「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために」 ──ガザをワルシャワになぞらえること(後篇)|中井杏奈

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webゲンロン 2024年10月23日配信
後篇

 前篇では、1943年にワルシャワのユダヤ人ゲットーで起こった「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と1944年のワルシャワ市民の抵抗である「ワルシャワ蜂起」の来歴を辿ったのち、ミシェル・フーコーの蜂起論における両者の並記を取り上げた。「歴史の外」へ、つまり理論や物事の連関の埒外にひとびとを駆り立てる力としての「蜂起」について語るフーコー。それに対し、「ホロコースト」を唯一無二の出来事として「歴史の外側」に位置付ける現代ドイツの「想起の文化」を批判するマーシャ・ゲッセンは、「ガザ」を「ワルシャワ・ゲットー」になぞらえる。「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と現在のガザの抵抗に相似を見出すことで、両者を「歴史の内側」において理解することを促すゲッセン。後篇ではさらに歴史的文脈を踏まえながら、「ワルシャワ」と「ガザ」をつなぐ可能性を模索する。その関係が容易には見えにくい、中東欧と中東の2つの土地を横断しながら、複雑な歴史を複雑なままに理解するために、読者とともに最後まで考え抜く。

ゲットー蜂起とイスラエル

 「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」された、2つの街であるワルシャワとガザ。ガザの軽視は、ワルシャワの忘却であった。

 それに抗うように、ロシア出身のジャーナリストであるマーシャ・ゲッセンとパレスチナの詩人リファアト・アルアリイールが「ガザ」を「ワルシャワ・ゲットー」になぞらえたのは、2023年10月7日以降の文脈においてだった。だが、この2つの都市の比較は、これまでもアメリカやイスラエルでは大きな争点となってきたという事情に、改めて触れておく必要がある。

 

 2009年、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の社会学者ウィリアム・ロビンソン教授は、「ガザはイスラエルのワルシャワである」と主張したことによって、大学から調査を受けることになった。ロビンソンは、ガザとワルシャワの写真を対比させたノーマン・フィンケルシュタインという政治学者のフォト・エッセイを学生宛てのEメールに添付のうえ、「ガザはイスラエルのワルシャワである」と書いて送付した。これに対し、ユダヤ系の学生がロビンソンの授業をボイコットし、親イスラエルの団体も登場し、調査を要求した。それは単なる感情的な反発ではなく、たとえば大元のフィンケルシュタインのフォト・エッセイに含まれる写真が、ナチスがプロパガンダ用に撮影したものであったことなども批判の理由となった[★1]。結局、調査委員会はすぐに解散し、ロビンソンにも特筆すべき処分は下らなかったようだ。

 2024年現在、アメリカ各地、こと東海岸の大学で、現在も尾を引く親パレスチナ・反植民地主義デモが、大学に警察権力の介入まで許す事態となっていることを考えれば、ロビンソンの教育活動の自由が守られたのは大変な幸運のように思えてしまう。しかし、当時(2009年)でも、イスラエルの政策に親和的でない大学教授が、彼らの学術的成果とは無関係に批判されるような事態はあった[★2]

 このロビンソンの一件を参照しながら、記憶研究分野で有名な研究者マイケル・ロスバーグは、「ガザからワルシャワへ──マルチディレクショナル・メモリーの構造を描く」という論文のなかで、ワルシャワ・ゲットーの話がいかにガザのひとびとをはじめとする、他者の抵抗の記憶に接続されうるかを論じている。ロスバーグは、自身が提唱した「マルチディレクショナル・メモリー(多方向的記憶)」──歴史を想起する営為そのものが自己規定を促し、多方向的にひろがるまったく新たなアイデンティティを生み出す──という概念の応用に、ガザとワルシャワ(・ゲットー)の話が重要であると指摘した。

 また、ロスバーグは、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」がイスラエルとパレスチナの対立構造の根幹に位置してきたことについても、イスラエル人歴史家アイディス・ザータルの言葉を引きながら言及している。

アイディス・ザータルが示すように、ワルシャワの意義はまた、この地域におけるパレスチナ人や他のアラブ人たちとの対立の中に組み込まれ、シオニストの正当化のひとつのかたちとして道具化されてきた。シオニスト入植者たちが、[ワルシャワ・ゲットー]蜂起をこの土地に暮らしてきた先住者との闘いの模倣としてみなすとすれば、それは[入植]当初から、それに続く時期にはじまった支配に及ぶまでの期間にあてはまる。その頃には、キブツの指導者の1人が「1967年の六日間戦争は数々のゲットー蜂起の延長だと主張した」。ナチスによる大量虐殺が拡がっていくすでにその間にも、ガザとワルシャワは暗黙のうちに関連づけられた。1943年、[労農シオニズムの青年団体でオーストリア領ガリツィアに起源をもつ]左翼組織ハショメル・ハツァイルが、のちにガザ地区の境界となる場所のほんの数マイル圏内にキブツを設立しただけでなく、ワルシャワ・ゲットー蜂起に殉死した指導者モルデハイ・アニエレヴィチにちなんで、そのキブツをヤド・モルデハイ[モルデハイのメモリアル]と名付けたのだ。[★3]

