記憶とバーチャルのベルリン(6) 2022年のベルリンと鷗外(前篇)|河野至恩

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初出:2022年7月31日刊行『ゲンロンβ75』

100年目の鷗外と作品の「生き延びた生命」


 1922年(大正11年)7月9日、森鷗外こと森林太郎はその生涯を終えた。この文章が公開予定の2022年7月は、そのちょうど100周年にあたる。

 森鷗外といえば、小説、戯曲、詩の創作だけでなく、批評、翻訳など多岐にわたって活躍した、19世紀後半から20世紀前半の日本文学を語るうえで欠かせない文学者である。また、文学だけでなく文化・社会に関する広範な言論活動を行い、さらには官僚として、陸軍軍医総監、帝室博物館総長兼図書頭などの要職を歴任するなど、明治・大正期の日本社会に大きな足跡を残した。没後100年の今年は、文学館や大学などでその知的遺産を振り返る特別展示やシンポジウムが企画されており、鷗外の読者や鷗外を学ぶ人々にとって特別な1年となる。実は私も、この7月にベルリン・フンボルト大学で開催される鷗外没後100年の記念式典において、招待講演を行うことになっている。この記事が掲載される頃には、ベルリンでの講演を終え、帰国しているはずだ。大変名誉な場であるし、また私自身、およそ2年半ぶりのベルリン滞在であり、個人的には今年最大の出来事となりそうだ。

 そうした理由もあり、私もこの「鷗外イヤー」を楽しみにしている。それでも、今回に限らず、文学者、芸術家、作曲家などの「生誕(没後)○○年」を記念して行事や出版物が多く世に出ることに複雑な思いがないわけではない。「記念年」は、確かに偉大な芸術家の作品を再認識する機会なのだが、毎年のようにそれが来ては過ぎていくという状況は、少し引いて見れば、一つ一つの年が交換可能な記号のようになってただ流れていくことになってしまわないかとも思うからだ。

 そもそも芸術作品とは、時に流されていくものだ。毎年、多くの作品が世に出るが、その多くは、発表してほどなく忘れられてしまう。鷗外は没後100年というが、100年後も読み継がれている作品の数は限られてくる。100年を越えて読まれ続けるのは特別な作家や作品に絞られてくる印象がある。
 では、鷗外は100年後も読み継がれる価値のある作家なのか? もし「没後100年」という節目の時が何らかの意味をもつとするならば、この問いにこそ真摯に向かい合うことが必要なのではないか。ヴァルター・ベンヤミンは「翻訳者の課題」という有名なエッセイで、翻訳は原作の「生き延びた生命」から生じる、と述べている★1。翻訳に限らず、作品が、その生まれた時代だけでなく、後々まで「生命の持続の時期」を生きること。その意義とは何なのかを見直すことは重要だろう。

 周知のように、1884年から88年に、森林太郎は衛生学の学生としてベルリンなどドイツ4都市に留学している。20代の多感な時期にヨーロッパの空気に触れ、本来学ぶはずだった医学だけでなく文学や芸術にも多く触れた彼の体験は、「舞姫」、「うたかたの記」、「文づかひ」のいわゆるドイツ三部作に色濃くにじんでいる。また、このドイツ留学は、佐藤春夫が「ドイツに渡つた鷗外森林太郎の洋行の事実を近代日本文学の紀元としたいと思ふ」という有名な言葉を残しているように★2、一個人の海外体験にとどまらず、彼が持ち帰ったヨーロッパの文学に関する知見のインパクトゆえに、日本文学史上の一大事件として捉えられている。このようなわけで、ベルリン滞在時の鷗外、すなわち「ベルリン〈の〉鷗外」を振り返ることには意義があるのだが、ここでは少し視点を変えて、現在におけるベルリンという都市と鷗外の関係、すなわち2022年の「ベルリン〈と〉鷗外」について、ふたつのトピックから記してみたいと思う。

都市論から読み解く「舞姫」


 鷗外の文学作品といって多くの人が真っ先に思い浮かべるのが「舞姫」だろう。国費留学生として多くを期待されてドイツに渡った太田豊太郎がドイツ人の女性エリスと恋に落ち、立身出世と彼女との関係の間で悩みつつも前者を選び、悔恨の念を持って帰国するこの小説は、高校の国語教科書の定番教材にもなっている★3

