アンビバレント・ヒップホップ(10) 訛りのある眼差し──日本語ラップ風景論|吉田雅史

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初出:2017年09月22日刊行『ゲンロンβ17』

1 暗室に籠らば言葉を得る


 前回の連載では、詩人の小野十三郎が戦後に提示した「短歌的抒情の否定」という手法に注目した。小野は日本人に根付いている「短歌的抒情」が、戦時下において翼賛的なものとなり得ることに警鐘を鳴らしつつ、これが詩歌のみならず他のジャンルでも見られるものであることを指摘した。

 この「短歌的抒情の否定」を示した彼の詩作は、これまでにない大阪の風景を見出すものだった。そして抒情を排したこの詩人の眼差しは「モノクロームのカメラアイ」とも形容され、同じように風景を相手取る写真家たちの眼差しに通ずるものでもあった。特に独特の「アレ・ブレ・ボケ」を方法論の中心に据えた中平卓馬の写真と、小野の詩篇には、まるで同じ風景を描いているかのような眼差しが見受けられた。

 中平の「アレ・ブレ・ボケ」は、モノクローム撮影による「暗室作業」の産物であり、彼はそれを「手の痕跡」と呼んだ。であるならば、小野にとっての「暗室作業」もまた、存在するはずだ。その正体を掴むことが、小野の詩作の核心に迫ることであり、ひいては日本語ラップの可能性に接続する糸口となるのではないか、というのが前回最終部での見立てだった。

 それらを踏まえて、まずは小野にとっての「暗室作業」とは何かについて考察したい。

 



 中平のモノクローム写真においては、「暗室作業」という「手の痕跡」を伴う営みがあって、初めて像が現れる。デジタルとは違い、時間をかけて露光や現像といった工程を経て、ネガへ、そして印画紙へ像を定着させる必要がある。

 もちろん、昨今のインスタグラムのフィルター機能に象徴されるように、写真を撮る行為とは、風景そのままを切り取るものではない。そこには写真を撮る主体の恣意的な操作が必ず介在する。どんな写真にも主観性が働き、完全に客観的ではあり得ない。モノクローム写真の場合は特に、暗室作業を経ることによって、逆にその恣意性が露わになるのだと言ってもいいだろう。

 当然、風景を言語化するにあたっても同様に、恣意性が前提となる。小野のような詩人の場合も、これと格闘する。見たままを描こうとする。とある風景に決定的なインスピレーションを受け、それを言語化=紙の上に定着させようとする。

 ではその際に、詩人はどのような格闘のプロセスを経るのだろうか。もし、言語化にあたり、一定の時間を要する何らかの工程を必要とするのならば、それこそを「暗室作業」と呼べるのではないか。

 



 そもそも、詩人は詩のことばを生み出すのに、どれくらい時間をかけているのか。たとえば詩人の谷川俊太郎と吉増剛造の対談の中に、この点についての言及がある。谷川は、その場ですぐに詩を書くという行為は、他の詩人と共作を行う連詩の経験を経て可能になったというが、自分だけの詩を書くときは気軽にはいかず、時間をかけて「吐き気を催しながら書いている」という★1。また、吉増剛造は、たとえば旅での経験を、十分に自分の中で「醗酵」もさせず、すぐに詩にするような詩人のことを「馬鹿にしていた」ところがあったと吐露している。

 これらの証言から理解できるのは、谷川も吉増も基本的には、写真家がシャッターを切る一瞬を引き延ばし、「暗室」に時には何ヶ月も何年も篭り続け、その風景を、紙に文字で定着させるような方法を取っているということだ。経験を醗酵させることもなく、吐き気を催すような言語化への格闘を経ずして、良い詩は生まれ得ない。そのような考え方は、確かにある。

 しかし二人とも同時に、以前と比較すると、徐々に気軽にその場で詩を書くことができるようになって来ていると話してもいる(吉増はこれを、自分が「スレて」きたからだと言う)。もっと直感的に、感じるままに、フリースタイルのように。そのようにして生まれる詩も、また存在するということだろう。

 結局のところ、言語化を遂げるまでに要する時間や手法というのは、詩作の種類により様々であり一般化するのは困難だということだ。であるならば、当の小野は、どのようなアプローチをしていたのだろうか。

 小野の代表作のひとつに「葦の地方」と名付けられた、次のような詩篇がある。


遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた葦原の上に
 
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシヤのようなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹逹や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。★2


 エッセイ集『奇妙な本棚』の記述によれば、この詩は「制作年月日を、いまだにおぼえているただ一つの詩」である。そして、詩の中に示されている季節は「晩秋」だが、実際に書いたのは、「昭和十四年の元旦の朝」であった★3。この風景が彼の網膜に焼き付いてから、少なくとも数カ月の時間を経て、この詩は書かれたことになる。つまり、小野もまた、やはり一定の時間を経て言語化しているわけで、その、言葉に落とし込むまでの意識/無意識下の過程を「暗室作業」と呼んでもいいだろう。

 中平が暗室作業を「手の痕跡」と言ったのは、「アレ・ブレ・ボケ」を生みだす「操作」、あるいは「加工」があったからだが、どんな写真にも一定の「操作」が存在するのもまた事実だ。