 破壊されたワルシャワ・ゲットーとガザの写真がどれほど重なって見えたとしても、破壊された街がどれほど似通っていたとしても、ワルシャワとガザは決定的に異なると言わんばかりの論理が、イスラエルの建国神話に組み込まれてきた。そのなかで、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の抵抗の記憶は、先住者であるパレスチナ人たちを追い出す口実にいつしか変化した。国家となったイスラエルは、六日間戦争のような近代兵器による戦争さえ、圧倒的に非対称な抵抗であったゲットーの蜂起につなげようとした[★4]。このように、イスラエルは自らの戦争を「歴史の外」に位置付け、あたかもそれがあらゆる価値判断を超越した行為であるかのように振る舞ってきた。

写真1 ヤド・モルデハイ(2006年) 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yad-Mordechai-1.jpg CC BY 2.5

 このヤド・モルデハイというキブツは、1948年の第一次中東戦争でも主要な闘いの場となっただけでなく、2023年10月7日のハマスの攻撃で特に被害を受けたコミュニティのひとつである。ガザ国境から2キロメートルほどの距離に育つクレメンタイン(小ぶりの甘いオレンジ)やグレープフルーツの畑がひろがるヤド・モルデハイ。その一帯は、2024年冬の収穫期を迎えても、これら柑橘類の果実を摘むひとがいないと、キリスト教団体がボランティアを呼びかける場所になった[★5]

エステル

 ロスバーグが引用したイスラエルの歴史家ザータルの言うように、ユダヤ人のパレスチナ・アラブ人への暴力を煽るまさにその原点として「ワルシャワ・ゲットー蜂起」があるのだとしたら、歴史の補助線はイスラエルの大地から東欧の街ワルシャワにまで引かれねばならない。

 わたしはイスラエルという国を、旅行者として二度訪問したことがある。最初の訪問は2008年7月のことだった。そして、2008年7月時点ではまったく予期していなかったことに、そのおよそ1年後の2009年10月には、上述のとおり留学を目的としてワルシャワに移り住むことになった。この往来の意味を、もう一度考えてみよう。

 

 2008年7月のイスラエル訪問は、わたしにとっての卒業旅行だった。大学の学部生時代、宗教学(聖書学)を専攻に選び、主要な単位を宗教関係の講座で埋めてきたわたしにとって[★6]、イスラエルはどうしても行ってみたい場所だった。思い入れの深さもあって、ひとりで行くことに決めた[★7]

 とはいえ、単独でイスラエル国内を、特にエルサレム付近を回るとなると不安だったので(その「不安」はイスラエルのパレスチナに対する政策に内包されているものなので、そもそも「イスラエル」に渡航する以上、不安を感じること自体が非難されるべきかもしれないが)、その前年にイスラエル・パレスチナ関係のボランティアをしていた大学の先輩に、エルサレムで会ってくれそうなひとがいないか紹介してもらった結果、先輩となんとなく面識があるという人物に案内を依頼することにした。彼女の名前はエステルで、その婚約者ダヴィドと2人で市内を案内してくれることになった。

 エステルとダヴィドの結婚式はもう間近に迫っており、ちょうどわたしが到着した日に、彼らの友人が2人のためにホームパーティーを準備していた。そこで、わたしも友人宅にお邪魔することになったが、女子は女子で、男子は男子と二手に分かれて、自分の恋人のことをあれやこれや話すという、くすぐったくなるような会合だったのを覚えている。イスラエルで暮らす彼女たちは、わたしみたいな初対面の人間のいる場でも、臆面もなく彼氏や夫のいいところや悪いところを言い合って大笑いする。わたしの左手薬指に指輪を見つけるや否や、日本でよく売られているただのペアリングなのに、相手はどんなひとかと質問責めに合う。戸惑うこちらの返答を聞くのも束の間、あとは彼女たちの欲しいリングのデザインや、結婚式に関連する家族の思い出の品々を討議するのに大盛り上がりだった。

写真2 エルサレム旧市街 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Austrian_Hospice_Jerusalem_April_2007.JPG CC BY-SA 3.0

 パーティーからの帰り道、エステルに写真を撮って欲しいと言われたので、携行していたデジタルカメラを構えて数枚ダヴィドとエステルのツーショット写真を撮った。画面表示を見せようとすると、カメラを受け取ったエステルが「ダヴィドの肌がすごく浅黒い! これじゃあアラブ人みたい!」[★8]と不満げに声を荒げた。その言葉が意味するであろうことに、つまりあからさまなアラブ人差別に面喰らって、わたしはただごめんなさいと言うことしかできなかった。その後も、明度の設定を変えて数枚撮影したが、エステルの気に入る写真は撮れなかった。「今年はよく外に出かけているから、日焼けも仕方ないね」とダヴィドが呟いた。

 帰りの車のなかで、「パレスチナのほうには行くの?」と聞かれた。おそらく、仲介してくれた大学の先輩がパレスチナ難民関連の研究をしていたので、わたしも開発学や平和研究に興味があると思われたのかもしれない。「今回は」イスラエルだけのつもりだと話した。「そうだね、ムスリムのやっているお店ならこのあたりに結構あるし、見るものだってたくさんあるし」とエステルは、説明になっているような、なっていないような返答をした。バス停まで送り届けてもらう頃には、先ほどの写真の件などなかったかのように、にこやかな表情で別れを告げた。

 フィアンセがアラブ人に見えると苛立ちながら、異なる信仰をもつひとびとの存在を当たり前の風景の一部に置き換えてしまう。エステルの生活を支配する原理がなんなのか、必死に考えているうちに死海に到着した。エルサレムの強い日差しにやられた肌には、死海の塩分がきつくてたまらない。リゾート地特有の愉しい雰囲気に呑まれ、頭に浮かび上がった重要な問題の芽も、塩にやられて、ほどなく萎れてしまった。

