記憶とバーチャルのベルリン(3) ライプツィヒ日本学とは何か(前篇)──「なんでこうなったのか知りたい!」シュテフィ・リヒター『闘う日本学』を手がかりに|河野至恩

初出:2021年11月29日刊行『ゲンロンβ67』
前篇
今回と次回の2回に分けて、ライプツィヒ大学日本学科の「日本学」研究を紹介したいと思う。
ドイツの大学には、日本学の重要な拠点がいくつか存在する。例えば、私も2019-20年の約2ヶ月の滞在でお世話になったベルリン自由大学は、人文学・社会科学の研究者・教員・大学院生が多数在籍し、活発な研究活動を行っている。また、同じベルリンのフンボルト大学には、かつて歴史の長い日本学講座が存在し、多くの研究者を育ててきた[★1]。その他にも、ドイツ各地の大学で、活発な研究を行う日本学講座をいくつか挙げることができる。
そのなかでも特筆すべきなのがライプツィヒ大学だ。1409年に創立され、600年以上の歴史を持つ大学であるが、その日本学科で現在展開する日本学は、歴史学や古典文学研究などを主軸とする伝統的なものとも、社会学や政治学の方法論で現代日本を分析するものとも異なり、きわめて現代的でアクチュアルだ。強い研究分野は、日本思想史、批評理論、メディア研究、大衆文化研究など。近年とくに力を入れている研究テーマとして、2020東京五輪への反対運動や福島第一原発事故などが挙げられる。またビデオゲームなど新しいメディアの研究を開拓し、政治色の強いテーマにも果敢に切り込んでいきもする。筆者は、2012年春からの1年間、この学科の客員教授として、その研究活動を身近に見ることができた。
前篇となる今回は、日本学科の主任教授として研究活動をリードしてきたシュテフィ・リヒター氏の研究活動を、私の個人的な経験と、最近刊行された論集『闘う日本学』(新曜社、2020年)から紹介してみたい。

ライプツィヒ大学のメインビルディング 出典=Maria Giulia Tolotti(MaryG90). Universität Leipzig. 2012. URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Unileipzig593.JPG Creative Commons BY 3.0
ドイツの大学には、日本学の重要な拠点がいくつか存在する。例えば、私も2019-20年の約2ヶ月の滞在でお世話になったベルリン自由大学は、人文学・社会科学の研究者・教員・大学院生が多数在籍し、活発な研究活動を行っている。また、同じベルリンのフンボルト大学には、かつて歴史の長い日本学講座が存在し、多くの研究者を育ててきた[★1]。その他にも、ドイツ各地の大学で、活発な研究を行う日本学講座をいくつか挙げることができる。
そのなかでも特筆すべきなのがライプツィヒ大学だ。1409年に創立され、600年以上の歴史を持つ大学であるが、その日本学科で現在展開する日本学は、歴史学や古典文学研究などを主軸とする伝統的なものとも、社会学や政治学の方法論で現代日本を分析するものとも異なり、きわめて現代的でアクチュアルだ。強い研究分野は、日本思想史、批評理論、メディア研究、大衆文化研究など。近年とくに力を入れている研究テーマとして、2020東京五輪への反対運動や福島第一原発事故などが挙げられる。またビデオゲームなど新しいメディアの研究を開拓し、政治色の強いテーマにも果敢に切り込んでいきもする。筆者は、2012年春からの1年間、この学科の客員教授として、その研究活動を身近に見ることができた。
前篇となる今回は、日本学科の主任教授として研究活動をリードしてきたシュテフィ・リヒター氏の研究活動を、私の個人的な経験と、最近刊行された論集『闘う日本学』(新曜社、2020年)から紹介してみたい。

日本学の定点観測
私がリヒター氏と知り合ったのは2010年、東京工業大学で開催されたシンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」がきっかけだった。
