愛について──符合の現代文化論(10) 性的流動性、あるいはキャラクターの自由|さやわか

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初出:2021年8月30日刊行『ゲンロンβ64』
 前回までの内容を振り返ろう。ゼロ年代前半に、一部の論者はネット掲示板「2ちゃんねる」におけるコミュニケーションを、既存の社会システムが強制する記号と意味の符合から逃れようとする「シンボリックな挑戦」として注目した。

 しかしそうしたコミュニケーションは、やがて内輪の仲間で流通する符合に固執するようになっていった。内輪のコミュニケーションに耽溺する人々はコミュニティ外部に対し暴力的になっていき、ステレオタイプな人種差別や性差別すら行うようになる。既存の社会システムから逃れたように見えても、従来の社会と大差ない暴力性へと行き着いたのだ。符合から逃れようとしても、私たちは結局、従来の形であれ、別の形であれ、記号と意味を一対一で対応させはじめ、それに固執してしまう。その結びつきは恣意的なのだからこだわる必要がない、とは、なかなか考えることができない。

 今日のポップカルチャーの中に、私たちがそうした拘泥から逃れ得るヒントを探すことはできないだろうか。

 



 昨今のポップカルチャーには、LGBT、つまり性の多様性を意識した作品が多く見られるようになった。男女問わず一般層の鑑賞するサブカルチャー作品に、LGBT的な要素が盛り込まれていることが増えている。

 たとえば2010年からイギリスのBBCで放映されている人気ドラマ『SHERLOCK/シャーロック』には、ブロマンス(男性同士の非常に親密な友情関係)あるいはゲイの恋愛感情を描写したように見られるシーンが数多くある。視聴者はこの路線をおおむね歓迎しており、登場人物をゲイとして描いたファンフィクションも豊富だ。ドラマ制作サイドにも、そうした二次創作の多さは知れ渡っている。

 また日本のテレビドラマ『おっさんずラブ』(テレビ朝日、2016年)は、タイトル通り中年男性同士の恋愛を描く内容で、女性視聴者を中心にブームを巻き起こした。映画や続編が制作されるなど、人気は今にいたるまで続いている。

 LGBTと関連するコンテンツでは、女性同士の恋愛を描いた、いわゆる「百合」系作品の人気も根強い。ブームはジャンルを越えて広がっており、たとえば『S-Fマガジン』(早川書房)なども2019年2月号で百合特集を組み、大きな反響を呼んだ。この号は発売前に重版がかかるなど売り上げが好調だったため、同誌は2年後にも「百合特集2021」なる特集号を刊行している。
 ただ日本では、こうした傾向は必ずしも今に始まったことではない。日本のポップカルチャーでは、特に女性向けの漫画や小説において、男性の同性愛を情熱的なラブストーリーとして描く作品が根強く人気を博していた。この連載でも、男性同性愛者が登場する作品として大島弓子の漫画『バナナブレッドのプディング』などを取り上げたことがあるが、近年とりわけよく知られているのは、いわゆるBL(ボーイズラブ)と呼ばれるジャンルだろう。BLは、以前ならコアなファン向け、そして女性向けの印象が強かったが、『おっさんずラブ』などの例に見られるように、最近では支持層に広がりが出てきている。

「男はこうあるべきだ」「女はこうあるべきだ」というジェンダー規範は、記号と意味に一対一の符合を強く求めるものだ。LGBTを描いたポップカルチャー作品は、この規範から逃れるもの、すなわち分かちがたい符合を攪乱する進歩的なもののように思われる。では日本のBLをはじめ、LGBTを描いたポップカルチャーを、十把一絡げに歓迎すべきだろうか。

 たしかにそのような文脈で賞賛される作品は多い。だがLGBT的な恋愛を描いているならすべてが肯定されるとは、言うべきではない。そのような安易な姿勢は、個々の作品がジェンダー規範、すなわち記号と意味の符合に対してどのような態度を取っているかということを見えなくするからだ。

 



