ひろがりアジア(4) 義務感に支えられた成功――独裁国家ラオスの徹底した新型コロナウイルス対策|山田紀彦
初出:2021年2月19日刊行『ゲンロンβ58』
東南アジア大陸部に位置するラオスは、徹底した対策により新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大を抑えている。新型コロナウイルスが世界で猛威をふるい始めて1年が過ぎたが、2021年2月9日現在、国内の感染者数は45人、死者はゼロである。また2020年4月11日に19人目の市中感染者が確認されて以降[★1]、新たな感染者はすべて海外からの帰国者や入国者となっている。政府が徹底した対策を講じ、多くの国民がそれにしたがった結果、すでに人々の「日常」は戻り、大勢での会食や数百人が参加する結婚式なども行われるようになった。
政府主導の感染対策が徹底された背景には、この国の政治体制が大きく影響している。ラオス人民革命党による一党独裁体制が続くラオスでは、政策実施における上意下達のメカニズムが整備されている。すなわち、国民の権利を制限する感染症対策が実施されても、それが受け入れられる下地が社会にあったのだ。そして何よりも、当初は強制力に支えられていた政府のロックダウン命令に、国民が徐々に正当性や権威を見出したことが大きい。そのため国民の消極的義務感は、いつしか積極的な義務感へと転換していった。
本稿では、ラオスにおけるCOVID-19の拡大状況やそれに対する政府の対応を紹介しつつ、同国が感染拡大の封じ込めに成功している理由について、政治的要因を中心に考えてみたい。
政府主導の感染対策が徹底された背景には、この国の政治体制が大きく影響している。ラオス人民革命党による一党独裁体制が続くラオスでは、政策実施における上意下達のメカニズムが整備されている。すなわち、国民の権利を制限する感染症対策が実施されても、それが受け入れられる下地が社会にあったのだ。そして何よりも、当初は強制力に支えられていた政府のロックダウン命令に、国民が徐々に正当性や権威を見出したことが大きい。そのため国民の消極的義務感は、いつしか積極的な義務感へと転換していった。
本稿では、ラオスにおけるCOVID-19の拡大状況やそれに対する政府の対応を紹介しつつ、同国が感染拡大の封じ込めに成功している理由について、政治的要因を中心に考えてみたい。
ラオスのおかれた状況と政府の警戒感
政府は中国で新型コロナウイルスが確認された当初から警戒感を高めた。背景には、世界が経験したことのない未知のウイルスであったという他に、ラオスの地理的条件や医療体制の未整備など、いくつかの理由がある。
ラオスは周囲を5カ国に囲まれた内陸国である。北部ルアンナムター県ボーテンにある中国との国境では、1日に約400台の車が両国間を通過している[★2]。中国人観光客数は2019年に100万人を超え、自家用車で国境を渡ってくる人も多い。また、タイとは約1800キロメートル、ベトナムとは約2000キロメートル以上の国境を接しており、公的に定められた国際国境だけでなく、地域住民だけが合法/非合法に通過できるローカルな国境がいくつもある。つまり隣国との陸路による人の往来が多く、出入国管理が徹底されていない地域もあるため、新型コロナウイルスがいつ入ってきてもおかしくない状況にあった。実際、2020年1月末の春節休暇期間中にラオスを訪れた中国人観光客や[★3]、3月上旬にタイから陸路でラオスを訪れた観光客が、帰国後に新型コロナウイルスに感染していたことが発覚している[★4]。
人々の食習慣も感染拡大が心配された要因のひとつだった。レストランなどを除き、一般的にラオスではお皿に盛られた料理を取り分けることなく、各自が直箸や手で食べることが多い。例えば、主食であるモチ米が入ったお櫃には複数の人の手が入り、大きなひとつのボウルに入ったスープを各自が自分のレンゲですくって飲む。飲み会や結婚式ではお酒の回し飲みをすることもある。したがって、食事を共にした誰かが感染していれば、それがすぐに周囲に拡大しうる。
また、医療体制に対する懸念もあった。2003~2004年にアジアでSARS(重症急性呼吸器症候群)や鳥インフルエンザが拡大した際、ラオス国内には検査能力がなく、感染が疑われる患者の検体を海外に送る必要があった[★5]。その経験から、2012年にフランスの支援でパスツール研究所が設立され、現在では同研究所を含め複数の機関でコロナウイルスの検体検査を行えるようになっている[★6]。とはいえ医療レベルはいまだに低く、病気を患い検査や手術が必要となった場合、多くの人は国境を渡りタイの病院に行く。自国の医療体制に対する人々の信頼は低い。
さらに、「陸の孤島化」による日常生活への影響も心配された。ラオスを含め周辺国で感染が拡大した場合、どの国にとっても国境封鎖が感染拡大防止の有効な手段となる。仮に国内でパンデミックが起きた場合、ラオスの医療レベルとキャパシティを考えれば、周辺諸国に支援要請を行う必要性がでてくる。しかし国境が封鎖されれば十分な支援は受けられない。またラオスは石鹸やシャンプーなどの日用品から、ジュース、お菓子、調味料など飲食料品の多くを、タイ、中国、ベトナムからの輸入に依存している。物流が滞れば人々の日常生活に多大な影響がでる。実際にコロナ禍で一部商品の価格は上昇した。
以上から、ラオスは COVID-19が容易に拡大する環境にあり、いちど感染が拡大すれば社会生活が危機的状況に陥る恐れがあったのである。
