アンビバレント・ヒップホップ(5) この街に舞い降りた天使たちの羽根はノイズの粒子でできている|吉田雅史

初出:2016年09月09日刊行『ゲンロンβ6』
1. ロサンゼルスというトポス
ロンドン大学とインペリアル・カレッジ・ロンドンの調査によれば、アメリカにおいて、この50年間で最も大きな影響力を持ったジャンルは、ヒップホップ、つまりラップ・ミュージックだという[★1]。日本でもここ最近、「日本語ラップ・ブーム」という言葉を耳にする機会が増えた。日常的に耳にする楽曲の中に、ラップ・ミュージックそれ自体はあまりなかったとしても、それが齎した影響が見て取れる楽曲は決して少なくないだろう(ループ構造、サンプリング、歌唱法など)。アメリカのみならずイギリス、フランス、ドイツなど欧州各国や韓国、日本など東アジアでも商業的に成功を収め、広く認知されているヒップホップはしかし、その誕生から長きにわたりある地域に限定された物語だった。その誕生の地でもある、ニューヨークである。
1970年代のニューヨークのサウスブロンクス。ブロックパーティの現場などで産声を上げたヒップホップ文化の1つが、MCing=ラップであった。その発展の物語においては、各地域を代表するクルーの間の対立(=ビーフ)も生まれたが、それらは全てニューヨークのファイブ・ボローズ[★2]内での出来事であった。しかし80年代後半から、ロサンゼルス出身のMCたちが活躍し始め、90年代には西海岸のヒップホップを代表する様式となるGファンク[★3]が花開き、ギャングスタ・ラップが商業的な成功を収める。ニューヨークの地域間の対立は、ニューヨーク対ロサンゼルス、つまり東海岸と西海岸の対立に軸を移す。
当初はプロレス的なエンタメとして需要された東西間の対立は、やがてカオティックで制御不可能なものとなってゆく。そして虚構と現実の境が曖昧になったことの最悪の帰結として、私たちは西海岸の2パック、東海岸のノトーリアス・B.I.G.というヒップホップシーンにおいて極めて重要な才能を失うことになる。東西抗争は多くの教訓を残して終結を迎える。その後も東西の2つの街は重要なアーティストと作品を世に出し続けるが、一方で90年代後半に米国南部から現れていた、サザンラップ[★4]の興隆が始まる。その延長線上でアトランタを発祥として生まれたトラップが、現在進行形のシーンにおいては、最も影響力を持っている[★5]。
しかし改めて米国のシーンを見渡せば、ロサンゼルスにこそ、重要なトポスの磁場を感じずにはいられない。何故か。それは、現在最もエッジィで重要な仕事をしているMCであるケンドリック・ラマーと、ビートメイカーのフライング・ロータスが、どちらもロサンゼルス出身であるからだ。そして、両者はそれぞれ『good kid, m.A.A.d city』(2012年)、『Los Angeles』(2008年)というロサンゼルスを舞台とした作品をリリースし、それぞれが彼らの代表作であると同時に、時代にその名を刻むクラシックとして評価されている。この2つの才能が、何故ニューヨークではなく、ロサンゼルスから現れたのだろうか。あるいは、何故ロサンゼルス出身の2人が、シーン全体を牽引するような仕事を成し得たのだろうか。
2. コーティングされた要塞都市
まずは、連載前回の末尾で予告した通り[★6]、フライング・ロータスの仕事に迫ってみたい。私たちは前回、DJシャドウの歴史的名盤『Endtroducing.....』(1996年)を取り上げ、サンプリングをベースとした「移動のサウンドトラック」とでも言うべき同作が、ラップ=言葉なしで如何に物語を生み出しているかに着目した。DJ的な視点で、世界中の多様なジャンルの音源を繋ぎ合わせるサンプリングのエンサイクロペディアを生み出し、水平方向に広がる世界の広大さを示すこと。そのような目論見を具現化したのが『Endtroducing.....』であった。一方、DJシャドウのビートとは対極にあるフライング・ロータスの作品は、ヒップホップを考察するにあたり、極めて重要なトポスの特異性を炙り出しているように思われる。『Los Angeles』が、文字通りロサンゼルスという街を垂直方向に掘り下げ、ビートで解読する作品だからである。