 実際、ポップカルチャーが多様な性を描いても、それらは必ずしも性の多様性を推していない、それどころか場合によっては旧来的なジェンダー観に基づくことすらある。たとえば溝口彰子は『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(太田出版、2015年)の中で、90年代のBL作品に典型的な内容として、メインキャラクターが多く異性愛者であり(少なくとも作中でそう語り)、にもかかわらず男性を恋愛対象とするという半ば矛盾した設定を挙げ、以下のように述べている。


 BL作品には、前述したノンケ宣言と同じくらい、「一緒に行こう。生きてゆける限り」といった「永遠の愛」を誓うセリフが多い。主人公たちは心身ともに完璧におたがいに夢中で、他の人間は性別を問わず性愛の対象として目に入らない。その意味においては、たしかにゲイではない。それどころか、ノンケですらない。彼らは、「ふたりだけの究極のカップル神話」のなかの住人であり、セクシュアリティは神話の内部で自己完結している。したがって、ここでの「ノンケ」の意味は、積極的な異性愛指向ではなく、異性愛規範ヘテロノーマティヴ社会における「ノーマルな」女性読者(と作者。以下同様)のファンタジーの演じ手たる資格としての「ノーマル性」だと設定されていると読むべきだろう。それゆえに、主人公たちのセックス・ライフとセクシュアル・アイデンティティの矛盾は、矛盾と認識されないのだ。
[中略]
 むろん、ここにも内面化されたホモフォビアが機能している。対外的な性欲という意味ではゲイでもノンケでもない神話の住人の主人公たちが、それでも「ゲイでない」と表明するということは、ファンタジーのなかですら、ゲイに自分を投影したくないという読者の意識を反映しているからである。★1
 さらに溝口は、こうしたBL作品に描かれるカップルは従来的な「男性的」「女性的」な容姿や性役割を追認する形で描かれ、時にその非対称的な関係を受け継いだ性暴力や権力が行使されていると指摘する。つまりこうした作品は、旧来的なジェンダー観に屈するものだというのだ。

 要するにこういうことだ。「ノーマルな」女性読者にとって、ヘテロセクシャルな恋愛物語は家父長制や異性愛を規範とする社会からの抑圧を想起させやすい。それらから逃れて恋愛や性の物語を快適に楽しむファンタジーとして、BL作品は求められている。しかし作品の内容面においては、現実的なゲイはむしろ作品から排除され、また女性読者たちが内面化している異性愛規範も、温存ないしは強化される。

 もっとも、このような作品が支配的だったのはあくまで90年代のことである。同書によれば、2000年代以降、BLにはミソジニーやホモフォビア、異性愛規範などに進歩的な考えを見せる「進化形」の作品が見られるようになった。しかし溝口の「現在ではBLが進化形作品を一定数生産するジャンルへと、ジャンル全体が少しずつ成長した」との控えめな記述からは、前述のような「発展途上の」BLも、いまだ根強く存在しているものと理解できる。

 溝口も示唆していることだが、そうした作品がBLに多い原因は、単にジャンルやその読者が未熟なことには求められないだろう。むしろ、旧来的なジェンダー規範が、いまだ日本社会に根強いことの率直な反映だと捉えるべきである。ゆえに、私たちはこれを社会全体の問題として考えねばならない。だからこそ溝口は「進化」したBL作品が社会の意識を変える糸口になるべきだと考え、前掲書に「ボーイズラブが社会を動かす」という副題を与えているのだろう。

 



 つまりBLもまた、筆者がこれまで他のジャンルについて指摘したのと同じ問題を抱えていると言える。古いジェンダー観、すなわち記号と意味の強固な結びつきを逃れたものとして男性カップルを描こうとしつつも、結果的に従来的な規範意識や偏見の助長に収まってしまう。そのさまは、前回取り上げた2ちゃんねるの「シンボリックな挑戦」が、仲間内でのあけすけな人種差別につながった姿に重なって見える。また前々回で、堀井憲一郎や本田透らが、マスメディアの押しつける「恋愛至上主義」や「クリスマス・ファシズム」に抵抗する流れの延長線上で、偏見に基づいて女性を評した例も思い起させる。

