「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために」 ──ガザをワルシャワになぞらえること(前篇)|中井杏奈

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webゲンロン 2024年10月16日配信

 回想録ともエッセーともつかぬこの文章は、中東欧現代史を専門とするわたしという人間が、ガザでの出来事を、パレスチナを襲う暴力を、考える立ち位置を確認するために書いている。そのなかで、ポーランドという国の歴史、特に研究者としての自分にとって決定的な影響をもったワルシャワという街での暮らし(2009-2012年)とそのワルシャワでの第二次世界大戦中の2つの蜂起の記憶が語られる。また、ポーランドに至る途上にあった「旧約(旧い約束)」の地であるイスラエルとの邂逅についても併せて詳述する。つまり、これは、個人的な経験を通して歴史を理解する、ひとつの道筋を示すものである。その補助線として登場するのは「歴史の外側」に蜂起を置く論を残したミシェル・フーコーの言葉と、歴史の内側での「なぞらえ」を訴えたロシア出身のジャーナリストであるマーシャ・ゲッセンの言葉である。ガザとワルシャワ、中東と中東欧という、関係が容易には見えにくいその二つの土地を架橋し、歴史を複雑さとともに理解する忍耐をもちながら、読者とともに考えるひとつの材料となることを願う。

主は手を伸ばして、わたしの口に触れ 主はわたしに言われた。
「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。
見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために。」
エレミヤ書 1章 9-10節(新共同訳聖書)
 

ワルシャワが見た二つの蜂起

 1939年9月1日早朝、バルト海に面する自由都市ダンツィヒ。海辺に配備されたポーランド軍の部隊に向けて、ナチス・ドイツの戦艦が宣戦布告もなしに発砲した。これが、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の始まりだった。すぐにポーランドの首都ワルシャワ上空にも戦闘機が到達し、激しい空爆が始まった。包囲網が敷かれ、9月末にはワルシャワが陥落した。

写真1 第二次世界大戦の最初の発砲が行われたヴェステルプラッテ(ポーランド・グダンスク市)(2022年筆者撮影)

 こうしてポーランドはナチス・ドイツの占領下に置かれ、ワルシャワを含む東部地域にはポーランド総督府が設置された。総督府は、領内の住民をドイツ人のために徹底的に使役した。ユダヤ系人口の多かった都市では、ゲットー建設によるユダヤ人の隔離が進んだ。ワルシャワでは、ユダヤ系市民が居住していた地域が「衛生管理」の名目で壁で囲まれ、それによってヨーロッパ最大のゲットーができあがった。

 当時のワルシャワ市の人口はおよそ130万人で、そのうち約40万人がユダヤ系のひとびとだったと言われている。ここであえて「ユダヤ系のひとびと」と書くのは、そのなかには宗教的にはカトリックなどに改宗しているひとも、ポーランド社会への同化が進みユダヤ人としての自己意識を強くもたない者もいたからだ。彼らを「ユダヤ人」と一括りに呼ぶのは簡単だが、それはワルシャワという街の文化と社会の3分の1を、暴力的にカテゴライズすることを意味していた。

 

 1943年と1944年のそれぞれの年に、そのワルシャワという街で、2つの武装蜂起が起こった。

 まずひとつ目の蜂起は1943年4月に起こった「ワルシャワ・ゲットー蜂起(Warsaw Ghetto Uprising/Powstanie w getcie warszawskim)」だ。ナチス・ドイツ占領下にあったワルシャワのユダヤ人ゲットーで組織・実行された抵抗運動だ。同年の初め頃から、ゲットーから周辺地域の収容所へのユダヤ系住民の移送が本格化した。ゲットーに蔓延する過密と飢え、切迫した移送の噂と病気にただ耐え続けることも現実的ではなく、ユダヤ人戦闘組織を中心に、武装化の準備が進められた。

 ゲットーの狭い区画にどうにか持ち込めた武器の数と、そこに配備されていたドイツ側の親衛隊や警察部隊の装備を比べれば、ゲットー解放を目指す軍事作戦としての蜂起が絶望的なものであることは明らかだった。だが、トレブリンカやマイダネクといったワルシャワ近郊の絶滅収容所へと移送されていく隣人や友人の瞳を見つめながら[★1]、なにもしないということはおそらく死ぬよりも恐ろしいことだったのだろう。この「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と呼ばれる武装した市民行動は、ひと月のうちに鎮圧され、シナゴーグは焼かれ、ゲットーは解体された。

 次の蜂起が起こったのは、それから1年後の1944年8月1日。今年が2024年だから、ちょうど80年前のことだ。2つ目の武装蜂起は「ワルシャワ蜂起(Warsaw Uprising/Powstanie Warszawskie)」として現在も記憶されることになる。市民による占領からの解放を目指す、戦闘ののろしが上がった。ゲットーを焼き払ったのとまさに同じドイツの占領軍に対して、今度はワルシャワの市民たちが武器を取った。