エレミヤ

 ユダヤ教の経典をまとめたもののひとつである旧約聖書。海を割った預言者モーセの登場する『創世記』など有名な書も多いので、『聖書』のページをめくってその記述を探したことのあるひとも多いかもしれない。

 日本の大学を卒業する前、最後に取った授業のひとつの課題が、旧約聖書「エレミヤ書」の講読だった。「宗教学」専攻とはいえ、指導教員や時間割の関係から新約聖書の講座ばかり選んでいたため、実は旧約の専門的な内容に触れるのはこれが最初で最後だった[★9]。これまで引用程度にしか読んでこなかった旧約聖書を、真剣に学んだ一学期間だった。

 紀元前6〜7世紀の預言者であるエレミヤ。彼は、旧約聖書のなかでも独特の存在感を放っている。ネブカドネザル2世の圧政に耐えるという、イスラエルの民が困難で暗い時代を生きた、そんなときに「エレミヤ書」および「哀歌」に残される鼓舞の言葉を残した預言者である。その時代、イスラエルの民は「バビロン捕囚」と呼ばれる苦難にあった。故郷であるイスラエル/パレスチナの土地、そして神殿のあったシオンから遠く離れたバビロニアに強制移住させられ、「ディアスポラ(民族離散)」の状態にあった。

 のちに「ユダの民」としての自覚を持つにいたる離散集団は、一世紀の間に起こった何度もの都市の制圧とそれに伴う「ディアスポラ」経験のさなか、神への信仰を失いそうになる。そうして傷ついた民に、パレスチナの土地への帰還を説くエレミヤは、神の言葉を預かる「預言者」だ。

 しかし、エレミヤはモーセのような力強い預言者ではなく、その姿は弱々しいとさえ言われるほどだ。エレミヤの生涯を辿れば、投獄や厳しい監視のもとに置かれ、楽なものではなく、彼の世代が生きている間にはパレスチナへの帰還も実現しなかった。神から民に向けた背信への警告や罰、報復の知らせ──こうした言葉に誰よりも怯えているのは、言葉を預かり伝えるエレミヤ自身なのではないかと思うような記述も目につく。そうした預言者の躊躇いや戸惑いを反映するかのように、「エレミヤ書」冒頭に描かれる神は厳しさと優しさの両方の側面をエレミヤに対して見せる。

見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために。[★10]

 信仰を放棄しようとする民を一度解体し(抜き、壊し、滅ぼし、破壊し)、まったく新しく信仰共同体を形成し直そう(あるいは建て、植える)とする旧約の神。一神教のいわゆる「啓典の民」の書である旧約聖書と、ユダヤ教から派生したキリスト教に固有の新約聖書では、描かれる神の姿が大きく異なる。前者の旧約の神は厳しい怒りの神であり、「新しい契約(新約)」を結んだあとの新約の神は、その慈悲深い側面が強調されるようになるのだが、ここでは新旧両方のイメージが混在する。そして、この2つの顔が、まさに「新しい契約」と題された「エレミヤ書」31章において、もう一度はっきりと現れる。

見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。 
かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。[……]見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。[★11]

 この『エレミヤ書』31章27-28節および31節-33節、そのうち特に31-33節は、学術的にもよく議論される箇所である。このようにいとも簡単に信仰者を「壊」し、また「建て」ると語る神の両極端な姿勢に、初読では驚いた記憶がある。破壊と創造の絶対的な力を併せもつがゆえの神の言葉。見捨てられると同時に拾い上げられるという厳格さと恩寵の共存。しかしそのなかに、人間は神の変貌を見出す。そして、神によって新たに救われる命と再生の力を読み取るのである。

シオニズムの系譜

 新たに「植え、建て」られたひとびとによる、イスラエルの地(パレスチナ)への帰還とシオンの丘での神殿の再建の物語──現代人が読めば、『エレミヤ書』をはじめ多くの旧約の記述は、「シオニズム」の原型そのものに見えるだろう。

 前述のイスラエル旅行に話を戻すと、わたしは「ヘルツルの丘」周辺にも足を運んだ。19世紀の欧州に拡がった反ユダヤ主義の波のなか、政治的シオニズムを率いたテオドール・ヘルツル(彼はハンガリー・ブダペシュトの出身だった)。そのヘルツルの名を冠した「ヘルツルの丘」は、エルサレム市の西に位置し、「記憶の丘」とも呼ばれている。ヨーロッパ大陸の、そしてのちに世界中の離散ユダヤ人の運命を左右した人物名である「ヘルツル」が、現代イスラエルのアイデンティティの基盤である「(集合的)記憶」と結びついたという、なんとも象徴的な空間である。

 ヘルツルの丘には、イスラエル国防軍の兵士や国の要職にあった人物などを埋葬する墓地が設置されている。滞在時、丘陵にあるホロコースト博物館(ヤド・ヴァシェム)の近くも歩いたが(記憶が定かではないが、開館時間などの理由で博物館内の見学はしなかった)、あまり風景を覚えていない。墓地にももちろん気づかず、当然ながら、そこに眠るユダヤ教のラビ、ネイサン・ミレイコフスキーの名前も知るはずがなかった。