エイフェックス・ツインやスクエアプッシャーとともに、J・ディラやマドリブに影響を受け、さらにはジョン・コルトレーン(そしてアリス・コルトレーン)の甥にあたるフライング・ロータスことスティーヴン・エリソンのスタイルは、まさにテクノとヒップホップ、そしてジャズのハイブリッドである。『Los Angeles』に顕著な、スティーヴンのビートの構造上の特徴は、とにかく数多くのサウンドがレイヤー状に重ね合わせられる点である。分析を拒んでいるかのような、過剰なレイヤーと音数のために霞がかかったような見晴らしの悪いビートは、LAという街が内包する多様性を示しているようでもあり、スティーヴンの複雑怪奇な音楽的バックグラウンドを写したモンタージュ写真のようでもある。
かつてエイゼンシュテインは、彼の映画制作の方法論であるモンタージュを、映像のみの「水平」のモンタージュと、音声と映像による「垂直」のモンタージュに分類した。サンプルネタをショットのアナロジーと捉えた上で、この彼の用語を借りて、時間軸に沿ったサンプルネタ同士の連結を「水平」のモンタージュ、同時に複数のサンプルネタをレイヤー状に重ね合わせることを「垂直」のモンタージュと呼んでみたい。
DJシャドウによる『Endtroducing.....』で瞠目に値する点は、「垂直」のモンタージュの組み合わせの妙を提示しつつも、文脈を共有せず突然接続されるブレイクビーツや声ネタの数々による「水平」のモンタージュを、かつてないレベルで成功させたことだ。そしてそれが物語の抑揚を生んでいた。一方、スティーヴンの『Los Angeles』におけるエッジィな試みの1つは、「垂直」のモンタージュを限界まで重ね合わせることだった。キック、スネア、ハットやその他のエスニックなパーカッションが刻むビートと、うねるようなシンセベースがファンクを体現し、その上に幾重にも重ねられたシンセのコード、アルペジオ、ヴォーカルフレーズがしばしば「スペイシー/コズミック」と言及される彼のサウンドを形成する。そしてその多数のレイヤーを積み重ねること、あるいは差し引くことで、DJシャドウとはまた違った物語の起伏が作り出される。
その試みは、ある副産物を生み出した。スティーヴンは垂直方向に発達させたモンタージュ全体をホワイトノイズ(「シャー」と鳴るノイズ)とスクラッチノイズ(「プチプチ」と鳴るノイズ)でコーティングしたのだ。この『Los Angeles』と命名されたアルバムは、冒頭のスティーヴンのフェイバリットであるボーズ・オブ・カナダを想起させられる壮大なシンセのコード弾きから、最後の曲のローラ・ダーリントンの歌声に寄り添うオルガンの様なサウンドまで、一貫してノイズに覆われている。このノイズの正体は、一体、何なのだろうか。
この問いの答えを求めるにあたり、検討すべき仮説は2つある。1つめは、スティーヴンがこの作品全体を、意図的にノイズで覆ったのだとする仮説。そして2つめは、彼が無意識的に選択したサウンドが、偶然にノイズを纏ったものだったとする仮説である。
まずは、2つのうち後者の、無意識の発露であるとの仮説を検討しよう。そのために、私たちはラカンのL図を引き合いに出すことができるだろう。このノイズこそは、スティーヴンの深層=無意識からのメッセージであり、自我によって抑圧された無意識的願望の顕現、いわば「言い間違い」のようなものではないかという仮説である。言い間違いとしてのノイズ。フロイトによれば、言い間違いのメカニズムの1つは、普段隠そうと抑圧しているものが、その思いとは裏腹に「言い間違い」という錯誤行為の形で表に出てしまうというものだ。ノイズとはスティーヴンにとって、抑圧されたものだったのだろうか。
ここで、連載第3回の議論を思い出してみたい[★7]。従来サンプリングベースのニューヨーク産のヒップホップにおいては、レコードから引用されたノイズ塗れのサンプリングネタやブレイクビーツの「ローファイ」な響きへのフェティッシュが存在した。一方、車社会であるロサンゼルスにおいては、聴衆は車内という特殊な聴取空間を持つ。そこで再生されるGファンクは、所謂ドンシャリサウンドと呼ばれる、「ハイファイ」な音質を追求することになったのだった。
ハイファイを追求するとは、ノイズを除去することでもある。高品質の音作りとは、S/N比と呼ばれる、音全体におけるノイズの割合の最小化を追求することと同意だ。さらに、Gファンクの特徴の1つは、従来のNY産のローファイなビートにおいてはレコードからサンプリングされるフレーズが、生演奏に置き換えられる点だ。そこにはレコードからの引用に由来するノイズは存在しない。スティーヴンの育ったロサンゼルスが培ってきたヒップホップのビートの歴史は、ノイズ排除の歴史でもあったのだ。つまりスティーヴンの内面においても、ノイズは、深層に抑圧されていた可能性がある。
