ガンジス川が法人になるとき──「自然の権利」と諸世界の翻訳としての法 ひろがりアジア(12)|中空萌
2017年3月、インド北部・ウッタラーカンド州の高等裁判所にて、ガンジス川と支流のヤムナー川に人間と同じ「生きた存在 living entities」としての法的地位を認めるという判決が出された。
この判決によると、川は人間に所有される対象ではなく、「法人 legal person」の地位を持ち、「生きている者 living person」としての様々な権利や義務、責任を有する主体となる。つまり、ガンジス川とヤムナー川は自らの「身体」とそれが生み出す経済的効果に対する所有権などの「権利」を持つ。そして不法投棄などによって川の身体を傷つけたり、また採掘などによってそれが生み出す利益を強奪したりした人間を、川が訴えることが可能になったのである。
川が権利を持ち、人間を訴える。まるでおとぎ話のようだと多くの人が感じるのではないか。あるいは、歴史学者・池上俊一の『動物裁判』(1991)を通して、西洋中世にイヌ、ブタ、ハエやイモムシまでもが人間の殺傷、獣姦や魔術への共犯など様々な罪で裁かれていた史実を知る人もいるはずだ[★1]。じつは中世だけでなく現代でも、川や動物といった自然の存在物や生態系を権利の主体として認めるべきだとする立場は「自然の権利」と呼ばれ、1970年代から環境法などの分野で真剣に議論されてきた[★2]。さらに近年、「自然の権利」の考え方を取り入れた法律や裁判が世界中で急に増えているのである。
ある研究によれば、2006年から2021年にかけて、17ヶ国において178もの「自然の権利」を認める法律の制定や判決がなされたという[★3]。インドでは、ガンジス川とヤムナー川に権利を認める判決の後、同じウッタラーカンドやその他の州の裁判所で類似の判決が相次ぎ、最近では「鳥類や水生生物を含めた動物界の全成員」への権利付与にまで至っている[★4]。またニュージーランドでは、ガンジス川判決と同年に、ワンガヌイ川に法的人格を認める法律が制定された。その10年ほど前にはエクアドル憲法において「自然あるいはパチャママ」に権利が認められ、隣国ボリビアでも「母なる大地」の権利に関する法律が制定された。日本でも、さらに遡ること1995年に、アマミノクロウサギなどの4種の動物と奄美大島住民が原告となって、ゴルフ場計画の開発許可取り消しを求めて鹿児島県を相手に起こした裁判が有名である。
なぜ今、このようなユニークな法が世界で多くつくられているのだろうか。ガンジス川とヤムナー川に権利を認めたウッタラーカンド高等裁判所の判決文には、次のように書かれている。
ガンジス川とヤムナー川は、存在そのものを失いつつあるという危機に瀕しており、非常事態にある。これらの川を保全するためには、常識を超えた手段が採られなくてはならない。[★5]
ガンジス川は世界で5番目に汚染が進んだ川として悪名高い。下水の流入や産業廃棄物の不法投棄によって水質悪化が進んでいる。最近ではダムや運河の建設によって、水量が減少したり流路が変わったりして、川そのものが失われてしまうのではないかという懸念も広がっている。判決には、「存在そのものを失いつつある」ガンジス川の状態に対する切実な懸念と保全への意識が読み取れる。実際、「ガンジス川は存在を失いつつある」というフレーズは、深刻な環境問題を象徴するものとして、世界的に有名になった。
危機的な環境問題から守るために、川に法的地位や権利を認める。そのような自然保護意識のあらわれとして「自然の権利」は説明されることが多い。たしかに、人間社会が成熟し、環境保護意識が高まったことで、人間が自然を一方的に支配できるという考え方が変化し、自然に人間と同じ地位や権利を認めようという考え方が強まってきた、このことが「自然の権利」を認める法や判決の興隆の背景にある、という説明に違和感をもつ人は少ないのではないだろうか。しかし、世界各国の「自然の権利」について研究してきた人類学者たちは、「それだけではない」と強調してきた[★6]。
2017年以降、私はインドで、ガンジス川に権利を認める判決がつくられた過程を追ってフィールドワークを実施してきた。そこから見えてきたのは、ガンジス川判決には、普遍的な環境保護意識だけではない、様々な感情や関心が含まれているということだった[★7]。本稿では、そもそも人類学者が法や裁判をどのように観察しているかを簡単に振り返った上で、ガンジス川に法的地位や権利を認めるという「常識を超えた」判決がなぜ下されたのかということを、人類学の視点から考えてみたい。
法の生成の人類学──法がつくられているプロセスを追う
インドの「自然の権利」判決への私の調査について話す前に、人類学者が法というものにどのようにアプローチしてきたのかに触れておこう。