 固有の人格として認められず、記号的に断定される「キャラクター化の暴力」を逃れようとする人々が、自分たち以外に対しては安易にキャラクター化の暴力を行使してしまう。私たちがその連鎖から逃れることができないのは、日本ではいまだに旧来的な価値観が支配的で、そうした考えが私たち自身にも強く内面化されているせいだとは言える。ただ、欧米圏のコンテンツがキャラクター化の暴力に堕することがないかと言えば、必ずしもそうとは言えない。

 前述のように、近年ではサブカルチャー作品でLGBT的な描写がなされることが多くなった。欧米諸国では、その傾向が日本よりいっそう強い。それはポリティカル・コレクトネスへの意識の高さや、性の多様性を尊重しようとする意思の表れかもしれない。しかし一方で、コンテンツに氾濫するLGBT的な人物や表現を、当のセクシャル・マイノリティたちが安易なレッテル貼りと感じる例も増えている。

 たとえば2018年よりネットフリックスで配信されているリアリティ番組『クィア・アイ』★2は、各分野のエキスパートである5人のゲイ男性が「ファブ・ファイブ」というチーム名を名乗り、依頼人の衣服や食生活、住居などをプロデュースする内容だ。依頼人はファブ・ファイブの言われるままに環境を変えた結果、生活が改善されるのみならず、心が癒され、固定観念から解放され、周囲との人間関係すら好転する。番組はその質の高さが認められ、放映開始以来、毎年エミー賞を受賞している。

 しかし右記のようなファブ・ファイブの優れたアテンドは、メンバーが「ゲイだからこそ」独創性に富んでいるかのように描かれている。センスが優れているのも「ゲイらしさ」だし、人生について柔軟な考え方ができるのも「ゲイだから」というわけだ。つまりこの番組はファブ・ファイブのメンバーが「ゲイであること」や「ゲイらしさ」を売りにしていると言っていい。肯定的ではあるものの、そこにはやはり「ゲイ」を一面的に捉えようとする、キャラクター化の暴力が透けて見えるのだ。

 実際、自らがことさらに「ゲイ」として見られ、定型で語られることについて、異論を唱えた出演者も存在する。たとえばアントニ・ポロウスキは2018年、番組の第2シリーズが開始されるタイミングで受けた雑誌のインタビューで次のように答えている。

 僕はいつも、自分はもう少し、あちらこちらと流動的だと思ってきました。それでバイセクシャルとまで言われたり……。20代前半の頃は「けど、バイセクシャルって、女の子か男しか好きになれないってことでしょ? 他のものを好きになったらどうする?」って感じだったのを覚えています。それは僕の反抗的な性格のせいかもしれません。僕は僕、僕はアントニ、それがすべてなんです。自分を定義したい人もいるでしょう。そうすることが自分のアイデンティティの一部ならば、そうすべきだと思います。僕個人としては、自分にレッテルを貼ったことはないです。今日、僕はゲイであり、ゲイの関係にあり、そこが僕の居場所です。それで十分です。★3


 アントニは2019年にテレビ出演した際にも、交際経験は女性のほうが多いと強調して語った。これらの言葉から窺えるのは、自分の性をゲイに限らず、一定のものとして語るのを避ける意識だ。