しかし一方で、J・ディラやマドリブなど、レコードからのノイズ塗れのサンプリングを武器とするビートメイカーを崇拝していたスティーヴンは、心底ではノイズへのフェティッシュな欲望を持っていた。そのような抑圧と願望の間で、余りにも過剰なノイズが「言い間違い」として作品を覆ってしまったのではないか。このような見方が、ノイズを無意識の発露と捉えた仮説である。
次に、先ほどの2つの仮説のうち1つめに立ち返って、このノイズが意図的なものだとすれば、それは何のメタファーなのだろうか。スティーヴンは『Los Angeles』リリース時、ウェブマガジン『Prefix』のインタビューに応じて、そのタイトルについて次のように述べている。
この言葉にあるように、このアルバムでスティーヴンはアンビバレントなLAへの思いに則った表現をしている。アルバムに描いたという、LAが持つ「良いフィーリング」と「悪いフィーリング」。そしてアルバム中に一貫して通底するノイズこそは、この「悪いフィーリング」の表出ではないか。LAで音楽活動をするということは、多くのLA産のギャングスタ・ラップで描かれている、犯罪や暴力のような負のイメージを肌で感じながら生きるということだ。スティーヴンが意図的に作品を覆った「サウンドとしてのノイズ」は、このような、LAという「街自体のノイズ」のメタファーなのではないか。
これらのノイズに対し、ロサンゼルスという街はどのような対処をしてきたか。LAは、都市計画、建築物、警察機構が一体になり、セキュリティ担保の名目で、暴力や犯罪の脅威=ノイズを寸断する壁が至る所に作られた街でもある。街全体の面積の半分をも占める地域が、セキュリティ担保のためのゲートと壁に囲まれた、所謂「ゲーテッド・コミュニティ」だと言われている。アメリカの都市社会学者マイク・デイヴィスは著書『要塞都市LA』の中で、次のように述べている。
ハイファイを追求するとは、ノイズを除去することでもある。高品質の音作りとは、S/N比と呼ばれる、音全体におけるノイズの割合の最小化を追求することと同意だ。さらに、Gファンクの特徴の1つは、従来のNY産のローファイなビートにおいてはレコードからサンプリングされるフレーズが、生演奏に置き換えられる点だ。そこにはレコードからの引用に由来するノイズは存在しない。スティーヴンの育ったロサンゼルスが培ってきたヒップホップのビートの歴史は、ノイズ排除の歴史でもあったのだ。つまりスティーヴンの内面においても、ノイズは、深層に抑圧されていた可能性がある。
しかし一方で、J・ディラやマドリブなど、レコードからのノイズ塗れのサンプリングを武器とするビートメイカーを崇拝していたスティーヴンは、心底ではノイズへのフェティッシュな欲望を持っていた。そのような抑圧と願望の間で、余りにも過剰なノイズが「言い間違い」として作品を覆ってしまったのではないか。このような見方が、ノイズを無意識の発露と捉えた仮説である。
3. ノイズが曝露するアンビバレンス
次に、先ほどの2つの仮説のうち1つめに立ち返って、このノイズが意図的なものだとすれば、それは何のメタファーなのだろうか。スティーヴンは『Los Angeles』リリース時、ウェブマガジン『Prefix』のインタビューに応じて、そのタイトルについて次のように述べている。
音楽でロサンゼルスの物語を伝えたかった。ラブレターでもあり、ヘイトメールでもあるような。LAに住むということは矛盾の連続だから、そこに良いフィーリングも悪いフィーリングも込めたかった。アルバムのポイントは、聴衆を映画のような世界へドライブに連れて行くことだ。このアルバムには、この街と同じぐらい大きな視座を持たせたかった。[★8]
この言葉にあるように、このアルバムでスティーヴンはアンビバレントなLAへの思いに則った表現をしている。アルバムに描いたという、LAが持つ「良いフィーリング」と「悪いフィーリング」。そしてアルバム中に一貫して通底するノイズこそは、この「悪いフィーリング」の表出ではないか。LAで音楽活動をするということは、多くのLA産のギャングスタ・ラップで描かれている、犯罪や暴力のような負のイメージを肌で感じながら生きるということだ。スティーヴンが意図的に作品を覆った「サウンドとしてのノイズ」は、このような、LAという「街自体のノイズ」のメタファーなのではないか。
