ヒマラヤに車道がやってくる──トレッキングガイドの村とインフラストラクチャ―の人類学 ひろがりアジア(13)|古川不可知
道はどこかから来てどこまでも続いてゆく。子供のころ、ふと道路の終わりがどこにあるのかを確かめたくなり、自転車をずっと真っすぐに漕いで案の定道に迷い、泣きながら引き返してきたことをおぼえている。いま思えば、そのような道の果てへの憧れが筆者をヒマラヤへと導いたのかもしれない。
筆者はエベレストの麓、ネパール東部のソルクンブ郡と呼ばれるところで、十年以上にわたって山岳観光の文化人類学的な調査をおこなってきた。この地域はエベレストのすぐ南に当たる峻険な山岳地帯であり、トレッキングや登山の名所として知られている。ここにはシェルパと呼ばれる人々が居住しており、その名は登山ガイドを指す一般名詞としてときおり日本でも耳にすることがあるだろう。高低差の大きいヒマラヤの斜面に暮らす人々は標高に応じた多様な生業を営み、近年は観光産業からも大きな収入を得るようになった。
そして現在、かつて徒歩でしかアクセスできなかったこのソルクンブ郡では、低地にあたる南部から急ピッチで車道の建設工事が進められている[写真1]。ヒマラヤで山道と歩くことをテーマに研究をおこなってきた筆者は、訪れるたびに延び続ける車道と周辺の村々の様子を横目に眺めてきた[★1]。本稿では、従来の脆弱な山道がどのように車道へと作り変えられてゆくのかを観察し、それがヒマラヤの人々の暮らしへともたらす変化について考えてゆきたい。
エベレスト・トレッキングと延伸する車道
ネパールの首都カトマンズから20人乗りのプロペラ機に乗り、左手にヒマラヤの山並みを眺めながらおよそ40分のフライトで、ソルクンブ郡の玄関口となるルクラの飛行場に到着する[写真2]。山腹の緩斜面に開かれた小さな飛行場の簡易的な建物を出ると、すぐにエベレストのベースキャンプへと続く山道が始まる。
ソルクンブ郡は大きく北部のクンブ地方と南部のソル地方に区分され、飛行場から北に向かうとエベレストを擁するクンブ地方に至る。山岳観光の名所として世界中から観光客を集めるクンブ地方は、そのほとんどが標高3,000mを越える高山地帯となっている。この地に住むシェルパの人々は、ジャガイモの栽培やヤクの移牧をおこなうほか、高所ポーターやトレッキングガイドとして観光産業に大きく依存する生活を送っている。
他方でルクラ飛行場から南部に向かうと低地のソル地方である。こちらは標高1,500mから3,000mほどの相対的になだらかな山地であり、シェルパのほかにさまざまな民族集団が混住している。かつての登山隊はソル地方よりさらに西部に位置するジリという車道の終点の街から、ソル地方を通り抜けてクンブ地方のエベレスト・ベースキャンプへと向かい、このルートは「エベレスト街道」と呼ばれるトレッキングルートにもなった。
しかし現在は大多数のトレッキング客が首都カトマンズから空路でソルクンブ郡にアクセスし、クンブ地方とソル地方の中間地点にあるルクラの飛行場から高地に向けてトレッキングを開始する。それゆえ、低地側のソル地方を通行する人の数はクンブ地方に比べるとかなり少なく、現在のソル地方はクンブ地方へのガイドやポーターの供給元という色合いが強い。
主要なトレッキングルートから外れることになったソル地方の人たちは、観光地化する前には貧しかったクンブ地方が、山道の整備と観光客の増加によっていまでは「ソル地方より発展している」と半ばやっかみの混じった目で眺める。ところが2015年のネパール大地震以降、ソル地方では急速な車道の建設が進み、2024年3月の時点では、カトマンズから陸路を選んでもルクラ飛行場まで歩いて半日の距離まで車でたどり着けるようになった。
以下では、ほとんどの観光客が目指すクンブ地方とは反対方向のソル地方に足を向け、この新しい車道とそれがヒマラヤにもたらしつつある変化について見てゆこう。
車道がもたらす「発展」
そもそも山の中を歩くことはネパール山間部の人々にとって基本的に「苦痛(ドゥカ)」であり、反対に車道は「発展/開発(ビカス)」と深く結びついたものとして捉えられる。山間部の住人たちは、発展した社会では人々は輸送機械によって歩くことや荷運びの苦痛から解放されていると想像しており、それとは対照的に、山間部に輸送機械の通る車道がないことは「発展のなさ」の象徴であると受け止める。
ネパール・ヒマラヤの山間部では、歩くことは一般の人間に対して課される苦役だと考えられている。だから、シェルパの高僧は歩かず輿や馬に乗り、伝説上の僧は空を飛んでいたとさえ語られる。したがって、わざわざ高い金を払って「発展」した国から不便な山中まで歩きにやってくるトレッキング客というのは、シェルパたちにしてみれば実に奇特な人々なのである。