 それでは小野にとっての「暗室作業」、即ち「言葉に落とし込む意識/無意識下の過程」における具体的な工程=「操作」とは何だったのか。

 



 小野はこの「葦の地方」を転機に、自身の詩作の方法が改まり、以後もはや「歌」ではなくなったと記している。つまりこの一編の詩は、彼にとって最大の転換点であり、「短歌的抒情」を排することに成功した作品と言えるだろう。そのことを証明するように、小野は「〈葦の地方〉の中で書かれている絶滅するノジギクの群落が、非常の風景の中で可憐なるものが死にたえてゆくさまを歌った、そんな感傷ととられたら、むしろ作者は迷惑だ」とまで言っている★4

「短歌的抒情」を排すために小野が取った手法は、この詩の後半に表れている。「硫安や 曹逹や/電気や 鋼鉄の原で」の「硫安」とは硫酸アンモニアのことであり、「曹逹(ソーダ)」は炭酸ナトリウム、そして鋼鉄と、彼がフォーカスするのは「物」自体である。彼の眼差しは、その対象の表層ではなく、その元素や構成物に向けられ、物質的なレベルで冷たく描写する。その眼差しはさらに、この後に続く彼の作品群に結実する。たとえば「明日」においては、鉄、ニッケル、ゴム、硫酸窒素、マグネシウム、「風景(六)」では、濃硫酸、二酸化炭素液、「硫酸の甕」では鉛室硫酸などの言葉が登場する。

 つまり、小野の詩作に見られる「暗室作業における操作」とは、対象を描写する言葉のレベルをズラすことだ。文脈やコンテクストから離れ、対象の表層的な見え方を超えて、その物自体として描写すること。中平の「手の痕跡」という言い方に従うなら、それはドラム缶の「液体」と書かずに「鉛室硫酸」と書く、「手による操作=エクリチュールの操作」だったのだ。

2 ブラックアウトのモメント


 小野の対象への視線を「モノクロームのカメラアイ」に喩えたのは、批評の言説であったが、実は小野も、自身の眼差しをカメラのレンズ越しのそれと対比させるような詩を書いている。「私の人工楽園」と題された作品に、次のような一節がある。


私の友はあの向ふの発電所の大煙突を遠景に把へるべくコンタクツクスをあはせる。
だがさうしてみればなんともつまらない。
私の眼は一条の電車軌道をゆき
 
掛け看板雑然たるあたりを見る。
それは米屋や八百屋や薬屋や土地会社の出張所のごときものである。


 ここでは、1930年代にドイツで誕生したカメラであるコンタックスを携えた「友」が、レンズ越しに風景を捉えることができない様子が描かれている。そしてその様子を作品に落とし込んでいるのは、紛れもなく小野の「モノクロームのカメラアイ」である。

 このとき、小野の友人が発電所の大煙突を捉えることができなかった理由は何だろうか。

 こういう風には考えられないか。

 つまり、実はこの友人は、コンタックスのシャッターを切る瞬間、風景を見ていなかったのだと。

 



 これは何も比喩ではなく、シャッターが下りるその瞬間は、フィルムを感光させるためにミラーが上がって視界が遮断されるのだから、写真家の肉眼は風景を見ていないことになる。たとえば、小原真史は、ウェブで連載した「挑発する写真家 中平卓馬」において、シャッターボタンを押して「カメラが眼を開いた瞬間」、それとは対照的に「写真家の方はまばたきをするように眼をつぶってしまう」と指摘している★5

 さらに小原は、小野の友人と同じコンタックスを携えた戦争写真家のロバート・キャパが、ノルマンディー上陸作戦を撮影した際のエピソードに触れている。キャパは「コンタックスのファインダーから目を離さず」気が触れてしまったかのように「次から次にシャッターを切った」と当時の様子を語っていたが★6、小原が指摘するのは、「あまりの恐怖のため、文字どおりシャッターを切り続けること」で視界を遮り、むしろ対象を見ないようにしていた可能性だ。さらに小原は、篠山紀信が中平卓馬との対談で、いやな場所に行ったときほどシャッターを押し続けると言及していることを指摘する★7。つまり、何らかの理由で無意識に対象を直視することを避けてしまう。

 



 そのように視覚を覆ってしまう「コンタックスを抱えた友」とは対照的なのが、小野の「モノクロームのカメラアイ」なのだ。そして、その極端な例が、対象を物として、そしてそこから位相をズラして元素として名指すことだった。

 視覚からのインプットだけを信じ、そこに安易に情感を結びつけないこと。

 その証左であるかのように、「葦の地方」の収録されている『風景詩抄』の冒頭には、彼が敬愛するダ・ヴィンチの『絵画論』から引用した「瞳は精神よりも欺かれることが少ない」という言葉が掲げられている。

 そしてこの言葉は、後に重要な役割を果たすべく、回帰するだろう。

 