これらのノイズに対し、ロサンゼルスという街はどのような対処をしてきたか。LAは、都市計画、建築物、警察機構が一体になり、セキュリティ担保の名目で、暴力や犯罪の脅威=ノイズを寸断する壁が至る所に作られた街でもある。街全体の面積の半分をも占める地域が、セキュリティ担保のためのゲートと壁に囲まれた、所謂「ゲーテッド・コミュニティ」だと言われている。アメリカの都市社会学者マイク・デイヴィスは著書『要塞都市LA』の中で、次のように述べている。
我々が住んでいるのは、豊かな社会の「堅固に固められた小単位」と、犯罪者にさせられた貧困層と警察が戦う「恐怖の場所」とに無残にも二分された「要塞都市」である。[★9]
ロサンゼルスという「要塞都市」を貫くのは、ゲーテッド・コミュニティを成立させ、富裕層と貧困層を物理的に分割する「壁」である。しかしこの街に張り巡らされた壁は、これだけではない。ロサンゼルスは車社会の象徴でもあり、街中にフリーウェイ/ハイウェイが張り巡らされている。この街の貧困層は、サウス・ロサンゼルス(旧サウス・セントラル)を始めとする、特定の地域に集中しているが、実は毎日無数の人々が通勤でフリーウェイを利用しながら、この貧困地区を「通過」しているのだ。しかしフリーウェイを囲む「壁」によって、その地域の姿は目隠しされている。物理的に同じ空間に存在する貧困=ノイズは、この遮音壁によって隠蔽されているのだ。
ロサンゼルスは、ゲ―テッド・コミュニティの壁、フリーウェイの壁という2種類の壁が網目状に巡らされた街であった。そして、これらの壁を作った当事者である富裕層が、ヒップホップに対して果たしてきた役割を考察することは、更に重要な示唆を与えてくれる。
1991年、ロサンゼルスを代表するギャングスタ・ラップ・グループであるN.W.A.の『Niggaz4Life』がビルボードチャートで1位に輝く。その商業的な大成功の裏には、実はビルボードのレコードセールス集計手法が変化したという背景があった。これ以前は売上は各レコード店の報告書に基づいて集計されていたが、小売店の売上データをバーコードを用いてコンピュータで集計可能な、「サウンドスキャン」と呼ばれるPOSシステムが導入され、正確な売上を知ることができるようになったのだ。そして正確な売上と同時に、その購買層をも把握できるこのシステムの導入により、当初は黒人のリスナーからの共感を得て成功を収めたと思われていたギャングスタ・ラップの売上の大部分を支えていたのは、実は10代の白人男性であったことが分かったのだ。
つまり、ロサンゼルスが誇るギャングスタ・ラップを商業的に支えてきたのは、このような壁を張り巡らせた当事者である、富裕層の白人家庭の若者であった。貧困は、この富裕層が作り出した2種類の壁によって、彼らから隔離される。貧困や犯罪=ノイズを自分たちから遠ざけたいと願いつつも、それを覗き見してみたいという屈折した欲望。穿った見方をするならば、このアンビバレントな欲望こそが、ヒップホップの商業的な成功を支えているのだ。
このことは、ヒップホップという音楽ジャンルの特異性を考察する上で、極めて重要な事実である。しかし話を一旦元に戻そう。私たちが検討したのは、スティーヴンがノイズをLAの負のイメージや、脅威や貧困のメタファーとして、意図的に作品に入れ込んだという仮説だった。そして、壁で隔離されたノイズ=貧困は、ノイズの文字通りの語義である「騒音」とも結びつく。騒音と都市にはアンビバレントな関係性があるからだ。つまり、騒音を生み出しつつも、それと同時にその騒音をある場所に閉じ込め、排除してきたのもまた、LAのような近代都市である。
かつて、人々の生活を包んでいたのは静寂であった。その生活の中に騒音が誕生した原因を歴史的に辿ってみれば、都市とはまさに騒音=ノイズが出現する一因であることが分かる。つまり、18世紀の工業都市の誕生により、機械的な騒音=ノイズが街のあらゆる所に現れるようになったのだ。作曲家のマリー・シェーファーが『世界の調律』で言及しているように、17世紀後半以降、上流階級はそれまでホールなどの特別な場所でしか楽しめなかった純粋な「音楽」を、自分たちの家の中で独占的に享受するようになる。そのため、工業による「騒音」を発する労働者階級はその騒音=ノイズと共に屋外に締め出され、階級と空間はより明確に分割されることになる[★10]。
歴史的視座から、音楽に対して騒音=ノイズが排除される構図と、上流階級(富裕層)と労働者階級(貧困層=ノイズ)を分かつ構造を比較してみると、両者は正に重なり合っているのだ。
4. 反復する現在に生きること