 ネイサン・ミレイコフスキーは、1879年、ロシア帝国支配下のクレヴァというところで生まれたユダヤ人である[★12]。現在のベラルーシの北西部、ポーランド国境からも遠くはない場所にある街クレヴァは、ロシア帝国領でユダヤ人の居住が認められていた地区にあたる。数百人のユダヤ人がそこに居住していたようだ。ミレイコフスキーはタルムード学習の場であるイェシーヴァーに通い、そこで触れた「シオンを愛する者たち(Hovevei Zion/Hibbat Zion)」の運動に傾倒し、極東のシベリアにもシオニズムの活動家として滞在するなど熱心な「シオニスト」になった[★13]。のちにヘルツルが世界シオニスト会議で示した、政治的シオニズムの動きへ、こうした活動の数々はつながっていく。

写真3 ミレイコフスキーが1926年にニューヨークで行った演説の様子を伝える新聞記事 出典="Jews of Boro Park Hear Noted Orator.” The New Palestine. April 16, 1926; 7.

 20世紀に入り、世界シオニスト機構の主導で、ユダヤ人の「移住」運動が本格的に展開されることになるが、シオニズムと一口に言ってもさまざまな立場があったことは、既に多くの研究が示すところである。たとえば移住を支援しつつも、彼らの出身国との政治とのつながりを断とうとしたり、移住先に即座にユダヤ人国家を建設したりといったことを考えていたわけでないひとびともいる。

 1908年、ミレイコフスキーはまずポーランドに移住する。ワルシャワとウッチの神学校で教鞭を執るためだ。イディッシュ語の使用はもちろんのこと、ヘブライ語復興運動にも関心を寄せていた彼は、1915年に、ヘブライ語で書かれた『預言者と民』という説話集をウッチで出版している[★14]。1920年に英国領パレスチナに移住し、ガリラヤ近郊の学校で教師となったのち、数年間アメリカに渡り、シオニズムの活動家として遊説を行った。演説がとりわけ上手だったという彼は、大変多くのアメリカのシオニストから尊敬を集めていたようだ[★15]。最終的には、家族でエルサレムに定住した。ミレイコフスキーの立場は、いつの時点からか、ヴラジーミル・ゼェブ・ジャボティンスキーのような修正主義シオニズムの──「ヨルダン川から地中海まで」、パレスチナ人の土地を暴力的に収奪してでもユダヤ人の国を樹立するという──立場に近づいていった。ミレイコフスキーとジャボティンスキーがどのような接点を持っていたのか、個人的な交流がどの程度あったのかについて、はっきりとしたことはわからない。

 だが、ミレイコフスキーがワルシャワに滞在中の1910年に生まれた、彼の息子のベンジオンは、ジャボティンスキーの信奉者で熱心なシオニズム活動家のひとりだった。1930年代、この息子ベンジオンは、米国で修正主義シオニズムの一派のロビイストとして活動しただけでなく、ロシア領下ポーランドを拠点とした右翼シオニスト青年団体ベタル(Betar)の機関紙をはじめ、修正主義派の出版物の編集にも携わっていた。1940年代もアメリカで修正主義シオニスト組織を創設し、ジャボティンスキー亡きあとも活動を継続したほどだ[★16]

 ベンジオンにはもうひとつの顔があり、それは歴史家だった。彼は中世イベリア半島のユダヤ人の歴史、特に「スペイン異端審問」を専門としていた。「異端審問」の純粋に宗教的なだけではない政治性を孕んだ側面や、それがその後のユダヤ人迫害の歴史にどう関わったかを研究しており、左派がアカデミズムにおいて力をもつイスラエルの学会において、彼は職を得ることが困難だったという。そのため、一時期はアメリカで職探しも行っていたようだが、その強固なユダヤ教の信仰を基盤にもつベンジオンの研究や講演のスタイルはアメリカ東海岸の雰囲気にもやはり馴染まず、苦労をした。

 そのベンジオンと妻、そして彼らの3人の息子たちの様子を、フィクションの体裁で綴った『ネタニヤフ一家』という本がアメリカで出版され、2022年のピュリッツァー賞を受賞している[★17]。この本は、彼らと親交のあったユダヤ系アメリカ人の教授の回想を下敷きにして、作家ジョシュア・コーエンによって書かれたものである。異文化を体現したようなイスラエル人家族5人の急な到来と、彼らの粗暴とも横柄とも取れる態度に、ユダヤ系と言いつつ信仰熱心ではないアメリカ人教授が振り回される様子が描かれている。ベンジオンは自分の中世史研究に自信満々だったが、それを北米の大学制度において認めてもらうにはさまざまな支援が必要だった。

写真4 『ネタニヤフ一家』の書影

 このベンジオンというキャラクターのモデルこそ、現在のイスラエル首相ビンヤミン・ネタニヤフの父ベンジオン・ネタニヤフである。つまり、ベンジオンの父であるネイサン・ミレイコフスキーは、ビンヤミン・ネタニヤフの祖父にあたる。ミレイコフスキー一家は、イスラエル移住を機に、姓を「ネタニヤフ」に改名しており、それゆえ、ベンジオンたちの物語である同書には『ネタニヤフ一家』というタイトルが付けられているのである[★18]

 (わたしはヘブライ語を解さないのでよくわからないが、「ネタニヤフ」は「神が与えた」という意味であるらしい。こうした名付けはヨーロッパ系の名前にまったくないとは言わないものの、字義だけを考えると不遜にも思え、また、それが『ネタニヤフ一家』に描かれるベンジオンの個性的で押しの強い性格とぴったり重なるように感じられた。)