 これまでの議論を踏まえれば、次に検討すべきは、ラッパーにとっての「暗室作業」の有無や、具体的な工程は何かという点だ。小野が切れ味鋭い視覚を担保にエクリチュールをズラしたように、ラッパーも何らかの「手」による操作を行うのだろうか。しかしそのような操作が可能であるにせよ、先述の詩作における連詩の例のように、ラップにもまたフリースタイル的なリアルタイム性のある詩作法があることも忘れてはならない。ラップが言語化されるまでにかかる時間を巡っては、様々なケースが考えられる。さらに、ラップの場合は、当然紙に書いて終わりではなく、それを時間軸に沿ったリズムに乗せながら音声化する=フロウする工程が後に続く★8。紙に書いたリリックに、発音のアクセントや音の長短を記譜しているラッパーも多い。

 つまり、それらのケースを考えるには、ラップが、これまで取り上げた詩や写真とは本質的に異なる「時間芸術」であることに、いよいよ踏み込んだ議論が必要となる。そこには、いま述べたような言語化に至る工程=「暗室」で過ごす期間や工程(フリースタイル的に即興で録音される曲もあれば、SHINGO★西成の「トタン」のように、小学生の頃に書いたメモを醗酵させたものもある)、リズムとフロウ、そしてそれらを現前させる「声」の問題など、様々な論点が含まれるだろう。

 後にこれらの議論を展開するにあたり、まずは当のラップに描かれる風景とは、一体どんなものなのかを見ていきたい。

3 風景の発見、再び


 ラッパーがリリックを書く際に、彼らの視覚、あるいは眼差しは、何を捉えるのだろうか。

 ラップにおいては、ある種の「リアル」を追うことが至上命題だといってもよいことは、本連載を通して度々言及してきた。しかしここで言う「リアル」とは、ラッパーが見たままを「リアル」に「描写する」ことには必ずしもつながらない。なぜだろうか。

 



 実のところ、ラップと「描写」はあまり親和性が高くない。ラッパーが「リアル」を表現するにあたって、「誰々が何々をする/した」といった、目の前の出来事/事件を描写したり、過去の体験やその心理状態を語ったりすることは多いが、一部の小説のそれのように、目の前の風景を写生する、あるいは写真に収めるような意味で描写することは稀だ。

 しかし、そのような前提の上でラッパーが描写を行うとき、対象となる「風景」とは一体何だろう。

 



 これまでの議論においても、ラップをテクストレベルで捉え、文学と類比するアプローチを度々取ってきた。だから、「日本語ラップの風景」と言うと、まずは小説で描写される風景や、これまで取り上げてきた詩歌におけるものが想起されるかもしれない。しかし実は、ラップで描かれる風景は、近代文学的なものというよりも、前近代的なものに近いのだ。

 どういうことだろう。

 日本語ラップはもちろん、ポストモダンの時代に生まれた文化であるわけだが、ここでは文学における近代/前近代の対比を確認するため、柄谷行人が近代文学の風景の誕生について考察した『日本近代文学の起源』を参照しながら、その意味を考えてみたい。

 



 柄谷は、国木田独歩の小説を例に挙げ、彼の描いた風景は、描写であり、リアリズムでもある点で自然主義的に見えるが、実はロマン主義的な自我を前提として見える風景であることを指摘する。先述したように、写真には必ず主観性が忍び込む。あらゆるジャンルで描かれる風景には、その風景を選択し描く主体の自我が映り込む。そしてときに、この自我は限りなく肥大化する。中平が、一点透視図法で風景を切り取ろうとする写真の構図に、権力構造を見て取ったほどに。

 だがラップとは、この肥大化する自我を肯定的に捉える表現形式でもある。この主体の側の問題には、また後に触れる。風景と主体の関係性を考えて初めて、そこに胚胎されうる短歌的抒情についての考察が可能となるからだ(その際には、J-POP的なラップ曲で描かれる風景とオーセンティックな日本語ラップの風景の対比も必要となるだろう)。

 



 前述したように、日本語ラップにおける描写は、近代的リアリズムであるとは言い難い。実際のところ、それは近代文学における描写よりも、それと比較されている山水画や俳句の描写に近いと言えるのではないか。つまり、写実的に=遠近法的に見るのではなく、先験的な「概念」を見るのに近いということだ。ラップによく見られる「ストリート」「ハスラー」「ドラッグ」「酒」「金」「銃」などを表すスラングを含む様々な言い回し(たとえば「銃」ならガン、チャカ、ハジキ、AKなど)は、見たものをそのまま描写しているというより、ジャンル内で頻出する概念を召喚しているのに近いからだ。

 なぜそんなことが起こるのか。それらの語は、アメリカのラップで描かれる風景を翻訳するための、いわば「翻訳語」だからだ。だからその描写は、アメリカのオーセンティックなラップの風景を翻訳して描こうとする、「スラング/ジャーゴンの塊」となる。ひとつの概念(銃)に対し、英語の原語(gun)、英語での様々なスラング(gat、glock、AK)、それらの翻訳語(銃)、カタカナ表記(ガン)、日本語での隠語(チャカ、ハジキ)等々がデータベースに登録されており、リリックの文脈や韻、フロウ上の収まりなどを検討した上で、どれを選択するかが決まる(ヒップホップスラング集/用語集=データベースへのアクセスの構図は、俳句の歳時記を彷彿とさせる)★9

