ひろがりアジア(9) 反転のユートピア──スハルト政権期インドネシアの「若者向け娯楽誌」と9.30事件の痕跡(後篇)|竹下愛
初出:2022年1月26日刊行『ゲンロンβ69』
後篇
「PKI」の恐怖
一般娯楽誌として当時市場を二分していた『セレクタ』と『ヴァリア』には60年代の半ばから70年代初頭にかけて、PKI(インドネシア共産党)掃討作戦で没収されたとするコミュニストらの武器の数々、逮捕者連行の様子などが写真入りで紹介されていた。9.30事件における将軍たちの拉致・拷問に関与したとされたPKI傘下の「ゲルワニ(インドネシア婦人運動 Gerakan Wanita Indonesia の略)」の女性たちに対する裁判や実況検分の様子も伝えられた。9.30事件の際に将軍らを拉致し、100万ルピアの報酬で将軍らの目をくりぬいたと自白したゲルワニ女性の裁判の模様(Selecta, No. 489, 1970)などが、「PKIを締め上げろ Ganyang PKI」というスローガンのもとに連日報じられていた【図1】[★1]。
ところが、『アクトゥイル』からこうした話題は完全に排除されている。各地で読者組織が増加していたころには毎号、どこかのAFC(アクトウィル・ファン・クラブ)創設イベントの模様が報じられていた。そこでは「いかなる政治的・社会的運動にも関与せず、特定の政党や団体のイデオロギーを持ち込んではならない」というAFCの基本方針が繰り返し強調されている。このような方針について、この雑誌の創刊者の1人であり、AFC創設イベントに主賓として参加していたトト・ラハルジョは、当時共産党の再来への警戒を呼び掛けていた当局への配慮があったと述懐している[★2]。もっとも、そうした「配慮」という消極的姿勢自体が、一般娯楽誌が共産分子の壊滅を訴え、国軍への積極的な支持を表明してきたのとは対照的だ。
では、『アクトゥイル』にみられる政治的なもの一切に対する消極性はどこからくるのか──。第120号にはミス・インドネシア・コンテスト開催の広告記事が掲載され、審査の基準について「国内外の政治問題についての豊富な知識が求められる」と明記されている。その記事の端には、カッコで括られた編集部のコメントがたった一言、「(なんて恐ろしい…)」と添えられている[★3]。何が、どう恐ろしいのか。それは読む側の判断にゆだねられている。しかしながらこのようにミニマルな意思表明は、ミニマルであるがゆえに、それを読む多くの読者たちの間にも同じような政治的・イデオロギー的なものに対する恐怖や拒絶感が共有されていることを暗黙のうちに示している。
政治的なものがなぜ「怖い ngeri」と感じられるのか、その意識の背景について『アクトゥイル』で具体的に言及されたことは1度もない。しかし、いくつかのテクストは、あえて明言されない恐怖の根拠が、9.30事件以降インドネシア共和国全土で共産分子撲滅の名のもとに無差別に展開された逮捕・拘束、あるいは大量殺戮という、若者たち自身にも真相は不明であったはずの出来事に集約されていることを示している。
たとえば73年、スラバヤのロック・バンド、AKAをめぐって「アンダーグラウンド論争」と呼ばれたひとつの誌上論争が展開した。当時インドネシア国内でもっとも過激で破壊的なステージ・アトラクションを行うロック・バンドであったことから「インドネシア版アンダーグラウンド」と称され、人気を集めていたこのグループについて、ある読者が、「『アンダーグラウンド』とは、ロックの本場であるニューヨークやロンドンでは、スタイルだけでなく思想的にもラディカルなロック・スターたちに与えられる呼称であって、ステージ・アトラクションだけを二番煎じで模倣しているAKAにはふさわしくない」とする投稿を行った。これに対して、あくまでAKAの「アンダーグラウンド性」を主張するファンたちと、くだんの投稿を支持する読者たちとの間で、その後数ヵ月間にわたる論争が展開されたのだった【図2】。
たとえば73年、スラバヤのロック・バンド、AKAをめぐって「アンダーグラウンド論争」と呼ばれたひとつの誌上論争が展開した。当時インドネシア国内でもっとも過激で破壊的なステージ・アトラクションを行うロック・バンドであったことから「インドネシア版アンダーグラウンド」と称され、人気を集めていたこのグループについて、ある読者が、「『アンダーグラウンド』とは、ロックの本場であるニューヨークやロンドンでは、スタイルだけでなく思想的にもラディカルなロック・スターたちに与えられる呼称であって、ステージ・アトラクションだけを二番煎じで模倣しているAKAにはふさわしくない」とする投稿を行った。これに対して、あくまでAKAの「アンダーグラウンド性」を主張するファンたちと、くだんの投稿を支持する読者たちとの間で、その後数ヵ月間にわたる論争が展開されたのだった【図2】。