 結論から言えば、この「ワルシャワ蜂起」が目指した「ワルシャワ市解放」も達成されなかった。第二次大戦の戦況が刻一刻と変化し、ソ連赤軍も東方から迫るなか、ロンドンのポーランド亡命政府を中心に組織されたポーランド国内軍は、これを最後の機会と見て自力での領土解放を目指したのだが、2か月に及ぶ激しい銃撃戦と空爆を経て、戦闘で2万人以上の犠牲を出しながらも、蜂起は鎮圧された。兵力の差はやはり埋め難かった。このレジスタンスに関わった何万というひとびとがさらに処刑された。

 そして、徹底的に破壊し尽くされた建物の瓦礫だけが、ワルシャワを覆った。

写真2 破壊されたワルシャワ(1945年) 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Castleinwarsaw1947.jpg Public Domain

 81年前の春と80年前の夏──ワルシャワが見たそれぞれの「蜂起」。それらはたしかに前後関係のもとに位置付けられる出来事だが、因果のもとに結ばれるものではない。ユダヤ人を支援し、壁の外側からゲットー蜂起支援に携わり、「哀れなクリスチャンがゲットーを見つめる」という詩を読んだのは、(のちにノーベル文学賞作家となる)詩人チェスワフ・ミウォシュだった[★2]。生まれとしてはポーランド人である彼は、しかし、その翌年のワルシャワ蜂起には参加しなかった。ミウォシュと異なり、ゲットー蜂起には無関心だったが、ワルシャワ蜂起には参加するポーランド人もいた。

 「ワルシャワ・ゲットー蜂起」はユダヤ系市民の抵抗であり、「ワルシャワ蜂起」はユダヤ系市民を含むワルシャワに生きるひとびとの抵抗だったが、後から立ち上がった者たちには、先に行かねばならなかった者たちへのうしろめたさもあれば、他に選択肢のない状況に立ち向かうヒロイズムのような感情もあった。ゲットーのひとびとは、その場で殺されるか絶滅収容所へ移送されたのに対し、大きな犠牲を払ったとはいえ、ワルシャワ蜂起では生き残って終戦を迎えたひとも少なくない。こうした複雑な事情から、第二次世界大戦の終結後も、それぞれの歴史は単純には並記されてこなかった。

歴史の外側

 毎年8月1日の夕方5時、低く唸るようなサイレンがワルシャワに響きわたる。前述の2つの蜂起のうち、1944年の「ワルシャワ蜂起」を記念するその音は、現在を生きるわたしたちを、80年前の、蜂起の開始地点へと連れ戻す。

 

 その忘れ難い音をわたしが初めて聴いたのは、2010年夏のことだった。2009年秋からワルシャワ大学政治学部の修士課程に在籍していた。その日は夏休みで、大学図書館へと向かう道のりで、サイレンが鳴り始めた。一瞬、なにが起こっているのか理解できず困惑したが、一緒にいた友人が「ワルシャワ蜂起の記念のサイレンだから、心配しなくていい」と声をかけてくれた。それを聞いて、ようやくあたりを落ち着いて見回してみた。

 そこには、おもむろに足を止め黙祷のポーズを取る青年や、後ろ手を組んでぼんやりと空を見上げる壮年の男性がいた。出来事の重み、歴史の連続性を想った。サイレンが鳴り止んだ後も、わたしはその場からすぐに歩き出すことができなかった。

 このように、「ワルシャワ蜂起」の記憶はワルシャワという街の日常に埋め込まれている。では、一方の「ゲットー蜂起」はどうだろう。たしかに、ゲットーの壁が存在した場所には、今でもその境界を示すプレートが地面に敷かれている。それは、ワルシャワ市の目抜き通り(マルシャウコフスカ通り)近くを走っているので、ちょっと注意深い歩行者なら見逃すことはない。ワルシャワはゲットーを完全に忘却してはいないが、それでもサイレンが蜂起を現在に喚起するのに対し、壁の境界は気づかなければ過去に葬り去られてしまう。

写真3 ゲットーの境界を示すワルシャワの地面プレート 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Upami%C4%99tnienie_muru_getta_PKiN.jpg CC BY-SA 3.0

 ぎこちない距離を保つ2つの蜂起をつなぐ言葉を発したのは、意外な人物だ。それは、フランスを代表する哲学者ミシェル・フーコーである。彼は、イラン革命に際して、民衆の抵抗の意味を問い直す「蜂起は無駄なのか?」と題された小文を記しているのだが、そのなかで、以下のような一文を残している。

ワルシャワでは、ゲットーは反抗し、下水道は蜂起する人々であふれかえってやむことがないだろう。また、立ちあがる人間はつまるところ、わけもなしに立ちあがる。一人の人間が「現実に」、服従していなければならないという確実性よりも死の危険の方がいいと思うには、歴史の糸を、歴史の理屈の長々とした連鎖を断ち切る分断が必要なのだ[★3]

