アンビバレント・ヒップホップ(6) ラップ・ジェスチャー論~手は口ほどにモノをいう~(前篇)|吉田雅史

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初出:2017年01月13日刊行『ゲンロンβ10』

1. マイクを放すことで得る自由


 連載第5回の最後で言及したのは、ケンドリック・ラマーというMCの特異性についてであった★1。彼は、アルバム全体を複数の楽曲=幕を持つひとつの歌劇のように組み立てる。そして複数のキャラクターの視点から、単線的ではないメッセージを発信し、込み入った物語を仮構する。表現においては、レトリックを駆使し、独特のリズム感が物語を駆動する。彼のラップスキルが、あるいはそのリリックがどれほど優れたものかについてはすでに多くの言葉が尽くされている。ここではそれらを繰り返す必要はないだろう。しかしながら、少し別の角度から、このUSラップシーンに燦然と輝くアイコンの姿を眺めておきたい。

 ラップとは、どこまでも身体的なものだ。その点で彼のステージパフォーマンスは、注目に値する。たとえばスティーヴン・コルベアの「レイト・ショー」出演時のライブでバンドを従えて披露した『To Pimp A Butterfly』からのメドレー。ここでは綿密にアレンジされた各曲間のつなぎや、バンドとの一糸乱れぬキメの数々をコントロールするかのような彼の所作が、彼を単なるMCとして括ることができない存在に押し上げている。また、同じく『To Pimp A Butterfly』から「These Walls」をテレビ番組の「エレンの部屋」で披露した際★2は、一組の男女のダンサーと、そのダンサーの姿をライブで描く画家を従え、典型的なラップ・ミュージックのパフォーマンス像を更新するような舞台空間を演出した。

 これらのパフォーマンスにおいて目を引かれるのは、彼がマイクスタンドを使っている点だ。片手でマイクを握る必要から解放され、両手が自由になること。これにより、両手をフルに活用したジェスチャーの表現力は、最大限に発揮される。ライブパフォーマンスにおいて、身体表現は言うまでもなく重要だ。激しく体を揺らす。頭を振る。天を仰ぐ。拳を突き上げる。オーディエンスを指差す。胸に手を添え、目を瞑り、黙祷を捧げる。パトカーの上で飛び跳ねる★3。同じくマイクスタンドを用いたパフォーマンスで有名なジェイムズ・ブラウンの躍動を思い起こしてもよい。そのような身体表現は、ときにアーティストの感情やリリックのメッセージを、ラップや歌自体よりも雄弁に語ることがある。
 先述の『To Pimp A Butterfly』メドレーにおいて、ケンドリック・ラマーは、まさにJBがそうしたように、バンドのリズムのブレイクダウンを右手でコントロールしている。さらには左手も自由にすることで、表現の幅を広げつつ、強調するポイントを手の動きで印象付けることに成功している。「These Walls」においては自らの記憶に入り込むような内省的な身振りが中心だが、ここでも自由な左手を使った(あるいはただだらりと脱力させ「使わない」ことによる)多様な表現が見られる。

 類似性を見い出せるのは、JBのようなバンドリーダーだけではない。両手を自由に用いてバンドの演奏をコントロールし、自分の言葉と音楽を表現するその所作は、オーケストラの指揮者を思わせるところがある。指揮者のシャルル・ミュンシュは、指揮者の右手と左手の異なる役割について以下のように述べている。通常、指揮棒を持つ右手は、図形を描きながら拍を刻む。つまり右手は音楽を「線で描き」、左手はそこに「色彩を与える」★4。バンドに尻を向けオーディエンスに向き合うケンドリックのような「指揮者」が、マイクスタンドの利用で両手を使えるようにしたことは必然なのかもしれない。

 以上のようなケンドリックのパフォーマンスを眺めることは、必然的にMCという存在全般のパフォーマンスを眺めることでもある。彼は自由になった両手で、より繊細で多様な身体表現を可能にしているが、ステージ上のMCたちはすべからく、多くのシンガーや、あるいは舞台役者と同様に、ジェスチャーなどの身体表現とともに言葉を届けようとする。

 そしてラップの言葉と身体表現との結びつきは、ステージ上だけに留まるものではない。ステージで披露される楽曲の誕生の瞬間、つまり言葉が音声として、あるいはテクストとして生まれる際にも、そこには当然身体性が介在する。その言葉の誕生と身体性の関わりにこそ、ラップの特異点があるように思える。

 本論は、その特異点を炙り出すことを目的とする。つまりここでは、ラップの意味的側面、すなわちリリックの意味を探るのではなく、ラップの身体的側面、すなわちラップをする身体について、言葉と身体表現との関係性、さらにはラップの言葉が生まれる際に身体を取り巻く環境について考察してみたい。

