アンビバレント・ヒップホップ(13)RAP, LIP and CLIP──ヒップホップMVの物語論(後篇)|吉田雅史

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初出:2018年04月20日刊行『ゲンロンβ24』

後篇

6 その唇、ズレていませんか?


 直近2回分の連載では、ヒップホップのMVに映り込む映像と、リアルの関係を考えてきた。特に前回は、MVを成立させるため──音と映像をつなぐために──「リップ・シンク」という技術が欠かせないことを確認した。しかし「リップ・シンク」は言い換えれば「口パク」なのだから、それは虚構である。考えてもみてほしい。MV撮影のためとはいえ、生のラップではなく口パクする姿が無数に──それこそ何億回も──YouTubeで再生されることは、MCたちが標榜するリアルと言えるのか。このことをどう考えれば良いのか。この矛盾を、どのように乗り越えれば良いのか。それが問いだった。

 結論から先に言えば、これはあえて超える必要のないものである。この虚構性は、ヒップホップのリアルにとって超えるべきものとして立ちはだかっているわけではないのだ。むしろ逆に、ヒップホップのリアルに寄与しているとさえ言える。

 なぜそのような結論が導き出されるのか。順番に考えていきたい。

 リップ・シンクについて考察する上で、日本とアメリカではその捉え方の違いがあることは注目にあたる。細馬宏通は著書『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』の中で、アニメーションのセリフの録音について考察している。細馬が指摘するのは、日本ならではの特殊な事情だ。私たちは、洋画の吹き替え文化を持ち、浄瑠璃のように口を動かさない人形が話すことに慣れている★1。もし口の動きとセリフがズレていたとしても、僕たちはそこに違和感を覚えないのだ。つまり、日本ではリップ・シンクへのこだわりが比較的少ないと言えるだろう。

 一方でアメリカでのリップ・シンクの捉え方は、例えばアニメーション制作における日米でのアプローチの違いに象徴的に現れている。日本では絵が先行し後からセリフをつけるポストシンク(アフレコ)が取られるのに対し、アメリカでは先にセリフを収録し、そのセリフに後から絵をつけるプレシンクの手法が一般的だ。つまり後者はセリフとアニメキャラの口の動きが正確にシンクロするような作り方をしている。アニメのキャラクターが話をするときの口の形も、高いシンクロ率を担保するため、アメリカでは日本よりもパターン数がずっと多いという。アメリカでは、精緻なリップ・シンクにこだわりを持っているのだ。

 そしてMVとは、プレシンクのメディアである。アーティストによる楽曲が先に存在し、それに映像をつけるのだから当然だ。すると、上記のようにアニメのプレシンクという文化をあらかじめ有しているアメリカでは、セリフに対してアニメーションを「後付け」するように、MVにおいても楽曲に対して映像を付加するのだろうか。両者の方法に類似は見られるのだろうか。

 90年代のアメリカにおける、とあるMV作家の登場が、この両者の類似性を、鮮烈に示してくれる。

7 ハイパー・シンクロナイゼーション


 ハイプ・ウィリアムスは、90年代前半からいくつかのストリートをモチーフとしたMVを制作して経験を積み、90年代後半になるとより商業的に成功したアーティストたちの諸作品★2で名を上げた映像作家だ。彼の登場以前と以後でヒップホップMVの様相は変わってしまったと言われるくらい、ヒップホップに限らず、MVの有り方に大きなインパクトを与えた奇才だ。

 ハイプの革新性は数多くあるが★3、MVがプリレコのメディアであるという先ほどの観点から考えると、彼の作品の大きな特徴は、音と映像のシンクロの追求にあると言える。両者のシンクロをMCの唇=リップ・シンクが担保しているというのがこれまでの議論だったが、ハイプは唇を「拡張」したのだ。

 しかしこれには説明が必要だろう。

 音と映像のシンクロを、MCの唇以外のものでも図ること。バンドのMVであれば、彼らの演奏の当て振りによってシンクロ率を上げられるだろう。しかしヒップホップにおいて、バックトラック(=ビート)はサンプラーや機材でプログラムされており、それをリアルタイムに「演奏するプレイヤー」は存在しない。だから彼らが映像に映り込んで「当て振り」をすることで、映像と音のシンクロを強化することもできない。ではヒップホップのMVにおいては、一体何をもってして、このシンクロ強化を実現できるのか。

 この問いに応答するために、視覚に関する研究で有名なマーク・チャンギージーの議論を援用したい。彼は著書『〈脳と文明〉の暗号』の中で、言葉と音楽の起源について独自の論を展開している。彼はその中で、視覚と聴覚の連関性を指摘する。人間は聴覚だけで、視覚イメージを想像することができる。木の葉のそよぎ、猫の鳴き声、空気銃の発砲音から、その音の「見かけ」を空想し、どんな姿が正しいかを視覚に尋ねてみることができるのだ★4