 同じくファブ・ファイブのメンバーであるジョナサン・ヴァン・ネスが2019年に雑誌のインタビューに答えた言葉では、その意識が、さらにはっきりと表れている。


 私はとにかく異性装者のようだったり、ノンコンフォーミング[引用者注:性に関する旧来の固定観念に合致しない人を指す]のようだったり、時には男の子みたいな気がしたり、女の子みたいに思う時もあります。私はノンコンフォーミングやジェンダークィア[性別二元論の範疇にない性的アイデンティティ全般を表す言葉]やノンバイナリー[性自認を男女という枠組みで捉えない態度]でいることが許されると知らなかったんです。だから私は、ただいつも「ゲイの男」みたいにしていました。そうでなければならないと思っていたレッテルだから。
──ノンバイナリーであるというレッテルを、最近になって付けたのですか?
 いや、そうじゃない。私は単にその名前が何なのかを知らなかったんです。ヒールを履いたり、化粧をしたり、スカートやなんかを履いたりはしてたのよ。ただ、それが何を意味するのか、私に肩書きがあると知らなかった。
[中略]
──女性らしさとは、すべての人がトライしてみるべきものだと思いますか?
 私は、誰もが女性らしさを持っていると思うし、男性らしさも持っていると思います。だけどそれはこういうことだとも思うんです。力強さなら力強さ、気まぐれなら気まぐれ、下品なら下品、誰もが、すべてを持っているんじゃないかって。「ナマステ」という言葉のように、私たちはみんな、自分の中にすべてを持っているんじゃないでしょうか?★4
 これらのカミングアウトが興味深いのは、レッテル貼りを避ける態度を取る一方で、ノンコンフォーミングやノンバイナリーなど、積極的に自らの立場を名称によって説明していることだ。

 これは特に、ジョナサンの談話に顕著だ。しかしアントニも「自分にレッテルを貼ったことがない」としつつ、「流動的」という言い方で、自らが男でなく、女でなく、ずっとゲイであるわけでもない、いずれとも異なる性的アイデンティティだと強く主張している。性的流動性を重視して自らのアイデンティティを語ろうとしているのだ。

 最近では、自分が男女二元論に基づかない性的アイデンティティを持つことを、インターネット上で公表する例が増加している。日本でも、2021年に歌手の宇多田ヒカルがインスタライブで自らのセクシャリティをノンバイナリーであると公表した。

 なぜ彼らはインターネット上で性的アイデンティティを語るのだろうか。荒木生は次のように記す。


 社会におけるロールモデルやレプレゼンテーションの欠如により、自身のアイデンティティを肯定的に受け止められなかったり、自身のアイデンティティがわからなかったりすることで、既存のステレオタイプとのズレに苦しむ確率や、アイデンティティを理由に迫害を受ける確率は飛躍的に上がる。自身に合った、自分が反映されていると思える名称を、同じ感覚や違和を持つ者同士で議論しながら「名付け」、そしてそれを「名乗る」ことは、アイデンティティ獲得の実践なのである。
 性的マイノリティ当事者たち、とくに若い世代を中心に、こうした新しい概念が浸透しはじめており、日本国内でも言葉が作られている(Xジェンダー、ノンセクシュアルなど)。★5


 この文章は性的マイノリティが「名付け」を細分化させた背景を語るものとして説得力がある。ただインターネット上での「名付け」の多くが性的流動性を強調する理由は教えてくれない。「名付け」がアイデンティティを安定させるのだとして、なぜことさら、自分の性が流動的だという宣言がされるのだろうか。

 性的流動性が注目されていることについては、1940年代から50年代にかけて、アメリカ人の性について大規模な調査を行った報告書「キンゼイ・レポート」で有名な、アルフレッド・キンゼイの説を援用して説明付ける者もいる。つまり、もともと人間の性的指向は別個のものではなく、グラデーション的に連続しているがゆえに、移ろいやすいというわけだ。

 しかしキンゼイ・レポートは調査方法の不備も指摘されており、科学的妥当性に欠けるところがある。また、もしその仮説が正しいとしても、流動的な性を主張する者がいまこの時期にインターネットで多く見られるようになった理由の説明にはならないだろう。

 



 そこで、荒木の説を、インターネットアーキテクチャの技術発展と照らし合わせる形で修正してみたい。

 荒木は、右に引用した論文の中で、性的マイノリティたちが自分たちの「名乗り」を広く共有することができたのは、2000年代以降にインターネットが普及し、さらに2010年代以降にSNSが流行したためだとしている。

 しかし、今日主流になっている形式を備えたSNSが現れたのは、控えめに言ってもゼロ年代半ばまで遡れる。たとえばTwitterの設立は2006年である。Twitter以前だと、MySpaceが2003年に、その翌年にはFacebookが登場している。日本で一時代を築いたSNSであるmixiも同じく2004年に誕生した。

