アンビバレント・ヒップホップ(番外篇)「後ろめたさ」のフロウ──鬼と小名浜の距離|吉田雅史
初出:2016年11月11日刊行『ゲンロンβ8』
1.2016年7月
2016年7月26日、小松理虔氏と僕はゲンロンカフェにて対談イベントの機会を持った。イベントタイトルは「『言葉』は日本の『リアル』を刷新できるか──ラップ、福島、ツーリズム」[★1]。僕たちは3.11を扱ったいくつかの日本語ラップ曲を取り上げ、ヒップホップだからこそ可能となっている表現に着目した。さらには、震災時に文学が直面した問題に対し、日本語ラップはいかに応答したかについて考察した。すなわち、当事者性をどのように取り扱うかという問題だ。
議論の中で、僕は「後ろめたさ」というキーワードを提出した。それこそが、ある意味で日本語ラップの発展に一役買っているのではないかというのが、僕の主張だった。ネガティヴな響きを持つ「後ろめたさ」が、実はポジティヴな駆動力ともなっているとしたら。ヒップホップという文化の輸入者である日本人が、その重要な要素の1つであるオリジナリティを標榜することの、後ろめたさ。ゲットーも不幸な出自も持たずに、「リアル」を掲げることの後ろめたさ。「黒いノリ」を追求する後ろめたさ。当事者でないのにそれを語ることの、後ろめたさ。
そして、MCたちの言葉が何なのかを理解するための補助線として、「三層モデル」を導入した。すなわち、MCたちがラップするときの自身の在りか=目線を、どこに定めるかという問題だ。第一層は「実存」、第二層は「キャラクター」、第三層は「第三者」の視点がリリックに表れるというものだ。第二層の「キャラクター」についての議論は、『ユリイカ』の日本語ラップ特集に掲載された岩下朋世氏の論考「『リアル』になる」[★2]に詳しいが、通常MCは第二層のキャラクターとしての自身をレペゼンする。MCは楽曲において、まず何よりも、第二層の自身を自己紹介するのだ。そしてその延長線上に世界観を構築し、物語を紡いでゆく。しかしそれがあまりにも肥大化することで、第三層の可能性、つまり当事者でない第三者として対象について歌う想像力が損なわれているのではないか。
小松氏の数ある文章の中でも、特に印象深い一篇がある。『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』[★3]収録の「取り戻すべきコモディティの誇り」と題された、泉駅と小名浜を巡るその論考は、鬼の「小名浜」のパンチラインで幕を開ける。「旅打ちはまるで小名浜のカモメ/行ったり来たりが歩幅なのかもね」という極めて印象深いライム。この曲こそが、僕と小松氏を本当の意味で引き合わせてくれた。人は、ある対象への賛辞を共有できる他者と、無条件に分かり合った気になってしまうものだ。僕たちはイベントでもこの楽曲を取り上げ、リリックや曲構成の特異性について議論した。
僕は小名浜を訪問することにした。そこへ行けば、日本語ラップ史の中でも異彩を放つこのようなラインが生まれた理由が、少しでも明らかになるかもしれない。そう思ったからだ。
2.2016年10月
前日、宿を取ったいわき駅から常磐線で上り方面に3つ、泉駅に到着する。改札を抜け、駅舎の2階の窓から海側の景色に目を向ける。数日間続いた曇天の後、久々に拝む空の蒼さ。そして住宅地の向こう側に見えるのは、上空へと上る煙突からの煙と、その垂直性に抗うように水平に伸びる工場群の陰影。「小名浜」のミュージックビデオの冒頭シーン[★4]を思い出しつつ、ピックアップしにやって来た小松氏の車に乗り込む。サングラス姿の小松氏の表情は、彼の地元にいるせいなのか、東京でのそれとは少し違って見える。