法というと私たちは「刑法」や「民法」といった法律や法体系、それを構成する条文(「刑法○○条」)をイメージしがちである。いわゆる法学(特に実定法学)はそのような条文や判決の解釈を主に行う学問分野だ。そこでは、法律や判決は「すでにつくられたもの」として捉えられている。それに対して人類学は、議会だけでなく訴訟や紛争などの現場で、つまり具体的な実践の中で「つくりだされるもの」として、法を見つめてきた。
たしかに、もともと人類学者も「すでにつくられたもの」として法を観察していた。例えば伝統的な社会や文化の残る地域でフィールドワークを行い、特定の民族や村落社会がいかに国家の法に頼らずにもめごとを解決しているかを観察し、「慣習法」を記述する。そうすることで人類学者は、法学者が目を向けがちな国家法だけが唯一の法ではないと論じてきたのである。けれども最近では、調査の場所や方法、着眼点が変わりはじめている。現代の人類学者は、裁判所など国家の法が運用される現場でフィールドワークを行い、そこでどのような実践がなされているか、法がどのようにつくられているのかを記述することで、従来とは違った視点から法のありかたを相対化するようになっている。「法の生成の人類学」と呼ぶことのできる研究が続々とあらわれているのだ。
法の生成に注目した代表的な研究として、科学技術への人類学的アプローチで著名なブルーノ・ラトゥールが、フランスのコンセイユ・デタ(行政最高裁判所)で行ったフィールドワークが知られている[★8]。
ラトゥールの研究によれば、裁判においては、法廷の中の審理のみならず、事件について裁判官が公判の場でないところでかわす非公式のやりとりが今も重要な役割を果たしている。彼は、裁判所の中で頻繁に使用されている、書類の綴られた「ファイル」に注目する。そして、ある事件が取り上げられ、訴訟手続きが開始され、判決が言い渡されるまでのあいだに、ファイルがいかに作成され使用されているかを詳細に描いている。そのような観察を通じて明らかになったのは、訴訟に使われているファイルの中には裁判官や弁護士だけではない様々な立場の人々の関心、モノ、概念が巻き込まれているということ、そしてそれらが裁判によって判決文として「翻訳」されているということだった。
ここでいう「翻訳」とは、多様な関心を完全に共約可能にすることはできなくとも相互につなげることを意味する。こうした「翻訳」の概念を手がかりにして「自然の権利」を論じている人類学者に、マリソル・デ・ラ・カデナがいる。アンデス先住民の研究者であるデ・ラ・カデナは、「自然の権利」を認めた、2008年エクアドル憲法の条文に注目する。
エクアドル憲法は「自然あるいはパチャママは[……]権利を有する」と宣言している(第71条)。デ・ラ・カデナはその一文を、環境主義者とアンデス先住民の二つの世界を「翻訳」するものとして捉えている。普遍的な自然保護意識をもつ環境主義者からすると、憲法の文言は、山や川の環境破壊を抑制するための規定である。一方で、「パチャママ」(母なる大地)を人間と同じように感情や意思をもった存在(「地のものたち earth beings」)であると考えるアンデス先住民の世界観からすると、憲法の文言は、例えば鉱山開発による「地のものたち」の怒りやそれによる被害を押し留めようとするものとして理解されるのである。
デ・ラ・カデナは、「自然」と「パチャママ」という存在が同時に登場するエクアドル憲法のフレーズは、「一よりも多く二よりも少ない世界に属している、文化-自然的存在でできている」という[★9]。つまり、「自然あるいはパチャママ」という文言は、自然を保護しようとする近代の環境主義の世界と、山や川を行為者としておそれ、ケアしようとするアンデス先住民の世界に、それぞれ部分的につながっている。エクアドル憲法の「自然の権利」は、ふたつの異なる世界の「翻訳」の成果なのだ。
デ・ラ・カデナは、現代の科学哲学を牽引する哲学者イザベル・ステンゲルスの言葉を借りて、「パチャママ」が条文に姿を現しているエクアドル憲法は「思考を挑発する」ものであり、私たちはその挑発性を受け止めるために「論理的思考の速度を落とす」ことが必要だと述べている。「新しい権利」や憲法の意義について拙速に結論を下すのではなく、それがつくられる過程に含まれる多様な関心や世界を丁寧に解きほぐすことで、「ほんの少し異なる気づき」が私たちの思考に喚起される、という[★10]。
私もインドでフィールドワークを行う中で、同じように考えていた。ガンジス川判決がつくられる過程を「速度を落として」追うことにより、判決文に登場する「ガンジス川は存在そのものを失いつつある危機にある」という有名なフレーズの、見た目よりずっと複雑な意味が少しずつ見えてきたのだ。
その複雑さを、本稿では「諸世界の翻訳」[★11]というキーワードから考えてみたい。判決文には、原告や弁護士、裁判官、活動家などの様々な感情や関心、さらには複数の世界が、複雑に絡み合っていたのである。
環境主義の法世界──ガンジス川判決の合理的説明?