 祖父ネイサンは、ビンヤミンの生まれる前には他界していたものの、三代に及ぶシオニズムの系譜は筋金入りだ。特にワルシャワ生まれの父ベンジオンは、息子がイスラエルの首相になったからと言ってそれを易々と誇るような人間ではなかった。基準はいつも自身の政治信条としてのシオニズムに置かれていた[★19]。そして、そのシオニズムが、やはり帝国ロシアの都市ワルシャワやウッチを経由してパレスチナの地にもたらされたのだとすると、歴史を辿って、わたしたちはイスラエル/パレスチナの大地からもう一度ワルシャワへと意識を向けなければならない。

ワルシャワの反シオニスト

 前述したとおり、イスラエルへの卒業旅行から無事に帰国して一年ほど経った2009年の秋、わたしは大学院進学のためにワルシャワに向かった。そしてそこで、1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」について、1944年の「ワルシャワ蜂起」について、そして2つの蜂起の微妙な距離感と、それらをめぐる語りの複雑さを学んでいくことになる。

 8月1日のサイレン音を聴きながら、また、ゲットーの壁跡を日常的に踏み越えながら。

 

 双方の蜂起に話が及ぶ場面に、ワルシャワで生活しているとたびたび遭遇した[★20]。そのような会話のひとつでマレク・エデルマンの名前を知ったのは、留学が始まってから割合すぐのことだったと思う。2009年10月2日、わたしがポーランドに到着してほぼ数日というタイミングで、マレク・エデルマンが亡くなっていたからだ。エデルマンは「ワルシャワ・ゲットー蜂起」で武器を取って闘った生存者であるだけでなく、その翌年の「ワルシャワ蜂起」でも武器を取って闘ったという伝説的な人物だ。

 両方の蜂起を闘った人物というのは、そして、その2つを生き抜いた人物というのは、もちろん多くはない。ゲットー蜂起でも副司令官として重要な役割を担っていた彼は、ワルシャワ蜂起にはゲリラとして参加した。

 1919年、現在のベラルーシ東部ホメリに生まれたエデルマンは、母親の死をきっかけにワルシャワに移住し、母もかつて携わっていたというユダヤ人総労働者同盟、いわゆるブンドの青年団体に在籍していた。左派のブンドは、シオニズム運動や移住の実践からは一定の距離を取っていた。シオニストはそのようなブンドの活動を、自治を狭窄した概念で捉えていると批判した[★21]

写真5 マレク・エデルマン 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marek_Edelman_-_Warsaw_Ghetto_Uprising.jpg Public Domain

 エデルマンは生涯にわたって、このブンドの精神を引き受け、シオニズムを批判した。エデルマンにとってユダヤ文化の世界は「ヴィスワ川からドン川まで(ポーランド東部を南北に流れる河からロシアの南西部を流れる河まで)」の一帯に根を下ろしたものでなければならなかった[★22]。イスラエル建国は、その広大なユダヤ文化を根ごと無理やり移植させることによって、人工的に創設されたにとどまらず、実態としては、かつてのユダヤ人たちの文化の多様性によってではなく、西欧の莫大な軍事支援によって支えられている。そのことはエデルマンにとって、納得のいくことではなかった。

 エデルマンは、イスラエルがどのように「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の記憶を利用しようとしているかについて明らかに怒りを示し、生存者のひとりとしてこう反論した。

イスラエルにおいてこそ、我々の[ワルシャワ・ゲットー蜂起の]記憶が消去される危機にあります。あなたたちイスラエル人にとって、六日間戦争(1967年)は現代ユダヤ史における最も重要な出来事でしょう。国を、戦車を、強力なアメリカという同盟国を頼りにできるのですから。当時、わたしたちはリボルバーしか持たない200人の若者でしたが、[敵であるナチスより]道徳には優位にありました。[★23]

 これは、ベルギーで創設された「非合法な債務を廃止するための会(Committee for the Abolition of Illegitimate Debt)」という団体が、2023年10月以降のイスラエルの暴力を非難する記事を出した際に、生前のエデルマンの言葉として紹介されたものだが、元はイスラエル人ジャーナリストがエデルマンにインタビューしたときの記録から引用されている。「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と六日間戦争を連関させようとするイスラエル人ジャーナリストの思惑を余所に、エデルマンは両者をきっぱりと切り離す。エデルマンにとって、イスラエルのやっている戦争は行き過ぎた暴力であり、そこにはなんの道徳的な根拠もない。

 「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の生存者としてイスラエルを拒否し、パレスチナ人に想いを寄せるエデルマンは、その一方でハマスの指導者たちに宛てたこんな公開書簡も残している。

