アンビバレント・ヒップホップ(9) 抒情ガ棲ミツク国ノ詩|吉田雅史

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初出:2017年6月16日刊行『ゲンロンβ15』
 前回の連載で改めて確認したこと。それは、日本語ラップの自意識は、いまだアメリカの影を背負っているということだった。そして、答えが出なかった問いはこうだった。そのような日本語ラップの自意識におけるアメリカの影に対する態度は、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(1976年)的な、ときに虚勢としての反抗心に駆動されているのか。それとも田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(1980年)のように「弱さ」を漏出させているのか。

 あらかじめ結論を先取りするならば、これは白か黒かという問題ではない。前者については、「ボースティング」をMCの基本態度とし、右傾化に象徴されるような日本独自のスタイルを確立しようと、多くのアーティストたちにより連綿と積み上げられてきた試みがある。また後者の例としては、アメリカ産のラップへの憧憬を隠そうとせず、また最先端の流儀をかつてなく上手に取り入れるアーティストたちが想起されるだろう。これは両者のバランスの問題だ。白と黒のグラデーションの表れこそが、日本語ラップを独特の存在たらしめている根拠となっている。それを見定めるためにも、本論における眼差しは、ときに白を黒として見るような、つまりフィルムのポジとネガを反転させるようなものでなければならないだろう。

 再び日本におけるヒップホップ黎明期を思い出してみよう。1983年に日本でも公開された『ワイルド・スタイル』の衝撃。他の西洋由来の文化と同様、日本においてその発展を担った先人たちはショックに震えた。映画というメディアであるからこそ、視覚に訴えかける圧倒的なインパクトは、ある種、敗北感のような傷跡すら残したというのは、前回の連載で指摘した通りだ。

 その後、まずは模倣から入り、徐々に独自の様式を開拓、さらには右傾化などを挟みつつも、日本語ラップは発展してきた。『ワイルド・スタイル』から数えれば35年を経て、この肥沃な地平には数多くの到達点や転回点を示すマイルストーンが乱立している。

 アメリカの文化を一方的に受け入れるところから始まったこのジャンルは、日本という身体への血肉化が急がれた。しかしその過程で、ある特定の日本的なものに対しては、逆にアレルギー反応を示すところがあった。つまり、これも前回の連載で言及した通り、落語、駄洒落、俳句、短歌、といった日本的な「芸能」で括られるようなキーワードたちは、一部のアーティストたちによって日本独自のヒップホップのスタイルの確立に有効に活用されて来た例外こそあれ、ヒップホップにステレオタイプのイメージを持つ者たちからは、むしろ嘲笑の的となった感すらあった。そのような拒絶感について考えを巡らせるとき、太平洋戦争後の日本における、とある批評に纏わる事象が思い起こされる。

1 抒情の水脈


 戦後、様々な方法で、旧態依然とした日本的価値観は否定された。勿論文芸の世界も例外ではなかった。たとえばそこで槍玉に挙げられたのは、旧来の日本的表現の象徴として、誰にでも理解し易い形である俳句や短歌だった。中でも、桑原武夫が提出した「第二芸術──現代俳句について」に代表される、一連の「第二芸術論議」と呼ばれる論争が起こった。桑原は、有名な俳人と素人の句を並べ、区別をつけることの難しさを指摘した。つまり、俳句作品単体では「その作者の地位を決定することが困難」であり、俳壇での地位などが判断基準となってしまう。その意味で俳句は芸術として評価しえないものだと喝破した★1。このような俳壇、歌壇や結社の閉鎖性、封建的体質は、小田切秀雄らも批判した点だった。要するに、それは内輪で成り立っているジャンルではないかという批判だ。

 そしてこの一連の論争中、本論で特に取り上げたいのは、詩人の小野十三郎が1947年発表の「短歌的抒情に抗して」などの文章で示した「短歌的抒情の否定」である。小野は、特に短歌の31文字の音数律に表れる抒情を問題視した。彼の言葉遣いのインパクトも相まって、後に半ば一人歩きするようになるこの「短歌的抒情」とは、一体何を意味しているのだろうか。