私が最初にガンジス川の訴訟の主任弁護士であるマノージ・パントゥと会ったのは、判決の約半年後、2017年8月のことだった。4年ぶりのフィールドワークのために訪れたウッタラーカンドの首都デーヘラドゥーンの街はこの話題で持ちきりだった。知り合いを通じて彼の事務所の電話番号を入手し、いきなり電話をかけた私に、パントゥは「日本には富士山があり、インドにもヒマーラヤの山々やガンジス川があるから」是非私に会いたいと穏やかに言ってくれた。
訴訟の原告は、川沿いに住むムハンマド・サリームという男性だった。パントゥによると、サリームからガンジス川沿いの彼の村への産業廃棄物不法投棄をめぐって訴訟の相談があったのは、2014年のことだ。パントゥは、この(彼がそう呼ぶところの)「素朴な村の男性」からの訴えを「自然の権利」というグローバルな環境法の潮流と合流させることで、訴訟に「より広いスコープをもたせた」と振り返る。もっとも、彼の言う「より広いスコープ」とは、単に海外の制度や裁判とのつながりを強調することではない。そうではなく、一つの村にとどまらない、より広い社会の課題としてガンジス川の問題を提起するということである。具体的には、パントゥは今回の訴訟を、ウッタラーカンド州と隣接するウッタル・プラデーシュ州を跨るガンジス流域の運河をめぐる所有権争いの問題の解決を目指す「公益訴訟」[★12]として位置づけることにした。
ウッタラーカンドは2000年にウッタル・プラデーシュ州から独立して新州となった。独立以来、二つの州の間では15年以上にわたってガンジス川の所有権の問題が解決されていない[★13]。その結果、「誰も『母なるガンジス川 Ganga Mataji』の命運に対して責任を負わない」ことをパントゥは問題視している。実際、未処理の下水や産業廃棄物がガンジス川に流れ込むことで、その水質は悪化し続けていた。
そこでパントゥが希望を見出したのが、「自然の権利」の考え方だ。この考え方を採用すれば、州間の所有権争いの問題を据え置いたまま、ガンジス川自身が法人格を獲得し、権利の主体となることができる。そうすると、州政府ではなく、「後見人」として登録された国レベルの組織であるガンジス川国家清浄計画に保全対策を求めることが可能になる、とパントゥは考えたのだ。
パントゥのそのような主張を受けて、裁判所は、ガンジス川とその支流であるヤムナー川に法人格を与え、それらの川が人間と同じ権利を持ち、さらに川の環境を脅かした人間に対して訴訟を提起することができるという判決を下した。ただし、川は自力で訴訟を起こしたり賠償金を払ったりできないため、裁判所は、川の保全を担う国レベルの組織である「ガンジス川国家清浄計画」の主事と、ウッタラーカンド州幹事長、ウッタラーカンド法務官の3名の公職者を、川の「後見人 loco parentis」として登録したのである。判決文にはガンジス川国家清浄計画に対する「ガンジス管理委員会」なる組織の設立命令も書き込まれている。こうしてガンジス川の環境問題に対して責任を負うべき者が明確にされたのである。
ガンジス川に法人格を与えるというアイディアを最初に提案したのは弁護士のパントゥだった。だが、判決文にはこの訴訟を担当したシャルマー裁判官の哲学もはっきりと反映されている。
シャルマーは環境法の専門家であり、とりわけヒンドゥー儀礼における動物の権利や動物の供儀使用禁止をめぐる訴訟を多く担当してきた。彼はガンジス川の訴訟の後も、ウッタラーカンド高等裁判所および異動先のパンジャーブ・ハリヤーナー高等裁判所で、湖、牛など自然物に法人格を認める判決を7件も出している(ガンジス川判決の後には、ウッタラーカンド高等裁判所で「鳥類や水生生物を含めた動物界の全成員」に権利を付与する判決を下している。)
インドの司法は独立以来、今回の訴訟のような公益訴訟において裁判官が政策形成と社会問題解決に積極的に踏み込んだ判決を下すことをいとわない、司法積極主義の立場を基本的に示している[★14]。その中でもシャルマーは、他の数名の裁判官と並んで、環境問題に関する公益訴訟である、環境公益訴訟において積極的な判決を出す「緑の判事」として有名になっている[★15]。
ガンジス川の水質改善と保全のための主任弁護士の戦略と、動物や自然物に権利を拡張しようとする裁判官の関心が組み合わさって、ガンジス川という「自然」を保護するために「自然の権利」を認めるという判決をつくりあげた。──このように説明してしまえば、ガンジス川が権利を持つという「常識を超えた」判決が下された理由も、それほど違和感なく理解されるのではないだろうか。この訴訟が環境公益訴訟という形態を採ったことも、このような環境主義的な理解を裏付けている。
