記憶とバーチャルのベルリン(7) 2022年のベルリンと鷗外(後篇)|河野至恩

2年半ぶりのベルリンの風
2022年7月、私はフンボルト大学で開催される鷗外没後100年記念行事で講演を行うため、ベルリンに旅立った。成田発、経由地のチューリヒ行きの旅客機は、ロシアの領空を避け、大きく北極海側に迂回してヨーロッパへと飛行していった。到着したのは、従来のテーゲル空港に代わってベルリンの主要空港としてコロナ禍の最中に開港したブランデンブルク空港。旅客の急速な増加に空港職員の配置が追いつかないのか、飛行機が着陸してからスーツケースが現れるまでかなりの時間を要したが、それ以外は大きなトラブルもなかった。
ヨーロッパでは夏に水際対策が解除された。マスク義務も多くの場合に撤廃され、日本のニュースではヨーロッパの開放感あふれる映像が流れた。一方、日本では、入国時の制約は大きく緩和されたが、入国前72時間以内のPCR検査だけは残されており、これに陽性となる(あるいは陰性証明書を入手し損ねる)と帰国できずに滞在先で長期間の足止めをくらう、という状態だった。そのため私も、感染しないように極力注意するだけでなく、検査を受けた後、空港検疫の事前手続アプリに検査結果の文書をアップロードするなど、ひとつひとつのステップに神経を使うこととなった。帰国便の前日、入国審査のアプリがファストトラック(優先入国)許可を示す緑色に変わったときには、さすがに安堵した。
新型コロナウイルスの感染対策に振り回されたこの3年間、国境の水際対策もさまざまに変化していった。日本の対策を振り返ってみると、感染を食い止めた局面もあったかもしれないが、実際には、渡航する人々の都合を考えない施策が現場に押しつけられ、理不尽な状況が起こることが多かったのではないか。この夏に私が経験したのも、そうした混乱のうちのひとつだったように思う。
ともあれ、2年半ぶりに訪れたベルリンは格別だった。このコラムの読者にはくり返しになるが、ベルリンを訪れるのは、コロナ禍が本格化する直前の2020年1月以来となる。
今回の滞在中、ミッテ(ベルリンの中心地区)の森鷗外記念館近くのホテルに滞在していたのだが、到着した次の日、ふと散歩がしたくなり、ブランデンブルク門から国会議事堂を眺めつつシュプレー川を渡る橋を徒歩で渡った。橋の上でこのときばかりはと少しマスクを外し、夏とはいえ涼しい夜の風を肌で直接に感じた。また、日本にいる息子のために地下鉄の動画を撮ったり、インビス(軽食スタンド)でサンドイッチを食べたりという、普段の滞在ならば当たり前だったことも、新鮮に感じられた。
講演の場では、今回招待してくださったフンボルト大学の方々、そして、講演を聴きに来てくださった人々と、ビデオ通話の画面越しにではなく、実際に対面して言葉を交わすことの喜びがあった。短い滞在ではあったが、何人かの知人・友人に、久しぶりに会って旧交を温めることもできた。
鷗外を愛する2人の女性読者
さて、今回のベルリン滞在中、幸いなことに、尊敬する詩人の伊藤比呂美さんも同時期にベルリンに滞在しておられた。
伊藤さんといえば、言うまでもなく日本の現代文学において代表的な詩人のひとりである。近年は、生活の拠点をアメリカ、熊本、東京と移しながら旺盛な執筆活動を続けている。著書『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』は、昨年ドイツ語訳が刊行され、伊藤さんはその年から、翻訳者で日本文学研究者であるイルメラ・日地谷゠キルシュネライトの招きで、ベルリン自由大学にフェローとして滞在されている。現在は鷗外についての書籍を執筆中とのことであった。
私がドイツに到着した翌日、(以前にも本連載[★1]で紹介した)ベルリン文学コロキアム(LCB)にて伊藤さんとドイツの作家フランク・ヴィツェルとの対談イベントを聴講することができた。ドイツ語の通訳を挟みながらも、伊藤節は健在であった。
伊藤さんの近著に『切腹考 鷗外先生とわたし』(文春文庫、2022年)という、鷗外についてのエッセイ集がある。これが非常に面白い。本のタイトルにも採用されている「切腹考」というエッセイは、なんと伊藤さんが「生の切腹を見たことがある」という衝撃的な話から始まる(詳細は本で確認していただきたい)。他の章でも、伊藤さんが数十年来愛してやまない鷗外作品を読み込んでいくのだが、彼女の現在の生き様と鷗外の言葉がシンクロする瞬間が綴られる。そして何よりも伊藤さんが鷗外を読む熱量に圧倒されるのである。
この「妄想」を分かち合った唯一の女性が、「ベルリンの森鷗外記念館のBさん」だという。伊藤さんの文章では名前が伏せられているが、この連載の前回の記事を読んだ読者には誰か明らかだろう。2009年冬、伊藤さんが森鷗外記念館を訪問したとき、2人は鷗外の女性像について語り合ったという。その場面が臨場感豊かに綴られる。伊藤さんいわく、「鷗外をめぐる女2人の、真剣勝負の立ち会いであった」という。
鷗外といえば、理知的な作風と文体で知られる作家である。しかし、鷗外は人間味あふれる作家でもあると思う。鷗外について書かれた書物のうち、そうした人間・鷗外に肉薄した本といえば、中野重治『鷗外 その側面』(筑摩書房、1952年)が挙げられる。『切腹考』も、そうした作家と読者の、人間としてのぶつかり合いが魅力的な書物である。伊藤さん、そしてここで言及されている「Bさん」も、現代にあって圧倒的な熱量で鷗外を読み続ける読者である。没後100年のいまもこうした読者がいるところに、鷗外の文章の「生き延びる生命」を感じるのだ。
この2人の鷗外を愛する読者がベルリンにいるときに、その地で私の考える「鷗外」を語ることができたのは、今回の滞在におけるハイライトであった。
多言語で考える人、森鷗外
講演の内容についても触れておこう。
今回の基調講演では、「多言語で考える人、森鷗外」(Mori Ōgai, a Multilingual Thinker)という題名で講演を行った。
鷗外・森林太郎は1884年から88年までの5年間、ドイツに留学した。その間、衛生学の学習、研究のかたわら、文学作品や哲学書などさまざまな書物を読みふけり、ドイツ語の研鑽に励んだ。日本に滞在した生物学者であるナウマンの日本論に反論し、ドイツ語で新聞に投稿したことはその語学力の高さを示している。「独逸日記」には、公的・私的両面に幅広く活動していたことが記録されている。
しかし彼が習得した外国語はドイツ語だけではなかった。1862年、医者の家に生まれた森林太郎は、じつは幼少期に藩校でオランダ語を学んでいた。それは、のちに東京帝国大学の医科に入学するため、進文学舎という学校でドイツ語を集中的に学ぶときの基礎となった。さらに留学中には、家庭教師からフランス語と英語を学んでいる。今回の講演では、そうした林太郎自身の言語教育をその経歴や自伝的小説から振り返り、彼が複数の言語を使いこなしていた事実を確認した。
鷗外の文学作品には、複数の言語を行き来するなかで培われた思考を垣間見ることができる。例えば、鷗外は、日本語の小説の地の文にラテン語やフランス語の単語を翻訳せずに(カタカナやアルファベットで)表記することがある。「舞姫」でも、「ニル、アドミラリイ」というラテン語のフレーズを、あえて訳さずカタカナのままに使っている。これはホラティウス『書簡集』に現れたフレーズなのだが、引用とわかった当時の日本人の読者はごくごく限られていただろう。こうした例はたとえば短編小説「妄想」など、鷗外の他の作品にも見ることができる。
鷗外の作品を読むうえで、「翻訳」がキーワードになることがある。それは、単に鷗外が優れた翻訳者だったからというだけではない。武士の家に生まれながら、幕末・明治の激動の時代に育ち、西洋文化・社会を深く知り、知見を日本に伝えようとした、その生き方そのものが「翻訳」といえるからだ。最近の研究でも、彼の人生を「文化の翻訳」として読み解くものがある[★2]。そこからさらに一歩考えを進めてみると、鷗外は、人生をかけて多言語を行き来したからこそ、翻訳では表現しきれないもの(翻訳不可能性)をも意識せざるを得なかった。日本語の作品の中で外国語を翻訳としてでなく、原語の表記そのままで用いたのは、その意識の表れだったといえるのではないだろうか。