車は一路工業地帯へ。産業道路である常磐バイパスを南西に走ると、工場地帯が姿を現す。巨大なコンビナート。堆く積まれた石炭の山。スチームパンクの世界に描かれるような、錆び付いたパイプが張り巡らされた工場。小名浜のミッドガル[★5]。視界のサイズ認識機能が変調をきたすのを感じる。日曜日ということもあり、人の気配が全く感じられない。無人の圧力。しかし煙突からは、確かに煙が噴き出している。小松氏は、前述の論考の中で「首都圏の『快適』や『便利』のために二四時間稼働をやめない工場群」と記している。これらの工場群は、南に位置する首都圏のために、東京のために稼働し続けている。
工場地帯の西に位置する金山公園の展望台に上り、コンビナート群を見下ろす。立ち上る煙の群れを眺めながら、小松氏は語ってくれた。自身の生立ち、経験に根差した、小名浜のリアリティを。2つある小名浜地区の中学校のこと。平地区との違い。ヤンキーが出会う音楽。ヒップホップ。しっくりくるのはウエストコーストのギャングスタスタイル。
再び車に乗り込み、今度は北に進路を取る。やがて景色は一変する。潮の香り。工場地帯は形を潜め、海岸沿いの港町へ。小名浜地区は、南北の差異を包含している。南は工業、北は漁業で成り立つ街。
日本においては、東京の、特に渋谷を中心に立ち上がったヒップホップ文化は、90年代後半から、その地域性を無視しては語れないものとなった。つまり東京へのカウンターとして、北海道、仙台、名古屋、福岡などの地域が多彩な才能を生み、渋谷に対する新宿が重要なトポスを形成した。アメリカでは、当初ニューヨークに端を発したこの文化は、ロサンゼルスの全く異なる様式、価値観の下で巨大に成長し、やがてアトランタやヒューストン、ニューオリンズなどのサウスサイドが覇権を握る。つまりヒップホップは、南北を孕み、南北に駆動されてきた。もちろん、南北は相対的だ。南は更なる南を含み、北は南なくしては居場所を失う。
小名浜において、その南北の切断面として、あるいは接続点として、地区の中心に位置するのはソープランド街だ。20軒近くの店舗が犇めく一画。店の前で腕組みをする、強面の客引きたちの眼力。しかし同時にそこに宿る、どこかあっけらかんとした表情。なにしろ、小名浜地区を代表するホテルの1つも隣接するなど、ここは隔離された特別な区画というわけではない。ソープ街の風景は、この土地に根差している。彼らの表情に、たとえば「後ろめたさ」を読み取ろうとするのは、如何にも外側の人間の発想に思われた。
一方、彼らを車の中から、敢えてネガティヴに言えば「見物」する僕の視線には、ある種の「後ろめたさ」が滲んでいたかもしれない。もともとアメリカでのラップ・ミュージックの商業的成功も、穿った見方をするならこのような「見物」の上に成り立っているところがある。当事者のゲットー出身の黒人ラッパーに対して、白人の中流層以上のリスナーを想定したとき、そこにはある種の欲望の存在が見え隠れする。壁の向こうの知りえない世界を「見物」することへの欲望。鬼やMC漢の所属するMSCのアルバムのリスニング体験も、そのような欲望を喚起するものではないか。ドキュメンタリー映画や小説、ルポを鑑賞するときの、それのように。
しかしドキュメンタリーのように当事者が被写体になることと、ラップ・ミュージックのように当事者が自らを作品として提示することの間には大きな隔たりがある。たとえばMC漢は『ヒップホップ・ドリーム』(2015年)の中で、劇映画と自身のリリックの世界を比較し「みなさんもギャング映画やヤクザ映画がお好きでしょう。それと同じ感覚でMC漢のギャングスタ・ラップを楽しんでください」と述べている[★6]。MCが「見物」を受け止めるのは、あくまでも前述の三層モデルの第二層、「キャラクター」としてである。