実際、世界各地で相次ぐ「自然の権利」の承認について、多くの研究者が同様の分析を示している。たとえば池上俊一は先述の著書で、動物が一方的に人間に裁かれる側だった中世の「動物裁判」との比較を通して、自然に権利を与えようという現代の潮流は、人間による自然の支配や搾取を許可する感受性が変化したためだと分析する[★16]。また法学者の能見善之も、「法の世界は、現実の世界とは同じではないが、その社会の価値観を反映して作られる世界である」とした上で、自然の権利の登場は、動物や自然を今までと同じようにモノと扱ってはまずいのではないか、という意識が一般の人々の間で強まっていることの現れだという[★17]。さらに時代を遡れば、現代の「自然の権利」の基礎をつくったアメリカの環境法学者クリストファー・ストーンは、「木は法廷に立てるか」という記念碑的論文のなかで、近代社会は「権利」を与える対象を貧困層、女性、奴隷と広げてきたのであり、その行き着いた先が「自然」への権利付与だと論じていた[★18]。
人間社会が成熟し、普遍的な環境保護意識が高まり、人間が自然を一方的に支配できるという考え方から、人間だけでなく自然も尊重されるべき権利を有しているという考え方に変化してきた。このような環境主義的な説明は、一見とても合理的で納得がいくように思われる。だが、それだけではない。
環境主義だけではない──経済的関心、ヒンドゥーナショナリズム、地元の信仰世界
原告のムハンマドの訴えを詳しくみてみよう。
ムハンマドはムスリムのソーシャルワーカーで、村の景観を守り、観光開発することに情熱を傾けてきた人物である。彼は川沿いに椰子の木を植え、コテージを作り、村の住民のための雇用を生み出すことを目指して活動を続けている。上に述べたように彼は川沿いの産業廃棄物の不法投棄をやめさせるために、パントゥに訴訟の相談をした。ただしここでムハンマドが求めていたのは、川という「自然」それ自体の保護ではなく、その「景観」と結びついた村の人々の生計の維持である。
エクアドル憲法が環境主義者とアンデス先住民の世界をつなげるものであったのと同様に、ガンジス川をめぐる訴訟も、川を「自然」として保全しようとする弁護士パントゥと、川を観光資源となる「景観」として保全しようとしていたムハンマドのふたつの世界を部分的につなげるものだった。にもかかわらず、「自然の権利」を普遍的な環境主義の高まりとしてのみ理解してしまうと、ムハンマドの世界は、保全すべき「自然」ではなく経済的利益をもたらす「景観」としてのガンジス川に関心を向ける「素朴な村の男性」の取るに足りないものとして見過ごされてしまうだろう。
じつは、生計の維持という経済的な関心は、原告だけのものでもない。調査を続けるうちに見えてきたのは、この訴訟には、原告と村の人々だけではなく、ウッタラーカンドの弁護士会(パントゥはその会長を務めている)所属の弁護士たちの生計の維持という関心も含まれているということだった。インドでは、日本の司法試験のような資格試験はなく、全国で約900校ある法学部を卒業し、少額の登録料を支払えば弁護士として登録できる。そんなこともあり、600-700万人ほどの弁護士がいるのだ[★19]。この数は、日本の4万5千人はもちろん、米国の120万人という数字を大きく上回っている。しかしそれゆえに競争は激しく、「法人」を増やすことで、代理人として法廷に立てる環境訴訟の数を増やすことが弁護士たちの切実な欲求としてある。
ガンジス川の「自然の権利」判決は、自然保護意識の高まりという普遍的な環境主義だけで説明がつくものではないのである。
もうひとつ注目すべき点は、判決が、ガンジス川の「存在そのもの」を信仰する地元の人々の感情と絡み合っていることだ。
インド国内には、この判決が表向きは環境訴訟を謳っていても、実際のところはガンジス川に神性を見出すヒンドゥーの信仰に根付いたものではないか[★20]、とりわけヒンドゥーナショナリズムの環境問題への投影ではないかと批判する議論が多く見られる[★21]。実際、現代インドにおいて、ヒンドゥー至上主義の思想と緊密に結びついた環境運動の例は多い。それらは例えば、動物愛護運動においてヒンドゥー教で神聖視される牛のような動物の優先的保護を謳って「種差別」を肯定したり、ダム反対運動において、ヒンドゥー教徒にとっての聖なる川を封じ込めるダムの破壊を、アヨーディヤーにおけるモスクの破壊と重ね、反イスラムのレトリックを強調したりしている。
しかし私がガンジス川の訴訟をめぐるフィールドワークのなかで見出したのは、ヒンドゥーナショナリズムのような急進的な形で政治化された宗教とは違った、地元の人々のガンジス川信仰のありかただった。そこでは、川の「存在そのもの」、つまりガンジス川の物理的形状や流れと、人々の具体的な経験世界とが結びついていた。
先に述べた通り、判決文の「ガンジス川は存在そのものを失いつつあるという危機に瀕している」というフレーズは、ガンジス川の汚染に対する真剣な懸念と保全への意識を表現したものとして有名になった。しかし、じつはこのフレーズは、判決以前からこの地域のダム建設や水力発電プロジェクトへの反対運動で頻繁に使われていた[★22]。オリジナルは、「ガンジス川は、ヒマーラヤ山脈沿いの複数の水力発電所計画によって、その存在そのものを失う危機にある」である。