この時寄せられた投稿のひとつに、AKAのスラバヤ公演が急きょ禁止になった出来事を取り上げ、その原因は彼らがステージ上で警察を汚職の巣窟と罵ったことが原因だったという噂を紹介しているものがあった。「インドネシアにはアナーキズムに近い意味を持つ欧米的な意味でのアンダーグラウンドなバンドを許容する場などなく、AKAのアンダーグラウンド性を主張することはAKAの存在を脅かす危険なことである」と主張するこの投稿は、AKAがアンダーグラウンドでないと主張する者は、実のところ誰よりも彼らの身を案じているのだと述べている。
一方、これと同じ第117号にはAKAのボーカリストであるウチョック・ハラハップ本人の見解が掲載されている。ウチョックは、周りの見解がどうであっても自分自身を「アンダーグラウンド」であると考えたことはないと明言し、次のように述べている。
さらにウチョックは次のように続けている。
インドネシア東部のモルッカ諸島のひとつ「ブル島」は9.30事件以降、共産党員とその支持者とみなされた1万人以上の人々が政治犯として送り込まれ、強制労働を強いられた流刑島として知られている。ウチョックはそのことをほのめかしながら、この国でアナーキストや共産分子だとみなされることがもたらす危険のことを暗に示している。お仕着せの「インドネシアの個性」からのがれ、領土・領域に縛られない「新しさ」をもとめる若者たちに帰属の場を与えてくれるロックの空間も、「秩序と安定」の名のもとに容赦なく発動される当局の暴力や抑圧と常に背中合わせなのだと、ウチョックは吐露しているのである。
『アクトゥイル』は、カウンター・カルチャーと呼ばれたこの時代のグローバルな文化表象を包括的に取り込む唯一のチャンネルとして、独立闘争を通じた領土・領域の確保や秩序回復の物語を「俺たちの物語」とはなしえない世代の若者たちを、「インドネシアの個性」には呪縛されない「地図にないコミュニティー」に誘った。それは、9.30事件以降の恐怖と不安の日々を領土にまつわる唯一の共体験としていた世代の若者たちの、集合的な「負の記憶」をことごとく反転させた世界でもあった。
一方、これと同じ第117号にはAKAのボーカリストであるウチョック・ハラハップ本人の見解が掲載されている。ウチョックは、周りの見解がどうであっても自分自身を「アンダーグラウンド」であると考えたことはないと明言し、次のように述べている。
われわれAKAは、インドネシアのバンドであるかぎり、インドネシア国民として非難されるようなことだけはしたくない。欧米のアンダーグラウンドがどういうものかは知らないが、インドネシアのデモクラシーはアナーキーなデモクラシーではないのだ。(中略)誰だってこの国に生まれて育った若者世代である以上、インドネシア流のやり方というものを尊重しなければならない。本格的なアンダーグラウンドが許される場などインドネシアにはありえないのだから。(強調原文通り)[★4]
さらにウチョックは次のように続けている。
アンダーグラウンドの思想性がどうのこうのとうんちくを垂れる前に、自分でそういうバンドを作ってみるがいい、もちろん、そのうちブル島送りになることぐらいは覚悟して。(強調筆者)[★5]
インドネシア東部のモルッカ諸島のひとつ「ブル島」は9.30事件以降、共産党員とその支持者とみなされた1万人以上の人々が政治犯として送り込まれ、強制労働を強いられた流刑島として知られている。ウチョックはそのことをほのめかしながら、この国でアナーキストや共産分子だとみなされることがもたらす危険のことを暗に示している。お仕着せの「インドネシアの個性」からのがれ、領土・領域に縛られない「新しさ」をもとめる若者たちに帰属の場を与えてくれるロックの空間も、「秩序と安定」の名のもとに容赦なく発動される当局の暴力や抑圧と常に背中合わせなのだと、ウチョックは吐露しているのである。
