観光客の哲学の余白に(3)|東浩紀

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初出:2017年06月16日刊行『ゲンロンβ15』

 西欧近代の哲学者は、主体の構造を視覚の隠喩を使って説明することを好んだ。それはデカルトから始まっている。結果として、彼らは、ひとは、見えるものを見るだけでなく(想像的同一化をするだけでなく)、見えないものを見るようになることで(象徴的同一化を経ることで)はじめて成熟した主体になるのだという理論に到達した。それがラカンの精神分析である。 

 これはこれでよくできた理論で、さまざまな事象を説明できる。ただし、そこには同時に、見えるもの(イメージ)を見ることよりも、見えないもの(シンボル)を見ることのほうが高度で成熟した行為であるという、暗黙の価値判断が導入されている。導入されている、というよりも、むしろ反映されているというべきかもしれない。人間社会は総じて、見えるものを扱う職業、たとえば手工業の職人や芸術家よりも、見えないものを扱う職業、官僚や学者や弁護士のほうを尊ぶ傾向にある。21世紀のいまも、その構図は基本的に変わっていない。否、ますます強くなっていると言える。現代世界の富は、現実に手や足を動かす職業ではなく、記号や数字を脳内で処理する職業に偏っている。ロバート・ライシュはその集団を「シンボリック・アナリスト」と呼び、リチャード・フロリダは「クリエイティブ・クラス」と名づけた。人工知能の普及は、この偏りをますます強化するとも言われている。イメージと戯れるよりもシンボルを操作するほうが高度で人間的だと、ぼくたちはなんとなく思い込んでいて、それは現実の政治と経済を規定している。哲学者たちの主体理論もまた、その思い込みからけっして自由ではないのである。 

 ぼくは『ゲンロン0』の第6章で、まさにその思い込みに対して異議申し立てを行った。見えないものを見ること、それはたしかに人間にしかできないことではあるかもしれない。しかし、本当にそれは人間の世界の中心だろうか。人間の行動はむしろ、見えないものの秩序と同じくらい、見えるものの秩序に規定されているのではないだろうか。たとえば、映画を観るとき、ひとはカメラワーク(見えないもの)と同じくらいに俳優の笑顔(見えるもの)にも魅了されるし、それどころか、スクリーンの解像度や音響の設計やシートの柔らかさといった、シンボルやイメージ以前の知覚的な快楽にも幻惑されるのではないだろうか。だとすれば、もはやそのような快楽の秩序、すなわち動物の秩序を考慮することなしには、いかなる文化批評も社会思想も成立しえないのではないだろうか。ぼくは以上のような認識のうえで、ラカン派精神分析の主体理論を更新する必要性を訴えた。このように整理するとわかるように、この問題提起はほかの章の議論と密接に関係している。近代の哲学者はおしなべて人間と動物を分割することで政治や公共を定義してきた、しかしその分割はいまや機能しない、だから新しい思考の枠組みを考えなければならない、それが『ゲンロン0』の全体を貫く課題だった。第6章はその表象文化論的な変奏だったわけだ。

 見えるものと見えないものの関係を、優劣ではなく並列として捉える主体。ぼくたちが必要としているのはそのような主体についての理論だ。『ゲンロン0』ではそれを「ポストモダンの主体」と名づけた。 
  
 しかし、いまあらためて振り返るに、それはいささかミスリーディングな定義だったように思う。近代の主体は見えるものと見えないものの関係を優劣で弁証法的に捉えたが、ポストモダンの主体は両者を並列に解離的に捉える――そのような主張は、連載第1回でも記したように、そもそも「主体の構造」なるものがそんなにころころ変わるものだろうかという当然の疑問を呼び寄せてしまう。第6章の記述が、『ゲンロン0』のなかで異質なのはそのためだ。実際、ルネサンス人も近代人もぼくたちポストモダン人も、同じ脳と身体をもつ同じ人間なのだから、主体の構造自体は変わらないと考えたほうが腑に落ちる。 
  
 それゆえ、ここからさきは、『ゲンロン0』の記述を微修正し、変わるのは主体そのものではなく、あくまでも主体についての「理論」なのだと考えることにしよう。どんな社会でも、主体について、言い換えれば人間と世界の関係について、それ固有の「理論」を備えている。デカルトに始まりラカンに至る西欧近代哲学の伝統においては、その「理論」は、見えるものを見ること(経験的で動物的な知覚)から見えないものを見ること(超越論的で人間的な記号処理)への、弁証法的な上昇と総合を軸に組み立てられた。そこから近代の秩序は生まれた。けれどもポストモダンに生きるぼくたちは、またべつの思考を必要としている。動物と人間、イメージとシンボル、自然と文化、経験的なものと超越論的なもののあいだに決定的な分割線を引かない、人間と世界の関係についての新しい「理論」を必要としている。本稿が追い求めているのは、そのような言葉なのである。 
  
 

 さて、前置きが長くなってしまったが、以上の文脈を確認したうえで、はじめてぼくたちは、前回紹介したチャンギージーの「透視仮説」の哲学的インパクトについて考えることができる。 
  
 見えるものを見ることから、見えないものを見ることへの弁証法的上昇。いくども繰り返しているように、その上昇は映画の鑑賞行為を例にとるとわかりやすい。映画の鑑賞者は、スクリーンに投影された俳優の演技(見えるもの)を見るとともに、その投影像そのものを生み出している監督のカメラワークや編集作業(見えないもの)も見ることになる。というよりも、後者を見る術を身につけるまでは(シネフィル的な読解方法を身につけるまでは)、成熟した鑑賞者だと見なされない。ラカン派精神分析においては、映画の鑑賞行為のもつその二重性こそが、近代的主体が抱える二重性の雛形だと考えられていた。 
  
 つまりは、近代の主体についての「理論」は、映画のスクリーンという、19世紀末に生み出された特定のメディア装置と妙に親和性が高いのだ。20世紀は映画の時代だった。同時に精神分析の時代でもあった。そして両者は主体の「理論」において一致していた。このことは、裏返せば、同時代の有力なメディアが変われば、それに引きずられるかたちで「理論」のほうも変わっていく可能性を示唆している。21世紀はもはや映画の時代ではない。精神分析の時代でもない。だとすれば、映画ではない、新たなメディア装置の構造を「模倣」するかたちで、新たな主体理論が生み出される可能性が考えられる。もしこの仮説が正しいとすれば、そのときに模倣先となる装置はいったいなんだろうか。 
  
 そしてぼくは、その模倣先を探るときにこそ、チャンギージーの「透視仮説」は重要な示唆を与えてくれると考えている。次号では、まずは映画のスクリーンの本質とはなんだったのか、そこから議論を始めたい。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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