主任弁護士パントゥの秘書は、学生時代にこれらの運動に自ら参加しつつ、学術的な研究も行い、歴史学で博士号を取得した女性である。彼女は、このフレーズをパントゥに紹介して、運動に込められた思いを訴訟と準備書面に反映させようとした。
彼女やその他の社会学者によると、ガンジス川流域でダムや発電所建設への反対運動に関わる地元活動家の多くが字の読めない村の女性たちであった。他のヒンドゥー教徒と同じく、彼女たちもガンジス川を「女神」として信仰している。だが、彼女たちは、文字に書かれた教義に基づく正規の祈りとは異なるやり方で、ガンジス川の水と身体的・物理的に交わりながら、毎日祈りと歌を捧げてきた[★23]。彼女たちは早朝、ガンジス川の水で手や顔、足を洗い、時に全身を川に浸すことによって一日を始める。そこで教義で規定された呪文を唱えるのではなく、掌を合わせて、自分の胸の内にある不安や恐れ、ささやかな願いを「母なる川」に打ち明ける。そんな彼女たちにとって、「川が存在する」とは、ガンジス川の水の流れが続き、彼女たちの思いを受け止め、また罪を流し続けてくれることを意味している。
多くの活動家は、「私たちはダムに反対しているのではない。ガンジスの流れを止めることに反対しているのだ」という。川の流れが一定であり、干渉されていないこと(aviral)によって初めて、川は神性を維持できる(pavitra)。あるいは、「流れている川だけに女神の力は吹き込まれる」。彼女たちにとって「ガンジス信仰」とは、抽象的な教義の中ではなく、日々の祈りを通じたガンジス川の流れとの具体的・経験的なかかわりの中に見出されるのである。
「ガンジス川は存在そのものを失いつつあるという危機に瀕している」という象徴的なフレーズにあらわれているように、ガンジス川判決の中には、川の水質汚染への懸念や保全意識だけでなく、その物理的形状や流れと絡み合った地元のガンジス信仰が「翻訳」されている。さらにいえば、そもそも原告のムハンマドはムスリムであり、ヒンドゥー教徒ではない。彼は主に経済的関心から川の景観を保全しようとしていたとはいえ、それにより村の人たちのための雇用を生み出し、コミュニティに貢献しようという彼の意図は、彼の信仰と無縁ではない。ガンジス川判決の中にはヒンドゥー教以外の信仰世界も「翻訳」されているといえるだろう。
果たしてガンジス川判決をヒンドゥーナショナリズムのあらわれとして批判する議論は、そのような世界の複数性に、どれほど目を向けられているだろうか。
このように「ガンジス川に『生きた存在』としての法的地位を認める」という判決が、川の水質汚染への懸念や保全意識だけでなく、その物理的形状や流れとの日常的な関係に基づいた地元のガンジス信仰とつながっていたことは、判決のその後を考える上でも示唆的である。
後にこの判決は、ガンジス川の後見人とされたウッタラーカンド州政府の反対を受けて、最高裁判所で争われ、保留とされることとなった。州政府の反対は、表面的には高裁判決の法技術面での不備を指摘するものだった。しかし実際にはそれは、河川の新たな法的地位により、大規模な河川連結計画(インド河川連結計画 India River Inter-Linking)による河川への「干渉」が難しくなるのではないかという危惧によるものであったと言われる[★24]。
インド河川連結計画とは、洪水、干ばつ対策のためにインドの主要な河川を貯水池と運河のネットワークで連結することにより、水の豊富な地域から不足地域へ水を移送するという大規模土木プロジェクトである。イギリスの植民地であった19世紀以降、前進と頓挫を繰り返してきたが、最近では、ほぼ20年前にアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー元首相(BJP; ヒンドゥーナショナリスト政権)があらためて発案した計画を、今のナレンドラ・モディ政権が再び推進し、ウッタラーカンド州政府もそれを支持している。
注目すべきなのは、ここで運河建設の計画推進派がヒンドゥー神話を様々に引用していることだ。彼らは例えば、多くの化身を持つヴィシュヌ神の例を挙げて「ヒンドゥーの神々は多様な形で現れるが、実際には一つだ」と根拠づけ、信仰の対象である川を、運河というインフラによって一つにつなぐプロジェクトを正当化している。
すなわち、「自然の権利」を認めた判決とそれに反対する州政府の双方が、宗教と川の結びつきを主張に取り込んでいる。しかし、ふたつの立場が属する世界は同じではない。