政府の対応は早かった。2020年1月7日、保健省は在ラオス世界保健機構(WHO)事務所と新型コロナウイルスに関する協議を開始した[★7]。以降、保健省とWHOは頻繁に情報交換を行なっている。そして2月3日にはCOVID-19対策特別委員会が設置された[★8]。
一方、社会の警戒感はそこまで高まっていなかった。1月中旬には一部の私立教育機関が自主休校を決定し、マスクを着ける人も現れ始めた。また国境では入国者の体温測定も始まった。実際、筆者が2020年2月2日にラオスに入国した際、空港ではサーモグラフィーカメラを使って入国者の体温を測定していた。とはいえその日の夜に出席した友人の結婚披露宴では数百人が会場に集まっており、お酒の回し飲みをしている様子もみられた。国内で感染者が確認されていないこともあり、日常にさほど変化はなかった。
また、医療体制に対する懸念もあった。2003~2004年にアジアでSARS(重症急性呼吸器症候群)や鳥インフルエンザが拡大した際、ラオス国内には検査能力がなく、感染が疑われる患者の検体を海外に送る必要があった[★5]。その経験から、2012年にフランスの支援でパスツール研究所が設立され、現在では同研究所を含め複数の機関でコロナウイルスの検体検査を行えるようになっている[★6]。とはいえ医療レベルはいまだに低く、病気を患い検査や手術が必要となった場合、多くの人は国境を渡りタイの病院に行く。自国の医療体制に対する人々の信頼は低い。
さらに、「陸の孤島化」による日常生活への影響も心配された。ラオスを含め周辺国で感染が拡大した場合、どの国にとっても国境封鎖が感染拡大防止の有効な手段となる。仮に国内でパンデミックが起きた場合、ラオスの医療レベルとキャパシティを考えれば、周辺諸国に支援要請を行う必要性がでてくる。しかし国境が封鎖されれば十分な支援は受けられない。またラオスは石鹸やシャンプーなどの日用品から、ジュース、お菓子、調味料など飲食料品の多くを、タイ、中国、ベトナムからの輸入に依存している。物流が滞れば人々の日常生活に多大な影響がでる。実際にコロナ禍で一部商品の価格は上昇した。
以上から、ラオスは COVID-19が容易に拡大する環境にあり、いちど感染が拡大すれば社会生活が危機的状況に陥る恐れがあったのである。
COVID-19拡大前の社会状況
政府の対応は早かった。2020年1月7日、保健省は在ラオス世界保健機構(WHO)事務所と新型コロナウイルスに関する協議を開始した[★7]。以降、保健省とWHOは頻繁に情報交換を行なっている。そして2月3日にはCOVID-19対策特別委員会が設置された[★8]。
一方、社会の警戒感はそこまで高まっていなかった。1月中旬には一部の私立教育機関が自主休校を決定し、マスクを着ける人も現れ始めた。また国境では入国者の体温測定も始まった。実際、筆者が2020年2月2日にラオスに入国した際、空港ではサーモグラフィーカメラを使って入国者の体温を測定していた。とはいえその日の夜に出席した友人の結婚披露宴では数百人が会場に集まっており、お酒の回し飲みをしている様子もみられた。国内で感染者が確認されていないこともあり、日常にさほど変化はなかった。
しかし世界的に感染が広がった2月中旬から徐々に雰囲気が変わり始めた。政府は予定していた国民体育大会などの大規模イベントを中止し、中国への航空路線を一部停止するなど対策を強化した。3月からはラオス=韓国間の航空便も停止され[★9]、感染流行国からの入国者には14日間の自己隔離措置もとられた[★10]。3月に入り近隣諸国で感染が拡大すると、ローカルな国境や一部の国際国境が閉鎖され[★11]、19日にはすべての教育機関が休校となった[★12]。
3月中旬からは国内での感染拡大の可能性がさらに高まった。すでに感染が拡大していたタイから大量の出稼ぎ労働者が帰国したのである。タイへのラオス人出稼ぎ労働者数は約20万人から30万人以上ともいわれている。ラオスの月額最低賃金は110万キープ(現在のレートで約1万2000円)だが、タイでは県によって違いはあるものの1日300バーツ以上(現在のレートで約1030円)である[★13]。言葉も文化も類似のタイで働く障壁は低く、数十年来、多くのラオス人がタイで働いている。3月20日から4月13日までにタイから帰国した人の数は約11万人に上り[★14]、国境では帰国者の「密」状態が発生した。帰国者は各種収容施設で14日間隔離されたが、なかにはスポーツ競技場でテント生活を送るなど、劣悪な環境におかれた者もいた[★15]。幸い、これらの帰国者から感染者はでていない。
感染者ゼロに対して一部国際メディアから疑問を呈する声も上がり始めるなか[★16]、3月24日、ついにラオスで初となる2人の感染者が確認された。そして29日までに感染者数は9人に増えた[★17]。社会の危機感が一気に高まり始めたのである。
山田紀彦
やまだ・のりひこ/日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員。専門は政治を中心とするラオス地域研究、権威主義体制研究。主な著作は『ラオスの基礎知識』(めこん、2018年)、『独裁体制における議会と正当性――中国、ラオス、ベトナム、カンボジア』(編著、アジア経済研究所、2015年)等。
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