かくして山間部では、車道の到来は人々から強く待望されてきた。だが、ソルクンブ郡の郡庁所在地であるサレリの街でさえ、首都カトマンズから車道が通じたのは、2010年ごろのことである[写真3]。
それまでソルクンブ郡に陸路でアクセスする場合には、前出のジリの街から一週間ほど歩いてルクラまで向かう必要があった。ルクラまで徒歩4日ほどのサレリは車道の開通とともにソルクンブ郡の新しい玄関口となり、とりわけ悪天候によって飛行機の飛ばない雨期などは、観光客がカトマンズからバスや乗合ジープに乗ってやってくるようになった。現在はサレリを起点に、ルクラ方面に向けて車道の建設工事が進められている。
車道によって移動が容易になり、豊富な物資が手に入るようになったことを、住民たちはほぼ肯定的に捉えている。
サレリの街に住むある50代の男性は、道路建設によって何が変わったかを尋ねる筆者に対して、「以前はどこに行くのも一苦労だった。今はあっちにもこっちにも道がある」と身振りを交えながら語り、「いまのような(首都と同じ)家が建つようになったのは道ができてから。それまでは鉄もセメントも手に入らなかった」と述べる。そして、「昔はものもなかなか手に入らなかった。靴なんてのもなかった。今じゃ外と部屋とトイレで別の靴を履くようになった。以前の年寄りは薬も手に入らなかったから、自分の年くらいになるともうよぼよぼ」と言って笑う。道は物資や「発展」のみならず、「若さ」さえももたらすようである。
同じ人物はまた次のようなエピソードを得意げに話してくれた。「祖父が50年前に岩だらけの土地を2,000ルピーで購入した[★2]。当時は無価値だったが、道路を作るときに(石畳にするための)石材が必要になった。すると岩が小型トラック一台につき1,000ルピーで売れるようになったんだ。今日は何台分持っていくの? 10台かな。そしたら1万ルピーね、と。こんな感じだよ」。車道建設と建設資材の需要は、荒れ地を突然価値ある土地に変えることともなった。
インフラストラクチャーという観点
この地域を訪れるたびに、筆者はガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』を思い出す。架空の小村マコンドには道が通じたことで新奇な人やモノが訪れるようになり、村は繁栄を遂げる。だがあるとき一陣の風が吹くと、栄華を誇った村は夢のように消え失せてしまうのであった……。
車道の開通は現実世界のヒマラヤの村にも「発展」をもたらし、少なくともはた目には生活や景観を大きく変えてゆく。ただしそれは、発展という言葉から想起されるような、単線的で予測可能な変化ではない。
ここで車道がもたらしつつある変化を考えるための補助線として、インフラストラクチャ―(以下インフラ)をめぐる文化人類学の議論に目を向けてみたい。
たとえば私たちは日々歩き、自転車に乗り、車を運転しながら暮らしている。そうした私たちの活動を支えているのは足元の道である。だが私たちはそれを当たり前のこととして、通常はとくに意識することなく毎日の生活を送っている。インフラの人類学は、その「当たり前」の世界がどのような構造によって支えられているのかを問い直してゆく。
注意が必要なのは、ここで「インフラ」という言葉には通念的な意味よりも広い対象が含まれていることである。人類学的には「インフラ」は、「モノや人、あるいは観念の流れを促進する作られたネットワーク」などと定義され[★3]、これまで高速道路やダムといった一般的な意味でのインフラから、通常はインフラとはみなされていない、例えば「女性たちの社交」[★4]や「自然」[★5]といったものまで、さまざまな対象が分析の俎上に乗せられてきた。
言い換えれば、インフラとは発見のための概念であり、一見すると全く無関係に見える対象をインフラと名指すことによって比較可能にするための手がかりである。文化人類学者は、インフラに注目することを通じて、私たちの当たり前の世界を成立させている人やモノや概念のさまざまな結びつきを明らかにしてきた。
インフラにはいくつかの興味深い特徴があることも指摘されてきた。インフラの人類学の開拓者であるスーザン・レイ・スターは、インフラは機能しているあいだは不可視であり、たとえば電車の遅延のように不具合をきたしたときに、はじめてそれ自体として姿を現すものだという[★6]。また、何がインフラであるかは関係によって異なり、たとえば「水道管」は、住民にとっては日常的には不可視のインフラである一方、配管工にとっては常に関心の対象である。
そのような研究を参照しながら、筆者はこれまで、険しい高山の環境において山道は常に「不安定なインフラ」であることを論じてきた。人や家畜に踏まれて崩れ、天候に応じて絶えず質感を変える山道は、すべての住民や移動者にとって多かれ少なかれ関心の対象であること、またそうした不安定さこそがむしろ山岳観光の魅力を成立させていることなどを指摘してきた。