運河によるガンジス川の連結が「多様でありながら一つの神である」という大文字のヒンドゥー教義に結びつく、モディ政権や州政府の世界。そして、日々の祈りや歌によって経験される特定の流域の固有の物理的形状や川の流れの安定の中に神を見出す、地元の女性たちの信仰世界。それら二つの世界は、物質-記号的に異なっているといえるだろう。
訴訟は「諸世界の翻訳」であるだけではない。ガンジス川をめぐる訴訟の経過は、川をめぐる「諸世界の対立」でもあったのだ。論理的思考の速度を落とし、多様な諸世界に目を向けることで、環境主義の背後に隠れてしまいがちな挑発性が浮かび上がり、様々な「気づき」がもたらされるのである。
「自然の権利」を問いなおす
「自然の権利」を認める近年の法律や判決の実現は、普遍的な環境保護意識や人間社会の成熟、近代的な権利運動が行き着いた先だと考えられてきた。一方で、「ガンジス川は法人であり、権利を持つ」という判決がつくられるプロセスを追った私自身のフィールドワークからは、環境主義だけではない様々な感情や関心、複数の世界が、この判決の中に「翻訳」されているということが明らかになった。
興味深いのは、ここで「ガンジス川」が、単一の自然ではなく、複数の自然としてあらわれているということだ。川は、原告のサリームにとっては椰子の木とマッチして村に観光収入をもたらす「景観」であり、判事のシャルマーにとっては動物と並んで保護すべき「自然」であり、弁護士たちにとっては将来自身が代理人として法廷に立ちうる「法人」であり、地元の女性たちにとっては「女神」そのものである。ガンジス川は、それに関与する人々それぞれにとって、異なる存在としてそこにあるのだ。
このことが意味しているのは、これまで見てきたような訴訟を通じた「諸世界の翻訳」は、ガンジス川という「単一の自然」に対する、環境主義的関心、経済的関心、宗教的関心といった「複数の認識」の調整ではない、ということである。そうではなく、訴訟を通じて調整されたのは、ガンジス川を「景観」、「自然物」、「法人」、「女神」という重なり合いつつもバラバラのものとして受け止める人々の多様な物質-記号世界だったのである。そこでは「単一の自然」ではなく、「景観」であり「法人」であり「女神」でもあるような「複数の自然」が前提とされている。
ガンジス川の危機とは、水質汚染が進み、水量が減少することでもあり、また美しい景観として椰子の木や観光客と結びつかなくなることでもあり、さらには女神の力が失われることでもある。そのような多元世界を翻訳したのが、「ガンジス川が存在そのものを失いつつある」というガンジス川判決の有名なフレーズだった。法をみつめる人類学者の視点は、そのような「諸世界の翻訳」を、あるいはそれをめぐる対立を、判決や法律のなかに見出していくのである。
複数の世界を翻訳するという法の役割は、インドだけでなく、日本にも見出すことができる。
日本における初の「自然の権利」訴訟であるアマミノクロウサギ訴訟に実践的にかかわりながら、環境倫理学者として思考を続けてきた鬼頭秀一は[★25]、最近、「自然の権利」について次のように述べている。
鬼頭はアマミノクロウサギ訴訟のプロセスにおいて、そこで原告の「アマミノクロウサギ」として表象されているものが、その名を持った動物だけを意味するのではないということに気づいていったという。例えばある原告にとっては、それはアマミノクロウサギに代表される「自然」を意味しており、単一種ではなく、種間の有機的繋がりとしての生態系全体をあらわしていた。また他の人にとっては、自然との「かかわり」をもっている(あるいは、もっていた)奄美の地域の人たちの誇りの感情をあらわしていた。アマミノクロウサギとして指し示されたものの中には、自然とのかかわりを歌った島唄などの文化的表象や奄美大島の歴史さえ含まれていたのである。そうしたものの全部が、訴状に原告として記された「アマミノクロウサギ」の中に「翻訳」されていた。
このことから鬼頭は「自然の権利」にかえて「自然と人間のかかわりの権利」という概念を新たに生み出している。この名付けは訴訟に関わった弁護士や原告の人々にも受け入れられ、また彼らをエンパワーしてきた。
鬼頭はその含意について、次のように語っている。
近代哲学や法学の概念としてはこのような「人間と自然のかかわり」という主体としての存在ではないものに「権利」を考えるのはかなり違和感がありますが、この奄美の自然の権利訴訟自体が、近代的所有権を超えたものとして提起されていたことを考えると[★26]、むしろ、権利の主体にはならない「かかわり」ということに「権利」という概念を結合させることの意味が大きいのではないかと思っています。[★27]
奄美大島の「自然の権利」訴訟は、動物という「新しい権利主体の発見」ではなく、近代の「権利(主体)」のあり方そのものを問い直す発想を含んでいたことを、鬼頭の言葉はよく表している。本来ならば相互に関係づけられ切り離せないはずの人や動物に、バラバラに権利を与えるという発想で良いのか、と鬼頭のいう「自然と人間のかかわりの権利」は鋭く問い直しているのである。