 自然を写生し歌い上げる短歌は、そもそも抒情を拠り所にしている。小野が否定したのは、直接的には、たとえば「四季」派★2の詩人たちの作品に見られたような、戦争の翼賛に利用されてしまいかねない類のセンチメンタリズムであった。それはまた、小野が「濡れた湿っぽいでれでれした詠嘆調」と指摘した、日本人の中に眠っているセンチメンタリズムでもあった★3。明治維新以降、盲目的な封建制から自由になったはずの日本人は、それにもかかわらず、当の封建的なものと結び付こうとする前近代的な感情(これは浪花節や歌謡曲調とも呼応する)を深いところに根付かせてしまっている。この感性≒精神が31音の韻律、彼が名指すところの「奴隷の韻律」に、音楽性として表れていることを、小野は指摘したのだ。だがこれはあまりに彼の嫌悪感(小野は自身の短歌嫌いを何度となく公言していた)と感性に依拠するところが多く、特に日本人の精神が韻律の音楽性に表れるという部分に飛躍、言い換えればロジックの欠如があった。さらに短歌的抒情を否定するのは良いが、その後に示されるべき具体策を持たなかったがゆえに、批判にもさらされた。それは多くの論者が指摘するところであり、また本人も認めていた★4

 しかしながら小野は、確固たる立場を確立していく。当時、「短歌的抒情の否定」に至る小野の思考の過程が透けて見えるような、写生のスタイルを提示した『大阪』(1939年)、『風景詩抄』(1943年)、『大海辺』(1947年)などの詩集は既に出版されていたが、さらに戦時中に花田清輝の雑誌『文化組織』に連載された原稿を中心に、切れ味鋭いアフォリズム(アフォリズムの形を取ることで検閲の目を逃れようとしたという説もある)で構成された『詩論』(1947年)が評価される。そんな中で、この「短歌的抒情の否定」はイデオロギーをまとい一人歩きすることになる。

 小野は『詩論』の中で、「短歌的リリシズムの強烈さに想到せよ」と警鐘を鳴らす。それは「ファシズムの精神温床となったほど強烈」なものであり「『天皇制』を護持し得るほどに強大」であると★5。ここで、前回の連載で引用した浅田彰の議論を思い出したい。それは、90年代の日本文化には「J回帰」、つまり表層的なシミュラクルとしての日本への回帰という特徴があったという指摘だった。そして彼は「J‐POP」や「J文学」のみならず、天皇制までもが「『J天皇制』に変質したかに見える」と言及していた★6。天皇即位10周年記念式典では「首相のまわりをGLAYやSPEEDが囲み」「元X JAPANのYOSHIKIが奉祝曲を演奏した」──この「『J‐POP』で飾り立てられた『J天皇制』」との指摘は、まさに小野が危惧した「短歌的抒情」が戦後50年以上を経てもなお日本人の根底に根差していることの表れなのではなかろうか。

2 ラップと逆に。ラップに。


 そう、短歌的抒情はJ‐POPにも表れている。小野の慧眼は、短歌的抒情は短歌の世界から他の文学ジャンルにはみ出し、浸食していくであろうことを指摘したことだ。

 たとえば、私小説は短歌的抒情と非常に相性が良いことは言うまでもないだろう。さらには、広義の文学である歌詞の世界、短歌のリズムを越えた歌謡曲の世界にも当然、短歌的抒情を認めることができる。実際に小野は、グループサウンズのブルー・コメッツの歌う「ブルー・シャトウ」の歌詞を生理的に受け付けず「気持ち悪うて、気持ち悪うて、体じゅうじんましんが出そうになるんや」と拒否反応を示したという★7

 小野がその後、日本のヒットチャートを聴き続けていたとすれば、その嫌悪感は、どこまで及んだことだろう。いわゆる演歌や歌謡曲は言うに及ばず、それは、当然J‐POPの領域をも覆い尽くしたのではないか。そして「さんピンCAMP」に代表されるオーセンティシティにより一度は比喩的に殺されたはずのJ‐RAP(ECDによる「J‐RAPは死んだ。俺が殺した。」という宣言と共にそれは遂行されたのだった)や、そこを起点に派生したアーティストたちにも(たとえばFUNKY MONKEY BABYSやGreeeeNなど、ラップを表現手段とするがヒップホップとは異質のJ‐POPのアーティストたちを思い起こされたい)。それらの楽曲は、日本の大衆に訴えかける抒情性が自然に湧いて形となったものであるのだから。