 それは自然音に留まらず、音楽においても同様だ。ある楽曲を聴いて、どんな「見かけ」がふさわしいかを想像することもまた、可能なのだ。チャンギージーの慧眼は、そのような意味で、MVとは音楽の「振り付け」であると指摘していることだ。MVの多くには人間が登場しており、音楽に合わせてダンスをしている。そして音楽に対して、その動きは適切なタイミングで、適切な動作をしているというのだ。もちろん多くのMVが制作されるのは、ポピュラー・ミュージックの類であるのだから、それらはダンサブルなもの(=ポピュラー)であるだろう。さらには、そもそもMVはプロモーション用途なのだから、宣伝対象のアーティストを含めた人間がその映像に登場するのは当然のことだろう。しかしこの指摘を念頭にハイプのMVを見てみると、多くのことに気付かされるのだ。
 例えばハイプが1997年に制作したバスタ・ライムスの「Put Your Hands Where My Eyes Could See」のMVを見てみよう。冒頭のビートとベース音だけが響くイントロからして、そのサウンドのイメージそのまま、打楽器を打ち付ける身体の映像からこのMVは始まる。続いて登場するMCのバスタ・ライムスの動きは、いわゆるラッパー然としたものとは全く異なる。その独特の身体の動作は、本連載で以前指摘したジェスチャーとしての手の動きだけではないし、単に音楽に乗って身体を揺らしているだけでもない。ときに動物の威嚇のように四肢を大きく広げ、ときにそれらを小さく丸めて繊細な動きを見せる。それは、このビートの響きそのものを身体の動きで表現するための、音に完全にシンクロした振り付け的としか言いようのない動作だ。さらにそのような彼の唇と身体の動きは、ハイプの一時期のトレードマークである魚眼レンズで撮影されることで、どこまでも前景化する。

 この振り付け的な身体の動きを、リップ・シンクを拡張した「ボディ・シンク」と呼んでみたい。リップ・シンクの場合は楽曲中に実際に鳴っている音=声が存在するわけだが、ボディ・シンクの場合は身体が発する手拍子や足音などが楽曲の中で鳴っているわけではない。つまり画面に映る動作の音源は存在しない。しかし冒頭の打楽器を打ち付ける身体の動きに代表されるように、まさにチャンギージーが指摘するように目を閉じて楽曲を聴きながら頭で想像したその「見た目」を実体化したのが、この振り付け的動作だと言えるだろう。

 バスタがラップをしているカットのみならず、階段を降りる動作、歩きながら侍女に歯を磨かれるカット、そしてサンバの衣装を身につけたダンサーたち、槍で戦う男たちの動作、あるいは終盤の土着民族を模した衣装とボディペンティングを施した者たち、それらの全てがビートと極めて精緻にシンクロしている。さらに、これらの動作の撮影にハイプが多用するのが、タイムストレッチを駆使したストップモーションのような表現技巧だ。撮影時に半分の速度に落とした音に合わせて撮影し、通常の速度に戻して再生することで、ガクガクとした独特な身体の動きを表現できる★5。この手法を使うと結果として、楽曲のビートの拍、つまりキックやスネアが鳴るタイミングに合わせて動作がストップするような──ビートに身体が貼り付くような──効果を得ることができるため、振り付け動作と音のシンクロが際立つのだ。

 付言すれば、アメリカではアニメの「セリフ」はプレシンクで制作することが一般的だったが、細馬がもうひとつ指摘していたのは、「音楽」についてはポストシンクが一般的だということだった。なぜなら、あらかじめ録音された音楽に絵を合わせるという方法では、キャラクターの動きが大きく制約されてしまうからだ。

 ハイプの方法論は、その制約を逆手に取ったのだと言える。つまりそこでの制約とは、「音楽にシンクロさせなければならないこと」なのだから、それならば徹底的に「シンクロさせる」ことを突き詰めることで、その制約を飛び越えてしまうような表現に行き着いた。それが、ハイプの慧眼だったのだ。

 ハイプは唇のシンクロを、身体の振り付けに拡張した。魚眼レンズやタイムストレッチ撮影といった個性的な技巧を活かし、MV作品における音と映像の高いシンクロ率を実現したのだ。

 なお同MVは、1998年のMTVアワードにおいて、最優秀「振付」賞を受賞している。

8 リップ・シンクを万人のために


 以上見てきたように、プレシンクという共通した特質を持つアニメとMVにおいては、結果として過剰なまでの映像のシンクロ率を求めるという類似性があった。そしてより高いシンクロ率を実現するヒップホップのMV作家が現れ、MVの進化のベクトルに、大いに影響を与えることとなったのだ。音と映像をシンクロさせるための彼のこだわりは、ヒップホップのみならず、他のジャンルのMVにも援用されるようになる。そこで肝となるのは、リップ・シンクとそれを拡大したボディ・シンクとでも呼べる表現だった。

 しかしこれはあくまでもアメリカにおける発展の仕方であり、リップ・シンクに対する感性の異なる日本におけるMVは、また別の方位を目指したのではなかったか。その点については後で触れることとし、まずはこの高シンクロ率を求めたMV表現のさらなる波及について見ておきたい。その影響力は、思いがけない形を取ることになる。多くの人々にリップ・シンクしてみることを提案する「アプリ」が登場するに至るのだ。

 「Musical-ly」と名付けられたそれは、好きな音楽に合わせて自撮りのリップ・シンク動画が作成できるスマホ用アプリだ。2014年にリリースされて以降、特にアメリカの若者、あるいは日本の女子高生の間でも人気を博しており、2015年にはApple App Storeにおいてオールジャンルのアプリのダウンロード数で1位を獲得、2017年時点で世界中で2億ものユーザを有している。

