ポスト・シネマ・クリティーク(4) キャメラアイの複数化──鈴木卓爾監督『ジョギング渡り鳥』|渡邉大輔

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初出:2016年04月15日刊行『ゲンロンβ1』

メタ/ポストシネマSF?


 映画の冒頭、凍りついたように静止した2羽の鳥の残像のスチールが画面に浮かぶ。

 その画像がゆっくりと溶暗し、手書きのタイトルが出たあと、さきほどの鳥たちが羽ばたく映像がふたたび登場して、そこにフレーム外から間歇的に摩擦音のようなノイズがかぶさる。と、画面が変わり、スクリーンの下半分近くまで砂利が写るほどローアングルで捉えられた道の向こうから、黄色いランニングウェアを羽織った若い女性が少しずつ姿を現し、そこで前の画面のノイズが、彼女の上がった呼吸と足音だったとわかる。

 瞬間的に、これこそ映画だと観る者の胸をいやおうなく高鳴らせる、この数分の──題名そのものを表す──シーンから幕を開ける鈴木卓爾の2年ぶりの新作長編『ジョギング渡り鳥』(2015年)は、しかしながら他方で、まぎれもなく「ポストシネマ」の傑作である。

 本作の舞台は、大きな川が流れる武蔵野の郊外、「入鳥野」(「にゅーとりの」と読む)という架空の町。映画は、毎朝、街中から川べりの土手のうえまでをジョギングする複数の若い男女の群像と、土手の一角に設けられた休憩ベンチからはじまるかれらの交流を、この作家ならではのシュールなおかしみを交えて描いている。
 だが、『ジョギング渡り鳥』はさらにそこにもうひとつの一風変わった設定を導入する。かれらの暮らす日常世界には、人間のほかに、「モコモコ星人」(鳥人間)と呼ばれる宇宙から不時着したエイリアンの集団が混在しており、しかも、冒頭に手書きのテロップで示されるとおり、未曽有の地震と津波に襲われたのち、人間にはこのエイリアンたちの姿が見えなくなってしまっている。他方、頭まですっぽりと覆う着ぐるみのような服を着たエイリアンたちは、その手に映画製作で使うディジタルキャメラや集音マイク、レフ板(によく似た道具)をもち、謎めいた言葉を交わしながらいたるところで人間たちの言動をひそかに「撮影」しているのだ。

 作中では、同じ1人の人物が、人間役の俳優とエイリアン役の俳優、さらに本作の現実の撮影スタッフ自体を何人も入れ替わりで担当し、しかも、かなり人生迷走気味の若者、瀬士産松太郎(柏原隆介)が土手の斜面で(この絶妙な傾斜の素晴らしさ!)自主映画を撮影するエピソードまでが含まれているので、このSF仕立ての群像劇は、必然的に幾重にもメタ映画的な構成を帯びることになる。

 ほかにも劇中、たがいの素性を知らぬまま出会い系サイトをかいして偶然対面してしまった、旧知のジョギング仲間の地絵流乃純子(中川ゆかり)と山田学(古屋利雄)が、居酒屋で気まずそうに向かいあうシークエンスの最初に、フレーム外から「ヨーイ、スタート」という声がかすかに聞こえる。その意味で、本作は「映画を撮ることをめぐる映画」でもあるのであり、この点は、フィクションとドキュメンタリーの関係を問いなおすことを目指した、平野勝之や園子温らいわゆる「ポスト・ダイレクトシネマ派」と呼ばれた、80年代なかばの自主映画シーンを出自にもつ鈴木の作家的資質をよく反映しているといえる。

(C)2015 Migrant Birds Association / THE FILM SCHOOL OF TOKYO

「例外状態化」と「ポスト3.11的/ポストメディウム的状況」


 そもそも『ジョギング渡り鳥』は、映画教育機関「映画美学校」のアクターズ・コース第1期高等科「ロケ合宿実践講座」作品として制作された。連載第1回(『ゲンロン観光通信 #8』)の『ハッピーアワー』(2015年)と同様、いわゆる「ワークショップ映画」の一編である。映画の参加者の多くがキャストとスタッフを同時に兼ね、もろもろの撮影録音機材が「劇中の小道具」としてそのまま用いられるという、目を引くユニークな演出も、まずはこうした製作の経緯に由来するだろう。