『アクトゥイル』は、カウンター・カルチャーと呼ばれたこの時代のグローバルな文化表象を包括的に取り込む唯一のチャンネルとして、独立闘争を通じた領土・領域の確保や秩序回復の物語を「俺たちの物語」とはなしえない世代の若者たちを、「インドネシアの個性」には呪縛されない「地図にないコミュニティー」に誘った。それは、9.30事件以降の恐怖と不安の日々を領土にまつわる唯一の共体験としていた世代の若者たちの、集合的な「負の記憶」をことごとく反転させた世界でもあった。
ユディスティラ・A・N・M・マサルディは現在も活躍するインドネシアのポピュラー文学作家である[★6]。70年代、双子の弟であるノールカ・マサルディとともに『アクトゥイル』に詩や小説をしばしば投稿し、読者の間では知られた存在であった[★7]。彼は9.30事件当時西ジャワ州スバンに住む小学生で、後に自身の経験をもとに、事件後のレッド・パージに翻弄される一家の悲劇を描いた小説『負けないぞ Mencoba Tidak Menyerah』を発表している[★8]。事件当時を振り返り、ユディスティラは次のように語っている。
あのころ(九・三〇事件以後)は本当に毎日が不安だった。自分にはなにが起こっているのか理解できず、大人たちとはひたすら絶縁したかった。アクトゥイルの世界はそうした気分をかなえてくれるので、夢中で投稿した。[★9]
『アクトゥイル』の「地図にないコミュニティー」は、ユディスティラと同じ時代の狂気を目撃していた無数の若者たちのユートピアだったのだろう。
『アクトゥイル』の終焉
ユディスティラをはじめ、『アクトゥイル』はその後のインドネシアのメディア文化をけん引するパイオニアを数多く輩出した。「反逆の詩」を主宰し、ユディスティラも師と仰いだレミ・シラドは、その後も音楽、映画、文学と、ジャンルを問わない創作・批評活動を精力的に続けた。2002年にはインドネシア最大の文学賞であるカトゥリスティワ賞を受賞。インドネシアの文学・メディア界の重鎮の地位を確立したシラドの名は、その後も常に『アクトゥイル』とともに語られてきた。
68年に留学先の西ドイツから初の海外レポートを送り込んだデニ・サブリは[★10]、その後も続々と海外の音楽事情やスターの動向を現地からレポートし、当時世界を席巻していたディープ・パープルの世界ツアーにスタッフとして同行。75年に『アクトゥイル』主催による同グループのインドネシア公演を実現に導いた。その後もインドネシアを代表する音楽プロモーターとしてビージーズ、クリフ・リチャードと、海外のポップスターを数多く招き、プロダクション経営や芸能スカウトも手掛け、インドネシアのエンターテインメント業界の第1人者としての地位を固めた。
数多くのパイオニアを輩出した『アクトゥイル』がそのミッションを終えたのは、78年のことだった。72年に雑誌としてインドネシア最大の発行部数を記録してからのおよそ3年間の広告収入はうなぎ上りで、企業や行政の協賛を得て動員者数10万人規模の音楽フェスを立て続けに開催し、上述のとおり75年にはディープ・パープル招聘という快挙まで成し遂げた。しかしこの年を境に、この雑誌を支えてきたレミ・シラドら主要スタッフが次々と離脱を始めた。採算度外視のアマチュアリズムからスタートしたこの雑誌が結果として生み出した巨額な利益の分配について、誰もが無頓着ではいられない年代に差し掛かっていたからだ。彼らの離脱はこの雑誌から、編者、読者、誌面に登場する諸々の人物が誌面という同一空間上に会していたかのようなライブ感覚を奪い、読者からの投稿も激減した。10万部を下ることのなかった発行部数は76年以降急速に下降線を辿り、77年には3万部前後に落ち込んだ。この雑誌の成功を後追いすべく乱立を始めていた新興の若者向け娯楽誌に水をあけられるようになった『アクトゥイル』は、78年に発行許可をジャカルタの実業家に売却してバンドンの編集部を閉鎖、その歴史に幕を下ろした。
後続の若者向け娯楽誌と若者世代のゆくえ
『アクトゥイル』はそれ自体が消えた後も「若者向け娯楽誌」のパイオニアとして、編集のコンセプトやフォーマットを後続メディアに遺した。スハルト政権の開発政策下で80年代以降に成長した巨大メディア産業は、『アクトゥイル』が構築した編集の手法を潤沢な資本と蓄積されたノウハウによって洗練化し、新たな若者向け娯楽誌を数多く生み出した。そのターゲットは、都市部を中心に拡大しつつあった新興中間層の若者たちである。70年代の終わりごろからは彼らを当て込んだ大型のショッピングセンターや娯楽施設の建設が相次ぎ、ファッション業界やフード業界は若者向けに特化した戦略を新たに展開した。「開発の落とし子」と呼ばれた新中間層の若者たちはそのような開発政策がもたらした消費文化の享受が可能な一群であり、この一群をマーケットとする商品広告に彩られた娯楽雑誌は、開発政策そのもののイメージを、若者たちの豊かで近代的なライフスタイルに結び付けつつ全国に流通させた。