 リップ・シンク動画、つまりこのアプリではごく手軽な15秒から1分ほどのMV風動画ということになるのだが、それを作成してネットにアップすることに、これだけ多くの人間が興味を持つとは、どういうことなのだろう。それは、人間のどのような欲望に訴求しているのだろうか。

 Musical-lyのリップ・シンク動画で多く見られるのは、既存の有名曲に口パクしつつダンスするというものだ。ユーザの多くはその動画をコミュニケーションツールとして、互いに共有し合う。目を引く動画は多くの「いいね」を獲得し、より多くの人間に共有される。 Musical-lyのパフォーマンスをきっかけに実際にパフォーマーやモデルとして有名になる人間も多く輩出されている。つまりMusical-lyは、デジタル・ネイティヴ世代が成功を掴むためのプラットフォームになっている。

 そしてその成功は、作成した動画がインスタグラムやYouTubeなどにもアップされ拡散することで牽引される。そこではもちろん、SNSアプリに顕著な、自撮りの欲望も喚起されるだろう。ネットの不特定多数に向けてこのパフォーマンス動画を公開するにあたり、シンプルに、自己のイメージを「特別なもの」に見せたくなる欲望がそれだ。すぐに「インスタ映え」や「盛る」といったキーワードが連想されるが、それらを自撮り画像に適用することは、ギー・ドゥボールに倣って「スペクタクル化」と呼べるかもしれない。
 自己像を「特別なもの」として見せたいという欲望。換言すれば、能動的に自らを「見世物にしたい」という欲望でもある。一方で、MVが不特定多数の視聴者に公開されるのと同様に、自撮り動画をネット上にアップするとは、自己像が「見世物になってしまう」ことだ。これはドゥボールが指摘したように、大量消費社会やマスメディアの発展により否応なしに「見世物的なイメージ」に巻き込まれてしまう人間そのものだ★6

 とはいえ、SNOWのような加工アプリが存在するとはいえ、静止画のようにエフェクトで加工することが簡単ではない動画において、どのように「盛る」のか。スペクタクル化を図るのか。

 そこで参照されるのは、やはりMVだ。MVとは、何よりもアーティストをスペクタクル化するメディアではなかったか。実際、Musical-lyに投稿されている動画には、ハイプらMV作家が取る手法と酷似した表現が散見される。MV作家のカメラアングルの変化、タイムストレッチ撮影は、アーティストの身体を特別なものとして映し出していた。それらの手法の一部は、Musical-lyの編集機能として実装され、また、ユーザ自らがDIYの精神によって自力で再現しているケースも珍しくない。

 例えばMusical-lyには、前述のタイムストレッチ撮影機能が実装されているが、この撮影中は音楽の再生速度を遅くしている分、その自撮りの最中に手に持ったスマホを操作し、様々なアングルの変化をつけたり、パンを行ったりすることが比較的自由に行える。つまり時間を操作することによって、小技を効かせる余地が生まれる。そしてその小技は、MVのアーティスト撮影で駆使されるものに類似しているため、自撮り像をアーティストであるかのように錯覚させる印象を付与できることになる。

 そして映る側の動作についても、MVが参照される。ハイプが実現したのは、音楽にシンクロする唇を、身体への動作へ拡張したことだった。自撮りにおいては、たとえ自撮り棒を使ったとしても、引いた視点から身体全体を広く映すことは困難だ。かといって、三脚を使えば、今度はカメラの動きのない絵になってしまう。では身体の代わりに、一体何をシンクロさせるのか。

 自撮りにおいてフレームの中心に据えられるのは、何だろうか。多くの場合、それは人の顔だ。だから唇のシンクロ機能が拡張されるのは、「手足などの身体」の動きではなく、微細な「顔の表情」の動きだ。アメリカでも日本でも芸能人のユニークなリップ・シンク動画が、Musical-lyユーザの増加を促している。例えば日本でこのアプリの普及に一役買ったのは、その卓越した「モノマネ」スキルでも有名な渡辺直美だが、彼女の投稿に見られるユーモア溢れる表情の表現に、ハイプが撮影したバスタ・ライムスやミッシー・エリオットのそれを重ね合わせ、その類似性を認めることは容易だ★7。Musical-lyは、音楽に対して、いわば「表情による振り付け」が行われている現場なのだ。これはモノマネにおいて、顔の微細な表情をデフォルメして歌にシンクロさせるのと同型の想像力が駆使されている。

 このように見ていくと、Musical-lyは既存の楽曲に口パクをしてMVを作成するという点で、モノマネを駆使したパロディ動画の制作に似た想像力が駆使されていることがわかる。そしてその際のスマホというカメラによる撮影の仕方も、また被写体の動きも、自撮り像のスペクタクル化を志向しており、それは人々の自撮りへの欲望に基づくものであると、まずは言えそうだ。

 しかし本当にそれだけだろうか。

 Musical-lyは自撮りを前提としているが、何よりも、音楽を鳴らし、リップ・シンクすることを提案したアプリだ。そのことの意味を、もう一度よく考える必要がある。

9 誰の名にかけて口パクする?