以上見てきたように、フライング・ロータスの『Los Angeles』には(1)多層レイヤー状の構造をしている、(2)表層はノイズで覆われている、という2つの特徴があった。前章においては、フライング・ロータスというアーティストの無意識的な内面に、この作品がこれらの形式を取っている理由を求めた。しかし同時に、この作品がロサンゼルスを描いている以上、この2つの特徴はこの街そのものの表象でもあると理解できた。つまり前者の多数レイヤーとは、ロサンゼルスという、多くの移民の暮らすこの街の雑多性や文化の多様性を示しているし、後者のノイズとは、この街に内在する、壁でシャットアウトされる貧困や犯罪など負の側面を表している。
そして前述の2つ以外にも、『Los Angeles』にはもう1つの大きな特徴がある。それはスティーヴンがこの作品に込めた、時間の捉え方である。本作において彼は、サンプラーやシンセを演奏することで、従来のビートのフォーマットであった「反復」を捨てている。そしてどのトラックの長さも2~3分と短いために、演奏により変化し続ける多重レイヤー状のサウンドと、楽曲の切り替わりによる場面の変化が印象的な作品となっているのだ。この特徴もまた、ロサンゼルスの持つ、また別の顔に対応しているのだろうか。
スティーヴンが作品に封入した、ロサンゼルスという街の時間感覚や歴史について考えてみたい。ロサンゼルスは人口397万人を有する(2015年時点)、全米ではニューヨークに次いで第2の大都市である。しかしその都市としての歴史は浅い。この地域は18世紀後半にスペイン領となったが、1821年のメキシコ帝国の独立、1846~1848年のアメリカ・メキシコ戦争を経てアメリカ合衆国領となる。1850年の人口は僅か1600人ほどだった。ここまでの大都市に成長したのは、20世紀に大幅に発展を遂げた3つの産業、すなわち油田発見に伴う石油産業、第2次大戦中の航空機産業、ハリウッドの映画産業によるものである。これらにより、1900年に10万人だった人口は、1960年には約250万まで急増している。
1950~60年代の街の急発展の時代に、ロサンゼルスの郊外、サン・フェルナンド・ヴァレーで幼少期を過ごし、これまでに小説の中で何度もロサンゼルスを描いてきた作家のスティーヴ・エリクソン。彼はインタビューに応じて次のように述べている。
いままで何もなかったのに、翌月には隣に家が建ち、その翌月には芝と蔦が植えられ、その翌月にはプールができ、それから十年後にはハイウェイを通すために、こういったものが全部姿を消してしまった。子供時代にこういった道しるべともいうべきものがこしらえられ、それらのすべてが取り壊されるといったことを目撃し、ぼくはそれを当たり前のことだと思っていた。[中略]で、二十歳のときに初めてロスを離れて、パリへ行ってものすごいカルチャーショックを受けた。そこでは、生活の基盤が何百年も変わっていないし、建物だって、十五世紀からあるものだった。頭をガンと殴られるような経験だった。ロサンゼルスがいかに奇妙な街であるかを知るために、ぼくはいったんロサンゼルスを離れる必要があったんだ。[★11]
このように急成長したロサンゼルスには、もう1つの、時間の流れに関する特徴がある。それは四季がないことだ。数ヶ月間気温が低い時期はあっても、1年間のうち300日以上は晴天の日が続く街。ニューヨークや東京が、四季による4小節のコード進行を持っているとするならば、ロサンゼルスは1つの季節が延々とループする、反復の街と言える。しかし連載第1回で見たように[★12]、そもそも反復とはフィクションである。全く同じフレーズが繰り返されるにせよ、時間軸上で連続して聴く以上は、ドゥルーズが言うようにそれは「n番目」がラベリングされたループなのだ。その意味で、ロサンゼルスはフィクションとしての反復を生きる街である。
歴史と四季を持たないロサンゼルスで生きる者にとって、過去から未来に向けて経過する時間軸への意識は希薄かもしれない。常に現在だけを生きること。目の前に見えるものが変化し続ける、仮置きの現在を生きること。このような条件下で、スティーヴン・エリソンやスティーヴ・エリクソンのようなアーティストたち(アナグラムのような2人の名前!)は、創作にあたり何を表現することを望むだろうか。答えの1つは、歴史を持たないこの街の歴史を描くことではないか。この街に、過去と未来を持ち込むこと。