「舞姫」の読み方として、太田豊太郎を鷗外自身の分身として、作者への関心から読み解くものが広く受け入れられてきた。そのひとつの現れとして、エリスとは何者か、歴史上のモデルはいるのか、ということに関心が集まってきた。この「エリスのモデル探し」については、ベルリン在住の六草いちかが、当時の住所帳などの記録を丹念に調査し、そのモデルと考えられるエリーゼ・ヴィーゲルトという人物の記録を発見したことが大きな話題となった。その経緯は、六草いちか『鷗外の恋──舞姫エリスの真実』(2011年)、続編の『それからのエリス──いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影』(2013年)にまとめられている。偶然の出会いからこの問題に関心を持った著者が、先行研究やさまざまな資料をあたり、作品に残された手がかりから1880年代のベルリンの森林太郎とエリーゼの足取りを再構築する。その探索のプロセス自体がスリリングな書物だ。ともあれ、この「発見」により、「エリスのモデル探し」問題はひとまず解決をみた。

 しかし、「エリスのモデル探し」に見られるような、作家個人への関心、または、作家の体験に引き寄せて文学作品を読む方法論、いわゆる「作家論」は、近年、文学研究の世界では後退しつつある。それに代わって、多様なアプローチが採用されてきたのだが、ひとつの大きな流れとなってきたのが、都市論である。

 文学研究で、都市空間のなかの体験に注目し、地理学、人類学などの知見を使いつつ作品を読み解く都市論。日本文学研究では、奥野健男『文学における原風景』(1972年)、磯田光一『思想としての東京』(1978年)などが先駆的な業績として挙げられる。1980年代になると、そうした文学研究の「都市論」に、ポストモダン批評の都市論、建築、ジャーナリズム、社会学などが複雑に絡んで、さまざまな「都市論」が花開くこととなる。そうした大きな流れに重なりつつ、文学研究の世界でインパクトを与えた書籍が、前田愛『都市空間のなかの文学』(1982年)であった。この書籍では、近代日本文学のさまざまな作品が、東京、上海などの都市空間の視点から読み直されるのだが、ここで注目したいのが、鷗外「舞姫」を扱った「BERLIN 1888」の章だ。
 前田は、1883年、ベルリンでの巨大パノラマ館の登場から説き起こす。「舞姫」の都市の描写が遠近法を利用したものであると指摘し、当時急速に拡大したベルリンの都市計画の歴史に、豊太郎とエリスの出会ったクロステル街を位置づける。さらに、ウンテル・デン・リンデンに見られる大都会の描写を歴史的な背景から丁寧に読み解きつつ、それに対比される豊太郎の心情に踏み込んでいく。前田の論文は、当時のベルリンの街並みの歴史的な理解と「空間」を小説を読むという方法から成り立っていた。前田愛のこの論文は、英語圏の日本研究にも影響が大きく、Text and the City と題された英訳論文集は基本文献になっている★4。また、ベルリンの都市空間から鷗外作品を読むという研究としては、美留町義雄の『鷗外のベルリン──交通・衛生・メディア』も挙げられる★5。道路や水道、喫茶店、メディアなど、都市のインフラの視点から鷗外の見たベルリンを再現する著作だ。

 これらの研究を通して「舞姫」を読み返してみると、鷗外がベルリンという街を観察し、その街並みのなかに登場人物を丁寧に位置づけていたことがわかる。私は一時期、近代日本の批評史を考えるうえで、80年代以降の都市論について調べていたことがあるのだが、当時は、「都市論」というと、ポストモダン言説と親和性が高い抽象的な議論、建築学、都市計画からの論考、人類学、ルポルタージュ的な方法で都市を描いたジャーナリスティックな記事など、さまざまな種類の言説が混在している印象を持った(そのような言説を社会学の立場から1980年代後半の時点で早々と批判していたのが、吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』だった)。しかし、最近の文学研究における「都市論」は、作品を作家から(ひとまず)切り離し、広い都市空間の歴史的・空間的な文脈に位置づけて読み直すという意味で、確かに読者に新たな視点を与えてくれるものだと思う。読者も一度、ここで挙げた「舞姫」論と、ベルリンの地図を手に「舞姫」を読み直してみてほしい。今まで知らなかったベルリンや「舞姫」の小説世界が発見できるはずだ。

ヴォンデさんの退職


 さて、私がベルリンを訪ねるときに必ずといっていいほど足を留め、現在、鷗外とベルリンの繋がりを最もはっきりと体現しているのが、ベルリン森鷗外記念館である。ベルリン中心街ミッテ区のルイーゼン通り、ビルの側面に書かれた「鷗外」の2文字が目印だ【図1】。まだこの建物の建つ場所が東ベルリンだった1984年、鷗外が初めてベルリンに到着して100年の時に開館。以来、鷗外という一作家を記念するのみならず、日本研究、また、日本文化紹介の拠点として大きな役割を果たしてきた。ベルリン森鷗外記念館について、特にその日本研究の場としての機能については、この連載の前身のコラムの最終回でも書いた★6