 自撮りについて考えるために、セルフイメージの歴史を遡って行くと、ある事実に気付かされる。まずは動画から写真に遡ると、例えば1839年のダゲレオタイプの発明と、フランスにおける肖像写真の爆発的な流行があった。しかも発明の同年には、最古の自撮りが行われたという。さらに肖像画に遡れば、その起源は古代ギリシャ・ローマ時代、戦地に赴く恋人の影の輪郭をなぞったことから始まったとも言われている。しかしここではもちろん、肖像画の中でも、自画像について考える必要がある。

 作家が、自分の肖像を、自分で描く。例えばレンブラントやゴッホは、自画像を多く残した。彼らは、それが自分の作品であることを示すために、キャンバスに「署名」を残す。それが自画像の場合、その作品の作者と、描かれている像=作中人物が同一であることが、この署名によって担保される。

 前回連載の議論を思い出そう。ノンフィクションといったジャンルにおいて作者=語り手=作中人物の構図が成り立つ場合があるように、ラップにおいてもこの三者が同一となることが「リアル」かどうかを測る重要な指針だった。だから、ラップはノンフィクション的であるし、あるいは日本語ラップ批評家の韻踏み夫は、それを「自伝的」と指摘していた★8。フランスの自伝研究者、フィリップ・ルジュンヌが指摘したのは、自伝というジャンルにおいては、作者の固有名による「署名」こそが、作者と描かれている作中人物(=自己像)が同一であることに責任を負っているという点だった★9

 さらにラッパー自身が登場するMVにまで議論を拡張しよう。そこにラッパーの姿が映り込んでいるだけでは、ラップの作者=MVに映る作中人物という等式は担保されない。そこに映っているのは本人でないかもしれないからだ。両者の同一性を担保するには、映像の人物がラップをしている張本人であることを示す必要がある。だから、音として流れるラップに合わせて、リップ・シンクが行われる。リップ・シンクとは、つまりは「署名」のことなのだ(しかしそれは、他人の口パクかもしれないのだが)。

 であるならば、Musical-lyにおいて前提となっているリップ・シンクも、この署名としての機能を有している★10。当然だ。自撮りなのだから、作者である自分が自らの像の撮影もしている。いや、この言い方には齟齬がある。なぜなら「作者」といったときに対象となる作品とは、MV自体ではなく、ラッパーの楽曲を示していたからだ。つまり、Musical-lyにおいて作品とは、被写体が自ら作成する投稿動画のことではなく、そこで流れている楽曲を指していなければならない。

 リップ・シンクは、このように、被写体と、彼/彼女が選んだ楽曲の作者/アーティストを同一化させようとする。リップ・シンクとは、「口パク」の裏返しだったのだから。それは虚構なのだから、どんなアーティストのどんな楽曲も乗っ取ることが可能なのだ。だから、Musical-lyの根底にあるのは、署名の欲望であり、乗っ取りの欲望であり、あるいは擬態への欲望といってもよいものだろう。Musical-lyに投稿される、有名曲の口パクMV動画とは、そもそも「モノマネ」的な性質を持っていたのだから。

 この両者の同一性を捏造できてしまうのは、MVが音と映像の複合メディアだからだ。だから、むしろMVというメディアの特性を最も端的に表しているのが、リップ・シンクの虚構性だとさえ言えるだろう。そのことを確認できたいま、冒頭の問い──ヒップホップのリアルはこの虚構性をどのように乗り越えるのか──に立ち返る機は熟したと言えるだろう。しかし、その前にもうひとつだけ、議論しておかなければならないことがある。

10 風景の取っ掛かり


 それは、風景についての議論だ。なぜなら、本稿含む一連のMVの物語論は、ヒップホップの風景論の続きでもあったからだ。

 Musical-lyの投稿作品に特徴的なのは、被写体が立っている風景に共通点があることだ。ユーザが求めているのは、自己像のスペクタクル化であり、そのために自身の動きやスマホ捌きのスキルに磨きをかける。しかし一点、どうにもスペクタクル化できない点がある。

 それが風景だ。画面に映り込む風景は、大概が「自分の部屋」なのだ。Musical-lyは日常的にスナップを残すSNS的なアプリでもある。だからユーザは、わざわざロケに行くわけでもなく、自室の壁やベッドのシーツを背景に、自撮りに興じる。MVのアーティストのようなメイクを施す、あるいは衣装をまとうことはできても、セットを組むのは容易ではない。

 Musical-lyにおいては、リップ・シンクが、被写体と、流れる楽曲の作者/アーティストを同一化しようとする。自室の壁という風景が帰属するのは、他ならぬ、被写体だ。風景は、拡張された被写体だと言ってもよい。レペゼンするフッドの風景が、MVに映るラッパーの一部を形成していたように。

 本稿の前半で、プレシンクのアニメ文化を持つアメリカでは、同じくプレシンクの構造を持つMVも、過剰なシンクロ率を求める方向に発展したことを見てきた。そのシンクロを担保するのは唇を拡張した身体の動きであり、特にハイプが牽引した作品群は、いわば「身体型」のMVと呼べるものだろう。