 



 以上のように、柄谷による議論を日本語ラップの風景に当て嵌めてみるならば、描かれる風景は、前近代的な先験的な概念の描写に近いものだ。なぜならそれらは、アメリカのラップで描かれる風景の翻訳をベースとしたものだったからだ。

 さらに、なぜ翻訳だったのかと問うならば、その理由は前回でも触れたとおり、目の前に描くべき対象が見つからなかったからに他ならない。かつて日本語ラップが直面した課題とは、いうなれば、日本が、発見すべき風景を持たないことだったのだ。ニューヨークのラップが浮かび上がらせた、ストリート、ゲットー、プロジェクトと呼ばれる低所得者団地、そしてジェイルの風景。これに対し、日本のラップはどのような風景を相手取ってきたのか。

4 日本語ラップの風景


 たとえばグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブの「ザ・メッセージ」がリリースされた80年代。その80年代の終わりにぎりぎり滑り込んだいとうせいこうの『MESS/AGE』(1989年)に収録の「噂だけの世紀末」が描いたのは、文字通り、噂だけで作られた観念的な世界であった。それに先駆けてリリースされたいとうせいこう&TINNIE PUNXの「東京ブロンクス」には、ドアを開けたら空っぽの東京にブロンクスがやってきたという、「でかい Dance Hall」「崩れたビル」「壁にスプレー」といった風景が見られる一方で、「ラジオもない」「電話もない」という、頽廃的な世界が空想的に描かれている。

 あるいはストリートといっても、たとえばスチャダラパーの「B-BOYブンガク」(1995年)で描かれている「通り」のように、非常に観念的な、想像上のものだった。

 



 その後、90年代のいわゆる「さんピン世代」の風景は、東京(「東京地下道」by MICROPHONE PAGER、「東京の中央」by ZEEBRA)であり、渋谷(「渋谷漂流記」by RHYMESTER)であり、日本文化研究のイアン・コンドリーも指摘するように、ヒップホップがパフォーマンスされるクラブ=「現場」だった★10

 たとえばクイーンズ出身のNaSの「N.Y. State of Mind」(1994年)にインスパイアされたキングギドラの「フリースタイル・ダンジョン」(1995年)という曲がある。前者が銃撃戦が起こるようなニューヨークのストリートに生きる過酷さを描いたのに対し、後者はラッパー同士の争いをアレゴリックに見立てた、想像上のゲームを描いている。つまり、現場はストリートではなく、あくまでもラッパーたちが凌ぎを削るクラブのステージであり、サイファーだったのだ。

 しかし彼らの頭の中には依然、ラップが対峙する現場の理想像としてのストリートやゲットーのヴィジョンが渦巻いていたかもしれない。だからこそ、そのヴィジョンを振り払うかのように、日本語ラップを支えた現場としてのクラブシーンは、異常な熱気を孕むものとなったのではないだろうか。オープンマイクセッションが頻繁に行われるようなヒップホップの現場において、クラブのステージとは、誰にでも平等に開かれているオープンな場なのだから。

 



 90年代は、多くのアーティストたちが活動する現場となった東京/渋谷の風景が日本語ラップの通奏低音となっていた。しかしヒップホップという音楽/文化の持ち得る爆発的な初期衝動が東京以外の地域まで波及し、それぞれの風景を描かせるまでに、それほど時間はかからなかった。

 それが端的に表れているのは、いわゆるさんピン世代の後の78年組(1978年/昭和53年生まれのラッパーたち)と呼ばれる世代の作品群だ。彼らは渋谷/東京一極集中の先行世代に対するカウンターであるかのように、それぞれの地元をレペゼンするという意識が高く、そのことは楽曲の端々にも表れている。

 



 たとえば横浜出身の OZROSAURUS の「ROLLIN'045」(2001年)は、横浜の各所を車で流しながら、「山下の埠頭」「国際橋」「ランドマーク」などの目に映る風景を次々に描写する★11。またSEEDAの「影絵(川崎〜太田)」(2010年)では、執拗に影踏みのごとく「影」で韻を踏みながら、地元の工場群を遠景に、多摩川沿いの川崎から太田区への移動の速度感が表現されている★12

 挙げて行くとキリがないほどだが、その他にもTOKONA-Xが名古屋をニューヨークのクイーンズに見立てれば、本連載の特別編で大きくフィーチャーした鬼は「小名浜」(2008年)で、日本語ラップのリスナーにとってはサウス・ブロンクスより遥かにリアルに映るサグ・ライフのヴィジョンを提示し、またファーストアルバム『獄窓』(2009年)では、文字通り獄窓越しに見る世界への想像力を示した。

 さらに、同じ東京でも渋谷ではなく新宿を舞台にしたMSCの「新宿アンダーグラウンド・エリア」(2002年)では、文字通り「西新宿」「歌舞伎町」「大久保通り」などが見せる影の風景が描かれた。その中の有名な「道具は空のビール瓶/何も知らずに/笑顔でやってきたイランの/額目掛けてタイミングよく降る/渾身のフルスイング/まるで映画のワンシーン/だけどリアルタイム」というラインは、文字通り映画のワンシーンのような風景がそこにあることを示し、リスナーに衝撃を与えた。