2009年、私とジョナサン・エイブル氏とで共訳した『動物化するポストモダン』の英訳 Otaku: Japan's Database Animals の出版を機に、著者の東浩紀、そして宮台真司の両氏のアメリカ講演旅行を企画した。訪問した各地での研究者や大学院生との議論のなかで、海外の日本学における日本のポピュラーカルチャー研究の方法論についての議論が高まったことがきっかけとなって、翌年2010年、東氏が当時所属していた東京工業大学世界文明センターにおいて、国内外から様々な立場の日本研究者やアーティストを招き、海外の日本学から見た日本文化へのアプローチについての国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」が開催された(私はこのシンポジウムの企画に参加した)。その議論の内容はのちに書籍にもまとめられた[★2]。このシンポジウムで、リヒター氏はドイツの日本学におけるポピュラーカルチャー研究の状況を報告した。この国際シンポジウムの後、2012年から1年間の滞在が実現し、ライプツィヒ大学の日本学研究者や学生と知り合い、進行中の研究プロジェクトについて知ることができた。
私は、日本で生まれ育ったが、大学進学時にアメリカに渡り、アメリカの大学院の比較文学部で文学研究者としてのスタートを切った。日本語と英語の間を行ったり来たりしながら、海外の日本学の視点から(欧米語で)日本文学を読み、日本語で欧米語圏の文学研究を見たりすることが、私の文学研究者としての原点にあると言ってもいい。以来、国外の「日本学」(または「日本研究」)には、日本文化や日本社会に関して、国内の文脈とは異なる視座から重要な議論が展開されていると考え、興味を持ってそこから学んできた。また、互いにとって生産的になると考え、世界各地の様々な研究を繋ぐ実践も行ってきた。地域研究として発展してきた「日本学」「日本研究」から日本文化を見る意義については、以前、拙著『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書、2014年)にまとめ、それ以後も折に触れて書いている。
『動物化するポストモダン』英訳の出版、「クール・ジャパノロジーの可能性」シンポジウムなどが続いた2010年前後は、日本のアニメ、マンガが世界各地で人気を拡大し、国内でも「クールジャパン」というスローガンのもと、そのような状況が注目を集めていた。それから約10年を経た現在はどうだろうか。日本発のアニメやマンガの人気は定着したものの、一時のような社会現象的な見方はされておらず、むしろNetflixなどのストリーミングを媒介として世界各地に配信されている映画・ドラマなどのコンテンツのほうに勢いがあるように思える。「クール」を切り口に日本文化を研究することには、以前のような意義を見て取ることはできない。
しかし、世界各地の日本研究には、そうした時代のトレンドの浮き沈みにかかわらず、独自の研究の基礎に立脚し、「日本」に関わる文化・社会現象を研究する営みが続けられてきている。そこに真摯な研究の持続した取り組みがある限り、学ぶことは尽きないのではないか。その意味で、世界各地でいまも展開される日本学は、日本について考える「定点観測」の場と考えられるだろう。
ライプツィヒ日本学のキーワード──実践・ローカル・思想史
リヒター氏が主任教授を務めるライプツィヒ大学の日本学の大きな特徴として、現場での実践を重んじるということが挙げられる。現代日本について研究するとき、その現象を理論的、歴史的に考察するだけでなく、現実に深くコミットするアクティビストと直接繋がり、研究していくことが多い。
結果としてその過程で、ローカルな現場に根ざして考えることになる。だから、例えば資本主義、グローバリズムという大きなテーマを視野に入れつつも、具体的なケース・スタディを進める。
さらに、マルクス主義批評、思想史のバックボーンを持った分析も特徴的だ。例えば、日本のポピュラーカルチャー研究でも、その文化的側面にとどまらず、歴史認識問題、ナショナリズムなどの問題に接続する。最近では、ドイツにおける慰安婦像の設置問題に関して、特に日本のナショナリズムに対する批判的で厳しい考察を展開してきた。一言で言うならば、「政治的」であることを恐れず、それでいて現象を根源から考え直そうという意識が強い。
こうした意識は、リヒター氏だけでなく、ライプツィヒ大学教授であり、その良き協力者としてリヒター氏を支えてきた哲学・思想史家の小林敏明氏、その下で仕事をする講師や大学院生にも共有されてきた(小林敏明氏については、連載の次回により詳しく紹介したい)。
シュピネライと「東京五輪反対」
そうした「ライプツィヒ日本学」の特徴をよく表すエピソードをふたつ紹介したい。
私がライプツィヒ大学で1年を過ごした2012年、到着してまだ日も浅いころ、リヒター氏は、日本学科の何人かとともに、私をライプツィヒのツアーに連れて行ってくれた。その目玉が、紡績工場の跡地を再開発して、現在はアートスペースとなっている「シュピネライ」であった。かつてはヨーロッパ最大ともいわれた工場の建物は、ドイツの工業化の歴史を感じさせてくれる。