 しかしそこで一旦先送りとしていたのは、ポストシンク(アフレコ)のアニメ文化を持つ日本において、MVはどのように発展したのかという疑問だった。

 日本においては冒頭に述べたように、リップ・シンクのズレに寛容な文化的背景があった。だから、日本のヒップホップのMVは、アメリカのように、ラッパーの身体と音楽の過剰なシンクロを求める方向に進化する条件が揃っていなかった。同時に、日本語ラップの成立過程においては、これまでの連載で述べてきたように、アメリカのMVに映り込むニューヨークの街並みに対してアンビバレントな視線を向けていた(そして90年代前半、そのアンビバレントな視線を受け止めていたMVの制作陣の中には、ハイプの名前もあったのだ!)。日本の先駆者たちにはそれらに憧れると同時に、むしろそれらを退け、日本独自の風景を獲得しなければならないという強迫観念めいた思いがあった。

 この2点から成立したのが、ラッパーの身体よりも、むしろ本来であればその後景を支えるはずの風景に焦点が当てられる、いわゆる「風景型」のMVだ。前々回取り上げたSHINGO西成の、その名の通り西成地区を舞台にした「ILL西成BLUES」や、ANARCHYの育った団地をバックにした「Fate」、OZROSAURUSの横浜の風景を追った「ROLLIN’045」などがこの系譜にあたる。レペゼンする自分たちのフッドをリリックに取り上げ、当然MVの風景にも据えるのだ。最近ではYoung Yujiroの「102号」、JEVAの「イオン」などもこの系譜と言えるだろう。
 これらのMVから確認することができるのは、Musical-lyが、被写体からの自室の壁の「引き剥がせなさ」を強調することになったように、MVのラッパーたちから、その風景を切り離すことはできないということだ。彼らはリリックにおいて、MVにおいて、そして自身のプロフィールにおいて、それらの風景を背負っている。

 そのようにラッパーと不可分な「風景」とは、本稿で追いかけてきた「音と映像のシンクロ」という観点から見ると、どのように捉えることができるのだろうか。MVの中の風景は、基本的には動きがない。それは、静止している、音を鳴らさない存在だ。唇や、その拡張の身体のように、音とシンクロすることはない。音とシンクロさせる「取っ掛かり」を持たない。リップ・シンクやボディ・シンクは可能でも、ランドスケープ・シンクは成り立たない。風景の中を車や電車が走って、音とシンクロするとしても、それは総体としての風景ではなく、個々の動きのあるオブジェクトだ。音に風景の映像が合っていると感じたとしても、それは単に心象的なもので、時間芸術である音楽と動きがシンクロしているわけではない。

 そのような意味ではMVにおける音と映像のシンクロにはふたつの種類があると言ってもよい。MVに映り込むオブジェクトの動きによる「リズム面」でのシンクロと、そこに映っているオブジェクトや風景の「心象面」でのシンクロだ。本稿でここまで扱ってきたのは一貫して、前者のリズム面でのシンクロだ。

 しかし日本のヒップホップMVはリズム面で映像との高いシンクロ率を求めなかったのだから、風景に寄り添うことは妥当だと思える。つまり、リリックに描かれているラッパーと不可分の風景を映すことで、音と映像の「心象面」でのシンクロを担保してきた。そのことが、日本の「風景型」のMVに、他ならぬ「リアル」さを与えてきたのだ。

 そもそもアメリカにおけるヒップホップMVの原点に、この「リアル」さを付与する「風景」は胚胎されていた。前々回取り上げた、アメリカのヒップホップMV黎明期の作品のひとつに、1982年にリリースされた、グランドマスター・フラッシュ・アンド・フューリアス・ファイヴの「The Message」があった。それはニューヨークの生々しい風景を映した、当時稀有なMVだった。それは、やがて日本のラップが探し求めることになる風景だった。

 この作品を嚆矢とする「風景型」のMVのいくつかを、90年代前半にハイプが手がけていたのは先述の通りだ。ではそこから「身体型」に移行するにあたり、ハイプの風景の捉え方はどのように変遷したのだろうか。

「The Message」から13年後の1995年、このビートをそのままサンプリングした楽曲がリリースされ、ヒットを飛ばした。そして同曲のMVを制作したのは、他ならぬハイプ・ウィリアムスだった。このパフ・ダディとメイスによる「Can’t Nobody Hold Me Down」のMVでは、パフ・ダディらの身体の捉え方に、本稿で観察したハイプの「身体型」MVの特徴がよく表れている。しかしここで注目するのはもちろん、彼らが身体性を剥き出しにするとき、その後景を占めている、風景だ。

 3つのヴァースから成る本曲では、MVのカットも全く異なる3つの空間を背景に展開していく。ひとつめは、パフ・ダディが高級車を疾走させる広大な砂漠。ふたつめは、彼らのボディ・シンクの後景を支える、ホワイトキューブのような、白で統一された無機質で匿名の空間。そして3つめは、ラグジュアリーなパーティピープルで埋め尽くされた部屋だ。ここではパーティピープルたちは富の記号であり、セカンドヴァースの白い空間と同様に、ふたりの固有の身体性を屹立させる器である。

 これらの風景は、ハイプ以前には見られなかったような、巨額の制作費に裏打ちされた、独特で、新しい表現に見えた。しかし、彼がそこで本当に行っているのは、風景を捨て去る、あるいは「忘却する」ことだった。MVにおける風景は、音とのシンクロをもたらさないのだから、彼にとってはもはや、どんな風景でも構わなかったのだ。彼の想像力は、ブルーバックを背景に、そこにどんな風景を合成するかを模索したのだろう。