1943年という忘れ難い時に、わたしたちはワルシャワのユダヤ人社会の存続のために戦いました。わたしたちはただ生命のために闘いました──領土のためでも、国民国家のアイデンティティのためでもありません。わたしたちは絶望的な決断とともに闘いましたが、わたしたちの武器が、無防備な民間人に向けられたことは一度もなく、女性や子どもを殺すこともありませんでした。原則も価値も欠いた世界で、死の恒常的な危険があっても、私たちはこの価値観や道徳的原則に忠実でいました。わたしたちは闘いにおいて孤立無援で、それなのに、強大な敵軍は、ほとんど武装さえしていない少年少女たちを破壊し尽くすことはできませんでした。わたしたちのワルシャワでの戦いは数週間におよんだし、そのあとも、パルチザンのグループに加わって、1944年のワルシャワ蜂起でもわたしたちは闘いました。そして、市街地のゲリラ戦力が決定的な勝利をもたらすようなことはこの世の中にはありませんが、きちんと武装した正規軍に負かされてしまうということもありません。けれど、そんな戦争はどんな解決ももたらさないでしょう。双方に無駄な血が流れ、命も損なわれるでしょう。わたしたちは生命をけっして無駄にはしませんでした。わたしたちは兵士たちが確実に死ぬような場には送り出さなかった。未来永劫、命はひとつしかありません。考えなしに命を奪う権利など誰にもありません。それを皆が理解すべき時が来ています。[★24]

 エデルマンの言葉から読み取れるのは、歴史から学ぼうとする姿勢である。命が無駄にされるべきではない、というのが、彼が1943年と1944年の2つの蜂起という歴史を生き抜いて伝えたかったことに他ならない。エデルマンが残した、「歴史の内側」からの言葉は、エデルマンが亡くなって時間を経た今だからこそ、重く響く[★25]

「なぞらえ」のその先に

 「歴史から学ぶために、わたしたちは物事をなぞらえなければならない」[★26]と語ったのは、マーシャ・ゲッセンだった。「蜂起」という現象を「歴史の外側」へ向かう断絶の力として描いたミシェル・フーコーに対し、出来事を「歴史の内側」に押し戻し、それに向き合って理解する接続の力としての「なぞらえ」を説いたゲッセン。断絶によって「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と「ワルシャワ蜂起」を理解しようとしたフーコーと、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と「ガザ」をゲットーという言葉によってつなごうとしたゲッセン。

 そして、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」をあらゆる対パレスチナ・アラブとの戦闘の動機へと変えるイスラエル(ネタニヤフたち)のシオニズムと、それを批判するマレク・エデルマンの人道主義。ネイサン・ミレイコフスキーとマレク・エデルマン──ベラルーシの地より出て、かたや第二次世界大戦よりもずっと前にワルシャワを経由しシオニストとしてパレチナへと向かった者と、その後のユダヤ人迫害の苛烈な舞台となったその街で起こった2つの蜂起を闘った者。

 彼らの人生にはどのような分岐点も存在しえた[★27]。それぞれが、お互いの立場になることさえあっただろう。そこには「理屈の長々とした連鎖」[★28]があり、誰がシオニストだ、誰がシオニストでない、と単純な線引きをすることはできない。そして、彼らの歩みが示唆する「長々としたその連鎖」は、歴史がつくりだした無数の糸のなかで紡がれ、もつれてしまった結び目そのものである、彼らの歩みの交錯する地点を探し、その意味を丹念に解きほぐしていくことでしか、十全な理解は得られない。

 

 だからこそ、「歴史の外側」と「歴史の内側」の曖昧な境目をフーコーとゲッセンの文章に感じ取りながら、「歴史の内側」に留まることをわたしはなおも論じたい。ガザはゲットーであり、六日間戦争は蜂起ではない──こうした結論を導くには、断絶ではなく接続の論理が必要となるからだ。

 

 ワルシャワとガザの名において──今、そこで命を落とさなければならなかったひとびとのどちらも等しく扱うことが求められている。「なぞらえる」というのは、どうしようもなく異なるものたちを、その異質さにおいて、同じくらい大切にすることに他ならない。

 

 抜き、壊し、滅ぼし、破壊したあとの世界には、建て、植える人間が必要だ。

 

(2024年8月31日第一稿〈於クルージュ〉、10月4日最終校正〈於札幌〉)

写真6 再建されたワルシャワ王宮と広場の平和な風景(2018年筆者撮影)

 