このエッセイの前篇で、鷗外没後100年の今年こそ、鷗外の作品がどのような「生き延びた生命」をたどり、100年後の私達に何を語りかけるのかを問いたい、と書いた。私にとっては「多言語で考える」ということが、その切り口になっている。
私はこの数年「複言語主義」をキーワードに、言語の間に立って文学を考える人間、について考えてきた。今回の講演では、そうした近年の思考を反映して、多和田葉子さん、伊藤比呂美さんの「言語の間」から文学作品を書く仕事や、近年の、日本語を母語としない作家など多様な作家によって書かれる「日本語文学」への関心にも言及した。鷗外という文学史上の巨人の残したものを、このような文脈に置き直して再評価することには意義があると思う。また、複数の言語が飛び交うベルリンという街は、「多言語で考える」という問題を捉えるのにぴったりの場でもある[★3]。その意味で、今回の講演は、「複数の言語を話す人間と文学」について考えてきたここ数年の研究の、ひとつの「なかじきり」にもなった。
今後も、この「複数の言語を話す人間と文学」というテーマについては、さらに深めて書き続けていきたいと考えている。
★1 河野至恩「記憶とバーチャルのベルリン 第五回 翻訳・多言語の街、ベルリン」『ゲンロンβ72』、ゲンロン、2022年。
★2 たとえば、長島要一『森鷗外 文化の翻訳者』、岩波新書、2005年。
★3 ベルリンの「複言語性」については、先のコラムで言及している。河野至恩、前掲書。


河野至恩
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