 そして彼の下した結論はこうだった。どんな風景でも良いならば、せめてそれらをアーティストたちのスペクタクル化に費やそう。望めば、セットやロケによって、どんな風景をも使うことができるのだから。そうして、砂漠、ホワイトキューブ、記号的パーティルームといった匿名の風景をアーティストに接続することで、彼らを、浮世離れした、人間離れした存在に押し上げよう。そのようなハイプの試みは、確かに十二分に革新的だったはずだ。彼はいわばMV表現において、匿名の風景による署名を施したのだ。

11 アンリアルに開かれる肖像


 しかしそれがヒップホップのMVである以上、疑問が次々と去来する。

 これは「リアル」なのだろうか。むしろハイプが風景を捨て去ることで忘却してしまったのは、「リアル」そのものなのではないか。彼の作品群は、日本の風景型の系譜のMVと比較して、リアルさという意味では引けをとるのではないか。そもそもハイプは90年代前半、アメリカにおける風景型のMV制作の一端を担っていたのだから、リアルの担保という点からいけば「後退」したのではないか。あるいは、これもまた、巨額の制作費をかけたMVでプロモートされるアーティストにおいては「リアル」であるということなのだろうか。

 確かに「リアル」という基準で見れば、砂漠やホワイトキューブといった風景は極めて「アンリアル」なものに映る。風景を忘却するとは、ヒップホップのリアルと接続する回路をも閉ざし、実験的な作風に引き篭もることだったようにも見える。

 しかし音と映像のシンクロという観点に立ち返ってみれば、ハイプの挑戦の意味は、明らかになる。

 そのためにここで取り上げるのは、「風景自体をMV化した」とでも言うべき、ケミカル・ブラザーズの「Star Guitar」のMVだ。ヒップホップではなくダンスミュージックにカテゴライズされる楽曲のMVを敢えて援用するのには理由がある。この制作に際して白羽の矢が当たったのは、ビョークやレディオヘッドなどのMVを手がけるミシェル・ゴンドリーだ。彼はハイプに勝るとも劣らない革新性をMV表現にもたらした。その正体を、このMVの中に探してみたい。

 MVの作りは非常にシンプルだ。冒頭から約4分間にわたって、右から左に風景が流れ続ける。それは、列車の車窓に固定されたカメラによって映される「車窓からの風景」なのだ。しかしそこでは、起こるはずのないことが、起きている。つまり、決してシンクロするはずのなかった「風景」が、楽曲にシンクロしているのだ。一体どういうことだろう。

 例えば、2、4拍目のスネアが鳴るタイミングに合わせ、風景上を電柱が通過していく。耳をつんざく印象的なシンセサイザーの音が入ると、その音が持続する長さの分だけ、風景上にも線路脇の柵や壁が現れ、あるいは逆方向へ走る列車がすれ違う。途中ビートが抜けて人間の声のコーラスパートを中心とした静かなパートに移行すると、列車は減速し、匿名の人影が散見されるホームの風景が映し出される。

 では、なぜそんなことが可能なのか。まずは車窓からの景色を、いくつかのシークエンスに分割する。それをさらに細かいパーツに分割し、ビートに合わせて再構成する。風景自体はシンクロ可能な動きを持っていなくても、電車の側、つまりカメラが動くことで、風景の中のオブジェクトに「右から左へ流れる動き」を発生させ、その動きによってリズムを刻むことが可能となっているのだ。つまり、カメラの動きや、編集によるリズムへのシンクロを、このMVは実現している。その意味で、電柱や列車といったオブジェクト、そしてそれらを捉えるカメラの動きや編集作業が、ボディ・シンクにおける身体の役割を担っているのだ。その意味で、電柱とは拡張された身体である。

 しかしそれでは、この風景とは一体何だろう。車窓の風景は、この楽曲自体を聞いて、想起させられるような風景だろうか。先述したように、シンクロにはリズム面と心象面の2種類があるが、ここで問われるのは、心象的にシンクロしているのかどうかだ。

 当然ながら、この問いに、正解はない。これはまさに、チャンギージーが指摘した、楽曲の「見た目」を視覚イメージで想像できる人間の能力の話だ。心象はリスナーによって個別のものだ。歌詞があればその心象は大きく歌詞に左右されるはずだが、「Star Guitar」は歌詞のないインストの楽曲なのだから、純粋に音のみに対するイメージが問われる。

 そこには正解がないが、次のようなことは言えるだろう。逆にこの映像だけを取り出したときに、一体どのように見えるだろうか。『世界の車窓から』に代表されるような流れゆく異国の風景は、環境映像の一種であり、歯医者で診察を待つ患者の気分をリラックスするのに用いられることもある。

 一方のケミカル・ブラザーズの楽曲は、特に緊張感を伴いながら、文字通りケミカル=麻薬的な興奮をもたらすような、電子音によるダンスミュージックだ。リラックスと興奮。弛緩と緊張。要するに両者は、心象面でも全くシンクロしないだろうと考えるのが妥当だろう。
 しかし、だからこそ、ミシェルはこの風景を選択したのだ。心象面ではシンクロしないであろう環境映像の風景を、リズム面で楽曲のビートにシンクロさせることで、両者を半ば強引に紐づけること。音と映像の距離が遠ければ遠いほど、それは映像作家にとってのチャレンジとなるだろう。