 ゼロ年代半ばと言えば、「ウェブ2.0」を合言葉にして、ウェブ上のありとあらゆる領域でアーキテクチャの大転換が行われた時代だ。SNSの台頭は、この動きと深く関係している。

 ウェブ2.0はバズワードとなって一般に広まったので、聞いたことがある人は多いだろう。しかし、技術的な観点から、それが人々の何を変えたのか語る人は、意外に少ないはずだ。

 技術的には、ウェブ2.0とは、動的かつ双方向的なウェブ技術だと説明されることが多い。それまでのウェブページは、文字データや画像ファイルの配置が固定された、すなわち静的なものとして記述され、そのデータはサーバからユーザーに対して一方的に提供されるのが一般的だった。これに対してウェブ2.0では、表示のたびにウェブ内のあちこちからデータが収集され、ページが動的に、つまり都度的で機会的なものとして生成される。

 ここで重要なのは、その動的なウェブページ生成には、個々のユーザーが関わっていることだ。つまり、どんなユーザーがいつそのウェブサイトに接続し、どのような操作を行ったかによってページが変化する。換言すれば、ウェブ2.0以降は、ウェブサイトに関与するユーザーが何者であるかが、ページ生成のパラメータのひとつになったのだ。

 SNSとは、この仕組みを、コンテンツ自体にまで敷衍したものだと言える。ページを見ている自分はもちろん、他のユーザーがどのような人間であり、どんな投稿を行い、それ以外のウェブサイトに対してどんな操作を行っているかで、コンテンツがそれぞれのユーザーごとに個別のものとして、リアルタイムに出力される。具体的には、「誰をフォローするか」の取捨選択によって、自分の目にする情報をコントロールする、SNSではおなじみの仕組みを考えるとわかりやすいだろう。

 その結果、ユーザー側から見ると、インターネットの情報は以前に比べてはるかに属人的なものになった。要するに「どんな情報であるか」よりも、「誰が言っているか」がより重視される世界になったのだ。かつてのインターネットユーザーは、立場の違う者同士が対等に議論を交わし、「誰が言ったかでなく、何を言っているか」で物事を判断することを美徳として語ったが、そうした理想はこの時期に終わった。
 ユーザー自身が、動的なページ生成のパラメータのひとつであることで、人々はどのような行動を取るようになるか。ファブ・ファイブのアントニが、インタビューで自分を「定義」する、と述べていたことを思い出そう。ウェブ2.0以降の時代には、サイトを記述する言語として、かつて主流だったHTML以上に、XMLがよく使われるようになった。この言語は、簡単に言うと、ページに表示する要素を意味や内容に応じて定義することができ、サイト表示のたびに必要な要素を読み込みながら、動的なページ生成を行える点に特徴がある。つまりウェブ2.0以降、かつてよりもウェブアーキテクチャは定義を重視するようになったと言える。

 それになぞらえていえば、、ユーザーがSNS上で自らのアイデンティティを積極的に「定義」することは、まさにウェブ2.0以降のアーキテクチャと同じく、各人が、何者として、どのような記号に自らを委ねてコンテンツの一部となるかを動的に決定してウェブサイトに関与する行為だと言える。

 実際にそのように積極的に自身を「定義」しながらSNSを楽しみ尽くそうとするユーザーは、いま多数存在する。彼らが自らに貼るレッテルには「保守」「リベラル」など政治的イデオロギーにまつわるものもあれば、「陰キャ」「パリピ」「ギャル」など若者文化と関わりが深いものもある。前回紹介した「オタク」や「負け犬」などもその一種と言っていいだろう。彼らは自らレッテルを引き受け、「そのような人間としての言動」をウェブ上で他のユーザーに見せようとする。

 性的マイノリティもこうした「定義」を行ってSNSで人々と交流し、アイデンティティを安定させることはあるだろう。しかし性的マイノリティたちの場合もともとアイデンティティの強制やステロタイプへの当てはめに違和感を覚えている場合が多いので、自らが特定のレッテルと符合させられることを忌避する傾向にある。だからこそ、彼らのウェブでの「名乗り」は、しばしば性的流動性を表明するものになるのだ。