その一方、現在は、スペースを芸術家に貸し出し、展示だけでなく、制作スペースとしても利用されている。そこで垣間見た現代的でパフォーマティブなアート作品は、旧東ドイツのアートシーンを感じさせた。それだけでなく、この見学ツアーを通し、アートは歴史・政治・ローカリティと切り離すことはできないということを実感した。これはもちろん授業や研究とは関係なく、課外活動のひとつだったのだが、リヒター氏が「ライプツィヒ」を伝える入り口として、有名な歴史的建造物やモニュメントではなく、こうした場所を選んだところに、強いメッセージ性を感じたのだった。
また、2013年9月8日、2020年のオリンピック・パラリンピックの開催都市が東京に決定した翌日のこと、ライプツィヒで行われた講演も印象に残っている。たしか大学の構内ではなく、日本からライプツィヒの都市問題について学びに来ていた大学生のツアー向けの講演だったと思う。私はちょうどライプツィヒ滞在中で、特別に許可を得て聴講していた。
講演の主題はオリンピックには関係しないものだったが、その冒頭で、リヒター氏は、2020年東京大会の招致に私は反対しますと明言した。そして、オリンピックはグローバルな利権が絡み合うイベントであり、そのツケを払うのは招致都市やその住民である、と理路整然と述べた。
一人の聴衆として聴きながら、私はリヒター氏の毅然とした態度表明に少し驚いていたのを覚えている。東京に在住する者として、私自身招致についての様々な論点は報道などで聞いていたが、開催後に巨大な赤字を計上し、競技施設を事後に有効活用できていない最近の招致都市とは異なり、東京(日本)はもう少し上手にするだろう、くらいの認識だったのだ。
その後、リヒター氏は自らの研究活動を通して五輪の問題についての発信を続けた。2015年に来日した際、東京のOAG(オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会)での「オリンピックと『近代の日本研究』──1940/2020」という講演では、霞ヶ丘アパートの立ち退き問題を扱い、オリンピックが高齢者など弱い立場の人々の生活を犠牲にして成り立っていることを指摘していた。その後も、東京五輪への反対運動の中心的人物であるジュールズ・ボイコフ氏らと連携しながら発言を続けていた。
その後、2021年、オリンピック・パラリンピック東京大会は、コロナ禍のなか無観客ながら開催された。アスリートたちの活躍の一方、スタジアム建設計画の撤回、エンブレムの盗作疑惑に始まり、開会式・閉会式の企画をめぐる議論、役員や関係者の不適切な発言、そしてIOC役員の住民の心情を軽視するような発言など、スキャンダルが多発した。特にコロナ禍において様々な問題が噴出するなか開催に突き進んだ状況は、住民の意思よりもIOCやスポンサーの大企業、放映権を握るテレビ局などの意向が優先されるという現実を多くの人々に印象づけることとなった。また、多額の投資をして新築・改修しながら、会期後の利用法も決まっていない施設の存在は、住民が背負い続ける負担の象徴となっている。
いまの時点から2013年のリヒター氏の発言を振り返ってみると、当時すでにオリンピックの本質を見抜き、ためらいなくその立場を表明していた慧眼にうならされる。そこには、現代社会の問題をその背後の構造から分析する方法やフットワークの軽さなど、ライプツィヒ日本学の特徴がよく表れているだろう。
一人の聴衆として聴きながら、私はリヒター氏の毅然とした態度表明に少し驚いていたのを覚えている。東京に在住する者として、私自身招致についての様々な論点は報道などで聞いていたが、開催後に巨大な赤字を計上し、競技施設を事後に有効活用できていない最近の招致都市とは異なり、東京(日本)はもう少し上手にするだろう、くらいの認識だったのだ。
その後、リヒター氏は自らの研究活動を通して五輪の問題についての発信を続けた。2015年に来日した際、東京のOAG(オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会)での「オリンピックと『近代の日本研究』──1940/2020」という講演では、霞ヶ丘アパートの立ち退き問題を扱い、オリンピックが高齢者など弱い立場の人々の生活を犠牲にして成り立っていることを指摘していた。その後も、東京五輪への反対運動の中心的人物であるジュールズ・ボイコフ氏らと連携しながら発言を続けていた。