一方、スハルトが再選を重ね、政権の長期化から一層の体制強化が急務となる78年以降、スハルト政権下では5原則からなる建国理念「パンチャシラ」が、「パンチャシラ精神」として教育現場などで徹底化された。とりわけ、5原則の第1項として掲げられる「唯一神への信仰」は、共産主義思想を排除するための根拠として強調された。さらに1982年の国防基本法により国軍が「国防治安維持機能」と「社会勢力としての機能」の両方を持つことが規定され、軍人の政治、行政への関与が認められると、スハルト体制の実質的な軍支配が強化された。大学内の学生団体は「学園正常化」の名のもとに学長を責任者とする学生調整組織に一元化され、学生によるすべての活動はこの組織を通じて当局の監視下に置かれた[★11]。このような政策はすべて「コミュニスト再来への警戒」の名のもとに展開された。
当時の社会的・政治的趨勢は、若者向け娯楽誌のコンテンツにも反映されている。海外の音楽情報を得意分野とし、『アクトゥイル』にもっとも近い後継誌とみなされていた『ハイ』は、国軍や大統領に対する翼賛的な記事や、コミュニスト再来の危険を訴える国軍幹部のコメントを毎号のように掲載した【図3】【図4】。85年6月には、前年に制作され、以後教育現場や国営放送を通じた上映が義務付けられた反共プロパガンダ映画『九・三〇事件共産党の裏切り』の特集号を組んでいる[★12]。
それらのテクストが、当時の読者たちにどのように読まれていたのかはわからない。ただ90年代を迎えたころから、そのようなテクストに交じって、独立闘争や国家原則を掲げて「インドネシアの個性」を説く大人たちに面従しながらも、その時代遅れな身振りや物言いを面白おかしく揶揄して楽しむ若者たちのジョークやパロディーが、同じ雑誌のフィクション小説やコミックにはしばしば挿入されている。それは、やがて起ころうとしていた歴史の転換に結び付く、ほころびのひとつだったのかもしれない。
97年、アジア全域を襲った通貨危機はインドネシア経済に突然の打撃を与え、国民生活はにわかに逼迫した。そうしたなか全国の大学キャンパス内では、スハルト大統領の7期連続再選に反対する学生デモがいつしか始められていた。
そして翌98年の3月、スハルトの再選が確定して第7次開発内閣が組閣されると、激化したデモは街頭に広がった。5月、デモに参加した4名の学生が当局に射殺された「トリサクティ大学学生狙撃事件」の映像が生々しくニュースで伝えられると、反スハルトデモはさらに拡大した【図5】。ジャカルタ市内全域で大暴動が発生し、国会議事堂には国内全域の大学生たちが押し寄せた。議事堂の内外はおろか、ドームの上までを5日間にわたって占拠した学生たちは5000人にのぼった。彼らは持ち込んだノート・パソコンを導入間もないインターネットにつないで海外のメディアやNGOに現場の様子を発信し、彼ら自身を映し出しているCNNやBBCの画面を通じて全世界と交信した。
97年、アジア全域を襲った通貨危機はインドネシア経済に突然の打撃を与え、国民生活はにわかに逼迫した。そうしたなか全国の大学キャンパス内では、スハルト大統領の7期連続再選に反対する学生デモがいつしか始められていた。
そして翌98年の3月、スハルトの再選が確定して第7次開発内閣が組閣されると、激化したデモは街頭に広がった。5月、デモに参加した4名の学生が当局に射殺された「トリサクティ大学学生狙撃事件」の映像が生々しくニュースで伝えられると、反スハルトデモはさらに拡大した【図5】。ジャカルタ市内全域で大暴動が発生し、国会議事堂には国内全域の大学生たちが押し寄せた。議事堂の内外はおろか、ドームの上までを5日間にわたって占拠した学生たちは5000人にのぼった。彼らは持ち込んだノート・パソコンを導入間もないインターネットにつないで海外のメディアやNGOに現場の様子を発信し、彼ら自身を映し出しているCNNやBBCの画面を通じて全世界と交信した。
当時、一般的に学生運動に参与するのは全大学生の1%にも満たないといわれていた。ところがそれを遥かに上回る数の学生が98年のデモに参加し、スハルト大統領を辞任に追い込んだ。それまで学生運動に縁のなかった一般の学生たちが運動に参加したことは、デモの規模以上に驚くべきことだった。