 そして実は、そうした性的マイノリティたちのあり方は、ウェブ2.0の特徴である都度的かつ機会的なページ生成の仕組みと親和性が高い。彼らはまさに自らの性を、さまざまに代入可能な、流動的なものとして定義し、参加するコミュニティの状況や、関係を築く相手に応じて、機会的にこれを切り替えようとしているのである。

 



 筆者は、ネット時代に増えた性的流動性を主張する性的マイノリティたちに、「キャラクター化の暴力」を拒絶する、控えめだが明確な抵抗の姿勢を感じ取る。LGBTについての議論は、当事者性が重視されがちだ。しかしその結果、当事者以外には無関係なことと捉えられ、問題意識が共有されないことも多い。だが、社会全体として彼らの立場を前向きに認めることは、キャラクター化の暴力が蔓延する社会を変革する契機になるのではないか。

 ただし、ここにはいくつも議論の余地がある。

 たとえば性的流動性そのものへの疑義がある。現在の科学的知見では、性的指向はそれほど簡単に、次から次へと選択可能だとは考えられていない。

 また、性的流動性を重んじる立場は、性差を記号的に捉えようとするあまり、生物学的な性差(=セックス)を度外視しているという批判を受けがちだ。どんな性的指向も記号的に取り替え可能だというなら、そもそも性的指向というもの自体が成立不可能になるのではないかという疑問もある。

 これらの批判に応えるためには、フェミニズムの議論を参照することが役立つ。ポスト構造主義の影響を受けた1990年代のラディカルなフェミニズム研究にも、じつは同種の批判が数多く寄せられた。簡単に言えば、ポスト構造主義的フェミニズムは性差をすべて相対化し、無効化しようとしている、という批判である。

 そうした状況で社会学者アンソニー・ギデンズは、ポスト構造主義的フェミニズムのアプローチをおおむね否定しつつ、しかし性的アイデンティティの選択可能性については支持する立場を取った。


 ポスト構造主義者の考え方によれば、どのようなことがらにも本質なるものは何も存在せず、すべてのものごとは記号表現(シニフィアン)の浮遊のなかで組成されている。こうした見地は、フェミニズムによるフロイト理論との論争やフロイト理論の利用を通じて歪められていくものの、「本質主義」批判として表明されていった。かりに意味が、そうではないものによってつねに否定的に定義づけされていくのであれば、「性的アイデンティティ」や、もっと一般的には「自己のアイデンティティ」という言い方は、名称の付け間違いである。
[中略]
「本質主義」批判は、少なくとも私見によれば、見当違いの言語理論にもとづいている。確かに、意味は、差異によって定義づけができる。しかし、意味は、記号表現の果てしない浮遊のなかではなく、使用習慣という実際的な脈絡のなかで定義づけがなされていくのである。言語のコンテキスト依存性を承認すると、アイデンティティの連続性が消失してしまうなどということは、論理的に考えても絶対にありえない。「本質主義」の提起する疑問は、自己のアイデンティティがいかに空虚で、断片的なものであるかという点や、男性と女性を区別しがちな包括的特質がどの程度まで存在するのかという経験論的争点を除いては、人を欺くものなのである。
[中略]
それでも、[ポスト構造主義的な]ラカン派フェミニズム理論が強調する論点のなかには──とりわけ性的アイデンティティが断片的な矛盾した性質のものである点の強調のように──銘記しておくべきものもある。ひとたびポスト構造主義という眼鏡をかなぐり捨ててしまえば、対象関係学派の視座のなかで、こうした強調点を支持していくことは可能なのである。★6
 ここでギデンズはまず、性差が本質的には存在しないとする、ポスト構造主義的フェミニズムの主張を退けている。仮に性差が空虚なものであったとしても、つまりそれが記号にすぎなかったとしても、その性別(セックスあるいはジェンダー)を得た者のアイデンティティとして、たしかな連続性を持つからだ。つまり彼は、性差をすべて度外視しようとするラディカルな言説を否定すると同時に、性差は自明なものであるとするフェミニズムへの批判をも牽制している。