 これだけを読むと非常にわかりづらい文章なのだが、最初の「ゲットー」の「反抗」を1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」として、つづく「下水道」にあふれかえるひとびとの「蜂起」を1944年の「ワルシャワ蜂起」として読むと、その要点が掴めるだろう(ここでは、巨匠アンジェイ・ワイダが「ワルシャワ蜂起」を描いた映画のタイトルが『地下水道』であることを想い起こす必要がある)。

 フーコーは2つの蜂起を難なく並列させる。それまで別々のナラティブのなかで引き裂かれてきたワルシャワにおける2つの抵抗の記憶を、彼はあざやかに結び付ける。ワルシャワという街を通して眺めたとき、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と「ワルシャワ蜂起」はたしかにひとつにつながっている。フーコーはこのことを、「蜂起」という現象への言及において、はっきり意識していたと考えられる。

 フーコーは書く──「蜂起は歴史に属している。しかしある意味では、蜂起は歴史を逃れるものだ」[★4]。蜂起の営為は、為政者たちが白々しくもつくりあげてきた「歴史」という牢獄の外側へと向かう大きな力となり、「絞首台と機関銃を前にして人々が立ちあがる瞬間の可能性」を開く。そして、その瞬間は「歴史の外」に位置しながら、歴史の一部となる。ひとりの人間が権力の前に平伏することなく対峙し、権力がたったひとりの人間の抵抗の可能性を憂うとき、垂直的な統治の原則は崩壊する。そのような意味において、ゲットー解体の結果を招いた「ワルシャワ・ゲットー蜂起」も、ワルシャワ市の徹底的な破壊に至った「ワルシャワ蜂起」も無駄ではなかった──フーコーの主張は、このようにして当時の革命(イラン革命)の分析へと移行する。

 

 実は、「蜂起は無駄なのか?」を記す20年ほど前、1958年から1年に満たない短い間、フランス大使館付きの文化アタッシェとして、フーコーはワルシャワに住んでいたことがある。蜂起の記憶がまだ完全に癒えきらないその街で、フランス大使館と交流のあったポーランドの文化人や作家たちから、両方の蜂起について、それぞれたくさんの話を聞いていたのは間違いない。戦後すぐに再建された通りやいくつかの新しい大型建築を除けば、50年代後半も、ワルシャワには第二次大戦時の破壊の爪痕がそこかしこに見られた。フーコーは、まだ街中に残る倒壊しそうな建物をどのような気持ちで眺めていたのだろうか。

 同時に、フーコーという圧倒的な知性が、記憶の断片を紛れ込ませるかのように後世に残した蜂起の意味についての一文は(その文章は全体から見てもやや浮いていると言わざるを得ない)、ポーランド現代史を学ぶ人間のひとりであるわたしという人間を、悩ませ続けてきた。それは「一人の人間が「現実に」、服従していなければならないという確実性よりも死の危険の方がいいと思うには、歴史の糸を、歴史の理屈の長々とした連鎖を断ち切る分断が必要」[★5]だという物言いが、ヒロイックな犠牲を正当化する、不穏な物言いだからだ。蜂起のヒロイズムを無条件に肯定してしまうとしたら、それはあまりにも短絡的なのではないか、という疑問をもたずにはいられない。

 なにより、蜂起という行動を「歴史の外」に置くこと──「わけもなしに立ちあがる」個人を歴史的連関から切り離し、歴史とは異なる英雄的神話の次元に位置付けること──は、人間の理性と知のあり様を、大きく毀損するような思考に他ならないのではないか。アナーキズムの肯定ならまだしも、これでは史実の神話化だ。

 しかし、2024年現在、実際にわたしたちが目にしているのは、「わけもなしに立ちあがる」ひとびとの姿だ。ウクライナにせよ、ガザにせよ、コロニアルな歴史に絡めとられ、自由に描くことのできなかった大文字の「歴史」をかなぐり捨てるがごとく、抵抗が繰り広げられているのだとすれば、「歴史の理屈の長々とした連鎖を断ち切る分断」を指摘したフーコーはやはり正しかったのだろうか。

 「歴史の外」にひとびとを駆り立てるエネルギーが、今、この世界に渦巻いているとして。それでもなお、歴史研究者として感じる、ヒロイズムと犠牲の肯定に対する違和感は拭えない。

繰り返される蜂起

 先述のとおり、わたしは2009年からワルシャワ大学政治学部の修士課程に留学していた。一学期目の必修の授業で読むように言われたのが、英国のポーランド史大家であるノーマン・デイヴィスの『ワルシャワ蜂起1944(Rising ’44: The Battle for Warsaw)』[★6]だった。700ページを超えるその分厚い書籍は、「ワルシャワ蜂起」の代表的な研究書である。それがたった2か月弱の抵抗運動を詳述したものであるという事実に、ただただ驚くばかりだった(もちろん、その前後の文脈にも触れてはいるのだが)。