 さんピンCAMP当時、日本語ラップのオーセンティシティを守らんとするMCたちは、J‐RAPを比喩的に殺すことで「J化」を阻止したのだった。しかしながらハードコアを標榜する日本語ラップの自意識も、この短歌的抒情の侵入を免れているだろうか。何といってもそれは大衆の共感を引き出し、どんな場所でも適応して形を変えて生き抜く生命体のようなものなのだ。実際、抒情に立脚する楽曲も散見されるし、たとえば昨今のMCバトルの物語も、抒情を軸とすることで大衆に受け入れられている一例だろう。

 日本語ラップが、図らずとも大衆の共感におもねる結果となる構図があるとすれば、ある違和感を持たずにはいられない。なぜなら、徹底的に一人称で個人的な主題を圧倒的な文字数で表現するラップの歌詞においては、かつて宇多丸が指摘したように、本来的に「共感」は成り立たないはずだからだ★8。カラオケで歌われることを拒む、リリックたち。歌い手の姿が背後にはっきりと存在し、極めて具体的に言葉を尽くして語られるからこそ自分に重ねることのできない物語。その楽曲に心を打たれ、何らかのリアクションを返そうとするならば、選択肢は、共感してカラオケで歌うことではなく、それに応答することだ。つまり、自分でもマイクを握って、自分自身の、他の誰にも共感されえない物語を紡ぐことだ。こうしてMCたちは単独者となるのだが、それと同時にそのリリックは先人たち、あるいは同時代のライバルたちへ、つまり縦への、そして横への応答を含んでいる。応答はさらに別の応答を呼び、やがて大きなうねりを形成する。その意味で批評と同様に「ひとりでやるもんじゃない」のだ★9
 だからこそ、MCたちは共感と応答の違いには敏感でなければならない。商業的なラップの世界では、むしろ共感を打ち出すことにより成功を収める楽曲が多く存在する。そこには当然ながら、共感を促すツールとしての抒情も顔を出すだろう。そのような行為はかつて「セルアウト」と呼ばれ、本物ではない(=ワック)な態度として批判される傾向があった。ヒップホップは、とりわけオーセンティシティ、オリジナリティ、ハードコアなどのキーワードが依然としてある程度の力を持つ(ような錯覚が存在している)文化である。しかし先ほど「共感におもねる」と言ったのは、セルアウトすることと同意ではない。セルアウト自体を批判すれば済むほど事は単純ではない。むしろ商業的な成功を狙うわけではないにも関わらず、無自覚に共感に軸足を置こうとするMCたちの姿勢にこそ危惧を覚えるのだ。そのような無自覚さは、ヒップホップのMCをMCたらしめている、「応答の連鎖」の喪失にもつながりかねないからだ。

 いずれにせよ、小野の「短歌的抒情の否定」は、生理的な嫌悪感を主な根拠とするものだった。しかしながら、実はこの嫌悪感にはまた別の要因があったことも、見過ごしてはならない。

 大阪の長者番付にも載るほどの資産家の父を持つ小野だったが、母親との関係は複雑なものだった。小学6年生の新学期が始まるタイミングで、親戚の家から姉に連れられ大阪の実家へ帰る途中、母親が生母ではなく継母であることを姉から知らされるのだ。そのまま生母に会いに行くのだが、対面した母親は、地唄の三味線芸者であった。「すぐ戻りまっせ、待っててや」と小野の頭をぽんとたたいて座敷へ出て行った若く美しい母の姿は、「恋慕」と「嫌悪」の対象になったのではないかと、一時期小野に師事していた富岡多恵子は指摘している★10

 つまりそのようなアンビバレントな感情を向けざるを得ない生母が、生計を立てる手段としていたものこそが、短歌的抒情を有した「歌」であり、「芸能」であったのだ。小野の短歌的抒情への並々ならぬ嫌悪の背景には、このような事情が透けており、それは恋慕と表裏一体のアンビバレントなものだった。彼はそれを嫌いながら、無意識にそれに手を伸ばし、自身に取り込んでいたのだ。あるいは自身から否応無しに漏出するそれを、「短歌的抒情の否定」という形で押し留めようとしたのだ。

 小野自身の中に短歌的抒情があったからこそ、戒めの意味もあって否定した。この点については、これまでにも数多くの同様の指摘がされており、具体例もある。たとえば細見和之の指摘によれば、小野が戦時中に書いた作品の中で、戦後に削除した部分に「ああ。日本。/日本の夜空。」という短歌的抒情を体現してしまっている連がある★11