 チャンギージーが指摘したように、人はどんな音楽にもその「見た目」を想像することができる。しかし、一度ある楽曲のMVを目にすると、人はその想像力を失うだろう。なぜなら、ある作家が作ったMVが、その楽曲の「見た目」として固定化され、刷り込まれてしまうからだ。この刷り込みが、あらゆる想像の可能性を排除してしまう。それだけではない。その後、その楽曲を聴く度に、固定化されたイメージが喚起されるだろう。MVというメディアが持つ、そのような音楽に対する視覚イメージの暴力に抗ったのが、ミシェルの試みではなかったか。

 これを認識した上で、再びハイプの作品に目を転じよう。バスタ・ライムスの「Put Your Hands Where My Eyes Could See」は、「Star Guitar」と異なり、ラップならではの膨大な文字数にわたるリリックのある楽曲だ。しかしながら、現実のラップ業界における自身とクルーをレペゼンするそのリリックとMVの世界観は、一見して全く相容れないように思える。映像の中でのバスタは架空の王国の王であり、部族の主である。広大な宮殿の映像や部族のダンスは、象徴的ではあるものの、非常にファンタジックな、アンリアルな世界観だ。

 あるいはパフ・ダディの「Can’t Nobody Hold Me Down」のMVにおける、砂漠やホワイトキューブはどうか。彼らの身体/衣装はリリックで歌われている「バッドボーイ(彼のレーベル名でもある)」を体現しているが、一方で後方のこれらの風景は、リリックの内容とは直接無関係なアンリアルさを湛えながら、宙吊りとなっているのだ。しかし無関係だからこそ、ハイプはこれらの世界観を選んだ。そうは言えないだろうか。

 つまり心象的には一致しない楽曲と映像の世界観を、リズム面での過剰な身体のシンクロにより、強引に紐づけているのだと。ミシェルと完全に同型の、映像作家としてチャレンジングな表現にトライしているのだと。そしてミシェルが抗ったMVの暴力性をむしろ肯定的に捉えることによって、ハイプはラッパーに、リリックだけでは到底不可能な新たなイメージを与えようとしているのだと。彼は、大衆の頭の中に固定化され、刷り込まれたラッパー像のステレオタイプに抗ったのだ。

 これらのMVが現れるまで、ラッパーにこのような風景が寄り添うことはなかった。彼らはフッドから離陸して、アンリアルな風景を生きようとしている。ハイプが手がけた商業的に成功を収めた個性的なラッパー像は、Musical-lyのユーザのようにスペクタクル化される。彼らは、自己を「見世物にしたい」欲望を抱くと同時に「見世物になってしまう」暴力性に晒されるからだ。さらに風景のアンリアルは、身体に憑依する。あるいは衣装という形を取って、身体を乗っ取る。ときにマッチョな身体を模った着ぐるみで、ときに地球外惑星の司令官のようなコスチュームで、あるいはバルーン型のお化けに扮してボディ・シンクに駆動される彼らの身体イメージは、モンスターのように肥大化していく★11。その現実離れの度合いと、過剰な故にユーモラスでさえあるイメージに即して言うなら、彼らは「カイブツ化」の一途を辿るのだ。いや、ハイプが「見世物」化を加速させ、あるいは「カイブツ化」を提案するのだ。

 そうしてみれば、ハイプにとって、リアルからアンリアルへの道程は、後退ではありえないのだ。しかしそれはあくまでも彼の映像表現の話だ。その足跡は、ヒップホップのリアルにおいては一体何を意味していたのか。



 一旦少し整理しよう。ヒップホップのMVは「身体型」と「風景型」の系譜を持っていた。「身体型」は音へのリズム面でのシンクロに特化したものだったが、このときシンクロを担保するのはリップ・シンクにおける唇を拡張した「身体」だった。

 一方の「風景型」は、ラッパーのリリックにも描かれ、ラッパー自身と不可分な「風景」を大きくフィーチャーするMVの系譜だった。風景は「リズム面」で音にシンクロすることはないものの、「心象面」でシンクロする=リアルなものだった。

 ハイプのMV群は、「身体型」のモードを切り開いたが、そこに映る風景は一見リアルからは遠ざかるものだった。しかし、MVとは、そのような距離のある音と映像同士をリップ・シンクやボディ・シンクによってリンクさせてしまうものだった。だからバスタもパフ・ダディも、そこに映るファンタジックな世界観によって、自己像をスペクタクル化する/させることができた。リリックに描かれているイメージから身を翻し、着ぐるみを被るようにして、カイブツ的な過剰性をも生きることができる。その契機になる。それがMVあるいは映像がもたらす、ひとつの効用だった。

 つまりMVは、一方で心象面でシンクロする風景を伴うことで、ラッパーのリアルさを補強し、他方でリズム面でシンクロする身体の後ろに広がるアンリアルな風景を伴うことで、ラッパーのイメージ像にスペクタクル性を付与するものなのだ。

 ここで僕たちは、ようやく、そして再び、冒頭の問いに戻らなければならない。つまり、MVの音と映像をつなぐ「リップ・シンク」は言い換えれば「口パク」という虚構であり、ヒップホップが追求するリアルとは相容れない。それをどう乗り越えるのか。