 トルコ人やジョージア人、デンマーク人にハンガリー人といった、留学生たちがほとんどの授業で、ポーランド人の教授は戦闘のエピソードやいくつかの重要な名前を挙げながら「ワルシャワ蜂起」について概説した。自然と質問が飛び交い、場は議論の様相を帯びる。誰かが「ワルシャワ蜂起は無謀で、市民の命を無駄にしただけだという主張もある」ということを口にしたのをきっかけに、議論は白熱した。蜂起は愚かな行為だったのか、ナチスも悪いがソ連の赤軍も同罪だ、連合国側はなにをしていたのか、自分だったら武器を手に取ったか、など。

 わたしはといえば、ワルシャワ蜂起について考えるのがあまり好きではなかったので、燃え上がるクラスメートたちを眺めているだけだった。蜂起のようなヒロイックな犠牲を称揚する論理は、容易にナショナリズム感情を生む。だからこそ、授業の予習を兼ねてワイダの『地下水道』を鑑賞したときも、やたら斜に構えてしまった。ワイダの映像に心を動かされないわけではないし、蜂起軍のポーランド人が次々に殺されていくという結末も、史実を考えればこういう風にしか描くことはできないだろう。それでも、死んでいった「英雄」たち、つまり殉教者の悲劇が、特攻隊の英霊言説に重なるようで、率直に言って気持ち悪かった。日本で生まれ育ち、幼い頃から満蒙の地に派兵された祖父から戦争の無残さを聞かされていたわたしには、「ワルシャワ蜂起」を擁護するような気持ちは(すくなくともその当時には)とても起きなかった。

 

 この蜂起においては、生き残った者たちもまた「英雄」である。ヴワディスワフ・バルトシェフスキはそのようなひとりだ。ポーランド亡命政府の地下組織に通じ、「ワルシャワ蜂起」の最初の8月1日から戦闘を支援し、最後の日をポーランド国内軍の少尉として迎えた[★7]

 出自はユダヤ系ではないものの、バルトシェフスキはアウシュヴィッツの生存者でもあった。彼がポーランド南部に建設されたその収容所に政治犯として収監されていたのは、1940年9月から1941年4月までの8か月間。アウシュヴィッツに送られたのはユダヤ人だけではない。抵抗を組織するポーランド亡命政府関係者や共産主義者、そしてロマやセクシャル・マイノリティも例外ではなかった。1941年頃から、収容所の環境に懸念を示した中東欧各国の傀儡政府と赤十字のような国際組織の介入により、政治犯を中心に700名ほどが収容所から解放されていた。バルトシェフスキはこうした計らいにより、アウシュヴィッツを離れることのできた幸運な人間のひとりだったのだ。

写真4 アウシュヴィッツの囚人としてのバルトシェフスキ 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:W%C5%82adyslaw-Bartoszewski_KL_Auschwitz.jpg Public Domain

 アウシュヴィッツ──のちに絶滅強制収容所の代名詞となる空間──での経験を経て、ワルシャワに戻ったバルトシェフスキは「ユダヤ人救済委員会」の創設に尽力した。地下ポーランドの活動と連携をとりながら、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」に際しても壁の外側から支援を続けた。そして、ゲットーが解体された一年後の1944年には「ワルシャワ蜂起」に参画した。第二次大戦終結後には、戦時中にユダヤ人解放に尽力したことを理由に、「諸国民のなかの正義の人(正義の異邦人)」の称号を与えられ、イスラエルの名誉市民権も付与された。

 

 1944年の「ワルシャワ蜂起」について、人命を無駄にしたのではないかと後世に問われながらも、バルトシェフスキは自身の経験から以下のように語ったという。

蜂起は避けられなかった。われわれに他の選択はなかった。(状況が同じなら、)また同じ行動をとるだろう[★8]

 どれほど倫理的に尊敬に値するとしても、このバルトシェフスキの信仰めいた再帰への確信は、わたしのちっぽけな想像力をはるかに超えているものだと言わざるを得ない。当たり前だが、時間は前にしか進まないので、人間は歴史に対してやり直しのチャンスをもたない。「歴史の外」にある出来事や人間について、歴史家は語る言葉をもたない。歴史の領分に存在せず、理論や物事の連関を超越したところに位置付けられる蜂起を、歴史の内側に位置付けることはできない。であれば、蜂起を通じて「歴史の外」へと駆り立てられたひとびとの決意──それはバルトシェフスキの言葉が示すものでもある──を、わたしたちはどのように理解することができるのだろうか。

歴史の内側

 ところで、1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」について、2023年10月7日以降、注目すべき議論が展開されてきた。議論のきっかけとなったのは、ロシア出身の作家・ジャーナリストのマーシャ・ゲッセンとゲッセンの「ハンナ・アーレント賞」受賞をめぐるスキャンダルめいた話である。