「小名浜」を聴いた僕たちが、それを一種のドキュメンタリーのように捉えたくなる理由の1つ。それは固有名の説得性だ。鬼が挙げる、多くの地名や人名、出来事などの固有名。その固有名の持ち主には、存命の者たちもいれば、そうでない者たちもいる。それらのリリックは、とてもパーソナルなものだ。パーソナルなものだからこそ、外側の人間たちは、その内側を覗きたくなる。つまり、それらはパーソナルなものだからこそ、逆に開かれていると言える。鬼は作品内に、それらの名を刻んだ。ある種の追悼のようにして。あるいは、スペシャル・サンクスのようにして。それらを自身の作品の一部とすること。その後ろめたさは、彼のペン先を鈍らせただろうか。
日本においては、東京の、特に渋谷を中心に立ち上がったヒップホップ文化は、90年代後半から、その地域性を無視しては語れないものとなった。つまり東京へのカウンターとして、北海道、仙台、名古屋、福岡などの地域が多彩な才能を生み、渋谷に対する新宿が重要なトポスを形成した。アメリカでは、当初ニューヨークに端を発したこの文化は、ロサンゼルスの全く異なる様式、価値観の下で巨大に成長し、やがてアトランタやヒューストン、ニューオリンズなどのサウスサイドが覇権を握る。つまりヒップホップは、南北を孕み、南北に駆動されてきた。もちろん、南北は相対的だ。南は更なる南を含み、北は南なくしては居場所を失う。
小名浜において、その南北の切断面として、あるいは接続点として、地区の中心に位置するのはソープランド街だ。20軒近くの店舗が犇めく一画。店の前で腕組みをする、強面の客引きたちの眼力。しかし同時にそこに宿る、どこかあっけらかんとした表情。なにしろ、小名浜地区を代表するホテルの1つも隣接するなど、ここは隔離された特別な区画というわけではない。ソープ街の風景は、この土地に根差している。彼らの表情に、たとえば「後ろめたさ」を読み取ろうとするのは、如何にも外側の人間の発想に思われた。
一方、彼らを車の中から、敢えてネガティヴに言えば「見物」する僕の視線には、ある種の「後ろめたさ」が滲んでいたかもしれない。もともとアメリカでのラップ・ミュージックの商業的成功も、穿った見方をするならこのような「見物」の上に成り立っているところがある。当事者のゲットー出身の黒人ラッパーに対して、白人の中流層以上のリスナーを想定したとき、そこにはある種の欲望の存在が見え隠れする。壁の向こうの知りえない世界を「見物」することへの欲望。鬼やMC漢の所属するMSCのアルバムのリスニング体験も、そのような欲望を喚起するものではないか。ドキュメンタリー映画や小説、ルポを鑑賞するときの、それのように。
しかしドキュメンタリーのように当事者が被写体になることと、ラップ・ミュージックのように当事者が自らを作品として提示することの間には大きな隔たりがある。たとえばMC漢は『ヒップホップ・ドリーム』(2015年)の中で、劇映画と自身のリリックの世界を比較し「みなさんもギャング映画やヤクザ映画がお好きでしょう。それと同じ感覚でMC漢のギャングスタ・ラップを楽しんでください」と述べている[★6]。MCが「見物」を受け止めるのは、あくまでも前述の三層モデルの第二層、「キャラクター」としてである。
「小名浜」を聴いた僕たちが、それを一種のドキュメンタリーのように捉えたくなる理由の1つ。それは固有名の説得性だ。鬼が挙げる、多くの地名や人名、出来事などの固有名。その固有名の持ち主には、存命の者たちもいれば、そうでない者たちもいる。それらのリリックは、とてもパーソナルなものだ。パーソナルなものだからこそ、外側の人間たちは、その内側を覗きたくなる。つまり、それらはパーソナルなものだからこそ、逆に開かれていると言える。鬼は作品内に、それらの名を刻んだ。ある種の追悼のようにして。あるいは、スペシャル・サンクスのようにして。それらを自身の作品の一部とすること。その後ろめたさは、彼のペン先を鈍らせただろうか。
吉田雅史
1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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