そこで本稿では、ソル地方に位置するカリコーラという村を事例に、従来の脆弱な山道が相対的に安定した車道へと置き換わってゆく過程を報告しながら、ヒマラヤの「当たり前」がどのように変化しつつあるのかを考えてみたい。
車道による接続と切断
カリコーラ村は郡庁所在地のサレリからルクラ飛行場に向かう経路上に所在する、この地域では相対的に大きな村である[写真4]。距離的にもちょうどサレリとルクラの中間地点にあたるため、バスパークの建設工事も進められている[写真5]。
筆者が初めてこの村を訪れた2012年にはまだ車道は影も形もなく、カリコーラ村とサレリのあいだは峠を越えて二日ほど歩く必要があった。当時サレリからカリコーラ方面には数キロにわたる荒れ道が造成途中のまま放置されており、このころはカリコーラの村人たちも車道が本当に作られるのかは半信半疑であった。だが2015年のネパール大地震のあとになると急速に車道建設が進み、2019年の春にはカリコーラ村まで車両で到達できるようになっていた。
車道が開通するとまずバイクが走り出し、やがて四輪駆動の乗合ジープがやってくる。2023年3月の時点ではすでに村内には35台のバイクが所有されていた。そして、ジープ(現地ではジプと発音される)によって沿道の村からサレリへの旅は半日程度にまで短縮された[写真6]。
車道の到来は村の景観も一変させることになった。森は切り払われて細い山道は砂埃の舞う未舗装の路面になり、旧道に並行して村内に新しく開かれた車道沿いには商店やロッジが次々に新築されている。村の人々は、「バスパークができれば観光客はみんなここで一泊する。たくさん人が来るようになるし、カトマンズに行くのも楽になる」と語り、「上の人たち(クンブ地方の住民)はもう十分に稼ぎ終わった、次はソルの番だ」と期待を口にする。
また、車道による接続は人やモノの流れを変え、思わぬ場所にも繁栄をもたらす。カリコーラからルクラ方面に向かう車道は、隣村へ斜面を直線的に登ってゆく従来のメインルートではなく、新たに山腹の森を切り開き、急斜面を巻くようにゆるやかな傾斜をつけて建設された。
開通した車道に沿って村から30分ほどバイクを走らせたところに、現在はラマイロダラと呼ばれる場所がある。ここはかつて深い森であり、小さな家が一軒あるだけの村人もめったに通らない土地であった。ところが森を伐採して車道が開通したことからカリコーラ村を一望する展望スポットとなり、その一軒家は茶店に改装されて繁盛を極めるようになった[写真7・8]。
店主の女性は苦労続きだったその人生を筆者に語る。「一度は土砂崩れで、一度は地震で、二回も家が壊れてしまった。だから崖から遠い現在の場所に家を移したんだ。車道ができるとみんなここに来るようになり、ジープの運転手によってラマイロダラ(楽しい丘)と名付けられた」。一緒にいた村の友人も、「最近カリコーラの人たちは、みんなラマイロダラに行こうと言うようになった」と補足する。いわゆるデートスポットのようにもなっているらしい。
単なる山腹に過ぎなかったところは車道が通ることで新たに名付けられ、経験と語りが蓄積され、「場所」として意味を帯びてゆく[★7]。
もちろん新たな接続が生まれることは、なにかを切断することと表裏一体でもある。あるロッジ経営者の男性は、「車道ができれば観光客は車で素通りするだけになるだろう。商売あがったりだ」と述べたあとで、「だけど自分のことだけを考えていてはいけない、道はみんなのものだから」と付け加える。また、車道が迂回することになった旧来の山道でロッジを営むある女性は、「政府のやることだから、いいねと言わなきゃいけないだろう?」と皮肉っぽく答えた。
作られねばならない車道と個人の利益はときに衝突するものの、それは結局のところ「発展」の論理へと回収されてゆく。
ヒマラヤの車道と脆弱性
だがとりわけ山間部の車道は、ただ舗装して白線を引けば完成するといったものではない。
ペルーのハイウェイ建設を調査した人類学者のペニー・ハーヴェイとハンナ・ノックスは、道路建設を環境に対する一方的な「制御」としてではなく、自然や社会の異種混淆的な要素の「調整」として捉えていた。現場で手に入る素材の配合を実地で試験し、ときに違法採掘業者と取引するというように、道路建設は、道路を存在させるために必要な数多くの人やモノのあいだの「交渉」なのである。そのような交渉のなかでは、エンジニアは普遍的な工学知識を単に当てはめるだけでなく、現場の物理的・社会的環境に対してその知をすり合わせてゆく必要がある。道路を作る人々は、工学知識の担い手であるエンジニアであると同時に、ありあわせの素材をつなぎ合わせて機能するものを作り出す、「ブリコルール(器用仕事人)」[★8]でもあるとハーヴェイらは指摘する。