かつて『アクトゥイル』は、若者たちを脅かしていた「トラウマの記憶」を反転させ、ひとつのユートピアを作り出していた。それは、若者たちを恐怖にさらされた客体から、秩序を揶揄し、罵ることもできる主体へと転換する空間だった。ユートピアはその後のメディアにも引き継がれたが、開発独裁の終わりなき支配にあたかも外側から塗り固められ、出口を失ってしまったかに見えていた。その内部が、経済危機を機に破れ始めた。そこから「スハルトを絞めあげろ Ganyang Soeharto」と、罵詈雑言で気勢を上げながら出てきたのは「アクトゥイル世代」のジュニア世代だ。『アクトゥイル』の時代がほんとうの終焉を迎えたのはこの時だったのかもしれない。
98年のスハルト政権崩壊と「レフォルマシ(改革)」のはじまりから20年以上が過ぎ、若者たちと、「若者向け娯楽誌」をめぐる状況は大きく変化した。体制崩壊直後には規制緩和で空前の雑誌創刊ブームがもたらされ、若者向け雑誌のタイトル数と市場規模はいずれも拡大した。『ローリング・ストーン』『コスモポリタン』などの欧米を本拠とする各誌のライセンス出版も始まった。その一方で民間テレビ放送のネットワークとインターネットがインドネシアではこの時期にほとんどパラレルに広がり、それまでは都市に住む一部の若者たちのスタイル指標であったグローバルな消費文化の表象が、国内全域にリアルタイムで拡散を始めた。
この20年で民主化が進み、若者世代を取り巻く政治的・社会的環境も変わった。教育現場でのパンチャシラ道徳教育をはじめとする体制翼賛的プログラムは撤廃となり、毎年9月30日に義務付けられてきた反共プロパガンダ映画の上映も廃止された。20年の間に選挙制度も大きく変わり、国民の直接投票によって、所属政党も異なる大統領が4代続けて選出されている。
そんな現在、政権への批判や支持表明はネット上で当たり前のように展開されている。ネットで拡散する情報は、経済的・教育的・地域的格差を無視してあらゆるエリアや階層に浸透し、民主化の名のもとに、若者たちをグローバルな消費文化へと絶えず誘導している。パソコンやスマートフォンで世界中の情報にアクセスできる若者たちは、パンチャシラ国家5原則や反共プロパガンダに代わってもたらされた、グローバル資本主義という新たなイデオロギーにさらされるようになった。
一方、インドネシアは現在も「反共」を掲げている。国のグローバル化の速度とは対照的に、9.30事件の真相究明は遅々として進んでいない。事件に関する有力な事実の解明はいずれも外国人によってなされており、2012年にはアメリカ人映画監督が当時の大量虐殺に焦点を当てたドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』を製作、日本を含む各国で公開された[★13]。しかしその続編を含め、この映画のインドネシア国内での上映は認められず、自主上映も妨害を受けている。
現在でもこの問題について知ろうとすることや語ることへの有形無形の圧力が存在するこの国で、『アクトゥイル』にも残されている封じ込められた記憶や意識の痕跡は、その恐怖に現場でさらされてきた若者たちの、声にならない肉声である。にもかかわらず、現在『アクトゥイル』のバックナンバーは散逸している。国会図書館にも蔵書はなく、限られたコレクターが部分的に所蔵しているものをかきあつめて参照するほかない。一時は国内最大の発行部数さえ誇っていたこの媒体のドキュメントとしてのずさんな扱われ方はそのまま、過去の記録や記憶というものに対するこの国の無頓着さを示しているのではと、疑わずにはいられない。
かつて『アクトゥイル』は、若者たちを脅かしていた「トラウマの記憶」を反転させ、ひとつのユートピアを作り出していた。それは、若者たちを恐怖にさらされた客体から、秩序を揶揄し、罵ることもできる主体へと転換する空間だった。ユートピアはその後のメディアにも引き継がれたが、開発独裁の終わりなき支配にあたかも外側から塗り固められ、出口を失ってしまったかに見えていた。その内部が、経済危機を機に破れ始めた。そこから「スハルトを絞めあげろ Ganyang Soeharto」と、罵詈雑言で気勢を上げながら出てきたのは「アクトゥイル世代」のジュニア世代だ。『アクトゥイル』の時代がほんとうの終焉を迎えたのはこの時だったのかもしれない。
おわりに──出口のないユートピア
