アンビバレント・ヒップホップ(8)ねじれた自意識、ラップの生き死に|吉田雅史

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初出:2017年4月14日刊行『ゲンロンβ13』

1 アメリカの影、再び



わたし達は、このねじれについて考えようとすれば、まず、その「ねじれ」を指摘することから、はじめなくてはいけない。ダサい、ダサくない、という、〝センス〟の問題ではなく、事実として、わたし達はセンスを云々する遥か手前で、口悪くいえば低能、言葉を改めれば、何かを激しく欠落させた国民なのである。
(加藤典洋『敗戦後論』、ちくま学芸文庫、二〇一五年、一六一七頁)


 これまでの本連載においては、ラップ・ミュージックを取り巻く環境、そしてビートに代表されるそのサウンド面、あるいはジェスチャーなどについて議論を進めてきた。つまり敢えてラップのリリックそのものを論の中心に据えることはなかった。ラップやラッパーを論じようとする際には、そのリリックの内容や構造の分析が典型的な方法と言えるだろう。本連載においては、それとは異なるアプローチで語り得ることを検証して来たことになる。しかしリリックを全く扱ってこなかったわけではない。実際に、ケンドリック・ラマーや本連載の番外編における鬼、あるいはNasやNIPPSといったラッパーたちのリリックを要所要所で取り上げてきた手つきの背後には、実は一つの欲望があった。その欲望は、アメリカのラップのリリックと日本のそれを並置するという態度に既に表れている。つまり日本語ラップと呼ばれるものを、アメリカのラップに従属するものではなく、独立したものとして捉えたいという欲望だ。

 その他のアメリカ由来の音楽ジャンルやサブカルチャーと同様に、やはり日本のラップ・ミュージックを語る上で日米関係に触れないわけにはいかない。何度でも繰り返される「アメリカの影」についての議論を、もう一度立ち上げなければならない。アメリカの影の下で目を凝らす日本語ラップの自意識と、向き合わなければならない。

「アメリカの影」については大和田俊之、磯部涼の両氏との共著『ラップは何を映しているか』(二〇一七年)の中でも触れている。そこで磯部氏が指摘している通り、様々な音楽ジャンルの中でもラップ・ミュージックにおいては特に、アメリカという参照項が現在進行形で機能している。つまり日本語ラップ誕生から三〇年が経過した現在でも「アメリカの影」はいまだ極めて色濃いのだ。なぜか。アメリカからの輸入と翻訳によって始まったジャンルの中でも、なぜヒップホップは特にアメリカを忘却できないのか。

 昨今の再評価により、日本語ラップの歴史が改めて検討される中、その黎明期を支えた多くのアーティストの、当時を回想する証言が集められている。皆が口を揃えて言及するのが、一九八三年に日本でも公開された映画『ワイルド・スタイル』の衝撃だ。当時正体不明であったヒップホップなる文化を、視覚化したのがこの映画であり、豪華出演陣も揃って日本にやって来てパフォーマンスを行ったことにより、その影響力は否応無しに増すこととなった。日本語ラップの自意識にとって「『ワイルド・スタイル』の衝撃」は、途方もない駆動力となると同時に、その視覚化された衝撃が圧倒的であったがゆえに、ある種トラウマティックな敗北感のような傷跡をも残した。この映画に衝撃を受けた、日本におけるヒップホップの先駆者となるアーティストたちは一様に、まずは作中や来日した出演者たちの格好を真似ることから一歩を踏み出す。日本における欧米文化の輸入が得てしてそうであったように、ヒップホップにおいてもDJやラップなどの音楽的なコンテンツに先行して、まずは外見や、見た目で分かりやすいブレイクダンスのコピーから着手された★1。しかし、『ワイルド・スタイル』がまさにどのように他と異なる独自の「スタイル」を打ち立てるかというヒップホップの理念を象徴化させたフィルムだっただけに、この態度は非常にアイロニカルに映る。このアイロニーから脱しない限り、日本語ラップの自意識が、いわば戦後的な状況から自由になることは難しいだろう。しかし議論を先取りするならば、アメリカの影から自由になれないところにこそ、日本語ラップの可能性がある。