 政治哲学者アーレントの思想を体現する人物の功績を評価するための「ハンナ・アーレント賞」はもともと(その目的をどのように解釈するかはさておき)、ドイツのブレーメン州政府と環境政策を推進するシンクタンクであるハインリッヒ・ベル財団が中心になって運営してきた。トランスジェンダーかつノンバイナリーのアクティヴィストでもあるゲッセンは、そのジャーナリズム分野での実績が認められ受賞が決まった(ゲッセンは米国に亡命済みだがロシア政府からも逮捕状が出ているように、伝統的な価値を揺るがす煽動者とプーチン政権にみなされている)。同賞の過去の受賞者には、ヨーロッパ史家トニー・ジャットや東欧史家のティモシー・スナイダーといった錚々たる面々が名を連ねる。

 去る2023年12月16日、ゲッセンは「ハンナ・アーレント賞」を授与された。しかし、授賞式となった会場は予定されていたのとは別の場所で、式典も通例に比べればはるかに簡素なものだったようだ[★9]。それには、受賞の一週間前にあたる12月9日に(本人の主たる発表媒体でもあるニューヨーカー誌にて)発表した「ホロコーストの影に隠れ(In the Shadow of the Holocaust)」と題された寄稿記事の内容が関係している[★10]。特に問題になったのは、その寄稿記事のなかで、ゲッセンが「ワルシャワのユダヤ人ゲットー」を「ガザ」になぞらえ、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」とガザの蜂起の共鳴を示唆したという点である。

 

 「ワルシャワ・ゲットー蜂起」は、ナチス・ドイツに対してユダヤ人が行った抵抗運動のなかでも、ユダヤ人が自ら武器を手にとって立ち上がったという事実がゆえに、とりわけ重要視される出来事である。第二次世界大戦中もただ無抵抗に殺されていっただけではないという自負は、戦後のイスラエル建国と軍事化の理念をも支えていく。だからこそ、親イスラエルの立場をとる団体や個人からの反発は苛烈を極めた。

 2023年10月7日ハマス軍事部のイスラエル領内への越境攻撃。自身もユダヤ系の出自をもつゲッセンが、ワルシャワ・ゲットー(蜂起)とガザ(の抵抗)を類型のものとして並記したことが政治的な争点に姿を変えるのは、必然だった。ドイツのユダヤ系団体にも在籍するブレーメン市の議員が、ゲッセンを非難する署名運動を始めたのだが、その署名運動の拡がりを受けて、ハインリッヒ・ベル財団も、今回ばかりは受賞関連の式典を見直さなければならなかった[★11]。最終的に、ゲッセンが「ハンナ・アーレント賞を受賞する」という決定自体の取り下げには至らなかったものの、予定されていた大学での討議会やパーティー、記者会見など、各種イベントはすべて「キャンセル」され、授賞式だけが場所を変えて開かれたというのが事の顛末だ[★12]

写真5 ワルシャワ・ゲットー跡地で跪くブラントのモニュメント 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Willy_Brandt_Square_02.jpg Public Domain

 「ホロコーストの影に隠れ」は、現代ドイツの「想起の文化」への批判を念頭に、「なぞらえること」の可能性を問うものだった。オンライン記事のトップ画像として添えられたのはまさに、ベルリンの国会議事堂からも近いホロコースト記念碑を写したものだ。どうしてワルシャワ・ゲットーの悲痛の前に跪くことのできる者たちが、ガザの通称「青空監獄」を許容できるのか。どうして「ゲットー」という言葉を、我々はガザにあてはめようとこようとしなかったのか。洗練された文体のなか、ゲッセンの問いかけの愚直さが際立つ。長くなるが、重要な箇所を以下に訳出する。

過去17年にわたり、ガザの人口は度を超えて密集し、貧困が蔓延し、その壁に囲まれた区画では、その人口のごく一部だけが、それもほんの短い時間だけ外に出る権利をもつという、つまり、ゲットーだった。それは、ヴェネツィアのユダヤ人ゲットーやアメリカにある都市のなかのゲットーではなく、ナチス・ドイツに占領された東欧諸国のユダヤ人ゲットーのようなものだ。ハマスがイスラエルを攻撃して以降の2か月の間、すべてのガザに暮らす者が、ほぼ止むことのないイスラエル軍の総攻撃に苦しんできた。何千人も亡くなった。平均すれば、ガザでは10分にひとり、子どもが殺されている。イスラエル製の爆弾が病院を、産科病棟を、救急車を襲っている。10人中8人のガザ市民が今やホームレスとなり、居場所を転々とするが、安全な場所は見つけられない。