 この主張が好ましいのは、変化しうるものとしての性的アイデンティティの連続性を認めているからである。彼は、アイデンティティが空虚で断片的なものだと認めている。ゆえに彼は、人は「男」「女」などの記号と一対一で符合されるべきでないとの立場を取る。しかしギデンズは、同様に、ゲイやレズビアンなどについても、不変のアイデンティティだとは考えていないわけだ。性的アイデンティティは、実際の社会生活の中で定義づけられていく。この言い方でギデンズは、性的流動性を主張する立場を認め、それもまた性的アイデンティティとしてあり得ると示唆している。

 たしかに現在、科学的に見て性的指向は簡単に変更できるわけではないかもしれない。しかし少なくとも人間は、自分を将来的に変化しうる者として語ることができる。そして、実際に変わってしまっても構わない。将来どうなろうと、自らにアイデンティティの連続性は残されるのだ。

 



 記号の意味が、連続的な使用の中で文脈的に見出されていくという主張は、この連載で以前触れた、テプフェールと東浩紀のキャラクター論を思い出させる。新たな意味を付け加えられ、全く違ったものに変化しながら、しかし履歴を持ち、連続したものとして描かれ続ける。このキャラクターの本質は、流動性と連続性を備えた、SNS時代の性的アイデンティティのあり方に重なっている。

 ゆえに性的流動性の自由を認めることは、キャラクターとしての自由を求めることにつながっている。すべての人間が、あらゆるものに変化でき、かつ履歴を持った、正しい意味での「キャラクター」に、すなわち自由なキャラクターになれる。それが、記号の意味が短絡的に理解される「キャラクター化の暴力」を打破する、「キャラクターの自由」のある社会なのだ。

 ただ私たちが、ここで男女二元論に基づかない性的アイデンティティに進歩的な社会の可能性を見ることには、もうひとつ重要な議論の余地が残されている。端的に言って、それは将来、果たしてどのような社会につながっていくのかという疑問である。より具体的に言えば、そうしたアイデンティティを主張する者の増加は、近年言われるような意味で伝統的な社会の崩壊を招くのか。あるいは少子化に拍車をかけて、人類の衰退にすらつながるのか。

 ここで考えねばならないのは、新たな家族像についてである。筆者はそれが、性的マイノリティへの議論を超えて、政治的なものをはじめとした、今日あらゆる分野に見られる人々の衝突について考えることにつながると感じる。人々が頑なでなく、流動的なアイデンティティを獲得し、他者と関係を結び、共存すること。そのような新たな社会はいかに築くことができるか。

 ポップカルチャーを道標にし、愛について述べてきたこの連載は、いよいよ、それについて考えることになる。

次回は2021年10月配信の『ゲンロンβ66』に掲載予定です。

 

★1 溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』、太田出版、2015年。電子版より引用。
★2 原典はアメリカのケーブルテレビチャンネルBravoで2003年から2007年にかけて放映された番組。Netflixで配信されているのは、そのリブート版である。
★3 「GAY TIMES MAY 2018・ANTONI POROWSKI」、『GAY TIMES Magazine』より訳出。2021年8月19日閲覧。 URL= https://www.gaytimes.co.uk/culture/queer-eye-antoni-discusses-sexuality-ive-always-considered-myself-a-little-more-fluid/
★4 「ナマステ」はインドやネパールで挨拶に使われる言葉で、これ1語で「おはよう」「こんにちは」「こんばんわ」などを兼ね、さらには「さようなら」も意味することができる。「'Queer Eye's Jonathan Van Ness: "I'm Nonbinary"」、『Out magazine』より訳出。2021年8月19日閲覧。 URL= https://www.out.com/lifestyle/2019/6/10/queer-eyes-jonathan-van-ness-im-nonbinary
★5 荒木生「インターネット時代における性的マイノリティの『名乗り』と『名付け』」、『常民文化』第44号、成城大学大学院、2021年、18頁。
★6 アンソニー・ギデンズ『親密性の変容 近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』、而立書房、1995年、170-173頁。
 

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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