 そのようにして、まずは外見のスタイルから入った先駆者たちは、直ちにとある問題に直面することとなる。ラップで一体何を歌うのか、という問題だ。最初はパーティラップ一色に見えたアメリカのラップを、ダンスミュージックとして受容することは難しくなかった。しかし徐々にラップは、アメリカ黒人たちの置かれた差別的な状況を映し出す鏡となる。グランドマスター・フラッシュ・アンド・フューリアス・ファイヴが一九八三年に「ザ・メッセージ」においてゲットーを描写したとき、アメリカのラップは、ただ目の前に広がる「風景」が強力なサブジェクトとなることを、歪んだ形で発見した★2。やがてラップの主題は、ゲットーやストリート、ギャングスタライフなどを描くハードコアなものへと変容して行った。

 加藤典洋が冒頭の引用でも指摘しているように、日本が抱えている「ねじれ」が生まれた背景には、「義」や「理」を信じた兵士たちの死の意味が、敗戦によって失われてしまったという状況があった。そして二度と戦争を行わない国であるという日本の属性が、押しつけられたとも、自分で獲得したとも明言しづらい、戦後の日本社会において、「ねじれ」は無意識下に抑えつけられる。日本語ラップにおいても、日本人が日本語でラップを行うことのオーセンティシティ、つまり真正性が担保できているかが常に問われてきた。アメリカ産をオリジナルと見たときに、日本語ラップおよびその動機は偽物と見做されないか。日本語でラップすることの「義」や「理」、もっと素朴に言うなら理由をどこに求めるか。アメリカのラップとて、最初はパーティラップとしてサウスブロンクスで誕生した。パーティのためのダンスミュージックを求めることに、そもそも何か真正性を問われるべき理由があっただろうか。それを希求せざるをえない、社会的状況が背後にあったとしても、本来、人がダンスミュージックを求めることに特別な理由が必要だろうか。しかし八〇~九〇年代を経て、やがてラップは黒人の置かれた状況を鑑みて、ストリートやゲットーをリアルに描くべきであり、結果として政治性や社会性を孕んだメッセージを発信すべきとの見方が出てくる。ここ日本からの見え方も、それがラップをする理由であり、真正性を保持する手段である、という理解が力を持つようになる。しかし単一民族で国民総中流と言われた日本人が、ポストモダンの消費社会の中でこのようなアメリカ産のリリックの「スタイル」を含めてサンプリングすることは困難を極めた。つまり日本独自の「風景」の探求が、即ち日本語ラップの成立の歴史と言っても良いだろう。

 以上のように、日本語ラップの自意識の置きどころが、アメリカの影に捉われているのだとすれば、探るべきは、その理由と経緯である。さらにアメリカの影に応答する態度を記述しようと試みることで、日本語ラップのひとつの側面が露わになるだろう。この試みにおいて、まずは本論を序論と位置付けたい。より詳細な分析は別途継続して行うこととし、本論においては最初にこの試みの意義を示しつつ、全体の枠組みを提示したい。

2 日本語ラップという片割れのバンズ


 加藤典洋は『アメリカの影』(一九八五年)の中で、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(一九七六年)と田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(一九八〇年)というふたつの作品に対する文壇の一般的な評価と、江藤淳による評価の間の差異に着目している。文壇からは全く評価されない『なんとなく、クリスタル』に、江藤は日米関係における日本の「弱さ」の自覚という批評精神を見出しているというのが加藤の指摘だ。つまり日本が隠蔽しようとしている、アメリカなしではやっていけないという「弱さ」が作品に表れているというのだ。文壇は、この弱さを見せつけられたことで怒り、これを全否定した。一方の『限りなく透明に近いブルー』に象徴的な「ヤンキー・ゴウ・ホーム!」というメッセージは文壇を代弁しており、「反抗の子」として評価された。しかし、江藤はこの「反抗心」は見せかけの虚勢でしかないことを見抜いていたがゆえにこれを評価せず、むしろ日本が隠匿しようとしている「弱さ」が否応なしに表れてしまっている作品の方を評価したのだ。