2. 他者を指向する言語


 YouTubeなどで、ラップのMVを片っ端から視聴する。画面に映る何十人、何百人のMCたちの振る舞いは、ある形式に従っているように見えないだろうか。彼らがカメラに向かって、あるいはオーディエンスに向かってラップするとき、そこには共通の動きが認められる。ラッパーたちのジェスチャー。手の動きを中心としたあの奇妙な所作。MCたちを揶揄する際に必ず引き合いに出される、「Yo!」という口調とセットのあの身振り。あれは一体何を意味しているのだろうか。

 心理言語学者の喜多壮太郎によればジェスチャーを分類するとき、それが他者指向性を持つのか、自己指向性を持つのかによって区分けする方法がある。他者指向性は文字通り、他者との言語でのコミュニケーションを補足する非言語コミュニケーションとしてのジェスチャーに備わる性質である。一方で、相手が見えないコミュニケーション、たとえば電話越しにも私たちはジェスチャーをすることがある。それらは自己指向性を持つジェスチャーに分類される。

「他者指向性を持つ」ジェスチャーは、相手に何かを伝えるために用いられる。たとえば「エンブレム」と呼ばれる一連のジェスチャーは、発話に代わって一定の意味を示す。会釈、手招きなどの社会的行為を示す遂行的エンブレム、銃やドラッグを示すサインなど単語の代わりに用いられる単語的エンブレム、ガッツポーズなど心情を示す表出的エンブレムなどが存在する。MCたちは、リリックの内容に合わせて、これらのエンブレムを用いる。

 しかしMVの全編にわたって登場する、手刀や人差し指を突き出した手を上下左右に振り回す動きは何だろう。それ自体が何かを表象しているとは思えない。これは、連続した発話のつながりをメタ的に示す「メタ談話的エンブレム」と呼ばれる大きなカテゴリに属する、発話の内容の重要度などを補足する「修辞的エンブレム」と呼ばれる種類のジェスチャーではないだろうか。この代表例は、欧米の政治家の演説などに見られる、手刀や人差し指を伸ばした手を繰り返し振り下ろす動きであり、特に重要な単語を強調するのに用いられる。MCたちのライブやMVにおいても、強調されるライムやパンチラインには必ずと言っていいほど上から下に振り下ろす手の動きが伴っている。その動きは様々な軌跡を描き、その五本指のバリエーションにも単語的エンブレムを含む様々な形があるが、MCたちの恒常的な手の動きの多くは、この修辞的エンブレムの範疇に括れるものだろう。

 このように従来のジェスチャー研究の領域からMCたちの身振りを考察すると、ラップはオーディエンスに向けて行われる一方向のコミュニケーションであり、そこに見られるジェスチャーは「他者指向性」を持つ各種のエンブレムであると言えそうだ。ではジェスチャーが、特に黒人文化のひとつであるラップの表現にこれほどまでに多用される理由とは何なのだろうか。
 歴史的に見ると、ラップのルーツがダズンズやシグニファイイングと呼ばれる、黒人社会の中で行われていた一種の言葉を使ったゲームであることに、原因の一端があると言えるだろう。これは、韻を踏みながら、たとえば相手の母親を揶揄するなどし、互いを批判し合うゲームであり、その巧みさによって勝ち負けが決まる★5。相手の母親を如何に酷い/ユーモアのある言い回しでディスるかといった内容も勿論重要なのだが、それ以上に外せないのは、韻を踏んだり、リズムに乗ったりという形式である。そのため、その形式の味付けとしてアクセント(緩急や音程を含む)、リズム、韻律といったパラ言語が果たす役割が大きくなる。つまり、音声としての言葉の表情=しぐさが重視されることから、当然それを支える身体の側でもジェスチャーが多用されることとなる。

 あるいは、「他者指向」とは、実際に他者=オーディエンスと面と向かっているか否かにかかわらず、ある種の公共空間を措定することでもある。黒人社会におけるストリートとは、公共空間/広場の役割を果たしていた。本連載でも、ブロックパーティやブーンボックス(ラジカセ)で曲を鳴らし、そこに集う人々と共有するというビートの公共性について触れた★6。公共空間の条件とは常に第三者、つまり観客の視線を持つということだ。だから全ての行いは、演劇的になる。大げさになる。リリックの内容だけでなく、その語り口にもボースティングが動員される。ラップをする人間の周囲には、観客の視線に応答するように、自然とある種の公共空間が出来上がるのだ。ジェスチャーは、そのことの証左である。つまり公共空間であるストリートで発祥し成長したラップは、身振りやパラ言語によって公共空間に応答しているのだ。ラップのジェスチャーにおける他者指向性は、ラップが誕生したこのような環境に根差したものだった。