 いずれにせよ、『ジョギング渡り鳥』が興味深いのは、この作品もまた、今日の映画/映像をめぐる文化的感性やメディア状況の「例外状態化」を如実に体現しているという点である。連載でも繰りかえしているように、とりわけ「3.11」以降、監視キャメラからスマホ撮影の動画まで、わたしたちの日常空間のあらゆる局面を、いたるところに遍在する「IoT」的な映像ツールや動画サイトがその縁も曖昧な「動画」として不断に記録し、現実をイメージに絶えず生成変化させてゆくような状況が出来している。いわゆる「ポストメディウム的状況」とは、そうしたいわば「映像の液状化・例外状態化」を指したものだ。

 まず、こうした「現実/映像の液状化現象」とでも呼べるようなポストメディウム的状況が、他方で日本の固有の文脈では「ポスト3.11的状況」でもあるならば、それはたしかに『ジョギング渡り鳥』にもはっきりと刻みこまれている。実際、本作の製作陣であるアクターズ・コース第1期は、東日本大震災の発生直後に開講した。すなわち、その講座は日本社会全体が文字どおり「例外状態」と化した日々のなかで進められたのであり、その影響は、物語の設定のみならず、たとえば「地絵流乃」(ちえるの)、「羽位菜」(うくらいな)、「摺毎」(すりまい)、「海部路戸」(しーべると)、「瀬士産」(せしうむ)、「部暮路」(べくれる)、などといった登場人物たちにつけられた名前からも明らかだろう。

現代映画の「多視点性」


 ともあれ、たとえば、連載第2回(『ゲンロン観光通信 #9』)で取りあげたハリウッド映画『ザ・ウォーク』The Walk(2015年)ではそうした今日の「映像の液状化・例外状態化」を、いかにもディジタルイメージに典型的な、あらゆる角度から縦横無尽に対象を捉えるキャメラワークの「多視点性 pluriversality」に見ておいた。また、これも別稿で論じたように[★1]、ウェアラブル超小型軽量キャメラ「GoPro」を複数台動員して撮影されたネイチャー・ドキュメンタリー『リヴァイアサン』Leviathan(ルーシァン・キャステーヌ゠テイラー&ヴェレナ・パラヴェル、2012年)をはじめ、「イメージの例外状態」を象徴するかのような、同様のユビキタスなキャメラアイを駆使する映像作品自体、近年、いたるところで目につくようになっている。

 結論からいえば、この『ジョギング渡り鳥』のメタ映画的時空もまた、やはり同様の「多視点的 pluriversal」なセノグラフィを特徴として成立している。しかし本作では、じつはその構造は前二者よりもさらに複雑に造型されている。つまり、まず本作ではおもに2種類の性質をもったキャメラアイ=視線が存在し、さらにそれらをささえるため、じつに多彩な機材が映像撮影に動員されている。そして、その使用機材の違いから、ときに連続するショットごとに画質があからさまに切り替わるために、一般的に一編の映画を輪郭づけている現実/虚構の安定的な区分を、不断に脱臼し続けるかのようなモザイク状の映像編集が凝らされているのだ。

循環する三人称客観ショットと一人称主観ショット


 たとえば、本作で観客に示される映像は、第一に、この映画を撮影するスタッフによる、いわば映画のもっとも外側に位置する「三人称=客観=映画外ショット」。そして第二には、さきにも触れた作中で人間たちを監視するエイリアンたちが携えているキャメラ機材、あるいは人間たちがときに手にするツールによって撮られた「一人称=主観=映画内ショット」のハイブリッドによって構成されている(本作の撮影監督を務めた中瀬慧は後者の映像撮影を「撮影芝居」と呼んでいる)。しかもそこで使用される機材は、一般的なディジタルキャメラのほか、大半がキャストたちの私物になるという、GoProや「iPhone4s」といった市販のモバイルデバイスである。