「青空監獄」という語は、イギリスの外務大臣であり当時は首相だった、デーヴィッド・キャメロンが2010年に編み出したものらしい。ガザにおける実態を記録する多くの人権団体が、この表現を採用してきた。だが、占領下欧州のユダヤ人ゲットーにいたような、牢獄の警備隊はいない──ガザは、占領軍ではなく、その土地の警察力によって監視されている。おそらく、「ゲットー」という、より適切な用語を使えば、包囲されたガザの人々の置かれた苦境を、ゲットーに収容されたユダヤ人たちのそれになぞらえることによって、人々の逆鱗に触れただろう。なぞらえることは、今ガザで起こっていることを描写する言葉を我々に与えもしただろうに。ゲットーは、今まさに抹消されつつある。[★13]

 ドイツを中心に、国際的なメディアはこの受賞をめぐる一件を報じてきたが、数々の決定を受けてのゲッセン自身の立場はあまり正確には伝えられていない。ゲッセンがこの記事で伝えようとしたことを知るには、デモクラシー・ナウ!(Democracy Now!)に出演した際の、テレビ・インタビューが参考になる。ニューヨークのマンハッタンにスタジオを構える独立系メディアであるデモクラシー・ナウ!のインタビューにおいて、ゲッセンは「歴史から学ぶために、わたしたちは物事をなぞらえなければならない(In order to learn from history we have to compare)」と、記事の主張を改めて平易な言葉で言い換えている。

歴史から学ぶために、わたしたちは物事をなぞらえなければならないし 、実際になぞらえるということを恒常的な訓練とすべきです。わたしたちは90年前に生きていたひとたちと比べて、より善良なわけでも、より賢いわけでも、より教育レベルが高いというわけでもありません。唯一、わたしたちと彼らを隔てている差異は、ホロコーストが彼らの想像力のなかには存在しなかった一方で、わたしたちの想像力のなかにそれが存在しているということです。[★14]

 西欧社会、特に現代ドイツにおいて、「ホロコーストの唯一無二性」が強調されるあまり、ホロコーストが「歴史の外側に存在する固有の出来事(a singular event that stands outside of history)」であるかのごとく扱われてしまっていると、ゲッセンは指摘する。

 さきほど、フーコーとバルトシェフスキの蜂起観に触れて書いたとおり、「歴史の外側」にあることについて、歴史家は有効な説明を与えることができない。そしてそれは、説明を拒む態度につながり、和解や再考の拒絶につながる。だからこそゲッセンは、「なぞらえる(to compare)」ことによって──ここでは「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と「ガザの抵抗」を並列させ、同型の現象として語ることによって──苦痛の経験を、歴史の内側に引き戻そうとしているのではないか。

 わたしはここで、ゲッセンの使用する「compare」を、「比較する」ではなく「なぞらえる」とあえて訳してみる。「比較する」というと、長所と短所を並べてなんらかの特徴を際立たせる方法を思い浮かべる。あなたの着ている服はわたしのものより高い、わたしの負担はあなたより大きい、という具合に。それに対して「なぞらえる」は、2つの対象について、それらがまったく異なるものであったとしても、なにかしら共鳴する点を探し出す作業のように感じられる。あなたはわたしに似ている、わたしにはあなたと似たところがある。優劣をつけるのではなく、類似を認めることによって、はじめて対話の糸口が開かれる。

 ゲッセンにとっては、「ガザ」に「ゲットー」という単語をあてはめることが、その「なぞらえ」の実践にあたる。ワルシャワや占領下東欧地域の他のユダヤ人居住区での暴力とガザの現状を接続することは、過去と現在にまたがる痛みを、「歴史」の内側に留めおくためなにより重要な作業なのだ。

ゲットーの内側から

 2023年10月10日、ハマス軍事部によるイスラエル領への越境攻撃からまだ数日というタイミングで、ゲッセンに先んじてワルシャワ・ゲットーとガザを連関の糸で結んだのは、「もし死なねばならないとしたら(If I must die)」[★15]という詩の作者としてのちに広く知られることになったパレスチナ人作家リファアト・アルアリイールだった。

完全に壊滅的な状態、大学から学校、モスクやオフィス、診療所や道路、水道といったインフラに至るまでの破壊……。今朝、ワルシャワ・ゲットーの写真をGoogle検索して、[ガザの光景との]違いを識別できないような写真ばかり見つけた。[……] 写真群はびっくりするほど同質だった。なぜなら、加害者はほぼほぼ同一の戦略を、少数派に対して、迫害される人々に対して、虐げられている人々に対して、囲い込まれている人々に対して行使しているからだ。[……]過去のワルシャワと[……]現在のガザの相似は並外れている(similarity is uncanny)。[★16]

 アルアリイールは、2023年12月6日にイスラエルの空爆の犠牲者として亡くなった。デモクラシー・ナウ!のインタビュー時にアルアリイールのカザとワルシャワの「なぞらえ」について問われたゲッセンは、彼のこの発言についてはまったく知らなかったと述べた。

 

デモクラシー・ナウ!によるゲッセンのインタビュー。YouTubeのサムネイルにはガザとワルシャワの写真が並んでいる 

 