道路建設が現場の要素の「調整」であることはヒマラヤでも同様である。私が調査地を訪ねた2023年3月には、カリコーラ村から半日ほど歩いた標高3,000mに位置する峠で、郡政府の手配した業者がダイナマイトを用いて岩盤の破砕作業をおこなっていた[写真9]。岩盤が砕かれると、重機をつかって路面の障害物を除去し、車両が通行可能となるように凹凸を均す。そうして車道はいちおう開通となる。
監督者の男性に話を聞くと、はじめは当初の計画にもとづいて現在よりも上の位置で車道の開削をおこなっていたという。だが地盤が安定せず、落石が頻繁に起きて下の集落や歩行者に危険が及んだため、既存の山道を拡幅する方向で計画を修正したのだと説明する。「数億ルピーと数か月が無駄になってしまった」と私のアシスタントは小声で教えてくれる。現場の環境に応じて道の現れは柔軟に変化するのであり、同時にこの事例からは従来の山道が相対的に安定した位置を通っていたこともうかがえる。
道の現れに影響を及ぼすのは物理的な地形だけではない。たとえばこの地域には「ルー」と呼ばれる水の神霊がおり、水場にはルーを祀る祠がある[写真10]。ルーは怒りっぽく、水場を汚したりすると病気や不幸を起こす。近くに車道を通すことに対してもルーは怒るとされ、車をひっくり返したり、事故を起こしたりすると言われている。したがって車道はできるだけ祠を避け、どうしても近くに道を通さねばならないときにはあらかじめ念入りに儀礼をおこなうのだという[★9]。
現場の地形や物理的状況のみならず、既存の慣習や神霊といった存在のあいだを調整しながら車道は作られてゆく。車道は環境中にある可視と不可視のさまざまな存在のあいだを縫って現れ出てくるのである。
重機による車道の開削が終わると、石畳への舗装作業がおこなわれる。これは地元のリーダーが地方政府から請け負い、村人たちを動員して実施する[写真11]。聞き取りによると、6名のグループがメートル当たり450ルピーの単価で作業をおこない、一日16メートルほどの進捗があるという。すると単純計算では日当1200ルピーほどとなる[★10]。「(車道の舗装作業は)一日の収入としてはポーターと同じくらい。チップがないぶん分が悪いけど、自分の村の近くで働けるし、(季節労働の観光と違い)仕事はいつもある」と、ある村人は口にする。日当制の肉体労働である道路建設は、同様の仕事であるトレッキングのポーターを代替するものと位置づけられている。
もっとも車道とはいえ、山間部のそれは道幅以外の点では徒歩移動のための山道とさほど変わりない。雨が降れば路面はぬかるみ、土砂崩れが起きれば道は流失するといったように、車道は既存の山道の性質をそのまま引き継いでいる[★11]。
だが重要なのは、むしろそのような脆弱性こそ村の人々に継続的な収入機会をもたらすということだ。絶えず補修が必要な山間部の車道は、作業者となる村人を常に必要とする。車道建設や補修作業によって収入が得られるようになった村の男性たちからは、「最近カリコーラの人はトレッキングや出稼ぎに行かなくなった」という声も聞かれるようになった。
山道と車道は質的に異なるものではなく、むしろ脆弱性を共有する連続的なグラデーションであり、ここでは車道もまた人々の関心と介入の対象となる不安定なインフラである。ヒマラヤに車道がやってきた後も、人々は変わらず脆弱な道とともに生き続けているのである。
伝統と発展をこえて
年に一度か二度訪れるだけの筆者のような部外者の目には、車道の到来は従来の生活に突然の変化を引き起こしたかのように見え、昔の「静かで美しかった村」を懐かしむ気持ちがないと言えばウソになる。しかし実際にそこで暮らす人々にとって、山間部の車道は「発展」のためになくてはならないものである。そしてその「変化」は、たとえば私たちがスマホもなかった20年前と現在のあいだで特に断絶を感じないように、インフラと連関しながら絶えず変わり続けている生活の一時点に過ぎない。
インフラの人類学は、そうした一時点の「当たり前」をすくい上げ、そこにひそむ変化と連続性を明らかにしてゆく試みであるともいえるだろう。先に言及したスーザン・レイ・スターは、インフラの特徴として「既存の土台の上への構築」および「実践の慣行との連関」を指摘していた。ヒマラヤでも車道という新たなインフラは従来の山道の上に、その性質を引き継いだまま現れる。そして車道は、山中の歩行やルーの水場への敬意といった既存の慣行に基づいて形作られるとともに、作られたことによって人々の慣行を変化させてゆくのである。
ヒマラヤの「道路の終わり」は、山道との境界もあいまいなまま今もじわじわと伸び続け、人々の当たり前を少しずつ更新している。