 さらに小野は『詩論』の中で、後に彼の書籍のタイトルにもなる「歌と逆に。歌に。」という、いわゆるパンチラインも残している★12。自身の中に抒情を孕む歌があることを知り、一方でそれに抗いながら、他方でその抒情を反転させるような歌を探す。彼はこの「歌」に対する極めてアンビバレントな思想を、晩年に至るまで数多くの実作の中に探求したように見える。

 磯部涼が指摘したように、日本語ラップの世界においても、大衆受けするJ‐RAPの延長にあるスタイルこそが、実は日本から生まれたオリジナル=ガラパゴスな、つまりオーセンティックなラップなのではないかというアイロニックな状況認識がある★13。その意味では、それらの歌を彩る日本的な抒情に対しての眼差しもまた、アンビバレントなものにならざるを得ないだろう。

3 アメリカの影から風景の影へ


 それでは短歌的抒情に浸食されることのない、自律した表現とはどのようなものなのか。小野はこの短歌的抒情の否定の以前から、詩作において、イメージの造形力と音楽性は両立しないと指摘し、自身は視覚イメージを偏重することになる。つまり、彼が何よりも重要視したのは「目で見ること」だった。彼は抒情ではなく「風景自体のボリュウムによって苛烈な現実を歌おう」と自作の詩を通して訴えかけた。それは『大阪』『風景詩抄』などの詩集に結実している。そしてこの「目で見ること」を「批評性≒批判精神」に重ねるのだ。小野は短歌的抒情を否定しながら、一方で「現代詩に具わる新しい日本的性格とは、一口に言えば、『批評』である」と述べている★14

 日本語ラップはそもそもアメリカから輸入されたものである。どんなにベタにアメリカのストリートのリアルを擬えようとしたところで、それを「擬えている」ということが前提となる以上、意識せずともメタ視点を獲得してしまうところがある。批評=メタ視点というわけではないにせよ、日本語ラップはその出自ゆえに、少なくとも小野の指摘する批評性≒批判精神を獲得する条件をあらかじめ有しているといえるだろう。

 小野が指摘したのは、短歌的抒情が日本人の根っこにあることであり、日本人は、何も抵抗しなければ俳句・短歌的な感性に流されてしまうということだった。そして、現代の詩のありようとは、この感性への抵抗であり、「この抵抗が現代の詩だと言えるのである」と言及している★15

 



 日本語ラップのテクストと現代詩を並置し、安易に両者の対応関係を見出そうとすることには注意が必要だ。頭の中で黙読する際に短歌や現代詩もリズムを伴うが、ラップは言うまでもなく、言葉のフロウを伴い、声を伴うからだ。この点については後に回を改めて議論する。しかしここで小野が想定している現代詩と日本語ラップのアナロジーを見るならば、日本語ラップにおいてもベタな抒情への抵抗=J-RAP化への拒絶があり、同時にアメリカ産をベタに擬えることもあらかじめ叶わないという、二重のメタ視点を持ち得ていると言えるだろう。つまり、日本語ラップの場合は、放っておけば、一方ではアメリカのコピーに陥り、他方では短歌的抒情(=J-RAPが体現したもの)に回収されてしまう。であるならば、その両者に抗う第三の道こそが目指すべき方向ではないか。また、さんピンCAMP以来、目指してきたのはそこだったのではないか。