 「ゲットー」という言葉が、「ユダヤ人の」隔離地区とのみ認識され、さらに第二次大戦時のホロコーストに至る「ユダヤ人の隔離政策」の舞台であるそれとして、きわめて限定的に定義されることで、わたしたちは「ワルシャワ・ゲットー蜂起」を「歴史の内側」で起こりうる問題として、想像する力を失ってしまっている[★17]

 

 パレスチナ人作家アルアリイールは、ガザと(ホロコーストの起点としての)ワルシャワ・ゲットーをつなぐ未来を見据えていた。44歳の若さで死ななければならかったこのパレスチナ詩人は、代表作(になってしまった)「もし死なねばならないとしたら」をこのように締めくくる。

もしわたしが死なねばならないなら、それによって希望をもたらそう、それをひとつの物語にしよう。[★18]

 「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」された、2つの街であるワルシャワとガザ。ガザの軽視は、ワルシャワの忘却である[★19]。(後篇に続く)

 

(2024年8月31日第一稿〈於クルージュ〉、10月4日最終校正〈於札幌〉)

 


★1 ポーランドにおけるユダヤ系人口の殲滅は、アウシュヴィッツ゠ビルケナウの固有名にのみ結び付けられるものではない。ワルシャワを始めとするポーランドのゲットーからまず輸送先に選ばれたのはトレブリンカ(Treblinka)、ソビボル(Sobibór)、ベウジェツ(Bełżec)といったワルシャワ近郊に建設された絶滅収容所だった。まさにワルシャワ・ゲットー蜂起が起こった頃にはドイツの戦況も思わしくなくなり、輸送先は次第に南部のアウシュヴィッツ゠ビルケナウへと変更されたという経緯がある。また、本稿の執筆にあたっては、ハンナ・アーレント思想の研究者である大形綾氏よりコメントをいただいた。ここに謝意を表明する。
★2 「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と「ワルシャワ蜂起」をめぐる詩作表現については、以下を参照。アンナ・シヴィルシュチンスカ「私はバリケードを築いていた[抄訳・解説]」、『翻訳文学紀行V』山本悠太朗訳、ことばのたび社、2023年。
★3 ミシェル・フーコー「蜂起は無駄なのか?」高桑和巳訳、『ミシェル・フーコー思考集成VIII:1979-81 政治/友愛』、筑摩書房、2001年、94頁。フーコーはこれ以外にも、1980年代にポーランドで自主管理独立労働組合「連帯」の運動が興ったときにもいくつかの文章を残し、ポーランドでの「連帯」の活動を支持すべきとして尽力したことは近年ではよく知られているだろうか。ちなみに、災害時の江頭2:50よろしく、フーコーもポーランドに支援物資を積んだ車を走らせたことがある。
★4 同書、95頁。
★5 同書、94頁。
★6 Davies, Norman. Rising ’44: The Battle for Warsaw. New York: Macmillan, 2003. 邦訳は以下。ノーマン・デイヴィス『ワルシャワ蜂起1944』(上巻:英雄の戦い、下巻:悲劇の戦い)染谷徹訳、白水社、2012年。
★7 ヴワディスワフ・バルトシェエフスキ(Władysław Bartoszewski)は、第二次大戦後、ポーランド統一労働者党の主導する共産主義政権において西ドイツとの和解交渉に携わるなどしたが、政治的な理由から要職を追われた。その後、ワルシャワ大学で教鞭を執る機会もあったが、表舞台に立っていたとは言い難い。1980年代、独立自主管理労働組合「連帯」の運動に参加し、ポーランド民主化に貢献。1989年の政治・経済体制の転換後には、外務大臣も務めた。
★8 この有名なバルトシェフスキの言葉は上述のデイヴィスの本でも紹介されている。本稿での引用にあたっては、以下を参照。尾崎俊二『記憶するワルシャワ:抵抗・蜂起とユダヤ人援助組織 Żegota』、光陽出版社、2007年、48頁。
 また、これとまさに関連する重要な話題について、ポーランド近世史の専門家である小山哲氏がイスラエル研究者鶴見太郎氏の言葉を紹介している。以下は鶴見氏の著作『ロシア・シオニズムの想像力:ユダヤ人・帝国・パレスチナ』から小山氏が引用した箇所である。
 