 そして世代としてはさらにその後、京都の向島団地出身のANARCHYによる「Fate」(2008年)では、「よくある話/子供でもロンリー/真っ暗な家に慣れた小2」と父子家庭で育った幼少期が綴られる。団地という場が「隣の女の子泣き声響く/上じゃ酒飲みの怒鳴り声」と、ある種の共同体であり自身の居場所であることを示しながらも、その直後の「白い悪魔/博打が手招きパンク/逃げ道/団地屋上からジャンプ」と続くラインで、同時にシンナー中毒者やトラブルの絶えない脱出すべき場所でもあるということを、両義的に描いている。

 



 大阪のドヤ街である西成の長屋で育ったSHINGO★西成が「ILL西成BLUES」(2007年)で描いたのは、「焼酎やワンカップ/瓶あふれる/数以上にない/人がアブれる」「ILLなGHETTO」だ。そこでは「つまらん喧嘩は/しょっちゅう/with ポン中年がら年中」というように、トラブルは日常茶飯事だ。しかし冒頭の「俺は毎日この道歩くねん/今見える景色/俺を育んで/飾らん優しさ/いつも包んで/角の地蔵さん/まず拝んで」というラインを始め、曲全体に通底するのは西成というフッドへの愛着と愛情だ。

 同曲の「ILL西成BLUES」というタイトルからして、実は90年代を代表するレジェンダリーなラッパーのひとり、ニューヨークはクイーンズ出身のクール・G・ラップの「ILL STREET BLUES」(1992年)の翻訳(あるいはサンプリング)なのだ。しかしこの曲に見られる描写に、翻訳モノであるという印象は全くない。なぜだろうか。

 まずはリリック中に使われている語群に注目する。散見される「西成」「帝塚山」「江夏」などの固有名や、「地蔵さん」「景品交換所」「長屋」「チン電」などの日本特有の事物が、翻訳モノに留まらない描写をもたらしている。さらに、肝となっているのは「『あぁなったらあかん』て学ぶ」「金かせいどんねん」「カーブちゃう/まるで江夏の直球や」「『かわりなんぼでもおんねん』ちゃうねん!」「雑巾ちゃうぞぉ!」などの方言だ。

 「金かせいどんねん」は「make money」、「まるで江夏の直球や」はラップで比喩を用いる際に定番の「like ~」の翻訳であるのだが、データベースに登録されている標準語に比べると、その響き方は全く異なっている。

 たとえば金を稼ぐハスリング・ラップ(ヒップホップ的成り上がりの物語)の語り手としてSCARSが挙げられるが、彼らが標準語による直訳に成功した例だと言えるのは、「結局金が全て」というようなシニカルで醒めた響きを宿しているからこそだろう。それに対し、SHINGO★西成の方言が宿しているのは、ドヤ街で生きる肉体労働者の切実な響きだ。だからこそ、彼のラップは独自のリアリズムを打ち立てることに成功したのだ★13

 



 以上のように、その描かれ方は多種多様であるものの、総じて言えるのは、78年組以降の作品群には、90年代の曖昧な輪郭線で東京を描いていた楽曲群に比べると、かなり具体的に地元の風景や出来事が描写されていることだ。前述の「ILL西成BLUES」の他にも、先に挙げた鬼の「小名浜」に顕著なように(「花畑」「ハルキ」「Y30セドリック」「ダイスケ」「八郎」「ナオ」「オリカサ」etc.)、固有名詞の束から、この具体性は生まれている。事情を知らないリスナーを煙に巻くような、固有名詞の列挙。いわば誰にでも理解できる普遍的な言葉遣いから、地元や仲間うちでしか通用しない固有名や言い回し、さらには方言を混ぜ込む手法への変遷。風景の発見を下支えしていたのは、白昼、頭を上げて、誰も知らない風景をルポするような、ラップのデリヴァリの変化だったのかもしれない。

 



 そして、先述した柄谷の議論を踏まえれば、次のように言えないだろうか。

 日本語ラップは、「自分が自分であることを誇る」(by Kダブシャイン)に象徴されるようなロマン主義的な自我を前提にしつつも、背景にあるポストモダンの社会においては、柄谷が論じたような近代文学的な描写を成立させることができなかった。

 だからと言って、ロマン主義的な自我=オリジナリティを重視する自我を基礎に置くヒップホップにおいては、オタク文化が描いてきたような、データベース的な風景をそのまま受け入れることにも抵抗があった。そのような捻れは、たとえば先述のキングギドラ「フリースタイル・ダンジョン」における、ストリートにおけるシビアな精神状態を翻訳しようとしつつも、ラッパーたちの苛烈な競争を想像上の風景に重ねて描かざるを得なかったところに如実に表れている。

 このような捻れた方法論に留まることなく模索を続け、レペゼン概念の輸入と並行して発見したのが、固有名や方言を用いた描写法であり、その優れた成功例としてSHINGO★西成の「ILL西成BLUES」があったのだ。

 そしてそれらの手法もまた、小野の視覚が最終的に元素に辿り着いたように、風景をズラす眼差しをもたらしている。暗室作業における操作のひとつと言えるだろう。

 訛ることもまた、ズラすことだったのだ。

 