★1 Rothberg, Michael. “From Gaza to Waersaw: Mapping Multifirectional Memory,” Criticism 53, no. 4, 2011, pp. 528-530.
★2 Rothberg. “From Gaza to Waersaw,” pp. 530-532.
★3 Rothberg. “From Gaza to Waersaw,” pp. 530-531. ここで取り上げられているアイディス・ゼータル(Idith Zertal)は、1980年代以降の「(イスラエル)新歴史家運動」を支えた歴史家で、イラン・パッペなどと同様に、イスラエルの従来の歴史観の批判的再考を行った人物。また、ここに記される「数々のゲットー蜂起」というのは、ワルシャワ蜂起の前後に計画されていたポーランドやバルト三国での蜂起(実行されなかったものも含む)のことを指している。
★4 アイヒマン裁判においても「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の証言は重要な意味をもった。Geva, Sharon. “The Warsaw Ghetto Uprising at the Eichmann Trial.” Holocaust Studies, July, 1–20, 2024.
★5 “Yad Mordechai, southern Israel, near the Gaza border,” International Christian Embassy Jerusalem, ICEJ, 2024/01/03. URL= https://www.youtube.com/watch?v=-l5CQ58eYo4(2024/09/27最終閲覧)
★6 成績記録上は、必修の古典ギリシア語の講座などが含まれるため、文学関係の単位のほうが宗教関係のものより多いはずだが、自分の認識としては「宗教学(新約聖書学)」専攻であると思っていた。
★7 ちなみに二度目はたしか2013年の訪問で、そのときにはイスラエルに留学中の研究者などと話した記憶がある。また、この節「エステル」では、個人の機微な思い出に触れるところもあり、人命やエピソードを、真実性を失わない範囲(まったくなかったことをつくりあげるような偽証にならない範囲)で改変して紹介している。一番重要な写真のくだりはそのままである。
★8 イスラエル人とアラブ人を見た目だけではそう簡単に区別できない、という事例をめぐっては、四方田犬彦著『見ることの塩』にも同様のエピソードが紹介されている。一般的に、イスラエルにすこし滞在したことのあるひとなら、遭遇するようなありふれた会話なのかもしれない。四方田犬彦『見ることの塩 上:イスラエル/パレスチナ紀行』、河出文庫、2024年。
★9 たしかその前年あたりまで、国際基督教大学ではまだ『ヨブ記』の専門家で旧約聖書研究の大家である並木浩一氏が教鞭を取っており、周りにも並木氏の授業を取っていたひとは多かった。だが、わたしは並木氏の講座を受講したことがなかった。ここで言及している講座を担当していたのは、現在青山学院大学に勤める左近豊氏であり、その温和な人柄と幅広い知識によって、エレミヤの言葉を理解できるような素晴らしい授業を行ってくれたことについて、ここに長い年月を超えて感謝する。
★10 「エレミヤ書」1章 9-10節(新共同訳聖書)。
★11 「エレミヤ書」31章27-28節, 31節-33節(新共同訳聖書)。
★12 ネイサン・ミレイコフスキー(Nathan Mikeikowsky)については、ニューヨークのYIVOユダヤ調査研究所(YIVO Institute for Jewish Research)に問い合わせて入手したいくつかの資料を参照した。ミレイコフスキー(=ネタニヤフ)一家のポーランドからイスラエルへの移住は、ちょうど独立ポーランド共和国の誕生(1920年)に重なる点にも留意。
★13 シオニズムの複雑さ、そしてシベリアでのシオニズムの普及については、鶴見太郎『イスラエルの起源:ロシア・ユダヤ人が作った国』(講談社選書メチエ、2020年)を参照。
 また、本稿では「シオニズム」や「シオニスト」という言葉を使用しているが、ここでは「シオニズム」はユダヤ人の民族ナショナリズムという意味で、そして「シオニスト」は「シオニズムの立場を支持する者」という意味で用い、それ以上の価値判断を含ませることはしない。さらに、わたしはこれらの言葉を非難や揶揄の意味で用いることにはまったく同意しないという立場をここに強く表明したい。現在、さまざまなパレスチナ連帯デモの文脈なかで、イスラエルの政権に親和的な立場を取るひとや、連帯デモに不安ないしは不満を感じるイスラエル人を、「シオニスト」と呼んで批判するひとがあるのを見かける。しかしこれは、まさに1960年代後半のポーランドで、自国に残っていた数少ないユダヤ人に対して政権のプロパガンダに同調した市民が行った差別的ラベリングの言葉であり(「シオニストはイスラエルに還れ!」というスローガンが、まさに市民から市民に向けて、共産主義政権下で用いられた)、そのような言葉遣いに一分の理もないと考えるからである(★15も参照のこと)。
★14 ミレイコフスキーは、イディッシュ語とヘブライ語で著作を残し、英語やポーランド語でも説教を行っている。
★15 Saidel, Joanna Maura. Revisionist Zionism in America: The campaign to win American public support, 1939-1948. University of New Hampshire, Doctoral Dissertation, 1994, pp. 31-53.
★16 ベンジオン・ネタニヤフ(Benzion Netanyahu)の経歴や活動、人物像については、息子であるビンヤミン・ネタニヤフについて書かれた以下のような記事を参照されたい。同記事は1998年に書かれた古いものであるが、ビンヤミンがどのような意味でイスラエル政治のアウトサイダーで、イスラエル国民の支持を集めながらも、尊敬はされていないということを家族の関係も含め詳述する点で高いアクチュアリティをもつ。また、著者によれば、ネタニヤフ一家は「アシュケナージのエリート」層であるとは見做されていないとのことである。Remnick, David. “(Letter from Jerusalem) The Outsider: Benjamin Netanyahu’s complex histories.” The New Yorker, 1998/05/25. URL= https://www.newyorker.com/magazine/1998/05/25/benjamin-netanyahu-the-outsider(2024/09/27最終閲覧)
 修正主義シオニズムのポーランドでのひろがりについては以下を参照されたい。Heller, Daniel Kupfert. Jabotinsky’s Children: Polish Jews and the Rise of Right-Wing Zionism. Princeton, NJ: Princeton University Press, 2017.
★17 Cohen, Joshua. The Netanyahus: An Account of a Minor and Ultimately Even Negligible Episode in the History of a Very Famous Family. New York: New York Review Books, 2021.
★18 ベンジオンの3人の息子は、それぞれにイスラエルにおいて重要な役割を担うこととなった。長兄ヨナタン(Yonathan(Yoni))はイスラエル国防軍の「英雄」として戦死し(それまで米国でビジネスなどをしていた弟のビンヤミンが政治へと向かう理由になったとも)、一番下のイッドー(Iddo)は「イスラエルのヘミングウェイ」とも呼ばれる作家である。