 アメリカから独立してやっていきたいが、同時にアメリカなしではやっていけないという、アメリカへのアンビバレントな感情。それは、まさに日本語ラップがその黎明期から胚胎し、幾度となく相対することを余儀なくされてきた試金石のようなものである。アメリカで生まれたヒップホップに近づいては離れ、また近づいては離れ、そのスタイルの模倣度の洗練と、独自の「風景」の探求の間で日本語ラップは発展した。先述のように、一九八〇年代中盤の日本におけるヒップホップの黎明期に、先駆者たちがサウスブロンクスのゲットーやストリートに類する「風景」を見つけるのは困難だった。しかし、いとうせいこうがその文学的想像力で東京とブロンクスを接続し、マイクロフォンペイジャーは渋谷の風景を立ち上げ、キングギドラが日本語ラップのストーリーテリングの型を示す。日本独自のテーマを追求する姿勢は、やがて右傾化につながっていくが、この右傾化の流れとそれに伴う議論を経て、いまや日本語ラップが主題とする対象はかつてなく多様化しているように見える。先述した鬼やMSC、ANARCHY、BADHOPらの登場により、日本は描くべきストリートやゲットーという「風景」を持たないという言説は過去のものとなった。ゲットーの現実を作品に昇華するラップ・ミュージックの存在により、まさにゲットーの現実から脱出することが可能となったという、ヒップホップを実践することの「義」や「理」が、日本においてもねじれを含みながらも漸く獲得されたと言ってもよいだろう。しかしKOHHが描く目の前の光景や、ゆるふわギャングが描くある種ファンタジックな世界観と、アメリカとの距離はどれほどのものだろうか★3

 果たして日本語ラップは、『なんとなく、クリスタル』のように透けて見える「弱さ」が漏れ出すに任せているだろうか。それとも『限りなく透明に近いブルー』のようなアメリカに中指を突きつける反抗心が全面に躍り出ることで、この「弱さ」は巧妙に隠蔽されているだろうか。この問いの答え、すなわち日本語ラップのアメリカの影に対する態度を探ることで、日本語ラップの自意識の核心部に迫ることになるだろう。そしてその答えのヒントとなるのは、日本語ラップと同様にアメリカの影に向き合わざるを得ない日本のサブカルチャーが、どのようにこの影と付き合って来たかを見てみること、それらのサブカルチャーとアメリカの関係を論じた批評の言説に着目することだ。

 東浩紀は『動物化するポストモダン』(二〇〇一年)の中で、オタク系文化の発展の歴史を次のように記述している。「オタク系文化の歴史とは、アメリカ文化をいかに『国産化』するか、その換骨奪胎の歴史だった」のだと。日本が誇るアニメや特撮の表現には、極めて日本的な意匠が表れているが、それは岡田斗司夫や村上隆が指摘するように、江戸時代に遡って指摘できるような日本が元来持っている性質に類似するものである。しかし江戸時代と現代の文化の表現が直結しているわけではなく、それが日本的なものと認識される過程は「ねじれ」たものであった。つまり「オタクと日本のあいだには、アメリカがはさまっている」というのが東の指摘だった★4

 この考え方をこのまま日本語ラップにも適用してみようとするならば、日本語で為される日本のラップに、歴史的に日本語で為されてきた歌や文学の特質が表れていることを指摘するのは、それほど難しくはなさそうだ。特に俳句や短歌のように定型の韻律を持ち、テクスト上だけではなく発語される言葉を用いた文化を、現代詩を媒介とし、ラップと比較する試みが想像されよう。実際に、佐藤雄一が都築響一との対談において、トコナ・Xと歌舞伎の弁天小僧の台詞を比較し、五七調の定型の問題を考察している★5。日本語のラップである以上、最終的には定型の影から逃れられないのが宿命であるが、トコナ・Xは平板な日本語に巧みに強弱のアクセントをつけ、それを見事に乗り越えようとしている。しかし実際のところ、日本語ラップにおいて五七調の乗り越えが、意識的に目論まれる例は稀であり、寧ろ単にイメージの問題から暗黙裡に忌避されてきたといっても過言ではない。

