・大谷の指摘から7年を経た2016年にいる私たちが置かれた状況と言えるだろう。
そう、私たちはこれまで、スネアでキックを語り、ビートでビートを語ろうとしてきた。つまり音に纏わるジャーゴンを駆使して、ヒップホップの一側面であるビートについて考察してきた。ここから先は、ビートを相対化するラップの、言葉の、出番ではなかろうか。
そして、この「ズレ」を意識的に音楽に持ち込む前例として、フェイズ・ミュージックの存在があった。目的は全く違えど、反復を前提とする点が共通項であった。
更にこれらの「ズレ」の持ち主であるビートメイカーたちは、実は2つの異なる位相に分けることができる。黒いノリがそのまま表出する「ズレ」をビートに反映させるビートメイカーたちと、意図的にビートを脱臼させ、「ズレ」をアバンギャルドなビート表現の一形態として取り入れる者たちの存在である。端的に言えば、自然なノリとしてのズレを記録しているのか、故意に意図的にズラしているのかの違い。J・ディラ、マッドリブたちは前者に、DJ KRUSH、RZA、El-Pたちは後者にあたる。実際にはこれらは完全な二項対立ではなくバランスの問題であり、フライング・ロータスは双方のバランスを限りなく上手くコントロールしている存在とも言えよう。
前回見たように、嘗てドゥルーズはリズムを「批評的」であると述べた。同時に、その後景に位置する機械的な「フラット」な拍の世界は「断定的」であると批判したが、これはジェームス・ブラウンが4つ打ちをベースにしたディスコのビートを紛い物と喝破したこととも共鳴するだろう。しかしその裏側ではアフリカバンバータがクラフトワークの機械仕掛けのビートにグルーブを発見し、さらにDJプレミアはシーケンサーの機械的なグリッドでグルーブを量産するに至った。
一方、人間的な「ズレ」は、サンプラーが導入された当初のヒップホップの世界では、単なるミス=ヒューマンエラーとしてクオンタイズされ、ビートは強制的にグリッド上に整列させられた。しかしイノヴェイターたちはこのズレを意識的にビートメイクに持ち込むことで、グルーブの新たな、しかし根源的な姿(人力のグルーブの原初の姿)を提出したのだ。
機械と人間、そして高度な技術で「ズレ」を再現するサイボーグの三者間で研磨されてきたのは、フラットとズレの交点で引き裂かれるアンビバレントなグルーブである。そしてビートメイカーたちによる「ズレ」の利用は、ときに意識的であり、ときに無意識的でもあった。結果、ヒップホップの「ノリ」が内包する「ズレ」に対して、聴衆は意識的に「ノリつつ」も、無意識的に「ノセられ」ることになる。ここにも、「ノリ」に纏わる、ある種のアンビバレンスな性質がみとめられるのだ。
5. アフロフューチャリズムが見通す身体性
第一に、女性も男性もサイボーグもすべて金属と肉体を、神経と回路を、理解可能な部分と神秘的な部分及び不可能な部分を、存在する部分と欠落した部分を、それぞれ備えているということ。
(サミュエル・R・ディレイニー「サイボーグ・フェミニズム」)[★14]
もう1つ、別の視点からマン・マシーンの対立とグルーブの関係性について考えてみたい。フライング・ロータスの作品全般や、ラス・Gの『Ghetto Sci-Fi』などのLAビート勢の作品には、宇宙をイメージに取り入れているものが散見され、その音もしばしばスペイシーであるとか、コズミックであると形容される。ここで前景化しているのは、アース・ウインド&ファイアーからジャネール・モネイ、あるいはジョージ・クリントン率いるPファンク、デトロイトテクノ全般、そしてサン・ラーからカマシ・ワシントンに至るスピリチュアル・ジャズなどに顕著である、彼らの音楽と、未来や宇宙のイメージを、ときには古代のイメージと一続きにつなぐ、所謂アフロフューチャリズムと呼ばれる美学である[★15]。これは彼らの音そのものだけでなく、コスチュームや作品のアートワーク、ミュージックビデオなど、あらゆるアーティストイメージにかなり意図的に干渉している。
アフロフューチャリズムが提出する世界観においては、現在とは異なる身体性を有していたであろう古代の人間と、機械じみたサイボーグのイメージが重ね合わされる。つまりマン・マシーンの対立は、「ズレ」を内包しながらも、ゼロ年代に興隆しアフロフューチャリズムのイメージをその一端とするLAビートのムーブメントの中で、一旦は対立軸を失うのだ。この造語を生み出した批評家のマーク・デリーは、サミュエル・R・ディレイニーの小説世界に古代と未来を接続する回廊を見出したが、一方のディレイニーは、人間とサイボーグの中に等しく、四肢を接続する神経回路が存在することを見出している。そしていまやフライング・ロータスに受け継がれたと言える、サイボーグの神秘的な部分とは、即ち人間の意識的とも無意識的とも異なるズレを生み出し得る、サイボーグの身体性ではないだろうか。
菊地成孔と大谷能生は『アフロ・ディズニー』(2009年)の中で「マシーンは、まだ部分的に揺らぎを提供する側」であり「基準側に属する」ので、「黒人ラッパーは現在、身一つでマシーナライズされた世界を渡る」と述べている[★16]。しかし、J・ディラを経てフライング・ロータスとLAビート・ミュージックの只中で進化を続けるビート・シーンにおいては、ビートがズレる/ビートをズラすことは徐々に当たり前になりつつある。最早サイボーグは例外者たり得ないのだ。むしろ本来のグリッドからキックもスネアもハットも全てがズレた状態で、ラップだけが本来のグリッドに沿っているということもあり得るのが、菊地・大谷の指摘から7年を経た2016年にいる私たちが置かれた状況と言えるだろう。