撮影=古川不可知
★1 たとえば以下の文献を参照のこと。古川不可知『「シェルパ」と道の人類学』、亜紀書房、2020年。同「インフラストラクチャーとしての山道──ネパール・ソルクンブ郡クンブ地方、山岳観光地域における「道」と発展をめぐって」、『文化人類学』83(3)、2018年、423-440頁。
★2 現在のレートでは1ルピーはおよそ1円である。
★3 Larkin, Brian, “The Politics and Poetics of Infrastructure,” Annual Review of Anthropology 42, 2013, pp. 327-43.
★4 Julia Elyachar, “Phatic labor, infrastructure, and the question of empowerment in Cairo,” American Ethnologist 37(3), 2010, pp. 452-464.
★5 Ashley Carse, “Nature as infrastructure: Making and managing the Panama Canal watershed,” Social Studies of Science 42(4), 2012, pp. 539-563.
★6 スターは、インフラの9つの特徴を挙げている。それは、「埋め込まれていることEmbeddedness」、「透明であることTransparency」、「到達もしくは広がりReach or scope」、「成員であることの一部としての学習Learned as part of membership」、「実践の慣行との連関Links with conventions of a practice」、「標準の具現化Embodiment of standards」、「既存の土台の上への構築Built on an installed base」、「故障における可視化Become visible upon breakdown」、および「一挙にではなくモジュール単位での定着Is fixed in modular increments, not all at once or globally」である。Susan L. Star, “The Ethnography of Infrastructure,” American Behavioral Scientist 43(3), 1999, pp. 377–391.
★7 cf. Keith H. Basso, Wisdom Sits in Places: Landscape and Language Among the Western Apache, University of New Mexico Press, 1996.
★8 ブリコルール(bricoleur)はフランス語で、「手先の器用な人」や「日曜大工をする人」を意味する。人類学の用語としてはレヴィ゠ストロースが『野生の思考』のなかで、いわゆる「未開社会」の思考様式について述べる際に、エンジニアとブリコルールの対比を用いている。
★9 ただしこれは住民からの聞き取りであり、工事の際にどれほど徹底されているのかは不明である。また水場の上手に車道が作られたために枯れてしまった水場も筆者はいくつか実見している。
★10 2019年の聞き取りであり、現在はさらに金額が上昇していると思われる。
★11 古川不可知「ヒマラヤ山岳観光のモビリティと斜面の質感」、『モビリティと物質性の人類学』、春風社、2024年、187-208頁。
古川不可知
1 コメント
- tomonokai80432024/08/06 13:25
「インフラの人類学」というのを初めて知り、そして興味深く拝読しました。 ヒマラヤ周辺には行ったこともなく、どんな感じなのか想像もつきませんでしたが、きれいな写真や地図などもあって、よくイメージできました。 また、ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』のマコンドの村のことを思い出すと書かれていて、文章をまるで小説のような虚構と現実が入り混じった感覚で楽しく読めました。 道路ができることで起きる、様々な変化を、良い悪いという評価ではなく、いろいろな角度から捉えられていて、変化していくものをどのような視点でみるかで、いろいろなことが言えるんだなぁと思いました。 手つかずの自然を保護するのではなく、人の手が入ったことで起きる変化を肯定的に考える視点を学びました。
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