その後、2021年、オリンピック・パラリンピック東京大会は、コロナ禍のなか無観客ながら開催された。アスリートたちの活躍の一方、スタジアム建設計画の撤回、エンブレムの盗作疑惑に始まり、開会式・閉会式の企画をめぐる議論、役員や関係者の不適切な発言、そしてIOC役員の住民の心情を軽視するような発言など、スキャンダルが多発した。特にコロナ禍において様々な問題が噴出するなか開催に突き進んだ状況は、住民の意思よりもIOCやスポンサーの大企業、放映権を握るテレビ局などの意向が優先されるという現実を多くの人々に印象づけることとなった。また、多額の投資をして新築・改修しながら、会期後の利用法も決まっていない施設の存在は、住民が背負い続ける負担の象徴となっている。
いまの時点から2013年のリヒター氏の発言を振り返ってみると、当時すでにオリンピックの本質を見抜き、ためらいなくその立場を表明していた慧眼にうならされる。そこには、現代社会の問題をその背後の構造から分析する方法やフットワークの軽さなど、ライプツィヒ日本学の特徴がよく表れているだろう。
『闘う日本学』
さて、最近、そのようなライプツィヒ日本学の成果に触れることができる書物が新たに出版された。リヒター氏の近年の日本学関連の論文を集めた論集『闘う日本学』である。訳者は同僚の小林敏明氏だ。
本書で扱われるトピックは、百貨店、日独のマンガ交流、靖国神社、福島第一原発事故、そしてプレカリアートなど多彩だ。現代日本のホットなトピックを扱いつつ、問題の構造を哲学や批評理論を援用しながら分析した論考が多く掲載されている。
特に興味深かったのは、「闘う日本学」と題された序章である。知的自叙伝ともいえるこの章では、東ドイツでボート選手を目指しながらけがで挫折した青年期に始まり、モスクワ大学への留学、フンボルト大学日本学科での助手就任、日本滞在、そしてライプツィヒ大学への着任というキャリアを振り返っている。まさにこの時期にドイツはベルリンの壁崩壊から東西統一という地殻変動を経験するわけだが、社会の思想的な枠組み自体が大きく変わるなかで、氏が研究者としての模索を続けてきた様子が描かれる。巻末の小林氏による編訳者あとがきも併せて読むと、経歴をより的確に理解することができるだろう。
リヒター氏は、その知的遍歴についてこう書いている。
かくして、私はそれ以来何重にも破れた「間」、すなわち不断のパースペクティヴ変換を生き、自分自身の出自に他者たちの鏡を対置してみようと務めてきたのだが、その場合この他者たちに屈服してしまうこともなく、またノスタルジックな反動で自分固有のものの中に立ち戻って降伏してしまうこともなかった(どのみちそんなことは不可能なことだが)。むしろ、まさにラディカルな他者との出会いを通して経験した自分自身の(そして広く人間的な)不完全性ないし相対性こそが、移動による彷徨やだれの中にも宿っている無限の発展性を可能にしてくれるのである。まさに自己を失わない終わりなき好奇心とでも言えようか。(リヒター『闘う日本学』15頁)
1980年代から90年代は、政治的な大変革の時期というだけでなく、人文学でもポストコロニアリズム、カルチュラル・スタディーズなど様々な理論・方法論が導入され、学問の「パースペクティヴ」自体が大きく変化した時代でもあった。この論集に集められた論文には、現代日本のアクチュアルな問題を扱いつつも、そうした変化を逆手に取り、方法論を貪欲に取り入れ、批判的に考察していった軌跡を見て取ることができる。

また、本書では、研究・教育の場としてのドイツの大学でも他の国の大学と同様の、研究資金の獲得競争という新自由主義的な方針やグローバル化などの波にさらされていたことがわかる。こうした変化は必ずしも研究に好影響をもたらすものばかりではないが、そんな状況にあっても、すべての可能性を探り、少しでも良い方向へと変えていこうとリヒター氏は「闘って」いたのだ。
小林敏明氏の、オリジナルのドイツ語の息づかいを感じさせる硬質な翻訳の文章を通しても、リヒター氏の人柄が感じられる。リヒター氏は、研究会やシンポジウムのような場でも、その後の懇親会などでも、自分の思ったことを率直に伝えてくれる方だ。私もシンポジウムで同席したときに、かなり批判的な内容を直接伝えられたこともある。しかし、不思議と感情的に反発したくなることはなく、むしろ率直な意見をありがたいと思ったものだった。本書の文体には、そんなリヒター氏の思考の跡を見て取ることができる。