 「はじめの頃、無節操にパレスチナ人を抑圧している「シオニスト=イスラエル人」というものには、触れたくないほどの嫌悪感を抱いていた。関心を持ってニュースに触れていれば誰でもそう感じたと思う。しかし、等身大で一人一人を見た時、そこにいるのはただの人間だった。人間の行動が人種なるものに規定されていないのだとしたら、同じ経歴を辿り、同じ状況に置かれたならば自分も同じ行動に出るはずだと思った。その行動がここに座っている私にどれほど受け入れがたいものであっても、である。しかしそれならなおさら、その原因を探る必要がある。それが研究者の責務であると観念した。」(岡真理、小山哲、藤原辰史『中学生から知りたいパレスチナのこと』、ミシマ社、2024年、122頁(下線は引用者による)。
★9 マーシャ・ゲッセン(Masha gessen)の全米図書賞受賞作品の翻訳は以下。マーシャ・ゲッセン『ロシア 奪われた未来:ソ連崩壊後の四半世紀を生きる』、白水社、2023年。 “Hannah-Arendt-Preis an Masha Gessen verliehen,” Tagesschau, 2023/12/16. URL= https://www.tagesschau.de/inland/gesellschaft/hannah-arendt-preis-100.html (2024/09/27最終閲覧)
★10 Gessen, Masha. “In the Shadow of the Holocaust.” The New Yorker, 2023/12/09. https://www.newyorker.com/news/the-weekend-essay/in-the-shadow-of-the-holocaust (2024/09/27最終閲覧)
★11 “Hannah-Arendt-Preis an Masha Gessen / Heinrich-Böll-Stiftung zieht sich aus der Veranstaltung zur Preisverleihung zurück,”Heinrich Böll Stiftung, 2023/12/13. URL= https://www.boell.de/de/2023/12/13/hannah-arendt-preis-masha-gessen-heinrich-boell-stiftung-zieht-sich-aus-der (2024/09/27最終閲覧)
★12 ゲッセンによれば、ディスカッション・パネルが開催される予定だったブレーメン大学は、ゲッセンの記事が取り上げたような「想起の文化」への疑義を取り上げること自体が、ドイツ国内法に抵触すると考えていたようである。他方、賞に関わったひとびとの対応は敵対的なものではなかったことにも言及している。Gessen, Masha. Interviewd by Amy Goodman, “‘Politics of Memory’: Masha Gessen's Hannah Arendt Prize Postponed for Comparing Gaza, Warsaw Ghetto,” Democracy Now!, 2023/12/15. URL= https://www.youtube.com/watch?v=NtSD2Y5g5OM&t=145s (2024/09/27最終閲覧)
★13 Gessen. “In the Shadow of the Holocaust.”
★14 Gessen. Interviewed by Goodman, “‘Politics of Memory’.”
★15 Alareer, Refaat. “A Bilingual Poem from Gaza—If I must die,” World Literature Today,  2023/12/14. URL= https://www.worldliteraturetoday.org/blog/poetry/bilingual-poem-gaza-refaat-alareer(2024/09/27最終閲覧)
★16 “Months After Israel Killed Gaza Poet Refaat Alareer, His Daughter & Infant Grandson Die in Airstrike,” Democracy Now!, 2024/04/30. URL= https://www.democracynow.org/2024/4/30/jehad_refaat(2024/09/27最終閲覧)
★17 本稿執筆時にハンナ・アーレントのバイナショナリズム論を研究する二井彬緒氏より勧められ、林志弦『犠牲者意識ナショナリズム:国境を超える「記憶」の戦争』(澤田克己訳、東洋経済新報社, 2022)を読んだ(二井氏のアドバイスにも感謝を述べたい)。イスラエルのナショナリズムが、ホロコーストの「被害者」を「犠牲者」に組み替え、一種の信仰の対象としてその共同体のなかでの特別な地位を与えることによって成立した背景を明らかにする(また、その際、ホロコーストの現場となったポーランドでの事例を多く参照する)本書は、多くの示唆に富む本である。本書は「犠牲者ナショナリズム」ではなく「犠牲者意識ナショナリズム」という言葉で、「犠牲者」神話をつくりあげるその志向を「犠牲者意識」という表現でうまく捉えている点にも注目されたい。
★18 Alareer, “A Bilingual Poem from Gaza—If I must die.”
★19 筆者の博士課程在籍時のプログラムには「Comparative History in East, Central, and South-Eastern Europe」という長い名称が付けられていた。「中東欧地域の比較歴史学」とまとめることもできるが、そのときに学んだことは「比較」というのはただ類似のあるいは相違の要素を羅列することではなく、それ自体が現在と過去の対話を支える重要な「方法論」であるということだ。それゆえ、どのような対象を、どのような要素において、どのような目的で比べるのかがはっきりしていない限り、それは「比較」として妥当とは言えないということである。「ガザ」と「ワルシャワ」のなぞらえについて本項に記すとき、まずそのような筆者の「comparative」という手法への意識があることを明かしておきたい。

中井杏奈

1985年生まれ、香川県出身。専門は中東欧現代史で、特に冷戦期チェコ、ポーランドおよびハンガリーのインテレクチュアル・ヒストリー。これまでチェコ、ポーランド、ハンガリーに留学。2021年よりドイツ在住。近著に『Unsettled 1968 in the Troubled Present: Revisiting the 50 Years of Discussions from East and Central Europe』 (Routledge 2020) *Edited with A. Konarzewska and M. Przeperski; 『Voicing Memories, Unearthing Identities: Studies in the Twenty-First-Century Literatures of Eastern and East-Central Europe』 (Vernon Press 2023) *Edited with A. Konarzewska.
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