 具体的に示そう。瀬士産が、監督する自主映画のヒロイン役として無理やり駆りだした背名山真美貴(せなやままみき、古内啓子)と土手の斜面で撮影するシークエンス。かれら2人の周囲には、レフ板や集音マイクを担いだ複数のスタッフが立っており、そのショットのキャメラはかれらよりやや斜面の下から俯瞰気味の固定ショットで、劇中のだれでもない、いわば三人称客観ショットとして一連の様子を捉えている。ところが、続けてそのショットからほぼ正確に対角線で切りかえす斜面上のアングルからのショット──先行するショットにはその場所にキャメラは見えない──が来るが、人物を挟んだその視界の向かい側にはなんと、さきほどのショットを撮影していただろう、三脚で据えられたキャメラが「被写体」として、あっけらかんと写りこんでしまっている。

 あるいは、そのあとに続く小洒落た古本屋で、瀬士産と背名山、そして店を営む部暮路寿康(小田原直也)の3人が会話するシークエンス。かれらが座る机の周囲では、2人の男女のエイリアン(かれらもまた、人間役として別に出演している)が撮影しながら立ち聞きしている。そのシークエンスもまた、まずは全体の状況を作中のだれの視線でもない三人称客観ショットが写している。やがて男のエイリアンが座っている部暮路に近づき、かれの顔を覗きこむようにしてキャメラを向ける。すると、つぎのショットでは、まさにこのエイリアンが撮影している部暮路の顔のクロースアップショットが挿入されるのだ。

 さらに、こうした多視点的で異化作用を伴う演出は、撮影機器の違いによっても変奏される。町外れの更地に建つ軍用施設のようなコンクリートの廃墟の2階に、いわくありげな男女、「出会い系の男」(石川貴雄)と地絵流乃純子が立つ。その男の手にはiPhoneが握られ、赤いコートをまとった地絵流乃にレンズを向ける。すると、スクリーンには男が撮影したiPhoneの作中一人称主観ショットの動画が映しだされるのだ。しかも、『ジョギング渡り鳥』には先述のように『リヴァイアサン』同様、GoProも複数のシークエンスで使われている。物語のクライマックスでは、ハリボテ風のUFOの真下に地面の雑草が写りこむほどの超ローアングルで据えられたGoProがUFOの離陸を超広角の映像で写す。ディジタルキャメラ、iPhone、そしてGoProと、複数の機材で撮られた映像が統一を欠いたまま融通無碍につながれてゆくこれらシークエンスは、当然ながら画質がクルクルと入れ替わり、観客は必然的にメディウムそれ自体の不透明性を強く意識させられることになる。

「表象」システムの「液状化」としての「撮影芝居」


 さて、以上のような『ジョギング渡り鳥』が前景化させている、キャメラアイの人称=主客をプリズム的に拡散・循環させ、あるいは複数の機材=画質をモジュール的に接続させることによる意味的かつ質的な多視点性には、「ポストシネマ」の観点からいかなる論点を読み取ることができるだろうか。ここでは詳細な議論を展開することはできないが、おそらくそのひとつとして、従来の映画をささえていた、いわば「表象」の問題系から昨今の映画が構造的に逸脱しつつある重要な局面を見ることができるように思われる。

 もとより70年代以降の映画理論(装置論)がさかんに定式化してきたように[★2]、表象メディア装置としての映画は、キャメラアイ=視線をつうじて、眼の前のスクリーンに投影されるイメージの世界に観客を感情移入(想像的同一化)させることを促す。ただ同時に、そのイメージへの円滑な感情移入のプロセスは、他方でほかならぬ「キャメラ」の媒介、すなわち、イメージの外部を記号的に変換するメタレヴェルのまなざしへの観客主体の参入によってこそはじめて可能になるという反省的意識(象徴的同一化)をも絶えず呼び起こす。いわばこの、「見えるものと見えないもの」(メルロ゠ポンティ)の領域をはっきりわかつ二重の同一化を円滑に機能させるキャメラアイ=映画的主体によって、現実から記号的に変換されたイメージのかかえる齟齬や不透明性を、今日の文化批評ではさしあたり「表象」と呼んでいるわけだ。

