記憶とバーチャルのベルリン(4) ライプツィヒ日本学とは何か(後篇)──空き家、西田幾多郎全集、そして学びの〈場〉|河野至恩

初出:2022年2月25日刊行『ゲンロンβ70』
ライプツィヒ発、「空き家活用」のアクチュアリティー
前回に述べたように、ライプツィヒ大学日本学科は、日本学の歴史の長いドイツにあって、アクチュアルなテーマの日本社会・文化研究を推進してきた。そんな環境でトレーニングを受けた多くの卒業生が、アカデミアを含め多方面で活躍している。ひとつの例を紹介しよう。
ライプツィヒは数百年の歴史をもつ古都である。かつては商業の中心地として栄えたし、ルターとも繋がりの深かった出版の街や、バッハが音楽を奏でたトーマス教会とゲヴァントハウス管弦楽団で知られる音楽の街など、いくつもの顔をもつ(そうしたライプツィヒの歴史については、以前ゲンロンで連載したエッセイのいくつかに記したので、参照してもらいたい)。その中心街は、歴史ある建物と近代的なビルが建ち並び、雑多だが魅力的な佇まいを見せている。
現在は経済も順調で活気を取り戻しつつあるライプツィヒだが、東西ドイツ統一直後には、1930年代から緩やかに減少していた人口がさらに激減した。東ドイツ時代に建てられた集合住宅の多くは空き家となり、治安の悪化やコミュニティの消失などの問題を抱えた。そこでライプツィヒでは、空き家を積極的に活用する「家守の家」というムーブメントが起こる。NPOが仲介して、空き家を無償で利用する者を募る。利用者はこの空間を自由な活動に使え、所有者は空き家を無料で管理してもらえる。そのような試みが市内各地で行われてきたのだ[★1]。
10年ほど前、この制度を活用して「日本の家」というユニークな試みが立ち上がった。ライプツィヒの日本人コミュニティ、大学生や若者など、様々な人々を繋ぎ、アート展示、コンサートやライブ、ワークショップ、一緒に料理をつくる「ごはんのかい」などの活動を行っている[★2]。「日本の家」は海外によくある日本文化紹介、日本を知る人々を繋ぐコミュニティの拠点でもあるのだが、空き家活用のスキームを使うことで、より地元に根ざした活動をしている。私もライプツィヒ滞在中、「日本の家」でのパーティーに参加したことがある。暖かなごはんを食べながら、ライプツィヒ大学の学生や現地滞在中の日本の人たちと雑談したのは良い思い出だ。
この共同設立者のひとりが、大谷悠氏だ。日本で建築学を学んだ大谷氏は、2010年にライプツィヒに来る。「日本の家」の活動に関わる一方、ライプツィヒ大学日本学科の大学院で学び、アカデミックな側面から、都市政策とコミュニティ作りの実践にアプローチした。それを、前回紹介した日本学科主任教授のシュテフィ・リヒター氏が全面的にサポートしていた。その後、大谷氏は、日本とドイツを行き来しながら、東京大学で博士課程を修了。現在は尾道を拠点に、地域に根ざした空き家活用の実践と啓蒙活動に活躍している。ライプツィヒの空き家活用の状況とその知見は、著書『都市の〈隙間〉からまちをつくろう』(学芸出版社、2020年)にカラフルな写真とともにまとめられている。
日本でも近年、地方や大都市近郊のニュータウンで空き家問題が顕在化している。ドイツの先進的な事例に学ぶことは多い。ライプツィヒの「日本学」は、そのようなドイツと日本のローカルな課題を繋ぐ結節点ともなっているのだ。
どちらかというと部屋に籠もって本と向かい合うことが「研究」となりがちな、文学研究者である私にとって、大谷氏やリヒター氏のように街に飛び出して実践から〈知〉を生み出すアプローチは新鮮だった。ライプツィヒ大学に滞在しなければ、そんな知のあり方に触れることはなかったかもしれない。
「西田幾多郎全集を抱えて」ドイツに渡った研究者
このように、様々に活躍する若手・中堅研究者を輩出するライプツィヒ大学日本学科。前回紹介したリヒター氏と並んでそのプログラムを中心で支えてきた2本柱のもうひとりが、小林敏明氏だ。
小林氏は日本哲学(特に西田幾多郎や廣松渉)、日本近代思想史の研究で知られるが、その他にも西洋哲学、思想、批評、そして日本近代文学などの分野での著書が多数ある。ここでは、ライプツィヒで知己を得たひとりの読者の視点から、小林氏について書いてみたい。