 そこには、日本語ラップが自己のオーセンティシティを獲得するために、短絡的に古典文学との類似性を見出そうとすることへの胡散臭さに、過敏に反応する心性があるだろう。加えて、起承転結の話の面白さ、あるいはフリースタイルにおける即興の話術という側面から、落語や漫談との類似性を指摘する向きもあるが、これに対しても特にハードコアなラップの精神性を愛でるオーディエンスからは同様の拒絶反応にも似た応答が見られる。すなわち、落語、漫談、お笑い、ダジャレ、俳句、短歌といったキーワードは、日本語ラップは「ダサい」と批判されるときに関連付けられるステレオタイプと見做されがちである。より大きなイメージで括ってしまえば「芸能」の世界と言ってもよいだろう。オタク系文化とは異なり、特に日本語ラップの自意識は、アイデンティティの確立を目指した時期に、この「芸能」という日本独自の「強さ」となりうる武器を振るうことを避けざるを得なかった。そのことが、結果的にアメリカに対する「弱さ」に抗う力を弱める一端となったのではないだろうか★6。勿論、東が「ポストモダン」の解説において「現在の文化状況を、五〇年前、一〇〇年前の延長線上に安直に位置づけることはできない」と指摘するように★7、何れの文化も日本の伝統との「安直」な接続を拒んでいる。それでも、オタク系文化との比較において、日本語ラップは、「アメリカをはさむ」べき伝統的な日本の像を掴み損なったと言えないだろうか。

 このような差異が明らかである一方で、オタク系文化と日本語ラップの間には、互いのアメリカとの関係性を考察する上で有益と思われる類似性も見出せるだろう。たとえばオタク系文化が持つポストモダン的な想像力に着目するのであれば、日本語ラップ黎明期のいとうせいこうの手つきを見れば、その類似性は明らかだ。東は、オタク系文化に潜む、アメリカ産の材料で伝統的な日本を擬似的に蘇らせるという欲望について指摘したが、ラップに当てはめれば、たとえばいとうせいこうや志人が、義太夫や催馬楽などの日本の伝統的な表現手法や極めて日本的なモチーフを、ラップというフォームを用いて再起動している姿が想起させられる。また、東がモデル化したデータベースモデルについても、大山エンリコイサムが『アゲインスト・リテラシー』(二〇一五年)でグラフィティにそれを応用したモデルを提示したのと同様の手つきで、ラッパーやラップの楽曲への適用についての考察が可能だろう。特に昨今のフリースタイルブームでラッパーがキャラクターとして受容されている状況を考えれば、データベースモデルへの接続は避けて通れないとすらいえるのではないか★8

 さらに東は、動物化するアメリカ型社会を批判し、スノッブ化する日本型社会を肯定したアレクサンドル・コジェーヴを当時日本のポストモダニストたちが好んで参照したことを指摘している。つまり人々がむしろ日本がアメリカに影響を与える側に立つと見ることで、アメリカの影は隠蔽され、オタクたちが固執する日本のイメージがアメリカ産の偽物でしかないことは忘却された。実はこれに似たことが、日本語ラップの世界でも起こった。それでは日本語ラップの自意識は、アメリカ産の偽物であることをいかに忘却しようとしたのか。

3 「J化」に抗うこと


J-RAPは死んだ。俺が殺した。

(ECD、「さんピンCAMP」の冒頭のMCより)

 一九九〇年代半ば、日本的な「風景」の獲得に奔走する日本語ラップシーンには、次々にアンダーグラウンドの才能が登場する。しかし彼らの革新的なアーティスト像や作品群も、やはりアメリカ産の翻訳であることは免れ得なかった。そのような出口のない隘路に捉われた感覚がアーティスト同士でも共有される状況を打破するように、あるイベントの開催が企画される。そしてこのイベントこそが、件の忘却装置としても機能することになる。