 それでは第三の道とは何か。その答えを探るためには、小野が詩作の方法論とした「見ること」について改めて考えたい。

 生前の小野の元からは、富岡多恵子や長谷川龍生など何人かの詩人が現れている。富岡は、『現代詩手帖』の小野十三郎特集号で八木忠栄と対談をしている。八木は『大阪』を書き上げた小野の視点を「モノクロームのカメラ・アイ」あるいは「淡白でクールなカメラ・アイ」★16と表現している。確かに目の前にある工場地帯の風景を粛々と言葉で写生していく方法に通底する、その客観的な醒めた観察眼は、肉眼よりもむしろカメラを想起させる。そして筆者は「漏出するリアル」においてKOHHの視点をカメラに擬えた★17。KOHHは、彼の音楽を聴く者に対して「記録映画のための一台のカメラのように、彼の視線を、ただ貸し出している 」のだった。リスナーはその視線で物事の表層の世界を眺めることになるが、そこには、同時に、KOHHから借り受ける直観の力も宿っているのだ。
 それだけではない。日本語ラップの先人たちが『ワイルド・スタイル』から視覚的な衝撃を受けることになる前年の1982年、グランドマスター・フラッシュ・アンド・フューリアス・ファイヴの「ザ・メッセージ」がリリースされる。そのリリックは、目の前に映る世界を、ただ描いただけのものであるはずだった。しかし同曲は、それまで発見されていなかったニューヨークのゲットーという風景を映して「しまった」のだ。前回連載で指摘したように、同曲は外部ライターの持ち込みであり、当初MCたちは誰もこの曲に興味を持たなかった。彼らの興味は音楽に向かっており、メッセージ性は二の次だった。しかしこの風景を記述する眼差しにこそ、批評性が宿ったのだ。MCたちが見飽きて、特段興味を持つことのなかった街並みの価値は、反転された。かくしてラップは状況を映し出すようになる。結果的に「無意識」に街を写したこの曲がコンシャス(=「意識的な」)・ラップの元祖となった。そして今日では決して切り離すことのできないメッセージ性を宿したラップの例として、リリースから35年を経た現在でも人々の記憶に強く残っている。つまり何よりもまず「見ること」が肝要であり、さらには意識とは無関係に風景を写してしまうカメラのような眼差しこそが、批評性という観点からラップを眺める際には、問われることになる。

 小野は『詩論』や『短歌的抒情』で示した批評的精神を、生涯を懸けて実作の中で探求した。そしてその方法論であった「カメラ・アイ」での描写は、批評的であろうとする日本語ラップの可能性とも共鳴し合うのではないだろうか。

 この可能性を考えるにあたり、一本の補助線を引いてみたい。もともと本論は、日本語ラップにおける「アメリカの影」を加藤典洋の議論を端緒に考察しようとするものだった。その加藤は「風景の影」と題された二つの文章から成る論考で、文学、漫画、写真、絵画の風景について論じている★18。加藤はそこで、川本三郎の議論を引用しながら、ヨーロッパの調和の取れた風景とは異質な、アメリカ独自の風景を発見した美術史上の「アメリカン・シーン」について言及している。そしてそれらの風景を扱っている映画として、ジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダースらのロードムービーがあり、彼らのインスピレーションの源には、スイス生まれのアメリカの写真家、ロバート・フランクによる作品があることを指摘する。これらに共通するのは、ハイウェイ、鉄道などが導く「広大な風景」と、そこに並置された電柱、商店などの「人工の構造物」の対比が見て取れる風景だ。加藤はこのような「からっぽの風景」に、人は何故惹き付けられるのか考察を進めていく。

 加藤の論考の方法論に倣い、これらの視覚芸術と文学のアナロジーが許されるならば、ここで直ちに連想されるイメージがある。それぞれヨーロッパとアメリカの風景に対応するものとして、短歌に描かれるような自然=風景とは全く異質な大阪の風景を切り取った小野の詩作である。たとえば次のような作品だ。


風は荒く

地は凍ってゐる。

引込線の道床は赤錆び

ところどころに

まだ莎草の類が根を張つてゐる。

今日も海の方に

あのへりだけが耿々と燿いてゐる雲があつていかにも寒さうだ。

線路にはタンク型の煤ぼけた貨車が数珠つながりになつて停止してゐる。

悉く濃硫酸や二酸化炭素液である。

(『風景詩抄』より「風景(六)」)

遠方に

波の音がする。

末枯れはじめた大葦原の上に

高圧線の弧が大きくたるんでゐる。

地平には

重油タンク。

寒い透きとほる晩秋の陽の中を

ユーフアウシアのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され

硫安や 曹達や

電気や 鋼鉄の原で

ノヂギクの一むらがちぢれあがり

絶滅する。

(『大阪』より「葦の地方」)


 川本は日本にはアメリカのような広大な風景がないことを指摘するが、ここにあるのは、荒涼とした大地(≒「広大な風景」)と、貨車や重油タンクのような「人工の構造物」の対比だ。