小林氏のキャリアは、人文学徒の間では現在は半ば伝説となっている。1990年代前半、40歳を過ぎてから予備校講師の職を辞し、本人の言葉を引けば「西田幾多郎全集を抱えてドイツに渡って」[★3]、その後四年で博士課程を修了、さらに4年で教授資格論文を完成する。安定した職に就いていながら、キャリアを一度振り出しに戻してでも、本当に望んでいた(であろう)アカデミアの道を志すというその人生の歩みには、「自分があの岐路で別の可能性を選んでいたらどうなっていただろう」、と我が身を振り返って考えさせる力がある。
例として、『西田哲学を開く』(岩波現代文庫、2013年)を見てみよう。ここには氏が10年ほどかけて執筆してきた西田幾多郎論が集められている。第1章の書き出しに「西田哲学はまだ充分に開放されていない」とあるように、原典への注釈や内在的な解釈ではなく、西田哲学を西洋哲学のテクストと接続しつつ、新しい解釈を示す書だ。
「現在──カイロスの系譜」と題された章では、西田の「永遠の今の自己限定」というテーゼを手がかりに、西田が引用するエックハルトに始まり、アウグスティヌスからアガンベン、ティリッヒと、時間論における「カイロス」(主観的時間)の系譜を辿っていく。そして西田のテーゼが、最後には木村敏の癇癪論に接続される。「カイロス」の時間を通して西田の概念にアプローチするこの論考は、氏の真骨頂といえよう。この本に編まれた論考を辿っていくと、ドイツ哲学・思想に直接学びつつ西田について考え続けた著者の思考が実ったものという印象を強く受ける。小林敏明という人を通して、西田と現代思想が出会うという表現がぴったりと合うかもしれない。
氏の歩みがより鮮烈ににじむのは、近著『故郷喪失の時代』(文藝春秋、2020年)である。2018年から19年にかけての連載をまとめ、コロナ禍の最中に刊行された。この書物は、「故郷喪失」が現実となった、2011年3月、福島第一原発の事故から説き起こされる。そして保田與重郎、水上勉らのテクストにおける、近代日本文学の「故郷」表象が、近代日本史の歴史的モーメントに絡めて読み解かれていく。それに重ねてこの書物では、著者が自らの「故郷」との距離、父との関係などを従来以上に語っている。本書には、ドイツに渡った後も日本の哲学、思想、文学そして歴史に強く惹かれ、思索しつつその時を積み重ねてきた氏の歴史がにじみ出ている。その読後感は重厚だ。
氏のこうした著作のなかで「日本文化」「日本社会」が大上段から語られることはない。しかし、氏の他に類を見ないキャリアを通して生まれた思索と、文学や哲学テクスト、そして日本の近代・現代史の具体的な事象に即した語りは、最上の「日本学」のテクストとなりえるだろう。
教育者としての小林敏明氏
以上のような、著述家としての小林氏の歩みを知る読者は日本でも多いかもしれない。しかし、ライプツィヒ大学日本学科という学びの場から氏のキャリアを見ると、その教育者としての一面が見えてくる。
上に述べたように、ライプツィヒ大学の卒業生は多様な分野で活躍している。特に大学院生には思想史、哲学、批評などの分野に深い知見をもった学生が多い。その背景には、リヒター氏、小林氏の2人を中心とした学びの場があるのではないだろうか。
私はライプツィヒ大学で客員教授を務めた際、小林氏の大学院の授業を聴講したことがある。大学院生2人の小さな授業で、氏の『父と子の思想』(ちくま新書、2009年)を講読する授業だった。この新書は、日本近代文学のテクストを横断的に読みながら「父と子」のモティーフを辿っていく。例えば、中野重治『村の家』の父親の描写を通して思想的問題としての「転向」を考察し、吉本隆明の転向論を通してその問題意識の系譜を探る、というように。日本近代の文学・思想・批評の重要なテーマを読み解いていくこのテクストは、日本学を学ぶ大学院生にとって得るところが多いはずだ。授業では、この本を起点に、文学作品の精読、そして思想史や批評史について、自由で活発な議論が行われていた。
小林氏の著作を読んでいくと、教育者の語り口を感じられるときがある。それは、予備校の名物現代文講師の時代から積み重ねられた、語りの技術の賜物なのかもしれない。そこには、教育者としての顔と研究者・著述家としての顔が共存しているように思えるのだ。希有な遍歴を通しての思想的冒険だけではなく、教育者としての技術が、氏を魅力的な存在にしている。