やはり今「自然の権利」の爆発的増加を受けて考えることは、立ち止まり、既存の前提に収まりきらない「それだけではない」ものたちの過剰さを引き受けることだ。それは、デ・ラ・カデナの表現を借りれば、「断定するというよりは提案するための、そこから新しい解釈の可能性を作り出すような知的態度を選び取るための機会」[★28]となる。
「自然の権利」が喚起している多元世界は、それが表面的なレベルで与える驚きよりも、もっとずっとラディカルなものなのだ。そのような多元性を受け止め、思考の速度を落とした上で一歩先に進めること。そのようにして、新しい言葉や考え方、さらには新しい「世界」の生成にかかわっていける知的態度が、今、求められている。
撮影=中空萌
★1 池上俊一『動物裁判──西欧中世・正義のコスモス』、講談社現代新書、1990年。
★2 Stone, C., “Should Trees Have Standing?—Toward Legal Rights for Natural Objects”. Southern California Law Review (45), 1972. pp. 450–501.
★3 Kauffman, C.M. & Martin, P.L., The Politics of Rights of Nature: Strategies for Building a More Sustainable Development. The MIT Press, 2021.
★4 ただし、川に人間と同じ法的地位を認めた判決によって、例えば洪水など、川が人間の生活を破壊した場合に、川は被害を受けた人々によって訴訟を起こされ補償を求められるようになるのではないかという議論は残っている。
★5 Indian Courts. 2017. Ganges and Yamuna Case, Mohd. Salim v State of Uttarakhand & others, WPPIL 126/2014, Uttarakhand High Court at Nainital, 2017. Indian Courts, Judgments – High Court of Uttarakhand at Nainital, India. [online] http://lobis.nic.in/ddir/uhc/RS/orders/22-03-2017/RS20032017WPPIL1262014.pdf(編集部注:現在はリンク切れ), 強調は筆者。
★6 de la Cadena, Marisol, “Earth-beings: Andean Indigenous Religion, but Not Only”. In The World Multiple: The Quotidian Politics of Knowing and Generating Entangled Worlds. Routledge, 2019; デ・ラ・カデナ, マリソル「アンデス先住民のコスモポリティックス──「政治」を超えるための概念的な省察」(田口陽子訳)、『現代思想』45(4)、2017年、46-80頁; 深山直子+大村敬一「先住民運動の挑戦──新たな政治制度を目指して」『「人新世」時代の文化人類学の挑戦』、以文社、2024年。
★7 「自然の権利」に関する私の研究については、Nakazora, Moe, “Making Law of/with Nonhumans: The Ganges River is a Legal Person.” NatureCulture (More-than-Human Worlds Series), 2020; Nakazora, Moe, “Environmental Law with Non-human Features in India: Giving Legal Personhood to the Ganges.” South Asia Research 43(2), 2023; 中空萌「人新世時代の法の民族誌」、『フィールドワークと民族誌』、放送大学教育振興会、2024年。
★8 ラトゥール、ブルーノ『法が作られているとき──近代行政裁判の人類学的考察』堀口真司訳、水声社、2017年。
★9 デ・ラ・カデナ、前掲論文。
★10 同上。
★11 「諸世界の『翻訳』」については、Keiichi Omura, Grant Jun Otsuki, Shiho Satsuka, Atsuro Morita, The World Multiple: The Quotidian Politics of Knowing and Generating Entangled Worlds. Routledge, 2019.