 彼はアメリカ独特の風景を写真に見た。たとえば、ロバート・フランクの《路上の風景》や《国道285線》といった作品に。それでは、小野が「モノクロームのカメラ・アイ」の視点で言葉によって切り取った日本独特の風景を、「写真」という形で「定着」させた作家はいないだろうか。



 ここに1枚の写真がある。画面を横切る一本の横線。その左半分は水平線。そして右半分は地平線だ。つまり画面の左側には暗い海。右側には乾ききった道路と大地が広がる。地平線の遠くに僅かながら認められる建物の影。そして画面の無限遠点に向かって立ち並ぶ、電柱たち。それらを接続する高圧の電線が、地平線の果てへ電気を届けるべく、伸びている。人影は、一切見られない。

 というのは、写真家の中平卓馬が1968年頃に川崎の浮島で撮影した1枚のモノクローム写真の描写である。試しに、この写真の解説として、小野の一遍を置いてみよう。


ただ前方に枯れた葦原があり

背後に暗い大きな海があつた。

葦原には鳥たちも啼いてゐた。

ところどこに家らしいものも建つてゐたが寥しかつた。

無人の野に一列の電柱がはしつてゐた。

(『風景詩抄』より「重工業抄」)


 これと前掲の「葦の地方」のイメージを重ねてみれば、いよいよ中平が写したのと同じ風景を、小野が「モノクロームのカメラ・アイ」により変奏したとしか思えなくなって来る。

 中平は当時「ブレボケ」と呼ばれる、ピントがボケて被写体がズレるスタイルを打ち出していた。これに加え特徴的だったのは、高温の長時間現像による、粗い粒子がもたらす効果だった。そしてこれを可能にするのは「暗室」における種々の作業であった。当時、彼はなぜ夜の風景をモノクロームで残すことに拘ったのかという自身の疑問に対して、こう答えている。モノクロームの撮影には、「暗室」作業という「手の痕跡」が残っている。だからそれに拘って、モノクロームを手放さなかったのだと★19

 中平は批評の言葉に拘った写真家だった。そして小野も同様に、何よりも批評の言葉に拘った詩人であった。それでは、小野にとっての「暗室」作業とは一体何であったか。その答えにこそ、小野の詩作の方法論と日本語ラップの可能性を接続する糸口が見つかるだろう。次回は、それを探るところから議論を進めていきたい。

★1 桑原武夫『第二芸術』、講談社、1976年、22頁。
★2 『四季』(1933年より刊行)は堀辰雄の編集による同人雑誌で、「抒情的」であることを特徴としていた。同誌に寄稿し活躍した詩人たちは、しばしば「四季派」と呼ばれることもあった。主な同人としては、立原道造、三好達治、津村信夫、丸山薫、中原中也、萩原朔太郎、竹中郁、杉山平一、保田與重郎など。
★3 小野十三郎『小野十三郎著作集』第2巻、筑摩書房、1990年、516頁。
★4 小野は1968年に刊行された『折口信夫全集』の月報に、自らの仕事を「短歌的抒情の否定というアンチテーゼの提出どまりになっている」と書いている。
★5 小野十三郎『詩論+続詩論+想像力』、思潮社、2008年、171頁。
★6 浅田彰「〈J回帰〉の行方」、『VOICE』PHP研究所、2000年(リンク先は「批評空間アーカイブ」に再録されたもの)。
★7 『現代詩手帖』2003年6月号、58頁。 URL= http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice0003.html
★8 『FRONT No.6』ミュージックライフ1月号増刊、シンコーミュージック、1996年、91頁。
★9 批評再生塾第3期のキャッチコピー。
★10 『現代詩手帖』2003年6月号、52頁。
★11 同書、95頁。
★12 『詩論+続詩論+想像力』、96頁。
★13 磯部涼×中矢俊一郎「J‐POPの歌詞は本当に劣化したのか? 磯部涼×中矢俊一郎が新たな価値を問う」 URL= http://realsound.jp/2015/01/post-2222.html
★14 小野十三郎『詩論』、眞善美社、1947年、31頁。
★15 同書、30頁。
★16 『現代詩手帖』2003年6月号、54‐55頁。
★17 佐々木敦・東浩紀編著『再起動する批評』、朝日新聞出版、2017年。
★18 加藤典洋『日本風景論』、講談社、1990年、所収。
★19 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』、筑摩書房、2007年、24頁。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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