小林氏の教え子との関係を示唆する、ひとつのエピソードを紹介したい。氏は2014年にライプツィヒ大学を退職したが、その時に教え子が中心となって退職記念論集を刊行した。編集は、エアランゲン大学で教授を務めるメディア学・日本思想史が専門のファビアン・シェーファー氏と、現在は立命館大学で教えるビデオゲーム研究のマーティン・ロート氏。どちらもライプツィヒ大学日本学科で学んだ気鋭の研究者だ。『〈間〉を考える──マルクス・フロイト・西田』という魅力的なタイトルのこの論集には、同僚のリヒター氏、ライプツィヒ大学日本学科の卒業生に加え、柄谷行人氏、木村敏氏らも寄稿している。また研究者だけでなく、ライプツィヒ大学日本学科を卒業後に日本に渡り、禅僧になった教え子の写真や書も掲載されている[★4]。
2014年9月、シェーファー氏が企画したエアランゲン大学での日本学シンポジウムに参加したとき、できたばかりの退職記念論集を編者の二人が小林氏に贈呈する(サプライズの)セレモニーに参加することができた。小林氏が教え子に慕われた存在であることが感じられ、氏がドイツで積み上げてきた教育者としての時間の重みを目の当たりにした思いだった。
前回も述べたように、私がライプツィヒ大学でサバティカルの1年を過ごしたのは偶然の重なりゆえだったが、その出会いから、「ライプツィヒ日本学」という場を知り、そこに集う人々と出会うことができたのは幸運だった。大学は、書物や実験器具に向かい合って知を産出するだけでなく、根源的には人が出会う場であり、その出会いから複数の知が交差し、新しい知が生まれるのだと再確認させられる。今回紹介した「日本の家」のパーティーや、エアランゲン大学のシンポジウムは、そのような人が出会う場の好例であろう。
この2回、「ライプツィヒ日本学」を紹介するにあたり、その世界をより深く知るため、出来るだけ関連の書籍に言及している。日本語の書籍は比較的入手しやすいと思われるので、興味をもった読者はぜひ手に取って読んでもらいたい。今回の拙文やそれらの書籍を通し、日本の外にも「日本学」という学問があり、そこに人生の多くを捧げた研究者と学生がいるということを知ってもらえたら幸いである。
コロナ禍が世界を覆い、国境を越えた人の移動が大きく制約されるようになって二年の時が過ぎた。そのなか日本政府は「水際対策」として厳しい入国制限を続けているが、その影響を最も大きく受けている人たちに、外国籍の留学生や研究者がいる。日本で学びたい学生、日本で研究活動を行いたい研究者で、1年以上入国できずに足止めされている人は少なくない。その多くは「日本学」に関わる人々である。そして、この2年間の入国制限は、先に述べた出会いの場としての学術活動を大きく阻害し続けてきた。
日本政府の水際対策は、外国籍の人々、特に日本学に関わる海外の日本研究者や留学生に過重な負担を強いてきた。日本学という学問や留学という体験は、長い目で見たときに日本にも大きな価値をもたらす。研究者や学生が再び自由に日本を訪れ、多くの知的出会いが生まれる日が戻ることを切に願う。
★1 ライプツィヒの空き家・空き地活用の近年の歴史については、大谷悠『都市の〈隙間〉からまちをつくろう』(学芸出版社、2020年)第1章に詳しい。
★2 「日本の家」の活動については、以下の最近の紹介記事に詳しい。「ライプツィヒ東部エリアのフリースペース『日本の家』」http://www.newsdigest.de/newsde/regions/reporter/leipzig/10763-1118/
★3 『〈主体〉のゆくえ──日本近代思想史への一視角』、講談社選書メチエ、2010年、あとがき。この言葉は、哲学者の熊野純彦氏が小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』(岩波現代文庫、2011年)に寄せた「解説」でも引用されている。
★4 Martin Roth und Fabian Schäfer (Hg.) Das Zwischen denken: Marx, Freud, und Nishida. Leipzig: Leipziger Universitätsverlag, 2014.


河野至恩
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