★19 Remnick. “The Outsider: Benjamin Netanyahu’s complex histories.”
★20 本稿では十分に触れることができないが、第二次世界大戦を経て共産化したポーランドにおいて、数が圧倒的に少なくなったユダヤ人の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」(1943年)も、そもそもポーランドのファシズムに対する抵抗である「ワルシャワ蜂起」(1944年)も、機微な題材として、その教科書での論じられ方、研究の方針などは、大きく変化していった。特に、1967年に勃発した六日間戦争(第三次中東戦争)の影響と、それを受けて生じたポーランド統一労働者党政権(社会主義政権)内部での権力争いの結果、1968年3月に起こった学生・知識人の自由化を要求する運動を弾圧する口実として「反ユダヤ主義」が用いられ、さらなるユダヤ人口の流出を招く事態となったことも重要である(いわゆる「三月事件」)。いずれにせよ、戦後ポーランドにおけるポーランド人・ユダヤ人関係は、イスラエルとの外交関係も含め、複雑なバランスの上に成り立っていた。
★21 ブントなどの活動については以下のような文献を参照されたい。鶴見太郎「なぜロシア ・ シオニストは文化的自治を 批判したのか──シオニズムの「想像の文脈」とオーストリア ・ マルクス主義民族理論──」、『スラヴ研究』No. 57、2010年。西村木綿「TSYSHO学校運動を通じたポーランド・ユダヤ人労働者総同盟「ブンド」の社会的影響力の拡大について 」、『人間・環境学』第21巻、2012年。
★22 マレク・エデルマン(Marek Edelman)のプロフィールについては以下を参照。Rosenberg, David. “Marek Edelman and the Struggle for Democracy in Poland,” Jacobin, 2020/08/27. URL= https://jacobin.com/2020/08/marek-edelman-poland-democracy-solidarnosc(2024/09/27最終閲覧)
 蜂起に参加するユダヤ人はソ連の内通者ではないかと疑われるなどしたため、エデルマンは正規のチャネルではなく、あくまでゲリラとして1944年の「ワルシャワ蜂起」に参加した。Batorski, Przemysław. “‘How comfortable this fight was!’ Marek Edelman about the Warsaw Uprising,” Jewish Historical Intstitute Warsaw, 2009. URL= https://www.jhi.pl/en/articles/marek-edelman-warsaw-uprising,697(2024/09/27最終閲覧)
★23 Mitralias, Yorgos. “Legendary Warsaw ghetto and anti-apartheid fighters support the Palestinian resistance!,” Committee for the Abolition of the Illegitimate Debt (CADTM), 2023/12/20. URL= https://www.cadtm.org/Legendary-Warsaw-ghetto-and-anti-apartheid-fighters-support-the-Palestinian(2024/09/27最終閲覧)
★24 Edelman, Marek. “To all leaders of Palestinian military, paramilitary and guerrilla organizations; to all soldiers of Palestinian militant groups,” Otwarta Rzeczpospolita, 2014/08. URL= https://otwarta.org/en/wp-content/uploads/2014/08/To-all-leaders-of-Palestinian-military-organizations.pdf(2024/09/27最終閲覧)
★25 マレク・エデルマンは、前篇で紹介したバルトシェフスキ同様、1980年代には自主管理独立労働組合「連帯」の運動にも携わった。1981年に「連帯」弾圧のために敷かれた戒厳令に反発し、1983年(戒厳令は継続中)に行われた「ワルシャワ・ゲットー蜂起40周年」の式典を、エデルマンはボイコットした。
★26 Gessen, Masha. Interviewed by Amy Goodman “‘Politics of Memory’: Masha Gessen's Hannah Arendt Prize Postponed for Comparing Gaza, Warsaw Ghetto,” Democracy Now!, 2023/12/15. URL= https://www.youtube.com/watch?v=NtSD2Y5g5OM&t=145s(2024/09/27最終閲覧)
★27 特に戦前のワルシャワはユダヤ人口も多く、労働左派ブンドや各種のシオニズム運動の中心となった場所のひとつでもあるため、ときには、同じ場所で、同じ家庭で育っても、まったく異なるユダヤ人としての運命を選ぶこともあった。一例として、ワルシャワに生まれたベルマン兄弟の事例は有名である。兄アドルフ・ベルマンは「シオンを愛する者」などのシオニズム運動を経てイスラエルに移住し、弟ヤクブ・ベルマンは、共産系のユダヤ政党での活動を経て、統一労働者党の重鎮として内務と防諜に関わる要職を担いポーランドに留まった。彼らをはじめ、マルクス主義にその多くが何らかのかたちで関わったポーランドのユダヤ系作家たちの第二次大戦を挟んだ命運については、以下に詳しい。Shore, Marci. Caviar and Ashes: A Warsaw Generation’s Life and Death in Marxism, 1918-1968. New Haven, CT: Yale University Press, 2006.
★28 ミシェル・フーコー「蜂起は無駄なのか?」、高桑和巳訳、『ミシェル・フーコー思考集成VIII:1979-81 政治/友愛』、筑摩書房、2001年、94頁。

中井杏奈

1985年生まれ、香川県出身。専門は中東欧現代史で、特に冷戦期チェコ、ポーランドおよびハンガリーのインテレクチュアル・ヒストリー。これまでチェコ、ポーランド、ハンガリーに留学。2021年よりドイツ在住。近著に『Unsettled 1968 in the Troubled Present: Revisiting the 50 Years of Discussions from East and Central Europe』 (Routledge 2020) *Edited with A. Konarzewska and M. Przeperski; 『Voicing Memories, Unearthing Identities: Studies in the Twenty-First-Century Literatures of Eastern and East-Central Europe』 (Vernon Press 2023) *Edited with A. Konarzewska.
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