それでは、フライング・ロータスことスティーヴン・エリソンは、どのような方法でこれを成し遂げようとしたのだろうか。これも連載第1回で触れたように、4つ打ちのキックが暗示していたのは、少しだけ未来の世界であり、少しだけ過去の世界であった。つまり、反復するとは、過去も未来も同様に現在の延長であり、想像可能なものであるということだ。逆に、反復しないということは、過去と未来は変化するものだということだ。スティーヴンが『Los Angeles』で試みたこと、つまり反復という基盤の上に成り立つインストビート・ミュージックに<反>反復を持ち込むこととは、現在の顔しか持たないロサンゼルスに、過去と、予測できない未来の位相を持ち込むことではなかったか。
このような欲望に駆動されたのは、勿論スティーヴンだけではなかった。1982年、酸性雨が降り続ける2019年のロサンゼルスの姿が描かれたフィルムが、奇しくもハリウッドで産声を上げた。リドリー・スコット監督『ブレードランナー』で描かれたこの未来都市は、その過剰な日本的要素で話題にもなった。登場人物のJ・F・セバスチャンが住んでいたこの街で、重要な役割を果たしたブラッドベリー・ビルは、大富豪のブラッドベリー氏が思いつきで建築家のサムナー・ハントに依頼し、当時無名のジョージ・ワイマンが引き継いで1894年に完成した、内部にゴシック様式やアールデコ調の装飾が施された巨大なビルである。スクリーンに立ち現れたのは過去を内側に隠し持つ、未来のビルだったわけである。
歴史を持つということは、壊せないものに縛られることである。反対に、歴史を持たないトポスは、豊穣な想像力に彩られた「偽史」を受け入れるスペースを持っている。たとえば作家が描く未来の世界でさえも、実際にその時代を迎えてから顧みれば「偽史」となる。
『ブレードランナー』の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)を著したフィリップ・K・ディックは、カリフォルニアで執筆を続けた作家である。彼はその生涯をかけて、現実が崩壊する未来の偽史を生み出し続けた。あるいは偽史を描くことこそが、ある種の作家の必要条件と言えるのかもしれない。ロサンゼルスが備給する欲望と想像力を受け止めた作家の系譜。ディック、トマス・ピンチョン、そして前述のスティーヴ・エリクソンといった作家たちの描いたロサンゼルスの偽史[★13]。彼らはときにカリフォルニアを越えアメリカや世界をスコープとし、現実とフィクションの過去と未来を自由に繋ぎ合わせる。
歴史と四季を持たないロサンゼルスで生きる者にとって、過去から未来に向けて経過する時間軸への意識は希薄かもしれない。常に現在だけを生きること。目の前に見えるものが変化し続ける、仮置きの現在を生きること。このような条件下で、スティーヴン・エリソンやスティーヴ・エリクソンのようなアーティストたち(アナグラムのような2人の名前!)は、創作にあたり何を表現することを望むだろうか。答えの1つは、歴史を持たないこの街の歴史を描くことではないか。この街に、過去と未来を持ち込むこと。
それでは、フライング・ロータスことスティーヴン・エリソンは、どのような方法でこれを成し遂げようとしたのだろうか。これも連載第1回で触れたように、4つ打ちのキックが暗示していたのは、少しだけ未来の世界であり、少しだけ過去の世界であった。つまり、反復するとは、過去も未来も同様に現在の延長であり、想像可能なものであるということだ。逆に、反復しないということは、過去と未来は変化するものだということだ。スティーヴンが『Los Angeles』で試みたこと、つまり反復という基盤の上に成り立つインストビート・ミュージックに<反>反復を持ち込むこととは、現在の顔しか持たないロサンゼルスに、過去と、予測できない未来の位相を持ち込むことではなかったか。
5. 偽史への欲望
このような欲望に駆動されたのは、勿論スティーヴンだけではなかった。1982年、酸性雨が降り続ける2019年のロサンゼルスの姿が描かれたフィルムが、奇しくもハリウッドで産声を上げた。リドリー・スコット監督『ブレードランナー』で描かれたこの未来都市は、その過剰な日本的要素で話題にもなった。登場人物のJ・F・セバスチャンが住んでいたこの街で、重要な役割を果たしたブラッドベリー・ビルは、大富豪のブラッドベリー氏が思いつきで建築家のサムナー・ハントに依頼し、当時無名のジョージ・ワイマンが引き継いで1894年に完成した、内部にゴシック様式やアールデコ調の装飾が施された巨大なビルである。スクリーンに立ち現れたのは過去を内側に隠し持つ、未来のビルだったわけである。