私は、ライプツィヒの日本学から多くを学んだ。正直なところ、そこで研究されている福島第一原発の問題、「素人の乱」、反オリンピック運動などの多くを、私はよく知らなかった。ドイツでの、ライプツィヒでの日本学を通じて、国内で実践を重ねる人々のことを知り、メインストリームのメディアや研究ではスポットライトが当たることが少ない日本社会や日本文化の一側面を学んだ。そのことで、私の研究における「実践」の意味は揺さぶられ、考えさせられることになった。
リヒター氏は近い将来ライプツィヒ大学を退職するそうだ。小林敏明氏もすでに退職している。この二人が大学を去るということは、一時代の終わりを感じさせる。
ライプツィヒ大学日本学科のウェブサイトを開くと、歌舞伎の隈取りのような顔とともに「なんでこうなったのか知りたい!」という言葉が(日本語で)掲げられている[★3]。
私はこの言葉が掲げられるようになった経緯を知らない。だが、日本文化や日本社会が現在抱えている問題を、表層的なレベルではなく構造的な問題の表出として捉え、批判的思考をもって根本から問い直すという「ライプツィヒ日本学」の特徴をよく捉えた言葉だと思う。こうした姿勢が、リヒター氏の東京五輪に関する見解のような「ブレない」視座を与えているのではないかと思う。読者には、『闘う日本学』などから、そうした日本学のひとつのあり方に触れてもらいたい。
小林敏明氏の、オリジナルのドイツ語の息づかいを感じさせる硬質な翻訳の文章を通しても、リヒター氏の人柄が感じられる。リヒター氏は、研究会やシンポジウムのような場でも、その後の懇親会などでも、自分の思ったことを率直に伝えてくれる方だ。私もシンポジウムで同席したときに、かなり批判的な内容を直接伝えられたこともある。しかし、不思議と感情的に反発したくなることはなく、むしろ率直な意見をありがたいと思ったものだった。本書の文体には、そんなリヒター氏の思考の跡を見て取ることができる。
「なんでこうなったのか知りたい!」
私は、ライプツィヒの日本学から多くを学んだ。正直なところ、そこで研究されている福島第一原発の問題、「素人の乱」、反オリンピック運動などの多くを、私はよく知らなかった。ドイツでの、ライプツィヒでの日本学を通じて、国内で実践を重ねる人々のことを知り、メインストリームのメディアや研究ではスポットライトが当たることが少ない日本社会や日本文化の一側面を学んだ。そのことで、私の研究における「実践」の意味は揺さぶられ、考えさせられることになった。
リヒター氏は近い将来ライプツィヒ大学を退職するそうだ。小林敏明氏もすでに退職している。この二人が大学を去るということは、一時代の終わりを感じさせる。
ライプツィヒ大学日本学科のウェブサイトを開くと、歌舞伎の隈取りのような顔とともに「なんでこうなったのか知りたい!」という言葉が(日本語で)掲げられている[★3]。
私はこの言葉が掲げられるようになった経緯を知らない。だが、日本文化や日本社会が現在抱えている問題を、表層的なレベルではなく構造的な問題の表出として捉え、批判的思考をもって根本から問い直すという「ライプツィヒ日本学」の特徴をよく捉えた言葉だと思う。こうした姿勢が、リヒター氏の東京五輪に関する見解のような「ブレない」視座を与えているのではないかと思う。読者には、『闘う日本学』などから、そうした日本学のひとつのあり方に触れてもらいたい。
★1 残念ながら、フンボルト大学の日本学は近年縮小し、大学院生を抱える日本学講座は閉鎖されてしまった。
★2 東浩紀編『日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性』(NHK出版、2010年)は、上に述べた東京工業大学における国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」のプレゼンテーションと討議の内容を再構成した書物である。また、2009年春に行われた東・宮台両氏の講演旅行については、以下の拙記事で紹介した。河野至恩「東・宮台、北米講演旅行レポート──旅する理論」、『思想地図 vol. 3』、NHK出版、2009年、258-286頁。
★3 URL=http://www.uni-leipzig.de/~japan/cms/(2021年10月31日閲覧)
前篇


河野至恩
1972年生まれ。上智大学国際教養学部国際教養学科教授。専門は比較文学・日本近代文学。著書に『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書、2014年)、共編著に『日本文学の翻訳と流通』(勉誠出版、2018年)。
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