「転けたら立ち上がれ/未来も天と地/助けはこない/覚悟しな Ghetto kids」と歌うANARCHYや、「ILLなGHETTO/ILL西成BLUES」と歌うSHINGO★西成の佇まいからは、日本語ラップが「発見すべき風景を持たない」という課題に対峙していたことなど想像もつかないほどの、威風堂々とした確信が感じられる。

 



 付言するなら、柄谷は、シクロフスキーが「リアリズムの本質は非親和化にある」と述べていることを指摘していた★14。そこで柄谷は「リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない」(まるで「現像」のことを言っているようだ)こと、そして「それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させる」必要があることを指摘する。グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブが1982年にリリースした「ザ・メッセージ」において、ブロンクスのゲットーの風景を発見したことは、以前の連載で指摘した通りだ。

5 北の想像力による発見


 しかしこれらの動きに少々先立って、ひとりのMCが、渋谷一極体制に挑戦していた。札幌からカウンターとして現れたラッパーのBoss The MCとビートメイカーのO.N.OによるTHA BLUE HERBだ。1998年にリリースした最初の12インチ「SHOCK-SHINEの乱」でBossは、「北緯43度線」の「この街=札幌」がシーンで「カギを握る」こと、そしてパートナーでビートメイカーのO.N.Oとの「平岸五重塔」での出会いをライムする。彼らの札幌からのカウンターアタックは、予想を遥かに超えて多くの熱狂的なファンを生み出し、破竹の勢いでシーンを席巻する。しかしそんな彼らが描いたストリートは、札幌、平岸のストリートに留まらなかったのだ。

 



 息つく間もなくファーストアルバムをリリースしそれに伴うツアーに明け暮れたBoss The MCは、2000年の年末に地球を巡る旅に出かける。「3 DAYS JUMP(2001年 地球の旅)」(2002年)と名付けられた、文字通り2001年の最後の二日間と明けて2002年の最初の日の出来事を綴ったこの曲で描かれるのは、たとえば「チェンマイストリート」で実際に彼が目にした光景だ。まず風景としてのストリートを「その日はかわらず灼熱に道は乾いて/暇そうなドライバーがいて/祝福のような花が咲いて」とカメラが複数の対象に次々とフォーカスしていくように描写する。続く「あの女の人は子供を抱いて/裸足で/モントリーホテルのテラスの周りで/満腹の老夫婦に手を差し出して/多くの嫌悪とわすかななぐさみをあびて/その繰り返しで暮らしてる」というラインも、「裸足で」「周りで」や「抱いて」「出して」「あびて」と踏んでいく韻に文章の構造が規定されるため、「子供」「女の足」「ホテルのテラス」「老夫婦」「女の手」と次々に対象にズームイン/アウトするカメラのレンズ越しの眼差しを彷彿させるものとなっている。

 そしてこの旅の経験は、その後リリースされたセカンドアルバム『Sell Our Soul』(2002年)収録の「路上」で描かれる、フィクショナルなネパールのストリートにも十二分に活かされることになる★15

 



 Bossはこれらの風景を描くことで、結果、何を示すこととなったのだろうか。それらは、タイのチェンマイストリートであり、ネパールはカトマンズの路上だった。つまり、日本語ラップが探し続けたストリートの風景は、何もニューヨークだけではなく、世界のどこにでも広がっている風景であったのだ★16。そしてこの発見は、実は遡ること60年前の小野の発見と相似形を成していた。どういうことか。

 



 小野が特にフォーカスした対象は、地元の大阪の「葦原」だった。彼はチャップリンの『モダン・タイムス』に出てくる掘っ建て小屋の背後にひろがっていた広大な「葦原」に目を奪われ、「世界中どこへ行っても寂しい場所のあることを発見」した。つまり、それが「だれの眼にも映っているはずの平凡な植物」であるにもかかわらず、「これを発見(!)するためには、実に三十年の歳月を要した」のだと記している。そして後年、当時のことを「大阪のために自慢しようとは思わないが」、「もし自分の詩と思想とがなかったら、世界はついにそれを発見することはできなかっただろうというくらいの気負いが、当時のわたしにあった」と回想している★17。「葦原」は、小野にとって大阪を「レペゼン」する風景でもあったのだ★18

 



 Boss がこのことを発見した2000年以降、先述のように、78年組とその後の世代が、Bossの発見を日本に敷衍するように、日本にもストリート、ゲットー、プロジェクトと呼ばれる低所得者団地、そしてジェイルの風景があることを発見/提示する。直接的な因果関係の有無という話ではなく、時系列に並べれば、少なくともそのような現象が起こっていた。それらはアメリカだけのものではなく、世界中に見られるもの=日本にも見られるものだった。言い換えれば、それを発見する主体が現れるかどうかの問題だった。

 しかしそれらの風景とは、90年代の日本語ラップシーンにおいて、特にラッパーたちの目には、どのように映っていたか。アメリカから入ってきたラップのリリックに歌われている風景は、彼らにとっては、歌いたくても目の前に存在しないものだった。海外アーティストのPVに、ゲットーやプロジェクトの風景が映り込む度に、彼らはどこか倒錯的な憧れと失望の入り混じった、アンビバレントな眼差しを向けていた。