 日本語ラップ史の歴史的モニュメント。「さんピンCAMP」と名付けられた伝説的イベントは、予め伝説となることを宿命付けられたイベントだった。先行して配布されたフライヤーには「RAP版ウッドストック」「後世まで語り続けられることになる」などの文言が踊り、当時のアンダーグラウンドでハードコアな気風を負ったアーティストたちが一同に会し★9、その様子はドキュメンタリーにされるべく、最初からカメラに収められていた。主催のECDはこのイベントを歴史的なものにし、さらに彼らのアンダーグラウンドな立ち位置に、日本語ラップの「義」や「理」を付与するため、彼らの「敵」を仮構し、カウンターとしての振る舞いを選択する。「敵」を仮構するといっても、そこには十分な理由があった。彼らが相手取ったのは、いわゆる「J-RAP」と呼ばれる、商業的に成功を収めているものの、そこに何の「義」も「理」も持たず単にラップをポップ・ミュージックの手法として採用していると目される音楽であった。しかし世の中でのラップのイメージは、商業的に成功を収めている「J-RAP」に仮託されてしまう。これまで数多くのアーティストたちが粉骨砕身してきたオーセンティックな日本語ラップ成立のための活動も、中身のない単なるポップ音楽の表象に覆われかねない状況がそこにはあった。そこで危機感を募らせた彼らは、向き合うべき対立軸を、日米ではなく、日本国内の敵との間に見出し、それに勝利し「義」を獲得しようとする。そしてそのことにより、さんピン側、J-RAP側の争いの結果、どちらが真正性を獲得するように見えようとも、ラップがそもそもアメリカ産の偽物なのではないかという疑念は、忘却される。

「J-RAP」という名は、「J-POP」からの派生であるが、この「J」を巡る言説の中で重要なのが、浅田彰による「J回帰」の指摘だ。「〈J回帰〉の行方★10と題されたこの文章で、浅田は九〇年代を「J回帰」の時代であったとし、「J-POP」を始めとしてあらゆるものがJ化され、グローバルな世界の中で日本が自閉しようとしたと指摘する。それは天皇制にまで及んだ。アメリカのカルチャーも、日本の伝統も、すべてが「J」で括られてしまう。浅田はこの文章内で東浩紀にも触れているが、そこには、勿論オタク系文化も含まれる。この「J」とは言い換えればシミュラクルとしての日本ということだ。「J回帰」するとは、本来は日本の伝統文化とは言えないが、「J」で括ることによって身近なものとして感じられてしまうことを指す。

 そう考えてみれば、日本語ラップが「さんピンCAMP」で目指したのは、ヒップホップの「J化」阻止であったと言える。日本語ラップは、この「J化」阻止の運動の中で立ち上がったのだ。ECDはJ-RAPの死を宣言した。だから、日本語ラップはその他の「J」に括られた文化のように自閉しない。現在進行形で、アメリカの最新の潮流を追い続けている。アメリカの影を、一身に受け止めている。「J化」は、結局はヒップホップのオーセンティシティを失うことだ。中途半端に馴染み深いものへ折衷してしまうのではなく、グローバルなヒップホップに開かれ、そのエッジを生きること。「J化」との戦いによりもたらされた、アメリカ産の偽物だという出自の忘却の先で、本物/偽物という分類に回収されない自意識を持つこと。現在進行形で新たな地平を切り開き続けるアメリカ産のヒップホップの影響を強く受けつつも、それに比肩するオリジナリティをも獲得するために、その影とぶつかり合うこと。

 実際に、アメリカ南部、たとえばアトランタが牽引する最新のトレンドが、ニューヨークで消化されニューヨーク産の訛りが添加されるように、それは日本でも翻訳され日本訛りが付与される。別途詳述する必要があるが、言語の違いがかつてほど大きな問題でなくなった現在において、ニューヨークより日本の方がアトランタに近いと思えることさえある★11