 他者指向とはさらに言い換えれば、他者=受け手によってその意味が解釈され、理解されるということでもある。そしてその理解の場には、公共空間が現出する。

 そのような他者による理解を脱臼させるような試みとして見ておくべきは、岡田利規の手がけたパフォーマンス『ポストラップ』だ★7。これはMCのSOCCERBOYのラップに、従来のラッパーらしい動きとは全く違った振り付けをするという試みだった。ラップらしいジェスチャーを剥奪されたとき、それはまだラップに見えるのだろうか。SOCCERBOYのポエトリーリーディングとラップを横断する言葉たちは、ヘッドセットマイクの導入により両手がマイクから完全に自由になることで、その意味では演劇的な身振りを付与された。するとこの言葉たちは演劇的に振る舞うのだろうか。それともリズムや言葉遣いがやはりラップらしさを担保するのだろうか。それがラップかどうかを判断するのはあくまでも観客の視線だ。発語されるラップの内容に寄り添わない身体の動き。耳で聞くことと目で見ることの乖離。この意味の捻れを前に、最終的な判断は観衆に任される。
 個々のジェスチャーひとつひとつを取ってみる。それが特定の意味を持つ単語の代替である単語的エンブレムであるならば、その意味はひとつに固定されるかもしれない。あるいはそれは何かの比喩かもしれない。ダブルミーニングを含んでいるかもしれない。さらに、それが表出エンブレムのように感情を表す場合、受け手によって、そのジェスチャーをどのように理解するかには差異が生じる。意味の揺らぎ。受け手の解釈次第で、パフォーマティブなレベルでの意味が決定される。

 かつてフッサールは、記号には二重の意味があることを指摘した。すなわち、何かを言わんとする「表現」と何も言わんとしない「指標」のふたつである。そして、身振りは「表現」からも「指標」からも除外されるものであると述べている。表情の変化や身振りのような非言語表現は、元来何の意味も持っていないからである★8。ジュリア・クリステヴァは、このフッサールの議論を受け、「表現」でも「指標」でもない身振りの意味を受け手が決定するといっても、それはその解釈の限りにすぎないとし、重要なのは、身振りが、意味やメッセージの成立に先行して存在していることだと指摘する★9。つまり意味は後から解釈され、身振りが先にあるということである。この点で身振りは通常の記号とは異なる。

 このフッサールの「身振りには元来意味がない」という指摘を敢えて字面通り捉えるなら、次のような身も蓋もない理解も可能だろう。身振りそのものは意味を持たない。それは意味という地平から離れている。それでは改めて、何故そのような「意味のない」身振りが多用されるのだろうか。実はその理由を探すこともまた「意味がない」のだ。何故なら、それが多用されるのは、単に、そのほうが「それっぽい」からに過ぎないからである。MCたちはとりあえずそれっぽいから手を動かしているだけだ。両手をだらりと下げてラップするのは、何か落ち着かない。それっぽくない。だから手を振りおろす。ここでの身体は、デカルトが提示したような、精神に隷属するものである。しかしスタイル=様式を重視するヒップホップにおいて、これは特に珍しいことではないように思われるのだ。そこに後から説得性や、正当性が付いて来る。とりあえずスタイルから入る。これが昔も今もヒップホップに魅了された者たちの初期衝動である。

 ハードコアを標榜するラッパーが、リリックに中身のないMCはワックだと散々罵りながら、同時に何の理由も持たずにスタイルを求めてしまえること。これは身体表現に限らず、リリックのテーマや韻の踏み方のスタイル、ファッションのスタイル、タトゥーのスタイル、身のこなしやアティテュードまで、あらゆる側面で散見されるだろう。このようなラッパーたちに対し、あるいはこのような価値観に立脚するラップ・ミュージックに対し、アンビバレントな感情を抱く向きも少なくないのではないか。

 などと書きながらも、同時に疑念が頭を過る。本当にそうだろうか。あるいは、本当にそうだとしても、スタイルだけで意味がないことは唾棄されるべき価値観なのだろうか。
 固定化され類型化されているように見えるMCたちの身体表現だが、これは勿論日々少しずつ更新されている。蓄積される差異。1980年代のラップ・ミュージック黎明期のMVに見られるラッパーの身体表現と、現行のトラップで身体を揺らすラッパーたちの動きの間には、大きな差異が認められる。両者を隔てる時間には、フレッシュな表現の探究者たちの足跡が刻まれている。伝統の延長で、一片の新しさ=フレッシュさを呼び込むこと。MVの撮影中やライブ中に突然投入される、思いつきによる身振り。身体が思考を裏切るような、咄嗟の思いつきのワンフレーズや単語が、後から解釈された意味を付与され、定着すること。ワンフレーズの身振り。前述のクリステヴァの指摘の通り、身振りは意味に先行して存在する、原初的なものとして捉えること。さらには、デリダが『グラマトロジーについて』でパロールとエクリチュールについて述べているように、身振りにおいても表現されるもの(シニフィエ)=「起源(真理としての原初的意味)」と実際の表現(シニフィアン)の間には差異があるという前提から出発すること。日々更新される新たな身体表現が、後から意味付けられる過程にこそ価値を見出すこと。「身振りには元来意味がない」ことを肯定的に捉えること。