歴史を持つということは、壊せないものに縛られることである。反対に、歴史を持たないトポスは、豊穣な想像力に彩られた「偽史」を受け入れるスペースを持っている。たとえば作家が描く未来の世界でさえも、実際にその時代を迎えてから顧みれば「偽史」となる。
『ブレードランナー』の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)を著したフィリップ・K・ディックは、カリフォルニアで執筆を続けた作家である。彼はその生涯をかけて、現実が崩壊する未来の偽史を生み出し続けた。あるいは偽史を描くことこそが、ある種の作家の必要条件と言えるのかもしれない。ロサンゼルスが備給する欲望と想像力を受け止めた作家の系譜。ディック、トマス・ピンチョン、そして前述のスティーヴ・エリクソンといった作家たちの描いたロサンゼルスの偽史[★13]。彼らはときにカリフォルニアを越えアメリカや世界をスコープとし、現実とフィクションの過去と未来を自由に繋ぎ合わせる。
そしてこのような作家の営みと想像力は、連載第2回で目配りしたある概念とも響き合う[★14]。アフロ・フューチャリズム。サン・ラー、Pファンク、エクセキューショナーズ、ジャネール・モネイなどに代表される、ジャズ、ファンク、ソウルなどのブラックミュージックや、サミュエル・R・ディレイニー、オクタヴィア・バトラーなどの作家たちに共有される、宇宙を描く想像力。それは、エジプト帝国など「過去」のイメージと、宇宙船や未来都市などの「未来」のイメージを接続する。サン・ラーは、「土星から来た」と自らの出自を語る。Pファンクを代表するジョージ・クリントンは、ピラミッドと宇宙のイメージを結びつけてアフリカ中心主義をアピールする。彼はまた、黒人教会の賛美歌の歌詞を引用することで、選ばれし民を約束の地に連れてゆく馬車と宇宙船(マザーシップ)を結びつけ、独特の宇宙観を歴史の中心に据えるのだ。あるいは複数の楽曲の歌詞に現れる、黒いキリストのイメージ。彼らにはこれらの偽史を必要とする理由がある。それは、彼らの正史は、排除すべきノイズに塗れた記憶だからだ。奴隷船、農場での奴隷仕事、黒人用トイレやバスの座席の記憶。これらを覆す想像力が、アフロ・フューチャリズムという思想に結実している。
アフロ・フューチャリズムにリンクする偽史は、音楽や小説の中に描かれるものだけではない。たとえば、アフロアメリカンによる政治的/宗教的運動であるネーション・オブ・イスラム。創始者のウォーレス・ファードの後を継いだイライジャ・ムハンマドは、元々黒人しか存在しなかった地球にそれ以外の人種を生み出した、ヤクーブという邪悪な科学者についての神話を語った。マルコム・Xはこの神話のみならず、ケニアの古人類学者ルイス・リーキーがアフリカで発見した世界最古の人類化石や、アフリカの有史以前の文明遺跡の発見、またメンデルは、遺伝学による科学的なアプローチで、アフリカが人類発祥の地であることを力説した。
マルコム・X、ネルソン・マンデラ、マーカス・ガーヴィーから2パックに至るこれまでの様々なブラック・リーダーたちにリリックで言及しながら、それらの言葉をビートで擁護し、ジャズ、Pファンクからフライング・ロータスに代表されるLAビートに至る様々なジャンルを牽引する面々が一堂に会して制作されたのが、ケンドリック・ラマーの『To Pimp A Butterfly』(2015年)だった。
ケンドリックがここで実現したのは、アフロアメリカンの歴史を、ライム=言葉の面からも、音楽=ビートの面からも総括することだった。アフロアメリカンの差別に対する抵抗運動の歴史とそれに寄り添う音楽の歴史を総括できたのは、ニューヨークではなくロサンゼルスのMCだった。そしてその理由は、ロサンゼルスが歴史を持たない街だったからなのだ。
ロサンゼルスという街が生んだ、ケンドリック・ラマーとフライング・ロータスという2つの才能。そのケンドリックの才能は、この街を相対化し、外部の世界をも認識させるほど突出したものである。次回は、その特異性を眺めることから、議論を始めてみたい。
アフロ・フューチャリズムにリンクする偽史は、音楽や小説の中に描かれるものだけではない。たとえば、アフロアメリカンによる政治的/宗教的運動であるネーション・オブ・イスラム。創始者のウォーレス・ファードの後を継いだイライジャ・ムハンマドは、元々黒人しか存在しなかった地球にそれ以外の人種を生み出した、ヤクーブという邪悪な科学者についての神話を語った。マルコム・Xはこの神話のみならず、ケニアの古人類学者ルイス・リーキーがアフリカで発見した世界最古の人類化石や、アフリカの有史以前の文明遺跡の発見、またメンデルは、遺伝学による科学的なアプローチで、アフリカが人類発祥の地であることを力説した。