 



 彼らの理念と現実には、断絶があった。78年組以降の世代には、もはや巣食うことのなかったこのアンビバレンス。新世代の台頭で盛り上がるシーンの後景で、彼らはどのようにそれを乗り越えた/乗り越え損なったのだろうか。その方法を考察するのに、さらにもうひとりの詩人を取り上げたい。

6 引き裂かれた風景を見る者たち


 金時鐘は、1929年に北朝鮮の元山市で生まれた、在日朝鮮人の詩人だ。金が過ごした少年時代は、日本による皇国臣民化政策が頂点を極める時期で、朝鮮語の使用は禁止され、日本語教育が徹底された。「国語」や「唱歌」といった科目が得意で、家庭でも進んで日本語を率先して使うほどだった金は、それらを通して日本の詩歌に触れる。やがて島崎藤村や北原白秋ら近代詩人の作品を好むようになる。

 そんな自身の過去を回想する金は「子どものときに唄った "わらべうた"」、つまり「誰しもが至純に想い起こすべき幼い日の歌」を持たないと言う。あるのは日本の歌だけだと。しかしその歌に歌われるのは、日本の風景だ。自分の土地にはそのような風景がない。日本の唱歌の歌詞に入り込めば入り込むほど、地元の景色は貧しく映り遠ざかっていく。「夕やけこやけ」を歌うとき、金が実際に見ていたのは「国の瘡蓋のような家々」であり、「その藁屋根の向こうに、 "鎮守の森" を歌ごころでかぶせて」歌っていたのだという。そのような少年期に対する非常にアンビバレントな思いを、金は「みじめとも思い、かぎりなくいとおしいとも思う」と表現している★19

 



 しかし彼は、唱歌で歌われる日本の景色に否応なしに郷愁を感じてしまう。そしてそこにあったのは、日本に侵略された不幸な時代に、日本的な風景に安らぎを感じてしまうという罪悪感だった。

 かくして世界は二つに断絶される。そして、そのような風景の引き裂かれを越えるために金が選び取った方法もまた、小野の「短歌的抒情の否定」だったのだ。

 金時鐘は、日本の歌に歌われていた日本の風景を、朝鮮の地に見出すことができず、その風景に、アンビバレントな感情を抱いた。自身が対峙する世界の引き裂かれに決着をつけるためにも、彼は小野の「短歌的抒情の否定」を引き継ぎ、日本語での詩作によってこれを乗り越えようとした。

 



 一方、90年代の日本のラッパーたちもまた、アメリカのラップで歌われていたニューヨークの風景を、日本では見出せず、アンビバンレントな思いを抱えていた。やがて78年組など、後の世代がそれらの風景が日本にもあったことを発見するが、そのこと自体が先行世代のアンビバレントな捻れた感情を解消してくれるわけもない。

 であるならば、金のような立場に置かれた詩人が、二つの世界の風景の折り合いをつけた方法論にこそ、日本語ラップの歴史の後景に埋もれている捻れを理解する鍵があるのではないか。ここで金時鐘を召喚したのは、そのような見立てによるものだ。

 



 金も小野と同様に視覚を重視した詩人だが、日本でのヒップホップの需要は、連載第8回で「『ワイルド・スタイル』の衝撃」と称したように、当初から大きな視覚的インパクトを伴うものだった。だから当然、ラップを読み解く鍵はリリックに表れる視覚表現だけには収まらない。

 小野が繰り返し引用したダ・ヴィンチの言葉を再び思い出す。曰く「瞳は精神よりも欺かれることが少ない」。

 瞳と精神の関係性。メルロポンティは『眼と精神』で、見る主体(=ラッパー)は同時に見られる主体でもあることを強調した。そしてラッパーはしばしば、「見られる主体」としての自己も、リリックに落とし込んでいる。

 そのことを踏まえれば、僕たちが扱うべき視覚表現とは何か、自ずと答えはやって来ないだろうか。それは、「風景」とそれを「見る主体=見られる主体」が映り込む、「PV」である。

 探るべきは、金の方法論と、さんピン世代のラッパーの「PV」の変遷が重なり合う座標だ。詳細な議論は、次回に譲りたい。

 