★12 インドでは、1970年代半ば、社会改革と弱者救済を掲げて憲法32条を根拠に憲法訴訟として公益訴訟が創設された。その特徴としては、①憲法第3編「基本権」、特に21条「人身の自由」を定める規定に含まれるとされた「生存権(right to life)」に、第4編「国家政策の指導原則」の規定の趣旨を盛り込んで基本権のリストを増やしたこと(ex. 健全な環境への権利、教育を受ける権利) ②訴訟開始の形式や原告適格、訴訟手続きの大幅に柔軟化したこと③立法的・行政的な内容をもつ判決や命令を出すなど、救済手段・解決方法も創造的なものとしたことが挙げられる(佐藤創『試される正義の秤:南アジアの開発と司法』名古屋大学出版会、2016年、37頁)。また1980年代以降、労働者や囚人など社会的弱者の問題から、環境問題、政治汚職、消費者問題といった一般的な社会問題も扱われるようになった。なお環境問題に関しては、2010年10月に国家環境裁判所(National Green Tribunal, NGT)が設立され、新しい問題解決のルートができれば公益訴訟の比重は低まると考えられていたが、ウッタラーカンド高等裁判所においては、2018年時点でも毎日3-4件の環境関係の公益訴訟がファイリングされている。ウッタラーカンド高等裁判所の環境公益訴訟の状況については、Visvanathan, S., ‘Dividing Lines: Humanising Rivers – An Incomplete Idea’. Deccan Chronicle. 2017, April 2. URL= https://www.deccanchronicle.com/opinion/columnists/020417/dividing-lineshumanising-rivers-an-incomplete-idea.html (consulted April 2024)(編集部注:現在はリンク切れ)
★13 インドの州は、水供給、灌漑、運河、排水、堤防、貯水、水力、漁業を規制する排他的権限を有する。
★14 Gill, G.N., Environmental Justice in India: The National Green Tribunal. Routledge, 2017.
★15 Vishwanath, ‘Dividing Lines: Humanising Rivers – An Incomplete Idea’.
★16 池上俊一、前掲書。
★17 能見善之『法の世界における人と物の区別』、信山社、2022年、102頁。
★18 Stone, Ibid.
★19 鈴木多恵子「インドにおける法曹事情」『自由と正義』64(3)、2013年、62-63頁。
★20 ラトゥールが言うように、一つの判決が成り立つためには、矛盾しない過去の判例を見つけ出すことが必要である。ガンジス川の法人格訴訟については、ヒンドゥー教の神や偶像という非人間が法人とみなされた過去の判決が引用されたことも、こうした宗教的信念と訴訟の結びつきを想起させた。
★21 cf. Vishwanath, Ibid.
★22 cf. Drew, Georgiana, River Dialogues: Hindu Faith and the Political Ecology of Dams on the Sacred Ganga. The University of Arizona Press, 2017.
★23 Ibid.
★24 Ahmad, Omair, “Can Rivers Be Legal Entities?” The Third Pole. March 27, 2017. [online] https://www.thethirdpole.net/en/2017/03/27/can-rivers-be-legal-entities/
★25 鬼頭秀一『自然保護を問いなおす──環境倫理とネットワーク』、ちくま新書、1996年; 鬼頭秀一 『環境の豊かさをもとめて──理念と運動』(『講座 人間と環境』第12巻)昭和堂、1999年。
★26 先に述べたようにアマミノクロウサギ訴訟は、特定のゴルフ場開発に反対して起こされたものだが、それと同時に、近代的所有権の考え方で自然を考えて良いのか、つまりその土地を所有していればそこにある自然まで所有・支配して良いのかという社会に向けた問題提起を果たした。
★27 放送大学「フィールドワークと民族誌」(24年度)第12回「人新世時代の法の民族誌」放送教材、2024年6月21日放送予定。強調は筆者。
★28 デ・ラ・カデナ、前掲論文。
中空萌
1 コメント
- S.Sato2024/08/06 13:25
私には、権利の主体のアップデートというような難しい理論は良く分らない。 しかしながら、この記事を読んで、私には、私の母親が、なぜか何でもない道端のお地蔵さん達を「信仰」している(時々お菓子をお供えしたりする)姿と、ガンジス川で沐浴をする女性達の姿が重なった。そのお地蔵さん達が、何かの都合で撤去されるとなれば、母親は悲しむだろうなと思う。母親は、そのお地蔵さんになんの権利も持ってはいないのだから、撤去されるという事にも、現行の法律では何もできないのだろう。 しかしそれが、「かかわり」と「権利」の結合、という事と関係しているのかどうかも、私には良く分らない。 結局のところ、人間は色んな事に対して、色んな関わり方を持って生活しているのであって、その関わり方の解釈を一面的な部分から捉えてはいけないのだろうという事は分かった。 まあ、そりゃそうだ、とも思う。
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