マルコム・X、ネルソン・マンデラ、マーカス・ガーヴィーから2パックに至るこれまでの様々なブラック・リーダーたちにリリックで言及しながら、それらの言葉をビートで擁護し、ジャズ、Pファンクからフライング・ロータスに代表されるLAビートに至る様々なジャンルを牽引する面々が一堂に会して制作されたのが、ケンドリック・ラマーの『To Pimp A Butterfly』(2015年)だった。
ケンドリックがここで実現したのは、アフロアメリカンの歴史を、ライム=言葉の面からも、音楽=ビートの面からも総括することだった。アフロアメリカンの差別に対する抵抗運動の歴史とそれに寄り添う音楽の歴史を総括できたのは、ニューヨークではなくロサンゼルスのMCだった。そしてその理由は、ロサンゼルスが歴史を持たない街だったからなのだ。
ロサンゼルスという街が生んだ、ケンドリック・ラマーとフライング・ロータスという2つの才能。そのケンドリックの才能は、この街を相対化し、外部の世界をも認識させるほど突出したものである。次回は、その特異性を眺めることから、議論を始めてみたい。
★1 Chris Leo Palermino, "New study: Hip-hop, not Brit rock, is the most influential genre since 1960," Digital Trends, May 6, 2015. URL=http://www.digitaltrends.com/music/hip-hop-most-influential-music-last-50-years/
★2 マンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、スタッテンアイランドの5つの地域を指す。
★3 1990年代にロサンゼルスを中心に生まれたヒップホップのサブジャンルで、ファンクをルーツにしながらもレイドバックしたスムースなサウンドを特徴とする。代表作はドクター・ドレイ『The Chronic』(1992年)、スヌープ・ドギー・ドッグ『Doggystyle』(1993年)やウォーレン・G『Regulate... G Funk Era』(1994年)など。
★4 アトランタ、ニューオリンズ、ヒューストン、マイアミなどの米国南部を拠点とするラップのサブジャンル。
★5 たとえば2016年9月10日付のビルボードラップチャートを見ると、トップ10中、半数以上をトラップ、あるいはトラップの形式の影響下にある楽曲が占めている。トラップの革新性と特異性については今後の連載で触れたい。
★6 本連載第4回「サウンドトラック・フォー・トリッパー」、『ゲンロンβ4』。
★7 本連載第3回「誰がためにビートは鳴る」、 『ゲンロンβ3』。
★8 「Prefix」掲載のインタビュー。拙訳。URL=http://www.prefixmag.com/features/flying-lotus/interview/18753/
★9 マイク・デイヴィス『要塞都市LA』増補新版、村山敏勝、日比野啓訳、青土社、2008年、189頁。
★10 R・マリー・シェーファー『世界の調律――サウンドスケープとはなにか』鳥越けい子ほか訳、平凡社ライブラリー、2006年、参照。
★11 越川芳明編『現代作家ガイド2 スティーヴ・エリクソン』、1996年、彩流社、13頁。
★12 本連載第1回「反復するビートに人は何を見るか」、『ゲンロンβ1』。
★13 スティーヴ・エリクソンは『ルビコン・ビーチ』(1986年)や『エクスタシーの湖』(2005年)などの作品で、ロサンゼルス、そしてアメリカの偽史を描いている。『ルビコン・ビーチ』の訳者でもある島田雅彦はスティーヴの小説を「無意識過剰の文学」と形容したが、このことはフライング・ロータスがLAを「無意識的」にノイズを用いて描いた可能性と共鳴するようで興味深い。
★14 本連載第2回「ズレる/ズラす人間、機械、そしてサイボーグ」、 『ゲンロンβ2』。


吉田雅史
1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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