そう、私たちはこれまで、スネアでキックを語り、ビートでビートを語ろうとしてきた。つまり音に纏わるジャーゴンを駆使して、ヒップホップの一側面であるビートについて考察してきた。ここから先は、ビートを相対化するラップの、言葉の、出番ではなかろうか。
★1 ロラン・バルト「ラッシュ」『第三の意味――映像と演劇と音楽と』みすず書房、1998年、235、241頁。
★2 トニーティー曰く「絶対ビート」とは、多くのアフロアメリカンの身体に組み込まれている、音楽なしでも踊れるビート感のこと。まるで絶対音感のように、1人ひとりが身体の中に備えているリズムボックスやメトロノームのようなもの。
★3 「ラッシュ」は、ピアノを弾くバルトがシューマンについて論じた文章である。言うまでもなくピアノ演奏においても「リズム」が極めて重要であることは、バルトも言及している。
★4 この1小節の間に、ハイハットは8分音符で「チッチッチッチッ……」と8回刻まれているので8ビートと呼ばれることにも留意しておきたい。
★5 元々ディスコミュージックとその影響下にあった誕生時のヒップホップはハンドクラップを多用していた。そして90年代後半からのニュークラシック・ソウル~J・ディラ~フライング・ロータスらの流れの中で、クラッピーなスネアや、スネアの代わりにハンドクラップ(手拍子)が使われることも多い。クラップは複数人で手を叩く音であり、それ自体にグルーブの前提となる、ズレが内包されていることにも留意しておきたい。
★6 サンプリングデータベースサイトの「whosampled」によれば、1236曲が挙げられているが、勿論これが全てではないし、たとえばドラムンベースなどでもピッチを上げ高速化された上で多数の楽曲に使用されている。
★7 この「THE ONE」の重視は、ファンクを体現したアーティストや楽曲、たとえばプリンスの「Sexy MF」、キザイア・ジョーンズの「Walkin' Naked Thru a Bluebell Field」などに色濃く現れていることも付言しておきたい。
★8 以下に掲載の原文をもとに筆者訳出。 Charles Keil, "Defining 'Groove'".https://www2.hu-berlin.de/fpm/popscrip/themen/pst11/pst11_keil02.html[編集部注 左記URLの原文は現在削除されている]
★9 同エッセイ。
★10 DJ Klockは柔らかさと硬さを絶妙にブレンドしたビートで、唯一無二の世界観を提示したDJ/ビートメイカー。2007年に逝去。彼のドリーミーかつ切実な音楽の佇まいそのものが、極めてアンビバレントであるように思える。「One Of The Sixteen Pads Is Dead EP」は、彼が自身のレーベルClockwise Recordingsから2000年にリリースした12インチ。ジャケットにはMPCの16のパッドがあしらわれている。
★11 フィリップ・K・ディック「人間とアンドロイドと機械」、ピーター・ニコルズ編『解放されたSF』、東京創元社、1981年、311頁。
★12 ロジャー・ゼラズニイ「フロストとベータ」『キャメロット最後の守護者』早川書房、1984年、262頁。
★13 LAビート・シーンとは、2006年にダディ・ケヴが立ち上げたロウ・エンド・セオリーというビートミュージックのイベントを中心に、フライング・ロータスのレーベル、ブレインフィーダーを始めとする複数のレーベルの活動や、LAのみならず世界中で行われる週次のライブイベントにより興隆しているビートミュージックのシーンである。中心的なアーティストは、フライング・ロータス、ガスランプキラー、ラス・G、knxwledge(ナレッジ)、Nosaj Thing、Shlohmoなど。
★14 サミュエル・R・ディレイニー「サイボーグ・フェミニズム――読むことの機能について、ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』を中心に」、巽孝之編『サイボーグ・フェミニズム[増補版]』、水声社、2001年、188頁。
★15 アフロアメリカンの様々な表現が「宇宙」のイメージと結びついている。音楽の他にも、サミュエル・R・ディレイニーやオクタビア・バトラーのSF小説やコミックスなどに、アフロフューチャリズムが表れていることが指摘される。なおこの思想は、アメリカにおける黒人にとっての「過去」が特殊なものであるが故に生起した側面があるが、その点について詳細は大和田俊之『アメリカ音楽史――ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(2011年)を参照されたい。映画作家のYtasha L. Womackは著書の『Afrofuturism』の中で「アフロフューチャリズムは、想像力、技術、未来と解放が交差する場所である」と定義している。Ytasha L. Womack, Afrofuturism: The World of Black Sci-Fi and Fantasy Culture, Chicago Review Press, 2013, p.9.
★16 菊地成孔、大谷能生『アフロ・ディズニー――エイゼンシュテインから『オタク=黒人』まで』文藝春秋、2009年、135頁。
吉田雅史
1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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