 付言するならば、ラップにおける身体表現が元来意味を持たず、どのようにも解釈できること、つまり意味の二重性(複数性)に開かれているのは、事後的な理解を期待されたダブルミーニングの物語が、黒人の歴史上果たしてきた役割と無関係ではないだろう★10

 ここまで見てきたMCたちのジェスチャーは、他者指向性を持つものだった。しかし彼らの全ての身振りが、他者指向的なものなのだろうか。次号に続く後編では、その疑問の答えを探すことから始めたい。

 


★1 連載第5回「この街に舞い降りた天使たちの羽根はノイズの粒子でできている」、『ゲンロンβ6 』。
★2 ケンドリック・ラマーの公式チャンネルには当日の動画がアップロードされている。URL= https://www.youtube.com/watch?v=BTvV9JyNaS8
★3 2015年のBETアワードにおいて、ケンドリックはパトカーの上をステージに見立て、Black Lives Matter運動のテーマ曲ともなった「Alright」を披露している。
★4 シャルル・ミュンシュ『指揮者という仕事』、春秋社、1994年、95頁。
★5 相手の母親に対する揶揄は現在でもフリースタイルの際の定番のネタだが、代表的な音源としては、たとえばフリップモード・スクワッドによるフリースタイルがある。
★6 連載第3回「誰がためにビートは鳴る」、『ゲンロンβ3 』。
★7 東京現代美術館で2014年12月23日に上演。
★8 エトムント・フッサール『論理学研究2』、立松弘孝訳、みすず書房、1970年、33頁。
★9 ジュリア・クリステヴァ『記号の生成論――セメイオチケ2』、中沢新一ほか訳、せりか書房、1984年、95頁。
★10 ケンドリックの「These Walls」にはW.E.B.デュボイスの指摘する「二重性」が顕現している。ケンドリックの実存が孕む二重性。黒人でありアメリカ人。ギャングスタたちを隣見るコンプトンでのGood Kidとしての生活。ケンドリックがコンシャスなMCだと分かっている聴衆は、この曲についても、コンシャスな黒人社会の問題点を指摘するような歌であると即座に理解するだろう。「ナザレスの神」「多くの痛みや後悔」といったフレーズから「壁」を通して歌われているのは、何か深淵なテーマだと直感する。しかしサードヴァースに至ると、真実が明らかになる。これは前作に収録の「Sing About Me」で描かれている、友人を殺した犯人への個人的な復讐の歌だった。「These Walls」とは女性器のメタファーであり、つまり「壁」とは「襞」であり、ケンドリックは犯人の彼女との性的関係について歌っていたのだ。 自分の影響力を誤用してしまうこと。社会の啓蒙のためにポジティブな影響力を用いることも可能な一方で、個人的な復讐のためにネガティブな力を行使できてしまうこと。大きな影響力は、正当な使い方も、不当な使い方もできてしまう。葛藤の末、不当な使い方をした場合、それは大きな後悔につながり、その後悔はやがて自身に恐慌を引き起こす。MCとして成功することには、2PACが直面したような自身の影響力への葛藤が常につきまとうものであった。そしてそれを知りながら、それでもその歩みを止めることはできなかった。誤用しうる影響力を持つことそれ自体が孕む、アンビバレントな感情。このような二重性を持つ感情を、表面的にはポジティブなコードを発信し、しかしその裏側にはネガティブなコードを忍ばせるというダブルミーニングを持つ楽曲の形式で表現したケンドリック。そしてこの二重の構造こそは、最終的に受け手によって意味が判断されるまで宙づりの状態に置かれるジェスチャーのようなものではないだろうか。 さらに言うならば、「These Walls」におけるケンドリックの試みのひとつは、ケンドリックの正気=コンシャスな面を表面的に理解している視線への抵抗ではないか。彼はどこまでもコンシャスで「Good Kid」であるように見えるが、その実裏側には狂気を孕んでいる。あるいは、狂気を孕んでいるように見せたいと欲望している。その狂気の誇示が「These Walls」であり、「King of NY」である。「These Walls」が収録されている『To Pimp A Butterfly』のアルバムカヴァーには、ホワイトハウスを占拠する黒人の群集が描かれている。しかし、対立項であって然るべき、白人のエスタブリッシュメント、およびニューヨークのラッパーたちは、実際のところケンドリックを評価している。これらの楽曲は彼らに対する挑戦状である。そして根底にあるのは、農園主に対して、奴隷が腹の底では転覆を図るような狂気を匿っているのと同様の構図である。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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