 話を「〈J回帰〉の行方」に戻せば、浅田は同文章の最後で、「J回帰」の浅薄さと、「JAPAN」と「JESUS」の狭間で葛藤した内村鑑三を比較し、真にJと葛藤すべきは、「外から与えられた絶対的なドグマ」である、と指摘する。キリスト教の次に入ってきた外部からのドグマが共産主義だった。共産主義は、冷戦の終わりともに、完全に崩壊する。それと同時期に日本に入って来たヒップホップもまた、「外から与えられた絶対的なドグマ」に見える。この文化は、多くのサブカル文化と同じく「信者」と呼ばれる者たちを生み出す。ヒップホップは単にいち音楽ジャンルではなく、生き方であるとしばしば定義され、ある行為や考え方が「ヒップホップであるかどうか」が度々議論される。その背景には、ヒップホップか否かを判断する、超越的な存在が措定されている。さんピン世代のラッパーたちは偏執的とも言えるほどの熱意で、この超越者の存在を証明しようとしたと言ってもよい。その一角、ニューヨークからオーセンティックなヒップホップを持ち帰ったブッダ・ブランドは「伝道師」や「黒船」を名乗ったが、その道は平坦ではなかった。あるいはキングギドラのジブラは最初は英語でラップしていたが、複数回に渡るスタイルの変更を経て、日本語で、あの声でラップするスタイルに辿り着いた。そこには、内村鑑三と比較されうる、ヒップホップというドグマと自己のアイデンティティを巡る葛藤があったはずだ。そしてアメリカの影に捉われ、いわば手足を縛られつつもこの葛藤と向き合い続けている日本語ラップは、だからこそ、危うい緊張感の下で生き続けているジャンルなのだ★12

 

 以上見てきたように、日本語ラップにおいて、アメリカの影が色濃いこと、そしてそれがなぜ力を持っているかの理由はある程度示された。しかしひとつ付言しておきたい。序論であることを宣言した本稿は、日本語ラップの自意識が、アメリカの影の下で、どのように独自の「義」を獲得するかを描こうという試みだった。そしてこの論自体が、日本語ラップを批評の言説と接続することの「義」を獲得したいという欲望に突き動かされていることもまた事実である。

 次回の連載では、いまだ答えが出ていない問い――日本語ラップの自意識は、『限りなく透明に近いブルー』的な見せかけの虚勢としての反抗心に駆動されているのか、『なんとなく、クリスタル』のように「弱さ」を漏出させているのか――への答えを、引き続き探りたい。


 ※本稿は、日本語ラップ批評を展開する「韻踏み夫」の名で知られる中村拓哉氏との対話から多くの着想を得た。同氏に感謝の意を表したい。

 