 当然のことながら、そこで映画のキャメラアイを担う主体は、一般的には映画のイメージに対する唯一の「不在の他者の眼差し」(欠如)だという点で単一・同一だという信憑のもとに成立している。だからこそ基本的には、その映像も、画質がむやみに変化することは方法論としてありえない。このキャメラアイ=視点の単一性・同一性──ジャン゠ピエール・ウダールが「縫合 la suture」と呼ぶもの──こそが、長らく映画における「表象」のメカニズムの自明性や安定性、全体性を保証してきたのだった。
 以上の整理を踏まえたとき、さきに名前を挙げた『ザ・ウォーク』や『リヴァイアサン』、そして『ジョギング渡り鳥』の遍在的で「多視点的」なキャメラアイや演出が、こうした表象システムの「液状化・例外状態化」、つまりは機能不全とみなせることがおわかりになるだろう[★3]。『ジョギング渡り鳥』では、本来は映画の象徴秩序をささえる「見えないもの」=欠如の代理として機能するはずのキャメラアイが画面に登場する何人もの俳優たちによってまさに「見えるもの」へとフラットに差し戻される。まして映画のいたるところで俳優たちによって展開される「撮影芝居」のキャメラアイ(映像)のモザイク状の交錯は、かつての映画の表象=象徴秩序の安定した全体性の構造を絶えず潜在的に動揺させてしまうだろう。

 わたしの考えでは、こうした現代映画に広範に見られる「多視点的」な趨勢は、独り映画ジャンル内部の問題ではない。おそらくそれは今日の文化状況全体の内実を反映したものである。たとえば、最近、渡部直己が文芸批評の領域で提起している「移人称小説」という傾向ともどこかで共通しているだろう[★4]。渡部によれば、およそゼロ年代後半以降、若手を中心とする現代小説では「描写」の技術が後退し、その欠如をまさに「人称」の操作(移人称)が埋めつつある。モノの確固とした手触りが衰退し、代わりにわたし/あなた/彼(女)の視点を伸縮自在かつ任意に往還する「移人称」の方法論は、ほぼそのまま『ジョギング渡り鳥』が試みた「撮影芝居」のそれに重なっている。

 その意味で、『ジョギング渡り鳥』もまた、流動化する映像文化がもたらす「ポストシネマ」のいまだ茫洋とした輪郭にたしかに肉薄しようとしているのである[★5]

 


★1 拙稿「『可塑性』が駆動するデジタル映像──『生命化』するビジュアルカルチャー」、限界研編『ビジュアル・コミュニケーション──動画時代の文化批評』南雲堂、2015年、25‐49頁。
★2 代表的な文献としては、クリスチャン・メッツ『映画と精神分析──想像的シニフィアン』鹿島茂訳、白水社、2008年。
★3 こうした現代映画におけるキャメラアイやキャメラワークの多視点性の問題は、かつて東浩紀が提起した「過視性」や「スーパーフラット」の問題に直結している。
★4 渡部直己『小説技術論』河出書房新社、2015年。
★5 ここでは、詳しく触れられないが、本稿で素描したような従来の映画の表象システムを逸脱するキャメラワークや演出は、たんに作品内部の映像表現に限らず、おそらく昨今のシネコンの「ODS」(多コンテンツデジタル上映)に象徴されるような、上映環境の構造自体にも見られるようになっている。その点で、最近、とりわけ興味深かったのが、菱田正和監督のアニメーション映画『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(2016年、以下『キンプリ』)で実施された「応援上映」である。このイベントはいわゆるシネコンでの「ライブ上映」の一環だが、観客が見る作中の物語展開と併せて、キャラクターの台詞に沿って客席の観客たちが音楽ライブのコール&レスポンスや歌舞伎の「大向こう」のように、声援や合いの手を入れる。つまり、『キンプリ』とは正確にはその反応全体を含めて成立している「作品」なのだ。実際、本作では、スクリーンの中のキャラクターの視線や台詞、シークエンスのキャメラアングルなどのミザンセンは、こうした観客のフィードバックを事前に念頭に置いて演出されている。したがって『キンプリ』でも、必然的に観客が感情移入すべきキャメラアイの人称は奇妙に多重化し、それが通常の映画の感情移入ではない、独特の一体感をもたらしている。この点についても、機会があれば、触れてみたい。
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾

ゲンロン叢書|010
『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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