98年のスハルト政権崩壊と「レフォルマシ(改革)」のはじまりから20年以上が過ぎ、若者たちと、「若者向け娯楽誌」をめぐる状況は大きく変化した。体制崩壊直後には規制緩和で空前の雑誌創刊ブームがもたらされ、若者向け雑誌のタイトル数と市場規模はいずれも拡大した。『ローリング・ストーン』『コスモポリタン』などの欧米を本拠とする各誌のライセンス出版も始まった。その一方で民間テレビ放送のネットワークとインターネットがインドネシアではこの時期にほとんどパラレルに広がり、それまでは都市に住む一部の若者たちのスタイル指標であったグローバルな消費文化の表象が、国内全域にリアルタイムで拡散を始めた。
この20年で民主化が進み、若者世代を取り巻く政治的・社会的環境も変わった。教育現場でのパンチャシラ道徳教育をはじめとする体制翼賛的プログラムは撤廃となり、毎年9月30日に義務付けられてきた反共プロパガンダ映画の上映も廃止された。20年の間に選挙制度も大きく変わり、国民の直接投票によって、所属政党も異なる大統領が4代続けて選出されている。
そんな現在、政権への批判や支持表明はネット上で当たり前のように展開されている。ネットで拡散する情報は、経済的・教育的・地域的格差を無視してあらゆるエリアや階層に浸透し、民主化の名のもとに、若者たちをグローバルな消費文化へと絶えず誘導している。パソコンやスマートフォンで世界中の情報にアクセスできる若者たちは、パンチャシラ国家5原則や反共プロパガンダに代わってもたらされた、グローバル資本主義という新たなイデオロギーにさらされるようになった。
一方、インドネシアは現在も「反共」を掲げている。国のグローバル化の速度とは対照的に、9.30事件の真相究明は遅々として進んでいない。事件に関する有力な事実の解明はいずれも外国人によってなされており、2012年にはアメリカ人映画監督が当時の大量虐殺に焦点を当てたドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』を製作、日本を含む各国で公開された[★13]。しかしその続編を含め、この映画のインドネシア国内での上映は認められず、自主上映も妨害を受けている。
現在でもこの問題について知ろうとすることや語ることへの有形無形の圧力が存在するこの国で、『アクトゥイル』にも残されている封じ込められた記憶や意識の痕跡は、その恐怖に現場でさらされてきた若者たちの、声にならない肉声である。にもかかわらず、現在『アクトゥイル』のバックナンバーは散逸している。国会図書館にも蔵書はなく、限られたコレクターが部分的に所蔵しているものをかきあつめて参照するほかない。一時は国内最大の発行部数さえ誇っていたこの媒体のドキュメントとしてのずさんな扱われ方はそのまま、過去の記録や記憶というものに対するこの国の無頓着さを示しているのではと、疑わずにはいられない。
*
街頭からも雑誌は姿を消した。代わって若者たちを夢中にさせているのは、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどのSNSやユーチューブ、そして近年登場したポッドキャストである。これらはいずれもスマートフォンひとつあれば無料で楽しめるデジタルコンテンツで、同時に誰もがそれらを用いて無料で自由に情報発信できる。印刷媒体とは異なり、情報の削除も容易で匿名性も高い。当然、そこには真偽不明の情報が入り込む余地が多分にある。そして、かつて『アクトゥイル』の誌上で繰り広げられたような、雑多な立場から激論が交わされるスペースはなく、代わりに起こるのは、ダイアローグ不在の「炎上」だけである。
いまでも政局が緊張すると、コミュニストの再来を警告するポスティングがどこからか放り込まれ、ネットの世界を飛び交う。真偽確認の契機はなく、不安を煽られた多くの若者たちが「いいね suka」をつけている。時間と空間、内と外、虚と実が絶えず流動するデジタルの世界は、現代インドネシアの若者たちにとってそれ自体が出口を持たないユートピアなのかもしれない。
画像提供=竹下愛
参考文献
[論文]
竹下愛『新秩序期インドネシアのポピュラー・カルチャー:若者向け娯楽誌にみる「新しさ」の構築』、大阪大学言語社会研究科博士論文、2011年。
[定期刊行物]
Aktuil 1967-1978
HAI 1978-1998
Selecta 1957-1972
Varia 1957-1973
★1 Selecta, No. 489, 1970.