★1 『ワイルド・スタイル』の出演者たちのプロモーション来日を目の当たりにしたDJ KRUSHはその後、まずは見た目に華があるダンスに惹かれたと当時を回想し、音楽ライターの荏開津広はそれを実際に観た者にしか分からないであろう「ショック」を言葉にしている。また、日本語ラッパーのパイオニアの一人、高木完も同様に、ブレイクダンスとグラフィティこそがビジュアル的に理解できるものだったと指摘している。
★2 「風景」と「発見」と書くと、即座に柄谷行人の『日本近代文学の起源』が思い出されるかもしれない。柄谷は「風景が出現するためには、いわば知覚の様態が変わらなければならない」とし、そのためには「ある逆転が必要なのだ」と指摘した。風景は「周囲の外的なものに無関心であるような『内的人間』」「『外』をみない人間」によって見出されるのだと。
 グランドマスター・フラッシュ・アンド・フューリアス・ファイヴの「ザ・メッセージ」が発見したゲットーの風景については、少し補足しておく必要がある。当時、パーティラップの流行の中、ゲットーの陰惨な状況を歌う同曲は異質であった。同曲は外部ライターによる持ち込みの楽曲であり、ラッパーたちは誰もこの曲が売れると思わなかったため、レコーディングを拒否し、唯一口説かれたラッパーの一人、メリー・メルのみがレコーディングブースに向かったという曰く付きの一曲だ。結局プロデューサーやレコード会社側の判断でこの曲はリリースされ、ヒットするばかりかヒップホップの歴史に刻まれる一曲となった。つまりラッパーたちが発見し損なった風景が、この楽曲がヒットしたという事実により、事後的に発見されたと言ってもよい。にもかかわらず、結局のところ、ゲットーは彼らラッパーたちに発見されたのである。彼らにとってその風景は目の前に存在する当たり前のものだったわけだが、それゆえに、その風景に対する彼らの「周囲の外的なものに無関心である」「内的」な態度が形成され、結果的にはまさにその風景を見出すに至ったという、歪んだプロセスがあった。
★3 付言するなら、一九九五年以降、日本語ラップは震災やオウム事件に起因する社会不安を対象とすることができたはずだが、それらを直接的に描いたものはあまりなかった。しかし、3・11を描く楽曲は数多く、この原因については別途検討する必要があるが、先日、宇多丸が「幸か不幸か日本はラップの似合う国になってしまった」と発言したように、昨今の日本においては、一見すると、もはや社会的な対象についてラップを行う「義」や「理」を探す必要はないようにも見える。
★4 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、二〇〇一年、二〇頁。
★5 都築響一+佐藤雄一「ヒップホップというリアル」、『現代詩手帖』二〇一三年九月号、思潮社。
★6 この点については別途詳細な検討が必要だが、いとうせいこうは、ここでいう「芸能」を背負って立つアイコンと言ってもよい。いとうは近年、フリースタイルダンジョンの審査員としての抜擢や「せいこうフェス」の成功がありつつも、オーセンティックなヒップホップを求める者たちからは色眼鏡越しに見られ続けているところがあることを確認しておきたい。
★7 東浩紀『動物化するポストモダン』、一五頁。
★8 そのキャラクター同士の関係性や過去のバトルの文脈、SNSなどで透けるプライベートな部分が併せてコンテンツを補強する要素として受容されていることから、戦後の作家と文壇が織りなした関係性との類似を見ることも有意義かもしれない。当時の作家たちは私小説に取り組み、小説内と小説外の現実の重なりに読者の欲望が表れたのであり、同じくラッパーが描く私小説的な作品内のリアルと現実の重なりが相似形を成しているのは明らかだからだ。
★9 主な出演者は、ECD、キングギドラ、ブッダ・ブランド、ライムスター、ユーザロック、雷、ムロなど。
★10 浅田彰「〈J回帰〉の行方」、『VOICE』、PHP研究所、二〇〇〇年(リンク先は「批評空間アーカイブ」に再録されたもの)。 http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice0003.html
★11 アメリカにおけるトラップと呼ばれる南部のラップのサブジャンルの登場により、リリックは記号化、あるいは幼児化し、何を言っているのか分からないものとなりつつある。それらはマンブル・ラップあるいはポストテクスト・ラップなどとも呼ばれる。アトランタを中心とするトラップのプレイヤーたちと、従来のオーセンティックなラップを維持しようとするニューヨークのMCたちの間の価値観の差異は、もはや同じジャンル内とは思えないほど開いている。そのため、むしろ日本の方が距離が近いとさえ言える状況が生まれている。
★12 一方には、J-POPや歌謡曲など国内の音楽だけに影響を受け、ドメスティックで完結するアーティストたちが登場している。柴那典『ヒットの崩壊』(講談社現代新書、二〇一六年)で指摘されるように、彼らはもはや洋楽にコンプレックスを抱くことなく、日本的な感性を誇りにして堂々と音楽を作っているという。これは「J化」する日本がシミュラクルであることを疑うことがなくなったというひとつの形だろう。しかし日本語ラップの自意識は、シミュラクル化を回避し、右傾化も経て、なおアメリカの影に苛まされている点で、非常に自覚的である。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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