 まさにMusical-lyで口パクをするユーザは、幻想と知りつつそれでもアーティストに自分を重ねようとする。言い換えれば、リップ・シンクが、両者を重ねられる幻想をもたらしてくれる。それと同じように、生身のラッパーも、リリックの中のラッパー像に少しでも近づこうとする。つまり、自分自身のイデアを、「モノマネ」しようとする。Musical-lyのユーザが、アーティストの唇を中心にモノマネするように。両者が重なることが目指されるべき「リアル」であるわけだが、両者が一分の隙もなく、完全に一致することなどそもそもありえないのだ。そこにギャップがあるからこそ、リアルかどうかが問われるのだ。もっと言えば、ギャップがありながら、近づこうとモノマネすることが、リアルなのだ。

 であるならば、次のような総括が可能だろう。風景型=リアル型のMVにおいて、生身のラッパーはリリックの中に現れる風景を背負って、自己のリアルな像に近づこうと、モノマネ=リップ・シンクをする。だからここで目指される「リアル」とは、メタ視点から見たリアルだ。一方で、身体型=アンリアル型のMVにおいては、リリックとは対応しない、MV作家が提案するファンタジックな風景の中で、スペクタクル化された自己像に同一化するため、モノマネ=リップ・シンクをする。この場合も生身とイメージの距離を測るメタ視点を持つが、この「イメージ」とは風景型においてはリリックにおける像であり、身体型においては実際にMVに映し出される映像イメージである。

 逆に言えばこういうことだ。リップ・シンクはモノマネであるということこそが、元来ヒップホップのリアルとは、リリックと生身のラッパーを近づけようとする試み──リリックを反射板とするメタなリアル──であることを浮き彫りにしている。つまり、生身のラッパーが映像の中で「自分を演じている」MVというメディアこそが、このメタリアル性を改めて白日の下に晒したのだ。さらに言えば、ハイプがやったこととは、これを批評的に告発したことだ。リップ・シンクを突き詰めボディにまで拡張したのがハイプだった。彼は身体型のMVを生み出したことで、リリックの内容と、それと無関係な風景の間にも、リズム的なシンクロが成立することを批評的に示した。そのやり口は、リップ/ボディ・シンクによってヒップホップMCが拘泥するリアルの構造を曝しつつ、さらに過剰なスペクタクル性、ひいてはカイブツ性を提案することで、その強度を測り、限界領域を探るところまで至った。

 だから、リップ・シンクの虚構性は、それを乗り越えられるかどうかという問いには、回収し切れないものだ。むしろリップ・シンクの持つ虚構性とは、ヒップホップにおいて本質的な、アイデンティティの問題を浮き彫りにする契機だったのだ。

 


★1 細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか──アニメーションの表現史』、新潮社、2013年、321‐322頁。
★2 ハイプには数多くの代表作があるが、本稿に挙げた作品以外では、ミッシー・エリオットの「She’s A B**ch」「Get Ur Freak On」やバスタ・ライムスの「Gimme Some More」などが必見だ。
★3 映画研究のロジャー・ビービは、ハイプのMVの特徴に以下を挙げている。「極端な広角レンズ、あるいは魚眼レンズの使用、高反射の表面(メタリックあるいはウェット)、フレーム内の発光するオブジェクト(ネオン、白熱灯あるいは蛍光灯)、ギクシャクしたストップモーション、シンメトリーあるいは円形のセット、原色のコスチュームやセットのデザイン」(Roger Beebe/ Jason Middleton編著『MEDIUM COOL』、Duke University Press、2007年、316頁)
★4 マーク・チャンギージー『〈脳と文明〉の暗号──言語・音楽・サルからヒトへ』、中山宥訳、講談社、2013年、143‐147頁。
★5 これを言語化するなら、例えば腕を振り、空間上のA点からB点の間を往復させるとき、通常なら「A→B→A→B」と間断なくスムースな動作となるところ(等速円運動的、あるいはピストン運動的)を、ハイプの技法を使うと「A→B(しばし停止)→A(しばし停止)→B(しばし停止)」と表現される動きとなるだろう。図示するなら、前者は三角波、後者は矩形波の音波の形にも似ている。
★6 ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』、木下誠訳、ちくま学芸文庫、2003年。
★7 URL=https://www.youtube.com/watch?v=GRvnj8wzlxQ[編集部注 現在はリンク切れ]
★8 韻踏み夫「ラッパーたちの〝自伝空間〟」 URL=http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2017/06/post_7618/
★9 フィリップ・ルジュンヌ『自伝契約』、花輪光監訳、水声社、1993年、27頁。
★10 付言すれば、2015年にMusical-lyが利用者数の伸び悩みに直面した際に取った対策が、そのアプリ名のロゴとユーザ名の両方を画面の右下に表示することだった。その改修からわずか2ヶ月後の2015年6月、このアプリはApple App Storeの全てのアプリの中で一位を獲得することになる。まさに「アプリ自身の署名」を実現しつつ、「ユーザの署名」への欲望をすくい取ったことで、爆発的なヒットとなったのだ。
★11 バスタ・ライムス「Gimme Some More」、ミッシー・エリオット「She’s A B**ch」「The Rain [Supa Dupa Fly]」のMVを参照。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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