★2 トト・ラハルジョ Toto Rahardjoのコメントに基づく(2006年3月、ジャカルタでのヒアリングにて)。
★3 Aktuil, No. 120, 1973.7
★4 Aktuil, No. 117, 1973.
★5 Ibid.
★6 ユディスティラ・A・N・マサルディ Yudhistira ANM Massardi(1954-)、西ジャワ州スバン生まれ。代表作に『アルジュナは愛を求める Arjuna Mencari Cinta』『ディン・ドン Ding Dong』など。
★7 ノールカ・マサルディ Noorca Massardi(1954-)西ジャワ州スバン生まれ。ユディスティラの双子の弟であり、代表作には『一輪の棘 Sekuntum Duri』『彼ら二人 Mereka Berdua』がある。2006年には9.30事件を2000年代の設定で再現した長編小説『セプテンバー September』を発表している。
★8 Yudhistira, A. N. M. Mencoba Tidak Menyerah. Yogyakarta: Benteng, 1996. なお、土屋健治はこの作品を「トラウマの文学」と評し、ユディスティラ作品の特徴である「ポップさ」はそのトラウマ的体験の反転であると評している。土屋健治「『負けないぞ』──トラウマの文学を論ずる」、『人文學報』第75号、京都大学人文科学研究所、151-178頁。
★9 ユディスティラ・A・N・M・マサルディ自身のコメント(2006年3月、ジャカルタで実施したヒアリングにて)。
★10 デニ・サブリ・ガンダヌガラ Denny Sabri Gandanoegara(1945-2003)西ジャワ州ガルット生まれ。音楽ジャーナリスト、プロモーターとして第1線で活躍。芸能事務所を経営しメリアム・ベリナ Meriam Bellina、ニキ・アルディラ Nike Ardillaなどインドネシア芸能史に名を遺す女優・アーティストを数多く発掘した。
★11 1978年教育文化大臣156号決定。
★12 Hai, No. 6, 1985.『九・三〇事件共産党の裏切り Penghianatan G30S/PKI』(1984年)は国策プロパガンダ映画として、製作には政府から80億ルピアが投じられた。監督はアリフィン・C・ヌール Arifin C. Noor。
★13 アメリカ人映画監督ジョシュア・オッペンハイマーによる、イギリス、デンマーク、ノルウェー合作のドキュメンタリー映画(2013年公開)。9.30事件以降のコミュニスト虐殺を加害者本人の証言をもとに追跡している。翌年には続編として、自らの家族を虐殺された事件の被害者と、その加害者の直接対決を記録した『ルック・オブ・サイレンス』(2014年)も公開された。
竹下愛
大阪大学大学院言語社会研究科単位取得退学。2011年に同大学院で博士号取得(学術)。東京外国語大学非常勤講師。専門はインドネシアの現代文化・文学。
1995年に国立インドネシア大学文学部に留学。以後年に二度はジャカルタを訪れ、下町のコミュニティーで地元の人々のお世話になりつつ生活。映画、ノベル、雑誌など、ポピュラー・カルチャーのテクストの編まれ方、消費のされ方、グローバル化やデジタル化なかでの変容を日々観察している。
訳書にアユ・ウタミ作『サマン』(木犀社)、共著に『インドネシアのポピュラー・カルチャー』(めこん)、『東南アジアのポピュラーカルチャー』(スタイルノート)など。
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