 
【図1】2020年1月、夜のベルリン森鷗外記念館。側壁に「鷗外」の文字が書かれている 撮影=河野至恩

 
 ベルリン森鷗外記念館の副館長で、開館当初より学芸員として献身的に勤めてきたベアーテ・ヴォンデさんが、2020年の春に定年退職した。私が前回ベルリンに滞在した2020年1月、ちょうどヴォンデさんが手がけた最後の展示、書家の吉見松香氏の特別展のオープニングに、妻と4歳になったばかりの息子とともに記念館を訪れることができた。

 息子はこの場所の意味をまだわかっていなかったが、吉見氏の書の実演を間近に眺めて、それに触発されてか、記念館のゲストブックに自分の名前を筆で大胆に書いていた。ヴォンデさんは、「今日一番の小さなお客様」といって迎えてくれた。いっぽう妻は、展示されていた、鷗外が娘達にあてて書いた手紙を感心しながら読んでいた。ヴォンデさんが記念館で勤めている間に、こうして家族で森鷗外記念館を訪ねることができたのは良い思い出になったと思う。このオープニングの後、世界をコロナ禍が覆い始め、世界中でロックダウンあるいは大幅な行動制限が敷かれた。ベルリンも例外ではなく、森鷗外記念館もこの特別展の後、長期間の閉館を余儀なくされることとなった。

 今月、鷗外没後100年を機に、ドイツの日本語雑誌『ドイツニュースダイジェスト』にヴォンデさんの長編インタビュー記事が掲載された★7。聞き手はベルリン在住のライター、中村真人氏。ヴォンデ氏がベルリン・フンボルト大学の学生時代に日本語を学んだ時代から、早稲田大学で日本の演劇を学んだこと、フンボルト大学の日本学教授ユルゲン・ベルント氏のもとでの森鷗外記念館の開館、そして記念館を通し、鷗外の多様な業績を学び、人々と出会った歴史が語られている。「舞姫」の時代のベルリンの街並みを語るヴォンデさんの言葉に、ベルリンという街に根ざし、ベルリンとともに歩んできたヴォンデさんの歩みがにじんでいる。
 海外で日本人文学者を記念した数少ない文学館であるこの記念館も、経済的な困難に直面し、継続が危ぶまれることもあったと聞いている。しかし関係者の日々の努力もあり、記念館は現在も存続している。ヴォンデさんのような人々がこうした貴重な場を支えていることは、日本の人々にももっと知られてもいいと思っている。

 ヴォンデさんの退職後、記念館では館長のハロルド・ザロモン氏のもと、スタッフも刷新された。コロナ禍の閉館を経て、2022年の夏現在、その活動を再開している。今月のフンボルト大学での鷗外没後100年記念式典をはじめとして、今年はレクチャーシリーズも企画されている。記念館も新たな歩みを始めた。今回の滞在でも、記念館を訪れ、退任したヴォンデさんにもお目にかかることになるだろう。

   鷗外作品は、現在から未来に向かって、読者に何を語りかけ、どのような意義をもつのか。今回のベルリンでの講演で私は「多言語で考える人、森鷗外」というテーマで語るが、その問いにも私なりにも答えられれば、と思っている。その内容については、次回に語りたい。
次回は2022年9月配信の『ゲンロンβ77』に掲載予定です。

 


★1 ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の課題」、三ツ木道夫編訳『思想としての翻訳』、白水社、2008年、190頁。
★2 佐藤春夫「森鷗外のロマンティシズム」、『森鷗外全集 別巻』、筑摩書房、1971年、29頁。
★3 国語教科書のなかでの「舞姫」の位置づけについては、2019年に日本近代文学館の展示企画「教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅲ──森鷗外「舞姫」とその時代」で特集された。その内容は、日本近代文学会編『教科書と近代文学──「羅生門」「山月記」「舞姫」「こころ」の世界』(秀明大学出版会、2021年)にまとめられている。
★4 Maeda, Ai. Text and the City: Essays on Japanese Modernity. Edited and with an introduction by James A. Fujii. Durham: Duke University Press, 2004.
★5 美留町義雄『鷗外のベルリン──交通・衛生・メディア』、水声社、2010年。
★6 河野至恩「ライプツィヒから〈世界〉を見る(最終回)──『ベルリン森鷗外記念館』と『ドイツ語落語』」、『ゲンロン通信 #13』、2014年、123-126頁。現在は「webゲンロン」で閲覧できる。URL=https://webgenron.com/articles/ge013_11/
★7 「ドイツに足跡を残した森鴎外」、「ドイツニュースダイジェスト」、2022年。URL=http://www.newsdigest.de/newsde/features/13038-ogai/
 

河野至恩

1972年生まれ。上智大学国際教養学部国際教養学科教授。専門は比較文学・日本近代文学。著書に『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書、2014年)、共編著に『日本文学の翻訳と流通』(勉誠出版、2018年)。
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