★1 谷川俊太郎、吉増剛造ほか『旅 別冊』、思潮社、1995年、26-27頁。
★2 小野十三郎『定本 小野十三郎全詩集』、立風書房、1979年、106頁。
★3 小野十三郎『奇妙な本棚』、第一書店、1964年、95頁。
★4 安水稔和『小野十三郎――歌とは逆に歌』、編集工房ノア、2005年、131-132頁。
★5 小原真史「挑発する写真家 中平卓馬」。URL=http://www.ipm.jp/ipmj/kohara/kohara74b.html
★6 ロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』、文藝春秋、1979年、163頁。
★7 篠山紀信・中平卓馬『決闘写真論』、朝日新聞社、1995年、316頁。
★8 といっても、フロウを付けるにあたっては様々なやり方がある。最初にリリックを全て書いてしまってから微調整しながらフロウをつけて行く方法がひとつ。しかし大半のケースは、頭の中で言語化したテクストを一語一語、紙に落とし込む際に、都度、同時にフロウを作り込んでいく方法だ。さらには、フリースタイル的なアプローチでは、アドリブでフロウを伴うラップそのものが先行し、事後的に必要に応じて紙に落とし込むケースもある。
★9 データベースへアクセスする構図が見られるのは、これに限らない。そもそもヒップホップの楽曲の自体が、バックトラックとラップともにサンプリング/引用の上に成り立つ、ポストモダン的な面も持っているのは、よく指摘される通りだ。
★10 イアン・コンドリー『日本のヒップホップ 文化グローバリゼーションの〈現場〉』、NTT出版、2009年、150頁。
★11 海や橋が左右に広がるパースペクティヴ(「港横浜24時展望/山下の埠頭オレンジの電燈/ベイブリッジは海と平行」)を描いたかと思えば、場所を変えて「桜木町方面」へ「国際橋越えてみなとみらいへ」向かうと、今度は上下差のある風景が広がる(遊園地も眠り/夢深まり/向い側にランドマークが高い/目の赤いビルの街徘徊)。車に乗りながら外を眺める視線の動きをトレースするようにして、横浜のランドスケープ群が空間的に絡み合う様を自在に描いている。
★12 「工場から吐き出す煙は/夜空に浮かべる影/工場川崎から太田/赤い月を浮かべる」というラインで幕を開けるSEEDAの「影絵(川崎〜太田)」では、通常は同じ語で何度も韻を踏むことは避けられるライミング(多彩なボキャブラリーが優れたMCの基準のひとつだから)において、「影」「金」「酒」等々、敢えて同じ2音で何度もキレ良く踏むことで、多摩川沿いの川崎から太田区への移動の速度感と、影に付きまとわれる日常の目まぐるしさが重なり合う。「関係に影/落とし込む金/つきまとう影/影をかけぬける風/影から影をかける/見え隠れする人の影/無理な金で浴びる酒」と疾走する3分5秒間に26回も登場する「影」というワード。ラップで韻を踏むとは、過ぎ去った言葉の影を踏むようなものだ。「影」という語で次々と韻を踏む「影踏み」のリズムと、工場群を遠景に多摩川沿いを行く歩みがシンクロし、この曲を駆動している。
★13 もちろん、アメリカのラップは、何よりも黒人訛り、さらにはクイーンズ・イングリッシュなど地域の訛りの上に成り立っていた。しかしそれらの和訳は極めて困難であり、CDに付属のリリックの和訳や音楽雑誌等での紹介など、日本におけるアメリカのラップの展開は、基本的に標準語で行われてきた。
★14 柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』、岩波書店、2008年、35頁。
★15 フィクションの形を取るこの曲が示したのは、BossというMCの想像力と、ストーリーテリングをひとつの重要な様式とするラップというフォームが、どこまで物語を語り得るのかという疑問に対する回答だった。カトマンズのドラッグの売人である主人公が日々暮らす路上は、「弱者で満載の空腹の象徴」であり、「同業者や/客引きや/駆け引きや/乞食や/体重計りや/楽器売りや/ガキや/リッチな外人や/詐欺師や/海賊品」で溢れかえっている。そんな果てのない生活から自由になるため、仲間と一緒に元締めを裏切って街から脱出を図る。その逃避行の最中、仲間が口にした「最後にあの通りを見たい」という言葉通り目にした「霧を吸って嘆きを吐く」路上を遠景に、主人公の肉眼が捉えたのは、路地の両端という「両脇に閉じこめられた捕虜」としての自分自身だった。
★16 Bossのそのような眼差しは、「3 DAYS JUMP」の「その日はかわらずまたひとつも売れず/どうすることもできず一人かたづける/アクセサリー売りは地球中に住んでる/さびしさの結晶/街のフレーズ」というラインにも表れていた。さらにいうなら「アクセサリー売り」と「さびしさの結晶」の直結は、小野のように視覚だけを信じることができているか。見たものと情感がすぐに結びついてはいないか。後に議論するように、小野は抒情と情感は別物とした。
★17 小野十三郎『奇妙な本棚』、第一書店、1964年、90-93頁。
★18 付言するならこの「葦」は、大自然の中の葦ではなく、人工的な都市部の葦原だった。つまり「葦」は、工場、重油タンク、貨車、電柱といった人工物がひしめき合う風景の中の「異物」としての自然の立ち姿だった。これは、ロバート・フランクが大自然の中に佇む人工物をコントラストとしていたのとは反対だ。もっといえば、この「葦」は90年代のラッパーの姿を思わせる。いみじくもZEEBRAが結成したクルーの名前が「アーバリアン・ジム」=「都会(アーバン)」と「野蛮人(バーバリアン)」の造語だったことが、このことを良く示している(キングギドラの「東京の中央」には、「都会の野蛮人」というラインがある)。このことは、90年代の日本語ラップにおける風景を描写する側の自我のあり様を、的確に指し示している。
★19 金時鐘『わが生と詩』、岩波書店、2004年、36頁。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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